管理人のうちなーライフかりゆし日記

管理人てぃんがーらが沖縄の生活を綴ります。

サンエー創業の日

2014年01月05日 | 博士の研究日記

64年前、1950年の今日はオリタ商店(現サンエー)が開店した日です。
宮古島の平良市(現宮古島市)に小さな雑貨店として営業を始めました。
私が営業を始めたころ、県内にチェーンスーパーはサンエーとオキマートくらい。
本島にサンエーは国際通りの那覇店(現マツモトキヨシ)、真栄原店、コザ店(現中の町店)、具志川店(現赤道店)、そして名護店(現東江店)の5店舗だけでした。
本社は真栄原店近くの大謝名あたりに、プレハブ建てであったのを記憶してます。
それが今では連結で1,400億円を超える企業になりました。

サンエーの旗艦店メインプレイス。新都心の景観に配慮し、看板を黄色から白に変更しました。

画像はサンエーのホームページより。クリックでリンクしています。


本年の抱負

2014年01月04日 | 博士の研究日記

さて、本年は少しずつでもブログ更新していこうと思っています。
久しぶりに自分の記事を読み返してみると、座間味島の戦跡が2でストップしていますねえ。
手元にある画像は3年以上前のものになってしまいますがとりあえずここから手をつけようかと思っています。

また内地から見た沖縄というテーマも少し掘り下げてみたいと思います。
実際内地のメディアの報道には???が多すぎます。
たとえば12月27日産経新聞の記事。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131227-00000529-san-pol
普天間基地辺野古移転の反対は盛り上がらず、県庁ロビーで約10人が反対演説したが、通行人は足を止めなかった、と報道しています。
おそらく県民の思いとかなり乖離している報道かと思います。

また、沖縄の歴史にも触れていきたいと思います。

本年もお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

管理人 てぃんがーら(RCL)


2013年が終わります。

2013年12月31日 | 博士の研究日記

みなさま、お元気でしょうか。

ここ数年いろいろとありまして、現在沖縄を離れております。
ブログも更新できず、申し訳ありませんでした。
もう少ししたらまた沖縄に帰りますので、それまで沖縄ネタの話題はお休みです。

とは言え、本土にいるとまた別の角度から沖縄を見ることができます。
こちらでのニュースや新聞記事を読むにつけ「そりゃ違うだろ」という報道に気付かされます。
恣意的な報道が世論を操作しているわけですな。
来年はそんな「内地から見た沖縄」的な記事を投稿したいと思っております。

またこのブログのホームである「観光ガイドブックに載らない沖縄」も、放置しているわりにはカウンターが上がっています。訪ねてきてくださる方のために、こちらのリニューアルもしなくちゃいけないなあ、と思っています。

さて、大掃除もまだですが、年越しそばだけは買ってまいりました。

そんなこんなで公私ともにバタバタした2013年でしたが、なんとか新年を迎えられそうです。
コメントをいただいた皆様、来年はレスに務めますのでよろしくお願いいたします。

管理人 てぃんがーら

 


座間味島の戦跡 2 大和馬の壕跡

2012年10月13日 | 博士の研究日記

 大和馬の壕は陸軍海上挺進隊整備中隊の食糧庫として構築されたもので、座間味集落から阿佐に入る手前にある水路を、山側に登った場所にあります。かつて大和(日本)から馬を陸揚げしたところから、大和馬と呼ばれています。

 座間味から阿佐に向かうと、左側にバナナ畑があります。その後ろは鬱蒼たる亜熱帯の密林が広がっています。

 畑の奥にはU字溝で作られた水路があり、それをたどって山を登ると、小さな流れになっています。

 昼でも暗い森の中を流れに沿って100mほど登っていくと、左側に壕口が見えてきます。

 非常に固い千枚岩を掘削して作られた壕で、住民が動員されて造られました。流れの反対側には武器庫として使用された壕もありましたが、現在は崩落しています。

 内部には坑木を立てた跡が壁面に残ります。5mほど先で、右にL字型に曲がっています。堅牢な岩石であり、大変な労力を掛けたものと思います。

 ほぼ90度に右側に曲がり、さらに5mほど掘られています。この壕では村民の家族7名が集団自決しています。
 琉球新報座間味通信員の宮里和芳氏によると、36名が自決したともいいます。(宮里和芳氏のブログ)
 氏によると、3名のおじぃたちが全員を絞め殺し、最後に1人のおじぃが2人のおじぃを殺したのですが、自分では死にきれず戦後生きていたが、毎日のように辛い日々を過ごしていたということです。

 壕の前の流れに、セメントで堰が作られています。これは、清流を集めるために日本軍が作った貯水壁です。


 

 座間味島にあるマリリンの像。阿嘉島に住むシロが毎日海を渡ってマリリンに会いに来たという話を、最初に琉球新報に伝えたのが宮里芳和氏です。

 

 

 


沖縄の史跡10 謝名親方利山顕彰碑

2012年10月06日 | 博士の研究日記

「政治生命をかけて職責を全うしたい」と政治家がよく口にします。
 だいたいが不祥事を起こして、野党から辞任要求があると、こういうこと言います。増税に政治生命をかけるという首相がいる時代、政治生命じゃなくて命掛けろよ、と言いたいのですが、「命かけます」と言われたところで「本当かな」と疑っちゃいます。
 かつての琉球に国難に対して命を張った政治家がいました。謝名親方利山がその人です。

 波の上宮の近く、旭ヶ丘公園の山頂付近に鄭●謝名親方利山顕彰碑があります。(●は、しんにょうに同)

 謝名利山といっても知っている人は少なく、ほとんど人も訪れません。
 謝名利山は1549年久米村(現那覇市久米)の生まれで、久米三十六姓の子孫です。唐名(中国名)は鄭●(ていどう)。中国とのかかわりが深かった琉球では、琉球の名前の他に、中国名を持っていたのですな。
 久米三十六姓というのは1392年に明の洪武帝より琉球王国に下賜されたとされる中国人の職人達のことで、優れた知識・技術により琉球の発展に寄与しました。利山もこうした大陸中国の血を引いていたため、肌は浅黒く、身長は六尺(180cm)あったといいます。
 利山は16歳のときに明に留学し7年間、当時最先端の知識・職能を学びます。琉球に帰ったあとも進貢使者として、たびたび中国に渡りました。
 こうしてグローバルな経験を身につけた利山は、1606年に57才で三仕官に任命されます。
 三仕官というのは、今でいう政府の閣僚のことですね。第七代国王尚寧も利山に信頼を置き、外務大臣として外交を全権委譲していたようです。
 このころ薩摩の島津藩から琉球国にいろいろと要求が来るようになります。朝鮮出兵のための資金、物資を要求したのですね。琉球にしてみれば他国のごたごたに巻き込まれたく無いわけで、利山は日本の要求を飲まない毅然とした外交姿勢をとっていたわけです。
 こうした琉球国の姿勢に業を煮やし、1609年薩摩は琉球国に侵略を企てます。外交がだめなら武力で奪い取ろうというわけですね。
 利山は三千人の兵力で山に立てこもり薩摩に抵抗したということですが、武力で劣る琉球は薩摩に占領され、国民の身を案じた尚寧王は降伏してしまいます。
 尚寧王や重臣たちは捕らえられ、薩摩に連行されます。そこで薩摩藩から起請文が提示され、尚寧や三仕官たちは署名させられます。これは、植民地として貢ぎ物をしなさいという要求書ですな。しかし利山は琉球国の正当性を主張し、最後まで署名を拒否しました。
 1611年9月19日、利山は薩摩により処刑されます。62歳でした。
 空手の達人だった利山は、このとき数名の薩摩藩士を道連れにしたという伝説もあります。なんとも豪快な男です。
 その後も薩摩藩による搾取は明治時代になるまで続きます。琉球国からの砂糖は島津氏に莫大な利益をもたらし、これがなかったら明治維新は遅れたとも言われています。

 自国の正当性、自己の信念を最後まで貫き、異国で命を落とした謝名利山。
 今、彼の名は恩納村のリザン・シーパーク・リゾートホテルに残すのみです。

 このぐらいの気概を持った政治家が国難続きの今の日本に現れないものでしょうかねえ。

 


沖縄の史跡9 久米孔子廟

2012年09月29日 | 博士の研究日記

那覇市若狭、波の上宮の東に久米至聖廟(久米孔子廟)があります。
孔子廟は、人としての生き方と社会の理想を説いた古代中国の哲学者で儒学の創始者、孔子を祀る廟です。

孔子廟は日本各地にあり、最も有名な所は江戸時代に作られた東京の湯島聖堂です。ここには世界最大の孔子像があります。長崎県長崎市の孔子廟は日本で唯一中国政府公認のものです。中国政府の全面協力によって建造されました。
そのほか佐賀県多久市の多久聖廟、岡山県備前市の閑谷学校の聖廟などが有名です。

日本最南端の孔子廟、久米孔子廟はその名の通り、もともと久米村に建てられました。
1671年のこと、金正春城間親方が孔子廟建立を尚貞王に願い出て認められ、1676年に現在の泉崎に完成しました。
大成殿、明倫堂などの建造物があり、孔子および弟子の四配(顔子・曾子・子思子・孟子)の聖像が祭られましたが、沖縄戦で灰塵と化し、さらに軍用道路ハイウェイ1(現国道58号線)の整備により敷地をほとんど潰され、1975年(昭和50年)になってようやく現在の地、若狭に復興再建されたものです。

さて、誰もが名前だけは知っている孔子とはどんな人物だったのでしょうか。
孔子(紀元前551~紀元前479)は春秋時代の中国の思想家であり哲学者です。儒家の始祖とも言われています。本名は孔丘、一般に言う孔子の「子」は尊称で「先生」という意味です。ですから、「孔子」は、「孔先生」ということになります。
孔子は私塾を作り弟子(学生)たちに教育していたわけです。
日本で言えば寺子屋の先生だったのですね。

「子のたまわく・・・」で始まる論語は、孔子の死後、弟子たちが孔子の発言をまとめたものです。いわゆる語録ですね。
その内容は決して難しい事を言っているのでなく、弟子の学生たちにも分かるような、当たり前のことを諭しています。

論語の中で誰でも知っているのがこれでしょうか。1巻1章、論語の冒頭にある言葉です。

子曰、學而時習之、
不亦説乎、有朋自遠方来、
不亦楽乎、人不知而不慍、
不亦君子乎

これを和文訳するとこうなります。

子の曰はく、学んで時に之を習ふ。
亦(また)説(よろこ)ばしからずや。
朋(とも)あり遠方より来たる、亦楽しからずや。
人知らず、而(しかう)して慍(いか)らず、
亦君子ならずや。

昔、ウイスキーのCMにあった様な気がします。
「友あり、遠方より来たる」といってグラスをチリンと鳴らすような・・・。
さて、日本に紹介されている論語は元が漢文ですから、漢字の文章を「返り点」とか「一二点」とか、無り繰り日本語に直したもので、非常に分かりにくい文章になっています。もとより、言い回しや漢字の持つ意味が日本語とは同じでないものも多く、意訳しないと伝わりません。
元来論語は先生の発言を記録したものですから、もともと話し言葉なんですね。
だから訳も話し言葉にすると、意味が伝わります。

先生はこう言われました。
勉強して、適した時に復習をすれば理解が進む、これは嬉しいことだよね。
学問が進むと、遠くから聞きつけた友達が尋ねて来て、その学問について話合える、いかにも楽しいことだよね。
自分を分かってくれないからって人に対して怒らない、これが君子だよね。

と、孔先生は学問の面白さを学生に伝えているのですね。
ちなみに「君子」とは学識・人格のすぐれた人で、立派な人徳や見識、すぐれた知識・教養を身につけた理想的な人物のことを表しています。
まあ、私みたいな人のことでしょうか。

時には人間・孔子が垣間見れる文章もあります。5巻10章にはこんなものがあります。

宰予晝寝、子曰、朽木不可
雕也、糞土之牆、不可朽也、
於予與何誅、子曰、始吾於人也、
聽其言而信其行、今吾於人也、
聽其言而觀其行、於予與改是

難しい漢字ばかりですね。古い中国語ですから当たり前ですが。
和文訳するとこうなります。

宰予、昼寝(ひるい)ぬ。子の曰わく、朽木(きゅうぼく)は雕(ほ)るべからず、
糞土(ふんど)の牆(かき)は朽(ぬ)るべからず。
予に於てか何ぞ誅(せ)めん。子の曰わく、始め吾れ人に於けるや、
其の言を聴きて其の行(こう)を信ず。今吾れ人に於けるや、
其の言を聴きて其の行を観る。予に於てか是れを改む。

意味が分かった方いますでしょうか?
宰予とは弟子の名前。糞土とは塵芥土のこと、土壁の材料ですね。
牆は垣根のこと。
そう言われても、一体何が起こっているのか意味クジ分からん、ですね。
教科書的に現代語訳すると、こうなります。

宰予が昼寝をした。先生はいわれた、「腐った木には彫刻ができない。塵芥土の垣根には上塗りできない。予に対して何を叱ろうぞ。」
先生はいわれた、「前には私は人に対するのに、言葉を聞いてそれで行いまで信用した。今は私は人に対するのみ、言葉を聞いてさらに行いまで観察する。予のことで改めたのだ。」

つまり弟子の宰予君が授業をサボって昼寝してたんですね。そこで、孔先生は怒っちゃった。朽木とか糞土とか、紀元前の中国のことは知らないけど、相当相手を叱咤する例えだと思われます。お前は腐ってる、というわけですな。
要は孔先生、授業サボった予君に対し頭に来て怒ったわけなんです。
だから、この5巻10章を怒りのニュアンスまで表現するとこうなります。

宰予が授業をサボって昼寝した。そこで先生は怒って言われた。
「予君は、ちょっとたるんでいるんじゃないの、根性腐り! ふざけるんじゃないよ、この糞野郎!教える甲斐がないよ。もう情けなくて怒る気も出ないよ」  先生はまたこうも言われた。「今までは僕は予君の言う言葉を信用していたのに。これからは、人の言うことだけじゃなく、本当にちゃんとやってるかどうかまで見るからね。予君のことで僕も反省したよ」

どうですか?孔先生の人間っぽさが分かると思いませんか?
論語は孔子の語録で、学生相手に話した言葉が書かれています。
だったら、「子の曰わく・・・」ではなく、「先生はいいました・・・」と話し言葉で読むべきですね。

最後に、私の好きな章です。1巻16章からです。

子曰、不患人之不己知、患己不知人也

短い文章ですね。
和文にするとこうなります。

子の曰わく、人の己れを知らざることを患えず、人を知らざることを患う。

やっぱり人の心に響くように孔先生は学生に諭しているのですから、話し言葉で感情を入れたほうがいいです。
こういうふうになるのではないでしょうか。


先生はこう言われました。
他人が自分のことを分かってくれない!と、悩む必要なんて全く無いよ。
むしろ自分がどれだけ他人のことを理解していないかを、気にかけるべきだね。


孔子廟を訪ね、論語に触れるのもいいものですね。


 


沖縄の花 オオゴチョウ

2012年09月17日 | 博士の研究日記

 沖縄の三大名花の最後はオオゴチョウです。熱帯アメリカ原産のマメ科の低木で、夏から秋にかけて、オレンジ色の花を咲かせます。

 長い雄しべが風に揺れ、蝶の様だということで「黄胡蝶」の漢名がつきました。花穂の下から順番に開花していき、長く楽しめます。

 不思議な事に沖縄三大名花と言われるわりには、あまり目につきません。植えられている場所も少ない様です。画像の花は沖縄自動車道の伊芸サービスエリアで植えられていたものです。
 過去、葉や茎、根を煎じて、解熱剤や下剤として利用されてきました。花が終わると、マメ科の植物らしく、10cm位のキヌサヤのような実をつけます。


沖縄の花 デイゴ

2012年09月16日 | 博士の研究日記

 琉球三大名花の一つで、県花でもあるデイゴ。インド原産のマメ科の高木落葉樹です。高さ5mくらいになり、ゴツゴツとした樹冠を縦横無尽に広げます。街路樹として活用されています。

 5月ごろ、葉が出る前に、枝に花びらがいくつも重なる花穂を付けます。花びらは良く見ると、マメ科の特徴があります。

 デイゴの花が良く咲くと、台風の当たり年という伝承があり、風を呼ぶ花と言われます。デイゴは沖縄が自生の北限で、1967年に県民の投票により県花に決まりました。
 南部の県道7号線のデイゴ並木は有名で、花が散ると道路が真紅の絨毯を敷いた様になります。

 ヒシバデイゴ。デイゴと異なり、花穂は一列に伸び、根本から順に咲いていきます。

 

 こちらはアメリカデイゴ。まだ花びらが開ききっていませんね。九州でも良く見かけ、鹿児島県の県花になっています。アメリカデイゴは園芸品種も多く作られています。

 ところで、台風って決まって来るのが週末ですねえ。

 

 


沖縄の花 サンダンカ

2012年09月15日 | 博士の研究日記

 沖縄の花々をご紹介したいと思います。
 まず最初はアカネ科の常緑低木、サンダンカです。サンダンカはデイゴ、オオゴチョウと並び、沖縄の三大名花といわれており、植え込みや街路樹として広く愛されている花です。

 高さ1m~1.5m位で、濃い緑の葉を繁らせ、丸い花房をつけます。

 一つ一つの花びらも丸く、可愛いですね。

 園芸品種も多く、これはスーパーキングとよばれるものです。原種のサンダンカと違って花びらが長くとがっています。この品種も街路樹の下植えとしてよく利用されています。

 クササンダンカ。サンダンカと同じアカネ科です。この品種は草と言われていますが成長すると高さ1m位の低木になります。

 コバノサンダンカ。サンダンカに比べ、葉が小さくツツジのようです。生け垣などに使われます。

 家の前の道路の植え込みにもサンダンカが使われています。街を彩る花々です。