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原生林からのメッセージがあったのかな

2013-10-20 | ひらがなにほんごで・たからさがし


きのう、近くにある原生林を訪ねてきた。ほとんど20年ぶりだったけど、当時のたたずまいと変わることなく、周囲の清浄な空気とともに、原生林は深く静かに存在していた。

うっそうと茂る森のなかは、人の姿はなく静かだった。せせらぎの音だけが聞こえる。せせらぎに沿って生い茂る小さな木々の色とりどりの姿が、生命の輝く、明るい空間を作っている。

静かな賑やかさというのだろうか、まるで、木々の妖精と、せせらぎの妖精が無数に集まって、静かな賑やかさで軽やかに動きまわり遊んでいるようなイメージを一瞬受けた。

それにしても静かだ。せせらぎの音だけが聞こえる。アルファ波に満たされた空間がここにあるのだろう。静かな空間と、永遠の時間。あるいは、時間は消えてなくなっているのか。

なんて思っていたら、落ち着かなくなってきた。こんな空間と時間には、慣れていないのだ。もっと手順を踏まないと、うまく入っていけないのだろう。心残りではあるけど、ほんの短時間いただけで、背中を向け元の道を引き返した。

また来よう。いつ来ても受け入れてくれるだろう。永遠に存在する空間と時間がここにあるのだ。たとえ世界が崩壊しても、うわべが崩壊するだけなんだ。奥にある本質的なものは、いつでも存在し、だれをも受け入れてくれるはずだ、なんて思いながら。

しかし考えてみれば、原生林だけではないと思う。人間の心、人間の魂、霊的存在としての人間も、原生林と同じように、素晴らしい永遠の時間空間とつながっているのだと思う。

森のなかの多様な生命が、常に変転を続けているのは、人間世界の諸行無常と同じなのだ。そして、無数の妖精が森のなかで活動しているのと同じように、人間の霊性の中でも、美しき輝きが無数の妖精のように活動しているのだ。

人間の中の妖精の輝きも、諸行無常の動きのなかにちょっとずつ顔を出してくる。その輝きを見つけることが、森の妖精を見つけたときと同様の、永遠の空間、時間を感じ取る喜びを与えてくれるのではないだろうか。

ということで、これからは、諸行無常を、苦しみとして捉えるのではなく、光り輝く妖精が動き回る舞台なのだと思うことにするのがいいだろう。

… 今ふと気がついたけど、森の静けさの中で落ち着かなさを感じたのは、人間の心を離れて、森のことだけを思っちゃダメだよ、自分の内面を大切に、というメッセージを森が与えてくれたからなのかもしれない。









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