島尻郡八重瀬町富盛にある八重瀬岳の山腹から山頂にかけて、八重瀬岳公園があります。ここはかつて八重瀬按司(あじ)という豪族の居城跡でした。グスク内には、本殿跡や蔵当、物見台跡があり、鉄器、石器などが多く出土しています。
公園内の山頂に至る両脇の階段には約500本の寒緋桜の並木があり、桜の名所としても有名です。
高台にある眺めの良い公園です。公園の駐車場から、東風平ののどかな農村風景や街並みを見ることができます。
この公園内に第24師団第一野戦病院が置かれた壕が残されています。野戦病院には県立第二高等女学校の女生徒で結成された白梅学徒隊46名が配置されました。
山頂に登る階段のすぐ左脇に、壕口に続く小道があります。この壕には第二十四師団第一野戦病院が置かれ、軍医・衛生兵、看護婦が約190名、白梅学徒隊46名が配置されました。
入り口の部分は、鍾乳洞の上部が陥没したドリーネ状になっており、両側に険しい崖が迫ります。
岩の割れ目の奥に壕口があります。比較的大きな壕口で間口・高さとも広く、立ったまま入っていくことができます。
奥に坑道が続きます。
坑道はこの他にも分岐するように5、6本あり、約500名の患者を収容することができたといいます。
しかし、負傷者の増大、医療品の不足から、負傷兵に対する処置は限られたものでした。多くの負傷兵は土の上に寝かされ、麻酔も無しに手足の切断が行われました。
白梅学徒隊の仕事は、包帯の取り替え、糞尿の始末、死体や切断された四肢の廃棄、洗濯、食事の世話など、大変に過酷なものでした。
昭和20年6月3日、戦況の悪化から、第一野戦病院は糸満に撤退することになり、閉鎖されました。
白梅学徒隊の女生徒たち46名は、砲弾が飛び交う戦場の真っ只中で解散させられたのです。多くの女生徒は凶弾に倒れ、砲火をかいくぐった16名が糸満市真栄里の壕(白梅の塔の壕)にたどり着くことになるのです。
まっさきに安全な場所に避難させるのが
当たり前の考え方だと思うのですが、
戦時中はそういうふうに考えられなかったのですね。
それは兵力もそうで、3割から部隊によっては半数が現地徴収兵だったようです。
使えるものは何でも使え、という感じだったのでしょうねえ。
あまりにも知らない事が多すぎです。
沖縄の歴史は、教科書にもほとんど載っていないですからねえ。
新たに てぃんが-ら様のべ-ジをバックしながら、読ませて頂いて、いっそう理解が深まると思いました。これから、ご紹介の方々の書物にも触れていくのですが、何時の時代であっても、戦いは避けなければならないこと。今生きている大人の責任である事を痛感します。
島田叡のような方が沖縄におられたこと、嬉しく思いますが、過酷な運命を背負わされて切ないですね。今だに戦後を引きずって生きなければならない沖縄、これ以上負担をかけないでほしいと、願わずにはいられません。
私達の知らない沖縄の姿をご紹介下さり、感謝です。
島田県知事もしかり、次ぎにご紹介する小池勇助少佐しかり。
一般にあまり知られていない偉人に、学ぶところは多いです。