いろんなものに「沖縄限定」があります。最近、コンビニにも増えてきました。コンビニでも昔から「ポーク玉子おにぎり」とか「ジューシーおにぎりコロッケセット」など、限定とうたっていなくとも間違いなく沖縄だけだろ、というものは多かったのですが、ファミマで沖縄限定のサンドイッチを見つけたので購入。
ポテトサラダのサンドイッチです。
で、食べてみると、どこが沖縄?という感じですなあ。胡椒の効いたポテトサラダなんですが、まあいたって普通のサンドイッチでした。
いろんなものに「沖縄限定」があります。最近、コンビニにも増えてきました。コンビニでも昔から「ポーク玉子おにぎり」とか「ジューシーおにぎりコロッケセット」など、限定とうたっていなくとも間違いなく沖縄だけだろ、というものは多かったのですが、ファミマで沖縄限定のサンドイッチを見つけたので購入。
ポテトサラダのサンドイッチです。
で、食べてみると、どこが沖縄?という感じですなあ。胡椒の効いたポテトサラダなんですが、まあいたって普通のサンドイッチでした。
この三連休は那覇祭り。昨日の日曜日、国際通りに行ってまいりました。
旗頭行列が国際通りをねり歩きます。旗頭というのは、地域ごとに作られるシンボルで、旗のデザインに意匠を凝らしています。
詳しくはこちら。
旗頭は相当な重量があり、腰の上に載せてバランスを取りながら進むのですが、次々と持ち手が代わり、呼吸を合わせて持ち替える様が圧巻です。
翁長那覇市長の姿もありました。
久茂地交差点に置かれた大綱挽の綱。夕刻になると交通規制が行われ数万人の人たちが集まり、東西に分かれて引き合います。ただ今回は夕刻から用事があり、綱挽に参加はできませんでした。
大綱挽の結果を報じる今日の朝刊。今回は引き分けに終わった様です。
真っ白い砂浜が続く前浜ビーチ、毎年ビーチバレー大会が開かれるこのビーチの前にあるのが来間島です。来間大橋ができてから、車で気軽に渡れるようになりました。
来間島の中心あたりに御獄があります。御獄というのは信仰の場所であり、聖地でもあります。昔からの拝所に鳥居があるのは、戦前の皇民化政策の一環として、日本の神道と土着の信仰を結びつけるために国が設置したためです。
この御獄の鳥居の脇に、日本軍が造ったとされるタコツボが残っています。タコツボというのは戦地において兵が身を隠すために掘った塹壕のことです。
亜熱帯の植物が生い茂り、崩落もあって、はっきりと分かりづらいのですが、自然の壕を利用した縦穴が確認できます。
御獄は高台にあり、前原ビーチを一望できる場所ではありますが、何の目的で掘られたのかは分かりません。
沖縄守備隊第三十二軍司令官、牛島中将は米軍が沖縄本島攻撃の足掛かりに宮古島を攻撃すると考えていました。米軍の上陸地点に予想された久松港にも機関銃壕が造られました。この機関銃壕は旧日本海軍沿岸警備隊が、1944年ごろに構築したものです。
久貝と松原にまたがる久松地区に久松漁港があります。港の東側に高さ3mほどの丘があります。駐車場に通じる道路が前を通っていますが、その道路脇に2つの壕が確認できます。
ただし、二つとも壕内にはタイヤや自転車などの粗大ゴミが捨てられ、刈られた草木で入り口をふさいでいます。道路わきなので危険防止の意味もあるのでしょうが、もう少し環境保全してもらいたいところです。
ゴミの隙間からかろうじて内部を見ることができます。ほとんど自然壕のままです。海に面して造られた銃眼は内部の連絡壕でつながり、丘の後方に繋がっていたらしいのですが、現在では確認できません。
丘の上には日露戦争時代にロシアの艦隊が近海を通過したという情報を石垣島までサバニ(くり船)で伝えに行った久松五勇姿の碑が建てられています。ここを訪れる観光客も多いのですが、足元に沖縄戦の戦跡があることに気づく人は皆無だと思います。宮古島でも有数の観光地だけに、戦跡に対してもきちんとした保存・管理が望まれます。
宮古島空港から1kmほど北東に宮古島市熱帯植物園があります。12万坪もある広大な敷地の中には約1,600種の亜熱帯の樹木が生い茂り一年中色とりどりの花が咲き乱れます。また、園内には約400mのデイゴ並木があり、初夏の頃、この並木は真っ赤なデイゴの花のトンネルに生まれ変わります。
市民や観光客にも人気のスポットですが、園内に30ヶ所以上もの壕が残されています。植物園の奥には小高い丘があり、園内の小道から見える位置に壕が口を開けています。公園の中に残った戦跡だけに、将来にわたって保存が可能です。しかし、看板一つ無いのは他の沖縄にある戦跡と同様です。
これらの壕は陣地設営のために旧日本海軍313設営隊が1944年10月から構築したものです。
壕の内部です。10mほど進むと左右に分岐し、横の壕と連絡しています。保存状態は非常に良く、丁寧に掘り込まれています。
平和学習にも使われている様です。
戦跡の調査では、草むらの中に分け入ったり、壕の中に入ったりすることが多いのですが、宮古島ではハブに注意する必要が無いので非常に気が楽です。
野原岳の近くに大嶽按司の居城だった大嶽城跡公園があります。大嶽城には按司の長男であるピギタリが祭られています。
大嶽按司は14世紀の中頃、与那覇原軍に滅ぼされました。このとき次男の知呂按司は東の門を守り戦死し、三男の全丸金按司も西の門で討たれました。しかし長男のピギタリは武術を嫌って戦いから逃れ、平屋久峰に隠れ住み、荒れ野であったウパアラス原を開墾し、農作物を作って、野原の再興に貢献しました。後の人々がこの長男ピギタリをユーヌヌス(豊穣の神)として崇め、大御嶽の祭神としたのです。
城跡は中世の宮古の石工技術を今に伝える石垣や石畳みが残されており、昭和51年に大嶽城跡は上野村指定文化財として登録されました。こうした場所にも沖縄戦の遺構が残されています。
大嶽城跡公園は小高い公園で、山頂部分に展望台が作られ、すそ野には広場や遊歩道が配置されています。ただ訪れる人は少なく、広場には雑草が生い茂っている所も多々あります。
展望台に通じる小道です。登っていくと左側の柵が途切れる手前、左側にほとんど埋もれた大きな岩があります。
その岩に長さ60cm位の隙間が空いているのが分かります。地面と同じ高さであり、注意して見ないと単なる岩の隙間にしか思えません。この岩が日本軍の設置したトーチカです。
沖縄守備隊第32軍司令官牛島満中将は、米軍は沖縄本島攻略の足がかりに宮古島占拠を狙い攻撃して来るものと想定していました。
マラリアで多くの兵士が倒れる中、昭和19年10月に野原地区に中飛行場が建設されました。野原岳一帯には日本軍の司令部が駐留しており、このトーチカは要である中飛行場の防衛のため、歩兵第三連隊が構築した施設であるといわれています。
わずかな隙間から内部を覗くと、コンクリートで作られた狭い空間が見えます。人ひとりがやっと入れるほどの広さです。後方に連絡壕があるようですが、崩落したのか外部からは分かりませんでした。
展望台からの眼下の眺めです。この場所に飛行場が建設されたのですが、今は痕跡はありません。この機関銃1丁設置するのが精一杯のトーチカで、空港防衛ができると思っていたのでしょうか?
宮古島の戦跡シリーズの第3回目は、盛加越公園をご紹介します。平良東仲宗根にあるこの公園は、住宅地の中にある2ヘクタールほどの卵形をしており、広場や遊具があり、子供連れで賑わっています。
この公園に小高い丘があり、そこに3本の煙突を見ることができます。
これはこの公園の下に構築された日本軍通信隊壕の排気塔跡です。公園を整備する際、壕を壊すことになりましたが、平良市文化財保護審議委員会の要請により壕口は閉鎖し、排気塔はそのまま残されました。
1辺1mほどの四角い煙突です。上部には後に危険防止のためコンクリートの蓋が置かれました。壕の入り口は保存のため埋められましたが、できれば公開してもらいたかったところです。
ただ消えゆく戦跡が多い中で、公園の中ということもあり後世に残せたのは良かったと思います。しかしながら価値のある遺構であっても、案内看板一つ無いのが沖縄です。公園で遊ぶほとんどの人たちが、これが日本軍壕の遺構だとは気づいていないのではないでしょうか。もう一歩踏み込んだ行政の保存活動が望まれます。
宮古島に限らず、戦跡の多くは民有地にあり、宅地造成や道路拡張などで次々と消えています。前回来た時にあった壕が、跡形もないという経験を何度かしています。
今回ご紹介する下里の陣地壕はそんな消えてしまった戦跡の一つです。
平良西里郵便局の前の県道を南下、県道192号線を進み宮古カトリック教会を過ぎると民宿川田荘の前の三叉路の信号にぶつかります。
この信号と次の県立宮古総合実業高校前の信号の間が切り通しになっています。
もともと丘だった場所を道路を通すために切り通しにしたのですが、道路の両側の壁に道路に分断された2本の壕口が確認できます。
詳しいことは不明ですが、日本軍が造った陣地壕跡です。切り通しの向こう側にブロックで塞がれた壕がありますが、手前右側の壕につながっていました。左側向こう、街灯の後ろに見える壕口も、右側の向こうにある壕とつながっていました。
4ヶ所の壕口のうち3ヶ所は開口していますが、安全のためか土砂やゴミで埋められています。
県道の西側の丘の上には古墓が数基並んでいます。そのうちの一つの墓と内部で壕がつながっているということです。
沖縄の墓は大きく、山腹に造られています。そのため日本軍はトーチカや陣地壕の入り口として利用しました。
画像は2009年に撮影したものですが、昨年訪ねたところ、この壕口が開いた県道192号線の切り通しはコンクリートで擁護壁が造られ、壕の痕跡は全くありませんでした。こうして物言わぬ戦争の証人が一つずつ沖縄から消えて行くのです。
沖縄には多くの離島があります。離島では本島の様な地上戦はなかったものの、座間味や阿嘉のように米軍が上陸した島では集団自決も行われました。そして多くの島々にも戦争の遺構が残っています。
戦跡シリーズ第二弾は、離島の一つ、今やリゾート地として有名な宮古島からご紹介します。
佐良浜行きのフェリー乗り場の隣にパイナガマビーチという海水浴場があります。市街地から近く、那覇の波の上ビーチみたいなところで、地元の人たちや観光客のお手軽レジャースポットです。休日ともなれば、ビーチパーリーをする人も見かけます。
パイナガマビーチは、海に向かって右手は平良港の防波堤、左手は岬になった崖に挟まれています。その崖に近づくと、満潮になれば波をかぶる位の位置に、怪しげな穴が見えてきます。
岩の隙間にコンクリートで造られた長方形の穴。幅約70cm、高さ約15cm位の開口部分で、奥に行くほど幅は狭くなり、20cm位になっています。コンクリートの厚みも60cm位あり強固な作りであることが分かります。
これは、平良港に上陸する米軍を迎え撃つために、日本陸軍沿岸警備隊が構築したと思われる機関銃陣地壕跡です。
内部は2m四方位の空間になっており、左側に連絡通路があり縦穴で上部とつながっている構造ですが、縦穴部分は崩落している様子です。
このような狭い穴の中で、沿岸守備隊の隊員は一人機関銃を構えていたのでしょうか。こういう戦跡を見るといつも思うのですが、日本軍はこんな機関銃陣地一つで米軍の上陸を阻止できると本当に思っていたのでしょうか?米軍は上陸する前に海岸の地形が変わってしまうほどの艦砲射撃を繰り返します。それが分かっていながら、どういう考えでこのような陣地を造ったのでしょうか?私には気休めにしか思えないです。ま、今の原発事故の対策も似たようなものですが。
沖縄の家庭であれば台所に必ず常備してあるポーク缶、わが家の台所の収納を整理したら、こんなにありました。
戦後、米軍が持ち込み普及したポーク缶ですが、スパム派とチューリップ派に分かれます。で、よく話題になるのが、どちらが美味いか。昔はスパムの方が塩味が効いていたような気がするのですが最近は減塩タイプが主流で、味が似てきたようです。最近は県産品の「わしたポーク」も戦列に加わり、ミッドランドも売れてきて、さらに中国からの安いポーク缶や沖ハムのレトルトパックのポークも店頭に並び、味の差がよく分からなくなってしまいました。
沖縄の昔からの食豚文化と妙にマッチしてしまったポーク缶。スーパーでは1個180円位から特売で並びます。
今やチャンプルー料理にかかせないポーク缶。いろんな文化を取り入れ自分のものとしてしまう、まさにチャンプルー文化の推進役がポーク缶ですねえ。