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管理人のうちなーライフかりゆし日記

管理人てぃんがーらが沖縄の生活を綴ります。

中部の戦跡1 北谷町海上特攻艇秘匿壕

2011年12月29日 | 博士の研究日記

 国道58号線を那覇から北上、北谷町謝苅交差点を右折し、白比川に沿って住宅地の中を上流に進みます。川の向こうはキャンプ端慶覧です。
 500mほど進むと左側に駐車場があります。

 駐車場の奥は山が迫っており、がけ下に古い墓が残っています。墓に沿って左に進みます。

 その墓に並んで四角い壕が口を開いています。

 旧陸軍の海上特攻隊(海上艇身隊)の特攻艇マルレの秘匿壕です。マルレ(〇の中にレと記述)については、過去のブログでご紹介しましたが、正式名称は「連絡艇」といい、陸軍の作った合板製のモーターボートです。全長5.6m、速力25ノットで、250kg爆雷を1基か、または120kg爆雷を2基を搭載し、目標に体当たりするという特攻艇でした。

 壁には崩落防止のための杭を立てた跡がはっきりと残っています。

 墓を利用して作られた壕で、奥には骨壺が散乱しています。

 特攻艇を秘匿した壕も、いまでは子供たちの格好の遊び場になっています。この特攻艇は実際には使われなかったようですが、特攻隊員たちは秘匿壕が子供の遊び場になるとは思っていなかったことでしょう。

 

 


コザ・うるまの戦跡4 川田の防波堤に残る銃眼

2011年12月27日 | 博士の研究日記

 うるま市川田の海岸沿いの防波堤には、旧日本軍が作った銃眼が残っています。

 県道16号川田の交差点を過ぎてから、中城湾に向かうと住宅地を過ぎて堤防に突き当たります。堤防沿いに球陽製糖に向かって進むと堤防が伸びています。

 向かいには埋め立てが進んでいます。埋め立て地に沿って行くと堤防にU字型の切り込みがあるのがわかります。

 このくぼみは旧日本軍が米軍の上陸に備えて作った銃眼です。当時米軍の上陸地点として、中城湾も想定されていました。
 当時は埋め立て地もなく、目の前には海が広がっていました。

 このくぼみに機関銃を設置しました。
 実際に米軍は北谷から読谷にかけての西海岸から上陸しましたので、この銃眼は使われることはありませんでした。米軍は上陸に際しては地形が変わるほど、海岸線に執拗な艦砲射撃を繰り返し、海岸を完全制圧してから上陸襲艇で上陸を果たしました。もし、中城湾から上陸したとしても、こんな、戦国時代のお城の矢狭間みたいな銃眼がどれほど役に立ったのか疑問ですし、第32軍司令部は本気でこれで阻止できると思っていたのでしょうか?
 日本軍の遺構を見るにつけ、日本軍があまりに稚拙な作戦で戦おうとしていたように思えて仕方ありません。

 


コザ・うるまの戦跡3 旧天願橋

2011年12月25日 | 博士の研究日記

 以前にブログで紹介した旧天願橋です。再度詳細をご紹介します。

 うるま市に流れる天願川、ここにアーチが重なる石造りの天願橋が架かっていました。ターチ橋(二重橋)とよばれた美しい造形の橋ということでしたが、日本軍が北部に撤退する際、米軍の北進を妨げるために中央の橋脚を爆破しました。ところが頑丈な橋は崩落せず、橋は真ん中でくの字に折れてしまいましたが、それ以上壊すことができませんでした。米軍は直ちに丸太と土砂で橋を復旧し、渡河しました。
 現在、天願川は河川工事が行われ、旧天願橋が架かっていた蛇行部分はショートカットされて、水量の少ない側溝になっています。

 県道75号線を安慶名方面から石川方向に北上していくと左にエネオスの給油所があり、すぐ天願橋を渡ります。その先の天願交差点を左折、県道224号に入り最初の橋(茶木根橋)を左折、もとの川岸に戻る形で渡ります。 茶木根橋を渡ると川に沿ってすぐ左側、給油所の裏手に当たる場所に、橋の欄干が見えてきます。

 草に覆われ、その全容はほとんど見えません。

 かろうじて「戦争遺跡 旧天願橋」の標識がその場所を示しています。真ん中で落ち込んだ欄干を見ることができます。

 橋の側面に廻ります。亜熱帯の植物は成長が早く、ほとんど橋を覆い隠しています。

 橋の通路部分です。米軍が補修し、進路を確保したものです。わずかに欄干が覗きます。

 最近、地元のボランティア会が、この旧天願橋を生かし、住民が集う遊歩道にしようと周辺の整備を進めています。日本軍が落とそうとしても落ちなかった橋は受験生があやかって合格祈願するスポットとしても注目を集めているということです。
 こうして、戦跡を生かし保存していく活動がもっと盛んになり、後世に語り伝えられるようになればいいと願っています。

 

 


コザ・うるまの戦跡2 平敷屋の製糖工場跡

2011年12月24日 | 博士の研究日記

 県道8号線を勝連半島の先端まで車を走らせると、海軍の軍港「ホワイトビーチ」のゲートに突き当たります。その手前を、勝連町ゴミ焼却場に向かって右折します。

 細い道を進むと、左手に赤レンガで造られた煙突が見えてきます。

 

 近づくとウージ畑の向こうに四角い煙突が立っています。畦道を通って近づくことができます。手前に勝連町(当時)が設置した標識が立てられており、小さな案内板が貼られています。

 サーターヤーとは砂糖屋、つまり砂糖の生産農家のことですね。

 近づくと無数の穴が空いています。弾痕は四方に確認できます。高い煙突ですから、射撃の標的になったものと思います。

 煙突の内部です。しっかりとした造りで、今でも充分に使えそうな印象です。

 さて、勝連町が設置した標識の裏側にこんなシールが貼られています。

「対米請求権事業」とは、社団法人 沖縄対米請求権事業協会が行っている各種事業で、地域振興や返還軍用地利用対策などを行っています。

 沖縄は銃剣とブルドーザーによって多くの民間地が米軍に強制接収されました。何の補償も無いまま、住民は自分の土地を追い出されたわけです。ところが日本政府は沖縄返還協定において、接収地に対する米国への請求権を放棄しました。米軍が住民からぶん取った土地を日本政府は米国にただであげちゃったのですね。そこで土地が返って来ると思っていた住民は、日本政府に補償請求したのです。政府はそれに対し120億円を基金として支出し協会が設立されました。これが対米請求権事業協会です。
 なんだか従軍慰安婦問題で基金を設立したような感じですねえ。

対米請求権事業協会について詳しく知りたいかた、HPはこちらです。

 


コザ・うるまの戦跡1 美咲特別支援学校の戦跡

2011年12月23日 | 博士の研究日記

 沖縄市美里4丁目にある県立美咲特別支援学校は、旧美里尋常高等小学校の跡地に建てられました。その敷地に奉安殿と忠魂碑がほとんど原型を保ったまま残されています。

 駐車場のすぐ脇に現存する奉安殿。本部のものと違い、鉄製の扉も残っています。非常に保存状態は良く、壁の細部の装飾も綺麗です。

 周囲には弾痕も確認できます。この奉安殿の中に御真影(天皇皇后の写真)と教育勅語が保管され、生徒は登下校のたびに奉安殿に向かって最敬礼することを強要されました。

 校舎の裏手に回ると忠魂碑があります。忠魂碑は戦争の犠牲となった兵士の魂を神格化し、戦意の高揚を図るもので、戦前に全国各地の学校や役場などに建てられました。

 読谷のものと同じ砲弾型の石碑です。こちらも保存状態は良好です。奉安殿と忠魂碑がこうしてセットで残されているのは県内でここだけで、大変に貴重な戦争遺跡といえます。

 

 


大切な酒

2011年12月18日 | 博士の研究日記

 今日は奥方と娘が成人式の着物を選びに行くという。え?来年もう成人か?と思いきや、再来年の成人式、つまり1年先の予約なんだそうな。ちょっと早すぎやしないか、というと、友達はもう決めているらしい。
 どうせ一度しか着ないのだからレンタルなのですが、それでもあらかじめ決めて写真まで撮るというのです。ずいぶんと気が早いのですねえ。

 で、ふと思い出したのが、娘たちが生まれた年の泡盛。家の酒蔵に大切にしまってある2本の特別な酒。

 久しぶりに取り出してみました。
 二人の娘の名前は「桃子」と「桜子」。この酒は娘の名前にちなんで買ったものです。

「ももこ」は宮古島多良川の酒、現在19年目の眠りについています。クラシックを聞かせながら熟成させた酒です。二十歳の誕生日に封を切るまであと1年と少し、もうしばらくの間眠っていてもらいましょう。

「さくらいちばん」は本部の山川酒造の古酒。本部の八重岳は日本で一番早く桜が咲くところから付けられた銘柄。下の娘が成人するまで、まだあと5年間は寝かしておきます。

 二十歳の古酒を娘と一緒に味わうのが夢。年を重ねるごとに熟成していく島酒は人生と一緒。島は沖縄の文化であると感じます。

 

 


本部・今帰仁の戦跡6 上本部飛行場跡

2011年12月17日 | 博士の研究日記

 1945年4月1日、米軍は本島中部の北谷から読谷にかけて上陸し、直ちに本島を南北に分断しました。北上した米軍は本部半島に飛行場を建設し、本土への直接攻撃の足掛かりにしました。

 海洋博記念公園・ちゅら海水族館に向かう途中、県道114号線の右手に海の駅・マハイナウェルネスリゾートがあります。その駐車場を突き抜け、ゴルフ練習場跡地の先に、広大な空き地があります。

 ちょっと見ると、土地造成中の工事現場のように見えますが、ここが上本部飛行場の跡地です。

 米軍は、本部町豊原の土地を接収、豊富な物資と軍事力で飛行場を建設し、1945年6月に完成、日本本土の偵察と、侵攻の拠点としたのでした。

 滑走路は約1500m幅50mで、爆撃機が十分離陸できる規模です。厚さ10cmほどに珊瑚礁を砕いたコーラルサンドが敷設されました。
 戦後、米軍の物資や弾薬集積所、ヘリコプター演習場として使われ、復帰直前の1969年6月と1971年6月の2回に分けて全面返還されました。つまり返還された時点では沖縄は米軍占領地だったので、アメリカは原状復帰の責を負うことが無かったのです。原状復帰には数億円(本部町は6億4千万円を復帰費用と請求したらしい)かかるため、いまだに手つかずのまま残っています。
 1987年、防衛庁がシーレーン防衛計画の一環として、自衛隊のP3C対潜水艦作戦センター(ASWOC)送信所の建設計画が明らかになり地元が反対、現在計画は凍結状態になっています。

 


本部・今帰仁の戦跡5 本部防空監視哨

2011年12月16日 | 博士の研究日記

 本部町谷茶の高台にある特別老人養護施設本部園の敷地内に、戦時中、敵機の飛来を監視した防空監視硝が残っています。防空監視硝とは敵機の飛来をいち早く発見し、その情報を防空部隊に伝えるための建造物で、その任務には現地の民間人があたりました。

 本部町の特別養護老人ホーム本部園。私有地にあるので、許可を頂き撮影させてもらいました。

 建物の左側、駐車場の奥に洗濯場があり、その裏手に庭があります。

 遊歩道のある庭に入ると、すぐ左手にツタに覆われた防空監視哨が残されています。

 コンクリートで作られた六角形をした建造物です。

 現在は休憩所として利用されているようです。戦時中、ここに見張りが張りつき、敵機の襲来を監視しました。

 高台にあるこの場所からは伊江島がよく見えます。沖縄にはこの防空監視哨が多く造られた様ですが、私の調べた限り現存するのは糸満の三巓毛(サンティンモウ)とここ本部だけです。三巓毛は建造物はすでに無く、この本部防空監視哨は希有な戦跡として末永く保存されることを願っています。

 

 

 


本部・今帰仁の戦跡4 本部町謝花の奉安殿

2011年12月15日 | 博士の研究日記

「奉安殿」をご存じでしょうか。戦前、天皇・皇后の写真(御真影)を安置するために全国の学校に設置された建造物です。明治33(1900)年に文部省小学校令施行規則で、「御真影」への最敬礼が義務づけられました。教員・生徒たちは、登下校のたびにこの奉安殿に向かって敬礼することを強制され、沖縄にも皇民教育が浸透されていったのです。
 この御真影を守ることが学校長の最大の使命であり、戦時中、写真を守るために命を落とした校長もおりました。

 本部町謝花1番地にある本部町営団地に奉安殿が残されています。

 本部町営団地は、本部国民学校の跡地に建設されました。建物の間に、まるで団地の設備の一部であるかのように奉安殿が残されています。

 堅牢な石造りで、モルタルが塗られています。コンクリートの暑さは15cm位、このなかに御真影と1887年に制定された教育勅語が納められていたということです。

 扉はありませんが鉄製のヒンジが残っています。他の現存する奉安殿から類推すると、鉄製の扉が取り付けられていたと思われます。
 全国の学校に造られた奉安殿も、戦後破壊され、現存するものはわずかです。学術的にも非常に貴重な遺跡と言えると思います。