
昨日の日曜日は南部の荒崎海岸に行ってきました。
ここは「ひめゆり学徒隊」の終焉の地です。
1945年6月19日、伊原の陸軍病院壕で解散命令を受けたのち、米軍による攻撃から逃げのびた「ひめゆり学徒隊」の引率教員2名と女子生徒12名は、荒崎海岸までたどり着きました。
この頃、このあたりには逃げてきた日本兵と住民が、林の中や窪みにひしめき合っていたといいます。
しかしながら米軍は火炎放射器でアダン林を焼き払いながら残敗兵や住民を炙り出し、海へ追い詰めていったのです。ようやく海まで逃げた学徒隊ですが、すでに海上には米艦隊が大挙して押し寄せ、投降を呼びかけていました。
岩場に隠れたものの米軍の急襲を受け、引率教員が手榴弾を使って集団自決を計り8名が死亡、さらに米軍の機銃掃射により3名が死亡、3名が重傷を負いました。
集団自決があった場所には石碑が嵌められ、かつての悲劇を静かに物語っています。
ここは「ひめゆり学徒隊」の終焉の地です。
1945年6月19日、伊原の陸軍病院壕で解散命令を受けたのち、米軍による攻撃から逃げのびた「ひめゆり学徒隊」の引率教員2名と女子生徒12名は、荒崎海岸までたどり着きました。
この頃、このあたりには逃げてきた日本兵と住民が、林の中や窪みにひしめき合っていたといいます。
しかしながら米軍は火炎放射器でアダン林を焼き払いながら残敗兵や住民を炙り出し、海へ追い詰めていったのです。ようやく海まで逃げた学徒隊ですが、すでに海上には米艦隊が大挙して押し寄せ、投降を呼びかけていました。
岩場に隠れたものの米軍の急襲を受け、引率教員が手榴弾を使って集団自決を計り8名が死亡、さらに米軍の機銃掃射により3名が死亡、3名が重傷を負いました。
集団自決があった場所には石碑が嵌められ、かつての悲劇を静かに物語っています。
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