伊江島から産直の島らっきょうが売られていましたので買ってまいりました。すぐ皮むきして、そのままスライス、カツオ節と醤油をかけて酒のつまみにします。
辛いのが苦手な人は塩揉みするとマイルドになりますが、私ゃ生のままのほうが好きですね。
残りは天ぷらにします。
伊江島から産直の島らっきょうが売られていましたので買ってまいりました。すぐ皮むきして、そのままスライス、カツオ節と醤油をかけて酒のつまみにします。
辛いのが苦手な人は塩揉みするとマイルドになりますが、私ゃ生のままのほうが好きですね。
残りは天ぷらにします。
真壁ちなーは糸満市真壁223にある明治24年頃に建てられた民家を利用した喫茶店です。そばも食べることができます。
赤瓦や周囲の石垣などに、古い沖縄の民家の造りを残しており、2005年6月に国の重要文化財に指定されました。戦禍を免れたため、戦後は家を無くした人々の避難所として、また三和村役場として使われた歴史があります。
「ちなー」とは方言で「喜納」さんのこと。もともと喜納さんのお宅だったのでしょうね。
昔の琉球家屋の造りです。畳の間にテーブルが置かれ、周囲を渡り廊下が囲みます。 庭の眺めも良く、雰囲気抜群です。
ちなー御前を頼みました。沖縄そばにラフテー、ジューシー、野菜のチャンプルー、ンジャナの白和え、もずく酢とお腹一杯になります。
さて、戦禍をくぐり抜けてきた家屋だけあって、この店の店内には被弾したあとがあちこちに残っています。銃弾が左から右下に向けて柱をかすめています。
この弾痕も左から右に抜けています。
短銃の弾痕です。
鴨居にも短銃の弾痕があります。
真壁ちなーの赤瓦屋根の上で、厄を追い払うために睨みつけるシーサー。この守り神も戦災は防ぐことができませんでした。
伊江港のターミナル近くに、「はにくすに」があります。はにくすにとは、「浜の駅」と言う意味。オレンジ色の瓦屋根の、いささか「箱もの行政か」とも思える立派な建物で、中には、観光案内所、多目的ホール、郷土資料館、地域物産センター、飲食店など様々な施設が入っております。
建物の入り口に立つのは、ゴホウラ貝のモニュメント。ゴホウラ貝は大航海時代に交易で珍重された巻き貝です。
郷土資料館の内部。有史以前からの島の出土品から戦後の歴史まで展示されています。入場は無料です。
資料館の入り口の前、階段の下になにやら錆び付いた鉄の塊が置かれています。
これはグスク山(伊江タッチュー)の日本軍陣地壕から掘り出された機関砲です。砲身は曲がっていますが、ほぼ原型を保っています。「実物」であるだけに、見る者の心に訴えるものがあります。
伊江島近海の海底から引き上げられた日本軍の特攻機のプロペラ。
沖縄戦では、知覧、万世、串良などの基地から、多くの特攻機が投入されました。しかし、米艦隊に体当たりできたのはわずかで、大部分が撃ち落とされたといいます。
終戦後、米軍は沖縄戦当時に使用されなかった爆弾や爆薬、処理できなかった不発弾を伊江島の北海岸地域一帯に集積していました。
1948年7月より大量の爆弾を海洋投棄するため、米軍はCLT(上陸用舟艇)によって搬出を始めました。この危険な作業にあたるのは米兵とはいえ、フィリピン人や黒人たちでした。爆弾の上に爆弾を並べるというずさんな作業をしていたようです。
1948年8月6日、伊江港でCLTに積み込んだ爆弾が荷崩れを起こし約5000発の爆弾が暴発しました。折しも、本部と伊江島を結ぶ村の連絡船が入港しており、乗客が港に降りた直後でした。
5000発の爆発はすさまじく、船の一部は内陸360mまで飛ばされました。この事故で下船した乗客や出迎えに来ていた人々、海水浴をしていた子供たちなど多くの人々が巻き込まれ、死者102人、負傷者73人を出す大惨事となりました。
家屋4軒が全焼、住民は焼死。そして港は沢山の遺体が散乱しました。中には遺体の破片さえ見つからない人もいました。
米軍は犠牲者のうち港湾作業員11名について、葬式代として1人につき7000円(B円)を支払っただけでした。
2001年2月、同地に慰霊碑が置かれ、公園整備も含めて慰霊碑の隣に刻銘板が建立されました。刻銘板には同事故で亡くなった102人(村内63人、村外39人)のうち、身元が判明している72人の氏名が刻まれています。
村は現在も、残りの身元不明者30人について情報提供を呼び掛けています。
慰霊碑は爆発事故のあった現場付近にあり、港の方角に向けて建てられています。向こうに見えるのが、現在の連絡船(フェリー)です。
伊江港から西に10分ほど歩いた道路沿いに、アーニー・パイルの碑があります。
アーニー・パイル(1900~1945)はワシントン・デイリーニュース紙の記者でしたが、米軍に同行し、北アフリカやノルマンディの戦場の様子を記事にして本国に送り続けました。
1944年にはジャーナリストとして最高の名誉であるピュリッアー賞を受賞しています。
彼は沖縄戦にも同行し、従軍カメラマンとして戦場の様子を記録し続けました。
1945年8月16日、米軍とともに伊江島に上陸したのですが、8月18日、日本軍の銃撃を受けこの地で戦死しました。この碑は、彼のジャーナリストとしての功績をたたえるため、誕生100周年にあたる2000年7月に建立されたものです。
現在、沖縄公文書館などに残る戦時中の写真は全て米軍のカメラマンによるもので、日本軍の資料は皆無と言って良いくらいです。日本軍は軍事秘密と称し記録はほとんど廃棄しており、沖縄戦の様子を紐解くには、こうした米国のジャーナリストの記録に頼るしかありません。
戦場を駈けるカメラマンは、命を賭けて事実を記録し後世に残すという、大変な仕事をしているのですねえ。
日本中が騒ぎに騒いだ北朝鮮の弾道ミサイル発射。まあ、予想通りというか、打ち上げ失敗に終わりました。ただ、やはり日本政府の対応のまずさが浮き彫りにされた感がありまな。
韓国や米国メディアが、打ち上げを報道しているのに、政府は「確認していない」。本当に日本が攻撃された時には、確認している内に着弾していることになるのでしょうねえ。
政府の平和ボケもさることながら、日本のマスコミも騒ぎすぎです。だいたいにおいて、世間(世界?)を騒がすことが北朝鮮の第一の目的。騒げば騒ぐほど相手の思うつぼ。人工衛星にしてもコントロールルームにしても、張りぼてであることをマスコミはきちんと伝え、あとは努めて無視するべきでした。
さて、このミサイルが沖縄上空を横切るということで、自衛隊は領空に落下してきたら迎撃するため迎撃ミサイル パトリオット(PAC3)の準備を進めました。沖縄では石垣島・宮古島などの離島や本島の知念駐屯地などに配備されました。万一沖縄に落ちてきたら迎撃するということですが、そんなに簡単に撃ち落とせるものでしょうか?
弾道ミサイルというのは、打ち上げ後、成層圏まで上昇し、その名の通り弾道を描いて落ちてくる訳です。その速度はマッハ6~20といわれています。それを下から狙って当てるのですから、並大抵なことで命中するようなものではありません。さらにPAC3の射程距離は20km。マッハ20だったら3秒かからない距離です。政府が「確認を」と言っている間に、3秒経過します。そもそも射程20kmのミサイルを数ヶ所に配備した程度で、沖縄全県を守備できるはずがありません。まったくの気休めです。
それにもし核弾頭だったら、上空数kmで爆破できたところで意味があるのでしょうか?
自衛隊知念駐屯地に配備されたパトリオットミサイル。
今回の打ち上げ失敗で、一番ほっとしたのは自衛隊かも。当たりもしない1発3億円の花火を打ち上げずに済んだのですから。
昨日、人参をたくさん買ってきたので、妻がニンジンシリシリーを作ってくれました。うちの子供は人参嫌いなのですが、シリシリーは大好きなのです。
この料理、沖縄の家庭料理で、惣菜屋でお弁当を買うと必ずと言っていいほどおかずに入ってきます。
これがシリシリー器。沖縄ではどこのスーパーでも売っている調理用品ですが、最近はお土産として買う観光客も多いらしく、品薄気味。
人参をシリシリーします。ボウルいっぱいにシリシリーしても、煮ると量が少なくなります。
シリシリーした人参3本をフライパンで炒めます。ツナ缶、砂糖、塩で味を整え、溶き卵を流し入れます。
これでニンジンシリシリーのできあがり。甘味があって、ご飯にも酒にも合います。
伊江村川平集落の西側の海岸にニィヤティヤガマ(千人洞)があります。このガマは古くから知られており、ガマの内部にある石を女性が持ち上げると子宝に恵まれるという言い伝えがあります。
このガマには、飛行場建設に関わった兵隊や人夫が空襲時に避難するのに利用されました。壕は天井が高く、奥に通じる横穴も数多くあり、千人ガマともよばれているほど多くの人が入れる広さがあります。
県道225号線を川平の集落を西に進み、標識にしたがって海側に小道を入ると、ニィヤティガマの駐車場に出ます。史跡でもあるため、アプローチは整備されており、誰でもガマの中に入っていくことができます。
ガマの謂われを記した石碑。子宝祈願に来られる人も多い様です。私には関係ありませんが。
内部は広く、岩の割れ目から陽の光が差し込み、意外と明るく感じます。天井は高く、3mほどはあります。
画面右奥にあるのが子宝石です。
この石を女性が持ち上げると子宝に恵まれるといいます。持ち上げたとき、軽く感じれば女の子、重たく感じれば男の子を授かるそうです。
壕は海に面し、上部は崖であることから米軍には攻撃されず、避難していた住民は全員助け出されたということです。
かつては、米軍の艦隊で埋めつくされた海です。
アハシャガマは伊江村東江前の耕作地の中にある自然壕で、戦時中、東江前や東江上の住民約20世帯(約120人)が避難していました。
米軍が上陸すると、追われた日本軍も壕に合流しました。米軍は戦車やガス弾による攻撃を行いました。
米軍は投降するように呼びかけましたが、ガマの中はパニックになり、945年4月22日住民たちはガマの中央に集まり、防衛隊の持ってきた機雷によって集団自決しました。
村によって作られたプレート。150人が犠牲になったということです。
内部の様子。機雷の爆発によって天井が崩落し、土砂が堆積しています。 首から下が埋まるほどの土砂が落ちたといいます。
内部には遺品が散乱しています。
1971年12月になって、ここから百数十体の遺骨が発掘されました。
伊江村字東江上75の伊江村公民館(かつての村役場)の敷地内に被弾した建物が保存されています。昭和4年12月に村役場が経営する庶民の金融機関として設立された公益質屋跡で、島内に残る唯一の戦前の建築物です。質物の管理・保存のため強固なコンクリート製の建物となっていました。
1945年4月16日に伊江島に上陸した米軍は日本軍との激しい戦いを繰り広げましたが、島南部の上陸地点から侵攻する方向にこの公設質屋があったために、多くの砲弾が打ち込まれました。
おびただしい弾痕が壁一面に残されています。
上陸してくる米軍と、激しい市街戦が行われました。
内部も開放されており、見学が可能です。外見もさることながら、室内に足を踏み入れると、そのすさまじさに思わず身がすくみます。