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管理人のうちなーライフかりゆし日記

管理人てぃんがーらが沖縄の生活を綴ります。

読谷の戦跡 その8 ウフガマ

2011年09月23日 | 博士の研究日記

 台風15号は沖縄付近で迷走した後、日本列島を縦断していきました。被害を受けられた方々にお見舞い申し上げます。
 さて、沖縄戦において米軍が上陸した地、読谷の戦跡をご紹介してきましたが、今回でとりあえず締めくくりにしたいと思います。今回ご紹介するのは「ウフガマ」とよばれる民間壕です。

 県道6号線を伊良皆から残波岬に向かって進み、瀬名波の三叉路を真栄田方面に向かうと長浜区に入ります。ダムに向かう道に右折しウージ畑の中を進むと右手に農道がいくつかあります。二つ目の農道に入ると道はすぐ泥道になります。

 農道の突き当たりに木々に囲まれて壕口が見えてきます。これが「ウフガマ」とよばれる戦時中住民が避難した民間壕です。
 米軍が上陸した際、住民達は北部に逃げる人たちと、読谷に残りガマなどに避難する人たちに分かれました。瀬名波や長浜の多くの人たちはこうした壕の中に避難したそうです。

 この当たりは私有地で壕にもフェンスが張られています。高さは2mほどあり、十分立って歩ける高さです。昔から区民の集会所的に使われてきたガマでした。どれだけの人たちが避難したのかは不明ですが、このウフガマに避難したひとたちは全員無事に保護されました。

 ウフガマは現在土地所有者の農機具置き場として平和利用されているようです。

 さて、このほかにも読谷には多くの戦跡が残っています。読谷村の公式HPに戦跡ガイドが掲載されていますので一度ごらんください。読谷村の戦跡紹介は一応一区切りをつけるとして、次回は他の地区の戦争遺跡をご紹介してまいります。

 


読谷の戦跡 その7 読谷飛行場跡

2011年09月18日 | 博士の研究日記

 6月のブログ記事でもご紹介しましたが、沖縄には日本軍や米軍によっていくつもの飛行場が造られ、そのいくつかが現存しています。そのなかで飛行場の全容が最もしっかりと残っているのが読谷飛行場です。
 読谷飛行場(陸軍沖縄北飛行場)は、日本陸軍の航空部隊が南方戦線を展開するための補給中継基地として昭和18年に造られました。土地は軍将校から「諸君の土地を国家に捧げてもらいたい。戦争に勝ったらすぐに返すから。」と半ば強制的に接収されたそうです。家屋の補償金も国債や郵便貯金に振り替えられ、結局住民の手には渡らなかったといいます。
 1500mの滑走路を3本持つ、日本陸軍の中枢の補給基地である読谷飛行場は、10・10空襲で甚大な被害を受けたものの突貫作業で修復され東南アジアへの中継基地として機能しました。しかし、米軍上陸を目前に控えた昭和20年3月に日本軍は撤退し、日本軍自らの手によって破壊されました。
 現在、村役場が飛行場の中心に建てられ、かつての滑走路は道路として活用されています。国道58号線のバイパスが計画されており、今後読谷の中心としての発展が期待されます。

 村役場の裏手にある掩体壕です。戦闘機の格納庫として造られたものです。地面に土で山を盛り、その上にコンクリートをかけて固まった後に土を取り除くという、非常に原始的な方法で造られています。少し前までは数基の掩体壕が残っていましたが、最近取り壊され現存数が減っています。

 村役場の脇にある「義烈空艇隊玉砕の地」の慰霊碑です。1945年4月1日に米軍が上陸し占領された読谷飛行場でしたが、日本陸軍は飛行場破壊・後方攪乱を目的とした義号作戦を実行し、5月24日に特攻隊による奇襲を仕掛けました。
 陸軍中野学校出身奥山隊長以下120名が搭乗した九七式重爆撃機12機は熊本飛行場を飛び立ち、読谷飛行場には5機がたどり着いたものの4機が撃墜されました。しかし米軍の火器をかいくぐって1機が滑走路への胴体着陸を成功させ特攻兵たちは飛行機を飛び出し拳銃で米軍機を破壊したといいます。
 アメリカ軍戦史では、米軍の損害として、20名が死亡、戦闘機9機炎上、29機破損、ガソリン7万ガロン炎上したといいます。読谷飛行場で確認された日本兵の死体は69名であったということです。


読谷の戦跡 その6 渡具地の特攻艇秘匿壕群

2011年09月17日 | 博士の研究日記

 国道58号線嘉手納ロータリーの手前、水釜の交差点を左折すると比謝川の河口に出ます。対岸は読谷村渡具地です。水辺に岩山があり、そのがけ下に洞窟がいくつも口を開けているのがよく見えます。これが日本海軍が構築した特攻艇秘匿壕です。ここには海上挺身隊第29戦隊第1中隊の17艘の特攻艇「震洋」が配備されていたと言われます。

 特攻艇というのは排水量1.5トンのベニヤ製のボートで軍用トラックのエンジンを積み、当初は120kg機雷を2基積み密かに敵の船に近づき機雷を投下してから離脱する、という奇襲戦術の兵器でした。しかし、戦局が悪化するにつれ船首に250kgの爆薬を積んでそのまま敵艦に体当たりするという特攻作戦に切り換えられました。
 本島では米軍の上陸が予想された糸満、北谷、読谷、本部などに秘匿壕が造られ、特攻艇が配備されました。
 壕から海岸までレールが引かれ乗組員は自分で船を押し出し出陣したといいます。
 ただし、この特攻艇もトーチカと同様、無血上陸を許す作戦に切り換えたため、実際には使用されることは無かったようです。

 壕は立ち入れるもので4つ、崩壊しているものも数カ所確認できます。内部の保存状態は良く、レジャーボートなどが「秘匿」されていたりしてます。壁に縦の溝が刻まれているのが視認できますが、これは崩落防止のための柱を立てた跡です。

 壕の内部から外を見ます。正面は比謝川の河口です。
 今は釣り人の姿を見ることができますが、当時特攻隊員達はどんな風景を見ていたのでしょうか?

 


読谷の戦跡 その5 チビチリガマとシムクガマ

2011年09月11日 | 博士の研究日記

 読谷の戦跡を語る上で避けて通れないのがチビチリガマとシムクガマです。住民を巻き込んだ地上戦が行われた沖縄を象徴するような二つのガマ(洞窟)をご紹介します。

 読谷村の戦跡の中で最も悲惨な殺し合いが行われた場所がこのチビチリガマです。いわゆる「集団自決」が行われたのですが、「自決した」という言葉では表し切れない凄惨な地獄絵図が繰り広げられました。
 とてもブログで語り尽くせるものではありませんが、簡単に説明します。洞窟には住民約140人が避難していましたが、米軍は上陸したその日にこの洞窟を発見し、投降を呼びかけました。しかし民間人は殺さないという米兵の言葉を信じられない数人の住民が、竹槍を持って米軍に反撃したのです。米軍は応戦し、銃撃により2名が死亡しました。これを見た避難民は動揺し、波平地区の指導者の「自決せよ」の言葉に、鎌や包丁、看護婦が持っていた毒薬などで、家族が殺し合うという惨劇が繰り広げられたのでした。

 暗闇の洞窟の中、結果83名が死亡、その6割が18歳以下の子供でした。中には4ヶ月の赤ん坊もいました。
 この集団自決を生み出した伏線は、沖縄差別と、戦時中の皇民教育にあると考えます。「御国のために命を捨てる」、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」という軍事教育は、差別され続けてきた琉球民族が「本当の日本人になりたい」という願望と合致し、県民が傾倒してしまった節があります。そして、直接的な原因は、日本軍の教宣活動です。鬼畜米軍の捕虜になれば、男は戦車でひき殺され女は強姦され殺される、と洗脳され続けた結果、今まで見たことも無かった米兵に追い詰められパニックになった住民は、死を選ぶしか無かったのです。
 また、後世にこの事実を伝えるために「平和の像」が建立されましたが、1987年読谷村で行われた海邦国体ソフトボール会場で日の丸が焼かれるという事件が起こり、その報復のために右翼によって平和の像は破壊されました。
本来の平和を願うという遺族の気持ちが、プロバガンダに使われた感があります。

 

 以前に米軍通信基地(通称、像の檻)があった小高い丘の裏側にシムクガマという洞窟があります。波平又川原(マタガーバル)に大きく口を開いたこのガマには約1000人が避難しました。米軍が投降を呼びかけたところ、壕の中はパニックになりましたが、避難していたハワイ帰りの二人の老人、比嘉平治氏(72歳)と比嘉平三氏(63歳)が「アメリカ人は人を殺さない」と、米軍は国際法に従って行動しているということを訴え、人々を説き伏せることができ、その結果一人の犠牲者も無く全員が保護されました。

 この対照的な二つのガマは、1kmも離れていません。住民の中にはチビチリガマに逃げようかシムクガマに行こうか迷った人もいたといいます。
 沖縄には「命(ぬち)どう宝」という言葉があります。命が一番大切である、ということですが、そんな言葉があっても、洗脳されてしまうと死を選んでしまう。教育というものがいかに重要であるか、この二つのガマは教えてくれているように思えます。

 今、一部の団体が、戦争を美化しようとする教科書を作成しています。また、集団自決に軍命はあったか無かったかと裁判にもなっています。しかし、この真っ暗闇の洞窟の中で米軍におびえ死しか選択肢が無かった人々の無念さを想うと、その議論すら意味を失います。
 全ての戦争はNo、これが唯一の答えのように思えます。

 


読谷の戦跡 その4 古堅、伊良皆の戦跡

2011年09月10日 | 博士の研究日記

 国道58号線を北上、嘉手納を過ぎ比謝橋を渡ると伊良皆の交差点があります。
 右側一帯は米軍基地で嘉手納弾薬庫が広がっていますが、一部は黙認耕作地となっていて農道が通じており、立ち入りが可能です。
 ここ伊良皆集落に日本軍は読谷飛行場に駐機する戦闘機を米軍の空襲から守るために1944年12月から翌年1月にかけて軍用機秘匿場所を構築しました。このために集落にあった五軒の民家が取り壊されたということです。読谷飛行場からは1.5kmほど離れており、木々に隠れるように秘匿場所への誘導路は造られました。

 ここ伊良皆の農道の一部に、当時の誘導路の跡が残されています。道の中央に20cm位の四角い石を並べた石畳が確認できます。当時の舗装の跡です。琉球石灰岩を立方体に切り出し、碁盤の目のように並べています。残念なことに、破壊されたり流出したのか、ほとんどが消失しています。

 さて嘉手納から58号線を北上、大湾の交差点を左折した左側が古堅のです。ここ古堅には戦時中日本軍が駐留しており、米軍の激しい攻撃を受け、戦後は米軍に土地を接収されました。それだけに数多くの戦争遺跡が残されています。

 古堅の住宅地の中に古堅国民学校の門柱が復元・保存されています。ここには1944年7月から日本軍が学校を接収、軍隊が駐留しておりました。校舎を追い出された生徒たちは青空教室で勉強せざるを得なかったということです。
 戦後は米軍が接収し、この門柱はブルドーザーで押し倒され地中に埋められたものを当時の場所に復元したものです。(土地の分譲の関係で、校門の向きが異なっているようです)
 銃弾の跡が残る国旗掲揚台も保存されています。

 古堅地区のビジュル(拝所)に幹が空洞になったフクギが生えています。このフクギは以前にもブログで紹介いたしました。この拝所には戦時中日本軍が駐留し、物資の貯蔵場所となっていました。敷地の中には天幕張り倉庫があり、中に何が保管されていたのかは不明ですが米軍の爆撃を受けて火災となり、フクギは焼け焦げて幹に穴が空いてしまいました。
 それでもフクギは成長を続け、空洞の幹のまま大木に育っています。その生命力に感嘆するとともに、物言わぬ戦争の生き証人を大切に保護する必要があると感じました。

 古堅集落は10・10空襲以降、米軍の戦闘機による空爆を度々受け、住民は自宅の周囲に防空壕を掘って避難していました。
 拝所の背後、集落の東側、比謝川の近くに、フルギンガー(古堅井戸)とよばれる井戸が二つ並んでいます。この井戸の上方斜面に住民達が避難するために自ら掘った防空壕が残されています。「古堅の家族壕」とよばれる壕群です。

 フルギンガーには日本軍が駐留し、炊事を行っていました。家族壕には兵隊も入り込んで来たようです。壕は手掘りで、現在3箇所の壕口が確認できます。これらの壕は斜面上部からの土砂で入り口は下から2/3位まで埋まっていますが、内部は比較的保存状態が良く1.5m位の高さがあり、奥で隣の壕と通路でつながっています。すでに埋もれてしまった壕もあるようで、これも可能ならば保存をしたい戦争遺跡です。

 家族壕の内部です。土砂が流れ込んでいますが、比較的保存状態は良好です。

 


シークワサー ヒラミ8

2011年09月09日 | 博士の研究日記

 台風14号が大東島に接近しています。その後、奄美地方から九州にかけてが進路となっています。十分にご注意ください。
 おもしろいもの見つけました。その名も「ヒラミ8」。最初、清涼飲料水かと思ったのですが、ペットボトルの裏を見ると、4倍に薄めて飲むようにとあります。

 私の場合は水では無く泡盛。カクテルみたいになりますねえ。女性にもいいかも。

 

 


読谷の戦跡 その3 トーチカ

2011年09月08日 | 博士の研究日記

 旧日本軍は米軍の上陸に備え、海岸に迎え撃つためのトーチカ(防御陣地)を構築しました。読谷周辺の海岸にはそのいくつかが現存します。

 楚辺海岸のトーチカです。トリイステーションのすぐ北側、楚辺浄化センターの先に小さなビーチがあります。その楚辺ビーチから北側の岬に沿って海岸を50mほど進んでいくと、崖の下に構築物が現れます。この岬は干潮時にかろうじて渡ることができますが、剃刀のように鋭く海蝕された琉球石灰岩が行く手を拒みます。進むには登山靴が必要です。

 ここは自然の海蝕洞窟を利用し、分厚いコンクリートで銃眼を作っています。内部はかなり広いのですが、奥に向かって傾斜しており、あまり手を入れた跡がありません。
 満潮時には洞窟内に水が入ってくるような低い場所であり、内部は常に湿っていて、この中でいつ来るか分からない敵に対して待機するには厳しい環境であったと思われます。

 

 楚辺の隣、都屋漁港内にもトーチカが残されています。画像の右側、小さな岬の内部に構築されており、岬の左右に銃眼が現存します。海に向かって左側は大分崩れていますが、右側にはコンクリートで補強された銃眼がしっかりと残っています。

 漁船の係留場所の脇にあり、港の整備のためコンクリートで地面の高さが上がってしまいました。

 現在この岬は漁港の中央に位置しており、トーチカの内部には浮きやらポリバケツやらのゴミがが流れ込み、また土砂によって半分以上埋められてしまって、人が入れる状況ではありません。
 構築されたときは、人が立って歩ける通路が内陸部から続いていたといいます。その通路は現在は崩落しています。公共の場所にあるだけに、行政に整備保存してもらいたい遺構です。

 


 恩納村真栄田にある「くりぬき岩」と呼ばれるトーチカです。真栄田岬はダイビングのメッカですが、この岬の西側にあるビーチの周辺もダイビングやシュノーケリングをする人たちが多くいます。
 ビーチの背後に崖が迫っていますが、えぐれた崖をコンクリートで塞ぐ形でトーチカが造られています。こちらも以前、ブログで紹介いたしました。トーチカの奥行きや開口部から推測するに、15インチ榴弾砲を配備できるように造られたのかもしれません。

 近づくと自然の中にあって異様な雰囲気をかもしだしています。コンクリートは厚いのですが、崩れた断面を見ると貝殻などが多数入っており、ずいぶんと粗雑な作りです。
 内部は広々としており、両脇の開口部が広いため明るく、現在は地元の人たちがバーベキューなどで利用しているようです。

 これらのトーチカは実際には使用されなかったようです。1945年1月にフィリピンが陥落し、色をなした大本営は次の標的と思われた台湾に沖縄守備隊の最新鋭だった第9師団を転出させたため、沖縄の防衛力は大幅に弱体化してしまったのです。そこで沖縄守備隊第32軍は、水際で米軍の上陸をくい止めるだけの戦力が無く、米軍を無血上陸させて持久戦に持ち込むという作戦に切り換えたためです。
 もっとも、米軍は上陸前に海岸に向けて執拗な艦砲射撃を行い、大量の火器で制圧してから上陸を果たしていますので、こんなトーチカが一つ二つあったところで、何の役にも立たなかったと思われます。
 日本軍はトーチカを造ったということだけで安心したのでしょうか。それとも精神論で勝てると思っていたのでしょうか。

 


古酒(クース)の日

2011年09月04日 | 博士の研究日記

 本日9月4日は古酒(クース)の日です。当時の琉球新報によると2000年の9月4日に、「古酒の日フェスタ2000」が那覇市で初めて催され、県酒造組合連合会の石川信夫会長は「泡盛古酒は琉球文化の華、文化遺産とも呼べ、ウイスキーやブランデーなどに匹敵するものだ」とあいさつ、同青年部の新里建二さんが「古酒の日」宣言を読み上げた、とあります。
 戦前は各酒造所で100年もの、200年ものの酒が大切に保管されてたといいます。それらは全て灰塵と化しましたが、今後もこの琉球の文化を継承していきたいものです。
 さて泡盛の酒肴として、私が好きなものは「豆腐よう」「島らっきょう」そして「すぬい(沖縄もずく)」です。沖縄のもずくは1本1本が太く肉厚でコクがあり、天ぷらにしても美味しく頂けます。通常、もずくというと酢の物ですが、かつお出汁のたれで和えるとこれまた美味。最近の私の好みは、この「赤マルソー・もずくのたれ」。赤マルソーというと味噌のメーカーですが、最近はドレッシングや調味料、油みそなどいろんな加工品を造っています。
 生もずくを買ってきて、もずくのたれで頂くのが私の定番です。古酒にもオリオンにもよく合います。

 


読谷の戦跡 その2 瀬名波の壕群

2011年09月03日 | 博士の研究日記

 読谷の戦跡シリーズ第二弾です。国道58号線の伊良皆から県道6号線をひたすら残波岬に向かって進み、瀬名波の三叉路を真栄田方面に向かうすぐと左手に海が見えてきます。そこに長浜区の犠牲者104柱を祀った真砂之塔があります。

 戦没者のご冥福を祈り、合掌。
 この真砂之塔の脇に海岸に下りていける遊歩道が整備されています。犬を連れて散歩する人も多くいます。
 その小道を下りていくと左手に大きな岩が現れます。岩の下は人がもぐり込めそうな隙間があります。ここが「アバシヌンジ」、ハリセンボンのトゲと呼ばれるガマです。貝塚があり、ハリセンボンのとげや骨が多く見つかっている洞窟です。沖縄ではハリセンボンは食用にされますので、有史以前に人間が暮らしていたのでしょう。

内部は土砂が流れ込み、天井が低くなっていますが、沖縄戦の時、住民がこの洞窟に避難しました。米軍は上陸にあたって、艦砲射撃で大量の爆弾を読谷の海岸に浴びせました。しかし大きな岩は爆弾を落とされてもびくともしなかったということです。

 アバシヌンジの前をさらに進むと、瀬名波の海岸に下りることができます。ここは遠浅で、潮が退くと磯浜が広がります。浸食され、キノコのような形の岩が多く見られます。
 磯には幾何学模様に切り取られた岩の跡があちこちにあります。
 これは琉球王府時代に、間切(今の市町村)を結ぶ宿道の石畳にために切り出された跡です。石は島内各所に運ばれ、舗装に使われました。中には切り出される寸前のまま放置されたような跡もあります。いったいどんな事情があったのでしょうか。数百年前の時代を思い浮かべながら、しばし空想の世界に浸りました。

瀬名波の海岸はビーチの背後に崖が迫り、たくさんの浸食洞窟があります。これらの洞窟も沖縄戦で住民が避難した場所です。

 このような洞窟ががけ下にいくつも並びます。満潮になれば潮が入り込んでくるような洞窟です。目の前の海から上陸してくる米軍におびえながら、狭い洞窟に潜んでいた住民達。どんな気持ちだったのでしょうか。

 護佐丸が築いた座喜味城を始め三山時代から王府時代の琉球の史跡が多く残る読谷。また沖縄戦で米軍が上陸した地でもある読谷。史跡と戦跡のご案内は次回に続きます。

 


シークワサー・ソーダ

2011年08月30日 | 博士の研究日記

 最近のお気に入りは沖縄ボトラーズのシークワサー・ソーダ。シークワーサーとは和名ヒラミレモンという小ぶりのミカン。実にジューシーで、居酒屋でも焼き魚や刺身によく付いてきます。泡盛の水割りに垂らしてもgood!
 で、このシークワサー風味のソーダで泡盛を割っています。飲みやすく、ついつい酒が進んでしまいます。
 もちろんソーダのまま飲んでも美味しい。沖縄ボトラーズのシークワサーソーダ、ぜひおためしください。