過日、読谷の戦跡を訪ね歩きました。沖縄戦で米軍が本島上陸した読谷から嘉手納にかけては、今でも多くの戦争遺跡が残ります。戦跡というと南部戦跡(摩文仁やひめゆりの塔など)が有名ですが、中部の戦跡も少しずつご紹介していきたいと思います。
嘉手納ロータリーを池武当方面に行くと左手に道の駅嘉手納があります。4階の展望台からは嘉手納基地が一望できる、観光名所ともなっている道の駅です。この道の駅の交差点を左折、しばらく行くと嘉手納野球場前を通り、久得橋を渡ります。そのすぐ左手に公園駐車場があります。そこから比謝川沿いに送電線の下の農道を下っていきますと、突き当たりに岩肌にくぼみがみえる一帯があります。ここが鉄血勤皇農林隊の構築壕です。
崖下に高さ50cm位の壕口がいくつも開いています。半分以上土砂で埋まっている様です。足元が非常に悪く、近づくことができません。今回は壕内部の撮影はあきらめました。
戦前、嘉手納には沖縄県立農林学校があり、近隣の町村から優秀な学生が通っていました。あこがれの学校生活も戦争の影が色濃くなり、座喜味城跡の高射砲陣地の構築、楚辺から波平に至る海岸沿いの戦車壕掘り、防空壕掘り、軍事教練等であけくれるようになりました。
1945年(昭和20)3月26日、何の法的根拠も無いまま現地召集兵として動員され、鉄血勤皇隊農林隊が編成されたのです。最終的に学徒130名(本隊110名、斬込隊20名)が動員されました。
第19航空地区司令部に入隊した本隊110名は、ここ比謝川沿いに構築した牧原の壕に配置されました。沖縄戦による農林生の戦死者は124人にのぼりました。