旧日本軍は米軍の上陸に備え、海岸に迎え撃つためのトーチカ(防御陣地)を構築しました。読谷周辺の海岸にはそのいくつかが現存します。

楚辺海岸のトーチカです。トリイステーションのすぐ北側、楚辺浄化センターの先に小さなビーチがあります。その楚辺ビーチから北側の岬に沿って海岸を50mほど進んでいくと、崖の下に構築物が現れます。この岬は干潮時にかろうじて渡ることができますが、剃刀のように鋭く海蝕された琉球石灰岩が行く手を拒みます。進むには登山靴が必要です。

ここは自然の海蝕洞窟を利用し、分厚いコンクリートで銃眼を作っています。内部はかなり広いのですが、奥に向かって傾斜しており、あまり手を入れた跡がありません。
満潮時には洞窟内に水が入ってくるような低い場所であり、内部は常に湿っていて、この中でいつ来るか分からない敵に対して待機するには厳しい環境であったと思われます。

楚辺の隣、都屋漁港内にもトーチカが残されています。画像の右側、小さな岬の内部に構築されており、岬の左右に銃眼が現存します。海に向かって左側は大分崩れていますが、右側にはコンクリートで補強された銃眼がしっかりと残っています。

漁船の係留場所の脇にあり、港の整備のためコンクリートで地面の高さが上がってしまいました。

現在この岬は漁港の中央に位置しており、トーチカの内部には浮きやらポリバケツやらのゴミがが流れ込み、また土砂によって半分以上埋められてしまって、人が入れる状況ではありません。
構築されたときは、人が立って歩ける通路が内陸部から続いていたといいます。その通路は現在は崩落しています。公共の場所にあるだけに、行政に整備保存してもらいたい遺構です。

恩納村真栄田にある「くりぬき岩」と呼ばれるトーチカです。真栄田岬はダイビングのメッカですが、この岬の西側にあるビーチの周辺もダイビングやシュノーケリングをする人たちが多くいます。
ビーチの背後に崖が迫っていますが、えぐれた崖をコンクリートで塞ぐ形でトーチカが造られています。こちらも以前、ブログで紹介いたしました。トーチカの奥行きや開口部から推測するに、15インチ榴弾砲を配備できるように造られたのかもしれません。

近づくと自然の中にあって異様な雰囲気をかもしだしています。コンクリートは厚いのですが、崩れた断面を見ると貝殻などが多数入っており、ずいぶんと粗雑な作りです。
内部は広々としており、両脇の開口部が広いため明るく、現在は地元の人たちがバーベキューなどで利用しているようです。
これらのトーチカは実際には使用されなかったようです。1945年1月にフィリピンが陥落し、色をなした大本営は次の標的と思われた台湾に沖縄守備隊の最新鋭だった第9師団を転出させたため、沖縄の防衛力は大幅に弱体化してしまったのです。そこで沖縄守備隊第32軍は、水際で米軍の上陸をくい止めるだけの戦力が無く、米軍を無血上陸させて持久戦に持ち込むという作戦に切り換えたためです。
もっとも、米軍は上陸前に海岸に向けて執拗な艦砲射撃を行い、大量の火器で制圧してから上陸を果たしていますので、こんなトーチカが一つ二つあったところで、何の役にも立たなかったと思われます。
日本軍はトーチカを造ったということだけで安心したのでしょうか。それとも精神論で勝てると思っていたのでしょうか。