鹿児島歴史みてあるき  ~ 外城・四季・フォト ~

     2007年から始まった薩摩藩・麓(外城)巡りの記録。各地を訪れた四季折々の風景。日々の暮らし。

2009 高江麓 Ⅱ

2009-06-06 | 麓-薩摩川内

高江麓は石垣等に当時の面影をよく伝えている。落ち着いた佇まいがある

内場馬場の風景。手前から奥にかけて連続する三軒の門構えが見える

 

門構えはどれも同じような造作である。同時代に作られたからか。まとまって残っているのがいい

 

 

 

内場馬場を引き返し、武家屋敷跡の表示板を先に進む

高江法隆寺の石垣

 

岩永三五郎作の江之口橋

 

当時この一帯は洪水で多大な被害を受けていたため薩摩藩は1848年からこの八間川の治水工事に取り掛かりました。江之口橋は1849年、肥後の石工岩永三五郎によって架設されました。岩永三五郎は甲突川五石橋の架設など薩摩藩内で多くの工事を手がけ、江之口橋架設を最後に肥後に帰ったと言われています(現地案内より)

 

 

石橋を引き返す

 

田圃の向こうに最初に見た武家門が見える

 

田圃の向こうに峰山小を望む

 

帰る途中、水路用?の古い石橋を見付ける

(訪問記)

高江麓は、峰山小付近や内場馬場に残る古い石垣や生垣に当時の武家屋敷や麓の面影をよく残している。武家屋敷跡の表示板や高江麓の歴史を伝える案内板が地区内に設置されている。散策しながら当時の歴史に思いをはせることができる


2009 高江麓 Ⅰ 

2009-06-06 | 麓-薩摩川内

水引麓の対岸を川内川河口へ向けて少し下ったところに高江という麓集落がある

高江麓の表示のあるバス停付近の風景

県道から集落内にある峰山小へ向けて歩きました

麓内の風景。玉石垣が無造作に積み上げられその上に竹等で垣根をつくっている

 

案内によると1845、6年の川内川氾濫、白浜堤防決壊により白浜堤防沿いの48戸の武家屋敷は大方が今の内場・峰下方面へ転居し、今に残る内場・峰下の武家屋敷が形成された。そうすると、今に残る武家門や石垣は当時のものということになる

 

 

高江地区内で唯一確認した武家門

 

 

武家屋敷跡という表示板が角に立つ。案内板があると散策するのにいい

 

切石が三段に積まれた当時の石垣が生垣とともに残る。高江には石垣が実によく残っている

 

入来麓でみた犬槇の門が高江麓にもある

 

現在の峰山小学校の敷地から後方の高台にかけて、峰ヶ城があった。案内によると、南北朝時代、川南地域を支配する島津氏と川北地域を支配する渋谷氏一族との間で陣取り合戦が繰り広げられた。その後、三州統一を果たした義久へ峰ヶ城を献上したとある

 

 

峰山小付近の風景

 

切石を綺麗に積み上げた低い石垣の上に見事な生垣が続く

 

 

(続く)


2009 平島御仮屋跡 Ⅱ

2009-05-22 | 麓-薩摩川内

平島地区は武家門が点在し薩摩藩の武家地区らしい風景が残っている。

平島に残る武家門

この武家門は周囲の緑に溶け込み、凛とした佇まいが美しい。

堂々とした存在感を写真で伝えるのは難しい。実際に目にすると存在感がある

 

上の武家門の前の小道を進むと広大な屋敷跡がある。

石垣だけが残っている

 

川内川沿いの2車線道路に出る。竹垣が残っている

 

横道に入ると2番目に見た武家門が見える。両脇に立派な石垣を構えている

 

切石を積んだ石垣と生垣がずっと続く

 

隣にも石垣が残っている

訪問記)

平島地区の外を車で走ると石垣の存在には気付くが最初に見た高台の武家門や緑に溶け込む武家門に気付かない。

外城以外にこんな武家集落がよく今まで残されていたなという印象を持った。

外城以外で知られていない武家集落が県内にまだまだあるかも知れない。


2009 平島御仮屋跡 1

2009-05-19 | 麓-薩摩川内

水引麓から川内川に沿って下流に移動すると平島地区がある。

平島は薩摩川内市の西方と同じように江戸に向かう薩摩藩主一行が宿泊した御仮屋が置かれた。

平島御仮屋跡の碑。坂を100m上ったところに御仮屋があったと書かれている

上の写真の坂道を上ってみた。

 

坂を上ったところに草に埋もれるように武家門が建っていた。

 

この武家門を見つけた時は存在の意外さに興奮を抑え切れませんでした

 

低い石垣が道沿いに向こうまで続いている

 

 

 

道沿いに下る。その先に石垣が見える

 

竹の向こうに別の武家門が見える

 

竹の向こうの武家門はそのままにして石垣の手前を右折した。奥の方にさらに別の武家門が見える

 

平島地区は113外城の一つではないが武家門が点在し、隠れ里の雰囲気がある。

(続く)


2009 水引麓

2009-05-15 | 麓-薩摩川内

薩摩川内市の麓地区を訪れました。

五代町の郵便局を左折すると街道だったであろう旧道に入る。しばらく進んでいくと水引麓の中心に着く。

水引麓。現在の宮内町。麓の中心を東西に真っ直ぐ走る馬場が残る。

 

地頭館之址。奥に見える公民館の看板に宮内麓公民館と名がある

 

地頭館址に残る石の門柱

 

地頭館脇の風景。石垣と生垣といぬまき。正面は武内神社

 

武家門構えの武家屋敷が残っている。

 

見事に切り揃えられた石垣と武家門。写真の武家門は地区内で唯一確認できたもの

 

薩摩藩の麓の美しさは自然美と人工美が調和されたところにあると思う

 

こちらの門柱は傘石がのる

 

極端に低い石垣の上に笠石が載っている。

かつては高い石垣だったのかそれとも別の取り壊し石垣から笠石をもってきて上に載せたのか。

笠沙の小浦地区で同じような石積みを見たことがある

(訪問記) 宮内町は地頭館址周辺に麓の面影が残る。宮内町から新田神社まで散策すると他にも麓の景観が残っているかも知れない。


2008 甑島麓・手打 02

2008-12-06 | 麓-薩摩川内

翌朝、出航までの時間を利用し手打の武家屋敷通りを散歩しました

手打集落の西の端にある武家屋敷通り入口。フェリー乗り場の近く

 

武家屋敷通りを歩いて新田神社までは約2km。徒歩30分の散策コース 

手打では民宿に泊まる

屋根の軒下に屋号らしき看板が小さく下げられている。手打の商店はつつましい

台風対策か屋根の瓦が塗り固められている。

 

武家屋敷通りに面した法雲寺。門柱の色が派手だ

 

玉石垣の上にピンク色の花が咲いている

 

玉石垣の上にソテツが植えられている

 

小柄な円柱の左右の門、正面には生垣の目隠し、奥に見える低い屋根

 

 

 

大照寺。このお寺にも廃仏毀釈の跡があった

 

朝方だが、前日夕方の景色とあまり変わりないようだ

 

 

武家屋敷通りから少し離れた高台にある、釣りバカ日誌のロケに使用された民家。

 

里港フェリー乗り場。串木野港行きの高速船シーホークがやってきた

(訪問記)

甑島を初めて訪問し、念願の里、手打の武家集落を見て回った。串木野からフェリーで1時間かかる東シナ海の洋上の島に薩摩藩の武家集落が形成されたこと、当時の麓集落の面影がいまも残ることに強い感銘を受けた。

薩摩藩時代、貿易の取り締まりの拠点として甑島が重要視された証であろうと思う。

甑島への入込み客は年間で1万人ほど。ほとんどが釣り客。観光目的の客は少ないようだ。武家屋敷通りを歩いても観光客目的の土産屋は見かけない。皮肉にもそれが良好な景観を保持する要因になっている。

「自然遺産と伝統的な薩摩の武家集落が残る島」甑島はそんな感じの島。

※里、手打の両地区は伝統的建造物群保存地区に指定されてもおかしくない。


2008 甑島麓・手打

2008-12-05 | 麓-薩摩川内

手打の武家屋敷通り

 

薩摩川内市下甑支所。地頭仮屋跡

 

地頭仮屋跡前の風景。左右に玉石垣が築かれている

 

 

武家屋敷通りをあるく

 

下甑郷土館前。甑島唯一の武家門が建つ

 

 

左右の玉石垣の上に黄色や桃色の花が咲いている。なんとも言えずいい風景

 

生垣で門が作られている

 

街路灯のデザインが武家屋敷通りに相応しい。各地に取り入れていいかも

 

手打の武家屋敷通りは新田神社まで1キロメートル以上にわたり続く

 

武家屋敷通りは綺麗に清掃され、日本旅館の中庭を散歩している気分を味わえる

時刻は夕方の5時過ぎ。そろそろ街灯に灯りが点くころと期待しながら歩く

 

階段の上に門がある屋敷もある

 

 

 

手打では、この家の佇まいが一番好き。

玉石垣、生垣、その上に覘く寄棟の屋根。武家屋敷でありながら、南国らしい大らかさを感じる

 

甑島らしく、石垣の上にソテツの木が植えられている

 

右の家に資生堂の青い看板がつつましく出ている。

ちょうど下校時間。

手打小学校から帰る子供達が元気に挨拶してくれる。こちらも挨拶を返す

 

通りから手打の海岸を眺めることができる

 

通りにようやく灯りが点く。やわらかい灯りがとてもいい雰囲気

もうすぐ新田神社。車が通ったのでみんなと合流する。

 

新田神社。鳥居の正面に菊の御紋が見える。全員で参拝しました

 

この後、キリシタン殉教の地や釣掛崎灯台を見学する。

(続く)


2008 甑島麓・里 02

2008-11-30 | 麓-薩摩川内

甑島麓・里の続き

中町馬場。左右に玉石垣群と生垣群が続く

地元の方の話によると苔の生えている石垣が古い時代のもの

屋敷の入口の様子。入口の角に切石を積み、奥の突き当たりまで玉石を築く

 

もうすぐ12月だというのに石垣の上に可愛らしい花が咲いている

 

 

 

 

中町馬場の突き当りに設けられた石敢当

 

中町馬場の突き当たりにある西願時

 

新町馬場。イチョウのある敷地が西願寺

 

 

沖縄の民家に似た屋根が続く。薩摩藩の麓集落の中でも甑島は独特の景観と言える

 

どこの屋敷も入口が切石で整えられている

 

津口番所跡

 

中国・朝鮮・南蛮の異国船の出入りや積荷を監視するため、江戸時代に設けられた薩摩藩の番所跡である。当時、薩摩藩内の24箇所に津口番所があり、甑島には、里・中甑・手打にあった。-薩摩川内市教育委員会-

里小学校(里地頭仮屋跡)の裏手の山に、亀城跡がある

 

亀城跡にある展望台からの眺め

陸繋砂洲(トンボロ)と呼ばれる細長く低い砂洲の上に里集落が形成されている

 

昔読んだ「日本の民家」という本に、里の西海岸のシノーゴヤ(収納小屋)の風景写真が紹介されていた。昭和45、6年位まで200棟位の藁葺きの小屋が並んでいたそうだ。浜に沿って藁葺き小屋が並ぶ様は壮観だったろうと思う。

373newsの懐かしフォトギャラリーで取り上げられている。(http://373news.com/modules/wordpress/index.php?m=200803&paged=2

里集落の散策後、朝9時5分発の高速船シーホークに乗船し、里港から下甑島の手打港へ向かう。

(訪問記)里の麓集落は薩摩藩の外城らしく玉石垣と生垣が続き景観が大事に保護されていると感じた。沖縄の竹富島のように低い屋根の民家が続く様は玉石垣、生垣と合せて独特の景観を醸している。今度は鹿の子ユリの咲く時期に訪れたい。


2008 甑島麓・里

2008-11-30 | 麓-薩摩川内

里港の朝の風景。宿泊先の甑島館より。前日とはうって変わって天候が回復した

薩摩藩時代、甑島(列島)は上甑島の里と下甑島の手打に地頭仮屋が置かれその周囲に麓集落が形成された。

里と手打の武家屋敷通りを散策すると当時の麓集落の面影を知ることができる。

 

明け方、甑島館から里集落を散歩する。時刻は午前7時過ぎ

里港の周囲は玉石垣により景観が整備されている

玉石垣が続く。朝日が昇り始める頃。甑島の家は屋根が低く沖縄の民家に似ている

 

里小学校。里地頭仮屋跡

 

江戸時代初期、薩摩藩には87の郷があり、甑島郷もその一つでした。各郷には地頭が任命され、役所(地頭仮屋)が置かれ、その周りに武士の集落(麓)が形成されました。これを外城制といいます。甑島郷には慶長16年(1611年)甑島移地頭が任命され、元和5年(1619年)、本田伊賀守が初めて来島しました。薩摩藩は以来30数代の地頭で甑島郷を直轄地として治めましたが、地頭仮屋は、里・手打・中甑にあり、地頭は里から中甑そして手打と居場所を変えていったと考えられます。当時の地頭仮屋は、この里小学校校庭の大半を占めて武士の集落(麓)は現在の村西にあります。-薩摩川内市教育委員会-

 

 

里小学校の近くの風景

 

この付近一帯は藩政時代の城を中心とする典型的な外城制度の名残をとどめた史跡が多い所で武家屋敷は、おおかた微禄の郷士の居住地であったが、石垣の規模等日本有数といわれる。亀城を中心として地頭仮屋、郷士屋敷、津口番所、馬場寺社等往時のおもかげを十分に残していて、江戸時代の歴史の姿をうかがうことができる。-里村観光協会-

 

 

武家屋敷通りの入口付近の風景

 

武家屋敷通りの入口にある八幡神社

 

武家屋敷通りの入口。中町馬場。古くからの玉石垣が残る

 

 

数百メートルに亘り、中町馬場の両側に玉石垣と生垣が続く。薩摩藩麓の典型的な景色

(続く)


2008 樋脇麓 03

2008-11-15 | 麓-薩摩川内

地頭仮屋跡のある庄内地区を後にする

地頭仮屋跡から移転した樋脇小学校付近

ふと小学校の脇の道を入ってみた

先の石垣に囲まれた屋敷地にぽつんと武家門が残されていた

 

屋敷は取り払われても、武家門は不思議と残る。鄙持ち館主人さんの言葉を思い出す

 

人が住まなくなった屋敷は諸事情で取り壊さざるを得ないのだろうが武家門だけが残るのはなぜだろうか。

せめて門だけでも残したいという屋敷地の所有者の意思の表れではなかろうか

 

 

 

樋脇小学校前の幹線道路沿いに建つ門。

昔からの武家門かは分からないが左右に小さいながらも袖屋根が付いている

(訪問記)

樋脇町は旧役場付近、少し離れた地頭仮屋跡一帯に玉石垣や生垣、武家門構えの屋敷が点在し、外城の面影を十分に残している。これらの歴史的遺産を活かそうという動きは今のところ見られない。おそらく今後もないでしょう。これからも歴史的風景が残り続けることを祈ります。