斎場御獄の近く、知念社会福祉センター脇の交差点を、知念勤労者体育センターに向かいます。体育センターの門を入った左側、南城市知念字久手堅537番地のウフグスクとよばれる小山に日本軍の陣地壕が残されています。
1942年、中城湾警備の任務の命を受けた重砲兵第七連隊第二中隊は吉岡隊に編入され、ここ知念崎の中腹に布陣しました。第一小隊は知名、第二小隊は斎場御獄のウローカー付近に十二糎連射加農砲の砲座を構築しました。
この陣地壕は道路からも見える位置に、壕口が確認できます。 入り口は半分ほどの高さまで土砂で埋められていますが、中に入ると立って歩けるほどの高さになります。
壕は第三紀砂岩(ニービ層)をくりぬいて造られ、壁には補強のための枕木を建てた跡が残ります。突き当たりは見張りのための窓が開けられています。さらに右にはトーチカ状の銃眼、左には崩落した連絡壕があります。
おそらくウローカーの砲台までつながっていたと思われます。
だれでも入れるようですから、いつかは崩落して
保存できないようになるのでは?
今日は2度目の紹介です。
「沖縄のテレビをみていました。15日が復帰40年ということで、いろいろな番組が作られていますね。新聞もです。知花くららさんが、壕の中であふれる涙を流していました。いかに私たち本土人が無知で自分勝手で沖縄の人を親身に考えて来なかったか、見るたびに切ないです。戦後とはいえ戦後ではない…今だにそのままにしている。見て見ぬふりをしている本土人。私もその一人。(略)4年前沖縄に行った時、何も解っていなかった無恥さをいまさら嘆きます。」
私の幼少時代、自宅に作った防空壕の上で、遊びましたが、そこには常に花が咲いていました。沖縄の壕の中では手榴弾!記憶の中でも戦争の爪痕なんですね。人間の最初の記憶から、最後まで、戦いという記憶は拭い去るべきもの、全く不要なものだと思います。
てぃんが-らさんの、こつこつとされていること。ここで、少なくとも大人二人の意識を変えたのですから、どうかこれからも今まで通り、健康に留意しながら、御紹介して下さい。
記事を待っています。
洞窟のような場所が嫌いで、
こういう場所に長くいなければならなくなったら、
病気になってしまうと思います。
そもそも、戦争をしてしまうこと自体が
人間の病気なんだろうと思います。
私の窓口に、お元気なのか問い合わせが来てます。さっさと、自分でコメントしたらいいのに、と思うのですが、勇気が要るんですね。
てぃんが-らさんは、お料理だって出来るし、ニンジンしりしりや島ラッキョウやそのような紹介もして下さい。花は私よりずっと詳しいし、おそらく、音楽のことだって、絵画のことだって知っておられますよね。
壕の写真ばかり、失礼とは思いますけど、読む人も、それなりの覚悟がいるってもんです。
あんまりゆっくりしないで、出て来て下さいな。うるさい婆~さんより。
最近体調を崩しまして、更新ができないでおりました。
またぼちぼち始めます。
よろしくお付き合い下さいませ。