ひらけゴマ・ひびけゴマ

ひらがなにほんごで、あたらしいせかいを、つくって、あそぶ

同行二人…メモ書きから

2014-02-26 | ひらがなにほんごで・たからさがし
心の中で いろいろな 思いが
流れるのを メモ書きしていると
おもしろい
その一部を ブログに 載せたいと
思うこともある
自分の姿を 飾らず 恥ずかしがらず
少しずつ さらけ出しちゃおう
それも おもしろいではないか
なんて 思ったりする

この メモ書きは 自分でも
あとから 読み返すことは ない
ただ 書いている瞬間の その瞬間の
おもしろさを 味わうだけが
楽しみで まいにち 続けている

あとから 読み返したら
なんて つまらないことを
書いているんだ なんて
自分でも いやに なるだろうと思う

だから ブログに 一部を載せるのも
ためらいがある
だけど 自分の その一瞬だけの
思いを さらすのも 一種の
いさぎよさ みたいな 感じがする

だから 書いていることの 内容よりも
それを さらす いさぎよさを
感じ取っていただければ
なんて 思う

今朝の メモ書きから


同行二人

じりきか たりきか
そんな たいりつの わくに
はまっては ならない
ほんらい たいりつなど ないのだ
じりきと たりきが ひとつになった
どうぎょうににんが
ほんとうの すがた なんだろう

たいせつなのは
このしゅんかん
どうぎょうににんで いるときの
おれの
いのちの ながれ こころの うごき

それを かんじとることが
おれの もとめる
てんしとの たいわ なのだと
きがついた

うちゅうの ひびきが
てんしを とおして
いのちの ながれ こころの うごき
となって あらわれでてくる

それを かんじることが
どうぎょうににんの おもしろさ
いきることの おもしろさ

それぞれの ことばと せかいに いのちを ふきこむ

2014-02-21 | ひらがなにほんごで・たからさがし
ひらがなだけの 文章は
フォントによって 見た感じが
ずいぶん違ってくる
今 ボクは 「はんなりフォント」
という フリーに手に入る ものを
使わさせてもらっている。
やさしく 華やか というのが
このフォントの特徴だというけど
たしかに そんな感じがする。

この「はんなりフォント」の
紹介を兼ねて、今回の記事を
画像にして、投稿しようと
思う。

画像の下にある 原文と
見比べると ちがいが
わかって おもしろい

(この記事が読みにくかったら
それは 文章の内容が
へたくそで つまらないからです。
ひらがな書きのせいでは ありません。
ひらがな書きを どうぞよろしく)




―――――
それぞれの ことばと せかいに いのちを ふきこむ

だれもが じぶんの ことばをつかい
それぞれの せかいを つくっている
だけど
そのことを だれもが わすれてる
ことばを うばわれ
せかいを うばわれ
ぜんたいを しはいしようとする
にせものの ことばと
にせものの せかいを
おしつけられ
しはいのための まとりっくすに
とじこめられてきた

ことばは
たんなる こみゅにけーしょんのどうぐ
では ない
ことばは せかいをつくるんだ

それぞれの いのちの ちょっかんを
それぞれの ことばにすることで
それぞれの せかいが できてくる

いのちが
ことばとなり
せかいとなっているのだ

それぞれの いのちは
ぜんたいと つながっている
それぞれの ことばも
ぜんたいと つながっている
だけど そのかんけいは
しはいのための まとりっくす とは
まるっきり ぎゃくなんだ

ほんものの ぜんたいが
それぞれの いのちを うみだした
それぞれの いのちが
それぞれに ぼうけんすることを
きたいして うみだしたのだ

ほんものの ぜんたいは
むげんの ゆたかさを もっている
その ゆたかさを
それぞれの いのちに あたえ
それぞれの いのちが
じゆうに おもうぞんぶんに
ぼうけんすることを のぞんでいる

その いのちが
ことばとなり せかいとなって
あらわれる

だから
ことばを うばい
せかいを うばう
そんなことは にせものの やることだ

いちど うばわれてしまった
それぞれの ことばと せかいを
とりもどし
もういちど
それぞれの ことばと せかいに
じぶんの いのちを ふきこむ
それが われわれの しごとなんだ

ことばと せかいは
それぞれが それぞれに
つくりだす ものなんだ

ぜんたいを とういつした
ことばと せかいを
おしつけようとするのは
にせものの ぜんたいなんだ
いままでは すべてを おしつけられ
すべてを しはいされてきてしまった
だけど それは おわったのだ

同行二人 同行二人 わすれるな どうぎょうににん

2014-02-19 | ひらがなにほんごで・たからさがし

ひらがな書きで、日本語のイノチに
触れることが できるかもしれないと
ひそかに 大望をいだいて
あいかわらず、漢字をつかわない
ひらがな書きを つづけています

いまは たんに 漢字を使わずに書く
というだけのものですが だんだんと
ひらがなでかくための くふうを
していきたいと 思っています

どんな書き方をしたらいいのか
そのうちに 見つけることができれば
いいのですが

以下の文章は その練習のひとつです。
お見苦しいとは 思いますが
ここに コピーしておきます
―――――
むかしの じぶんを おもいだすとき
ばかなことを やってたんだなあ と
わらっちゃうことが しょっちゅうだ
どうも おれは ずっと べつじげんに
いきていたような かんじがする

いま せかいが 5じげんへと
うごきはじめているのを みて
いままでの ばかみたいな こうどうを
それで とうぜんだったんだ
それしか なかったんだ
なんて しずかなきもちで
おもいだすことが できるようになった

そして 5じげんへの へんかの
うごきに じぶんほんらいのせかいへ
かえっていくような あんどかんさえ
かんじる
そして さらに せかいをへんかさせる
おおきなうごきに
じぶんを とけこませて いきたい
という きもちに なってくる

せかいへの いわかん けんおかんが
せかいへの いったいかん したしみに
なってきてるんだ
いままでは ひとり こりつしていた
だけど これからは
せかいは おれと ひとつなんだ

これからは おれの おもうとおりの
せかいが できてくる
そして おれの うごきは
せかいに うけいれられ
せかいに はんえいされる
ついに そのときが きたんだ
せかいを つくる ことが
おれのてに もどってきたんだ
なんて おもってしまう

いま だんだんと みえてきている
うちゅうの きょだいな うごきが
おれの せかいづくりを
たすけてくれる
うちゅうの たすけを もらうときだ
うちゅうに たすけを もとめるときだ

しこくの おへんろさんは
ひとり たびしながら
こうぼうたいしが いつも いっしょに
あるいてくれている
じぶん ひとりではない
ふたりで あるいているんだ
… どうぎょうににん
なんだと じぶんに いいきかせながら
たびを つづけている との こと

それを まねをして
どうぎょうににん どうぎょうににん
わすれるな どうきょうににん
なんて くちずさみながら
じぶんごのみの せかいづくりに
はげみましょう
なんて おもうのだ


だいじょうぶ シンクロしている

2014-02-12 | ひらがなにほんごで・たからさがし

きょうも メモがきマラソンと称して
なるべく 無心になるようにしながら
メモ書きをして 遊んだ
バカみたいに 大量に書いているんだけど
その中から 一部を コピーしておきたい

… …

あわてては いけない
じっくり かまえること
じかんは きえてなくなったのだ

カバールが せっていした
マトリックスの わくぐみは きえて
じかんも きえたのだ

それぞれが こべつに うごく
うちゅうの おおきな ながれと
シンクロしながら こべつに うごく

そとがわの ながれに ながされず
それぞれの うちがわから わきだす
イノチの ながれに したがう

あわてることは なにもない
だいじょうぶ▼シンクロしている▲
うちゅうとの シンクロをしんじて
おもう ぞんぶんに
うごけば いいのだ

●すべては ひとつになって
●うごいている

あわてず さわがず
じぶんの イノチのながれを かんじる
うちゅうの きょだいな ながれとの
シンクロを かんじる

しあいに のぞんだ けんどうの
たつじんのように

ちゃしつで ちゃをたてる
さどうの たつじんのように


日本語の 宝探しを ひらがな で

2014-02-10 | ひらがなにほんごで・たからさがし

漢字を混ぜて 日本語を書く ことで
日本語 本来の 魅力が
隠れて しまって いるんじゃないか
そんな 気がする
漢字を どけて ひらがな だけで
やってみたら 何かが 見えてくる
かもしれない
そして
和歌や 詩のような
短く 区切った 書き方を することと
あわせて やってみたら おもしろそうだ

何が 出てくるのか ワクワク しながらの
宝探しを やりたく なってきた

日本古来の 文字として
ヲシテ文字 というのが ある
ローマ字で 日本語を 書くみたいに
母音と 子音を 組み合わせて 書く
文字なんだ

ローマ字で 日本語を 書くのは
古来の やり方に 近い
だから ひらがな よりも ローマ字で
書くほうが 宝探しには
適当 かも知れない
そう 思って 長いこと ローマ字書きに
興味を 持ってきた

それに 加えて
これから 日本語が
世界に 急激に ひろがって いく
可能性を 感じる
その場合 ローマ字書きの 日本語に
なる だろう
という ことで 余計に
ひらがな書き よりも ローマ字書きが
ふさわしく 思える

だけど つい 最近になって
宝探しには ひらがな書きだ と
思うように なった
宝物を 見つけ出す には
たくさんの 日本人が
あっちでも こっちでも 思い 思いに
宝探しに 夢中に なった方がいい
ひらがな書きの 方が
たくさんの人に ひろがり やすいだろう

そして
ヲシテ文字 だったら そんなことは
ないと 思うけど
ローマ字の 場合 結局は
ひらがなを そのまま ローマ字で書く
ひらがなを 単に ローマ字に
書き換えるだけ ということに なっている
それなら ひらがなで 書いたほうが
すなおだ

という わけで ひらがな だけで
にほんごを かいたら どんな こと に
なるか やって みたく なった
わけ なのだ


ひらがな だけで 文章を 書く 練習を してみた

2014-02-09 | ひらがなにほんごで・たからさがし

ひらがな だけで 文章を 書く
練習を してみた
どんな 感じに なるか
お読み いただければ と
すこしだけ ブログに 載せておきたいと
思う

… … …

ひらがな だけの ぶんしょうを
かいて そのあと かんじ を すこし
つかった ぶんしょうを かいて みた
そして わかった の は ひらがな だけで
かく ほう が ずっと らく だ と
いうこと

ひらがな だけ で かく とき は
ひらがな だけ でも いみ が
つうじ やすい ような
ぶんしょう の すたいる に
なる わけ だけど
その すたいる を たもった まま
かんじを すこし まぜて かこう と
する と どうしても
ぶんしょう の かきかた が かんじ を
ぜんてい と した もの に もどって
しまいがち に なって
ぶんしょう の すたいる に みだれ が
しょうじる
この みだれ が ぶんしょうを
かく とき の すごい すとれす に
なって しまう の だ

と いう こと で
ぶんしょうを よんで くれる ひと に
いわかんを なるべく あたえない
よう に と いう つもり で
かんじを すこし まぜて かいても
すたいる の みだれ が どうしても
のこって しまい かえって よみにくい
ぶんしょう に なって しまう だろう
そして ぶんしょうを かく がわ の
にんげん の すとれす も おおきい し
いっそ の こと おもい きって
かんじを まったく つかわない で
かいた ほうが いい の ではないか と
おもった
―――――

きょうの 夢物語 … オレの めざすのは

2014-02-08 | ひらがなにほんごで・たからさがし

オレの めざすのは
コトバを 組みたてる ことが
すべての イノチの 流れを 生みだし
セカイ物語となって 姿を あらわす
そんな 遊びを
天使と つながりながら
日本語で やってみること
たぶん そんなこと だろう

考えてみれば これは
文学 文芸 として
昔から やられてきた ことだ
オレの 場合
空想 SF小説 ならぬ
空想 セカイ物語を
宇宙 霊的世界 天使の世界を 舞台に
詩歌のような スタイルで 表現したい
ということに なりそうだ

自分の 暮らしの 中で
空想し 書くことを 積み重ねていく
断片的な その日 その日の 思いを
ブログに 書いて いく
おもしろそうではないか

そして できることなら
かなもじ表記を 工夫しながら
ローマ字での 日本語表記も 考えながら
日本語と トコトン つきあって
日本語の 魅力を 味わい
その魅力を 地上世界に ひろげる
そんなことを
ひそかに 目指して 毎日を 遊ぶ
じつに おもしろそうではないか


ついに オレの 長年の 望みが イノチの 流れを つかんだのだ

2014-02-08 | ひらがなにほんごで・たからさがし


自分用に 対話メモ と 称して
メモ書きを 続けている
今日 書いた その 一部を
前後の 説明 抜きで
ここに コピーしておきたい

… …

1、このメモ書きの インスピレーションを
得た部分は チャネリングと 言っていい
2、かなもじ表記で 日本語を世界に
3、句読点の 代わりに 空白と 改行を

この 三つが きのうの 対話メモから
図らずも 気の付いたこと
きのうは ローマ字表記を
考えて いたけど 今朝になって
当面は かなもじ表記に した方が
日本人に とって 親切だと 気づいた
また 句読点の 代わりに
空白と 改行を 用いて
詩文のような スタイルで 表記するのは
ブログで 試みてきた ことだけど
かなもじ表記へと すぐに 結びつく と
これも 今朝になって 気づいた
―――――
きのうは 疲労感と 眠気が ひどく
メモ書きも つらい 思いを しながら
喜びの 無いまま 我慢して 続けていた
だけど 今朝に なって みると
先に 書いた 三点のように
思わぬ 重要な 気づきを
得ていたんだと ビックリする
―――――
この 三つは ひとつに つながって
大きく のびていくような 気がする
オレの これからの 楽しみが
姿を チラッと あらわしたような
そして 第一歩を 踏み出す 方向が
見えてきたような 感じがする
古い世界が 終わった という 実感が
新しい世界が 始まる という 実感に
ハッキリと 衣替えした 感じで
新しい世界の 始まりを
これなら お祝いする 気持ちに なれる
―――――
新しい 流れに 乗り始めたのだ
先は 見えず 謎の まま だけど
この 流れで いいのだ と 思える
大晦日を 越して 元旦を 迎えたような
お祝いをして 当然の 気持ちに なれる

地上 全体 宇宙 全体の 流れが
オレの 長いこと 望んできた 方向に
流れていることを 知ることが できて
ホッと 疲労感が 消え去る
ついに オレの 長年の 望みが
イノチの 流れを つかんだのだ
そう 思うことが できる
―――――


それが、オレの、チャレンジ

2014-02-04 | ひらがなにほんごで・たからさがし

古いものの崩壊が
恐るべき勢いで、進んでいる
そして同時に
新しい光が、あちこちに、見え始めている
あちこちに、光が見えるのは
オレの意識の中に、光が生じているからだ

以前の、鬱屈した気持ちから思えば
光が見える、ということが
本当に、ありがたく思える
宇宙の、大きな変化
地上の、大きな変化にあわせ
オレの意識も、大きく変化しているのだ

この旧正月の、天体配置は、すばらしく
天の意志が、示されているのだという
今までの、すべての変化は
この、天の意志に、基づいているはずだ

そして、いよいよ、この旧正月を境に
すべてが、ハッキリと見えてくる
人類の集合意識が、ハッキリと変わるのだ

この旧正月を、祝う気持ち
新春、迎春の、晴れやかな喜び
その、祝い、喜ぶ気持ちが
人類の集合意識を変化させ
すべての巨大な変化の、最後を
決定づける

今こそ、人間の意志の出番だ
この、すべての変化を
ありがたく受けとめ
天の意志とひとつになって
光を、自分のセカイ物語に定着させ
光で、自分のセカイ物語を満たす
そうしようとする、人間の意志が
すべての巨大な変化の、最後を
決定づけるのだ

… …

というわけなんだけど
じつは、考えてみれば
祝い、喜ぶとは、どういうことなのか
ほとんど忘れてる
正月でさえ、最近は
祝い喜ぶことを、していない

それも、ムリもないんだ
まずは、自分を、
本当に、ご苦労さんでしたと
いたわってやることから
始めなきゃならないんだろう

だけど、確実に、自分の心の中に
光が見え始めている
それを、ありがたいと思う
そのありがたさを、祝おう、喜ぼう

このブログを書き続けたいと思うのも
実をいえば、このありがたさを
コトバにしたいからなのだと
今、思う

なかなか、率直に、コトバにできないけど
そして、喜び祝う気持ちを
後ろめたく思うことさえあるけど
自分の本当の気持ちに、正直になることに
チャレンジしているような気持ちなんだ

自分を裸にし、解放することが
自分の、これからのセカイ物語を可能にする
それは、オレの、最大のチャレンジ
なんてね


イノチが、よみがえる

2014-02-04 | ひらがなにほんごで・たからさがし

旧正月を迎え、いよいよ本格的に
空想と現実の、逆転が始まる、という

今までの現実が、あやふやになり
今まで、空想みたいだった
われわれの願い、祈りが、現実に向かう

旧支配者に押しつけられた
今までのセカイ物語が、解けて、消えてゆく
そして
一人ひとりが作る、それぞれのセカイ物語が
始まる

いよいよ、春が来るのだ
迎春の喜び、謹賀新年
あけまして、おめでとうございます
そんなコトバに
生き生きとした、イノチがよみがえる

祈り、願い、空想することに
イノチがよみがえるのだ