芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

エッセイ散歩 硝子戸の中

2016年03月18日 | エッセイ

 漱石は自らの身辺について書くことの少なかった作家であろう。「硝子戸の中」は漱石にとって例外であった。
「硝子戸の中」は最晩年の随筆で、大正四年の初春、朝日新聞に三十九回にわたって連載された。その表現は実にすっきりとした現代的な日本語で、今もいささかも古びたところがない。一話で完結するものから、数回にかけて続く話まである。いずれの書き出しもあっさりとしたもので、ついつい読み進んでしまう。どこか池波正太郎の「鬼平犯科帳」や「剣客商売」の書き出しを思い起こさせる。現代の、優れた日本語の見本のような文章である。
 ちなみに悪文の見本は、大江健三郎と蓮實重彦である。大江健三郎の文章は作家デビュー時から、まるで外国語の直訳のような生硬で難渋な文体であっ た。しかし私は大江健三郎が大好きである。彼が「作家」だからである。
もう一人の蓮實重彦は、外連味たっぷりに衒学的に語らんがための、晦渋に過ぎる文体である。何のことはない。結局意味不明な言葉を連ねただけで、 論理にもなっていない。私は蓮實重彦が大嫌いである。彼が「馬鹿」だからである。
 そんな彼でも東大の総長になれるのだから、日本も駄目なわけである。彼が「素晴らしい映画」の評論を書いたために、その映画は見る前から全くつまらない作品に思えて、多くの観客の足を遠のかせ、作品自体の評価を大いに下げてしまったと言って過言でない。

 最近、中国人の留学生から「これ、どういう意味ですか?」と、日本語らしきものをいくつか示された。どうもメールでやりとりされた文章らしい。たしかに全く意味不明である。日本語になっていない。驚くべきことに、その文章の書き手は日本人で、二十四、五歳の某大手企業に勤務するOLとのことである。主語も述語も「てにをは」もなっていない。
「私のことにあなたの嫌いだと無理に言ってごめんね」?? 
 こういう文章が続くのである。ラリって書いているのか? それとも頭の変な女性かと思ったが、そうではないらしい。話し言葉は、ごく今風で若い女性が使う流行の言葉づかいらしく(ぱみゅうきゃみばにゅ風とか言うらしい??)、普段の生活には全く支障はないらしい。思うに、彼女は日本語の本や新聞などをほとんど読むこともなく、自ら文章を書くこともなく育ち、社会に出たのだ(よく就職できたな)。これは日本語の乱れなんてものではない。あの悪文の代名詞、蓮實の文章よりひどいのだ。帰国子女かもしれない。

 さて「硝子戸の中」である。この淡泊な随筆は、まるで漱石の咳嗽が聞こえるかのようである。
「不愉快に満ちた人生をとぼとぼたどりつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生よりらくなものだとばかり信じている。」「私はすべての人間を、毎日毎日恥をかくために生まれてきたものだとさえ考える事もある…」
 彼はこの随筆を新聞に連載するに当たって、「忙しい人の目に、どれほどつまらなく映るだろうかと」謙遜をまじえて懸念している。何故なら彼等は 「電車を待ち合わせる間に、新聞を買って、電車に乗っている間に、きのう起こった社会の変化を知って、そうして役所か会社へゆき着くと同時に、ポッケットに収めた新聞紙の事はまるで忘れてしまわなければならないほど忙しいのだから。私は今これほど切り詰められた時間しか自由にできない人たちの軽蔑を冒して書くのである。」…大正四年にして、すでにそうだったのだ。

 ところが、彼は夏目家に泥棒が入ったことを次のように書く。
「姉がまだふたりとも嫁(かた)づかずにいた時分の事だというから、年代にすると、たぶん私の生まれる前後に当たるのだろう。なにしろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉のはやったやかましいころなのである。」「私の幼な心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起こそうとすれば、いつでも目の前に浮かぶくらい あざやかである。しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿である…」
「一本の光る抜き身が、闇の中から、四角に切ったくぐり戸の中へすうと出た。姉は驚いて身をあとへひいた。そのひまに、覆面をした、龕灯提灯をさげた男が、抜刀のまま、小さいくぐり戸からおおぜい家の中へ入って来たのだそうである。泥棒の人数はたしか八人とか聞いた。彼らは、人を殺めるために来たので はないから、おとなしくしていてさえすれば、家のものに危害は加えない、その代わり軍用金を借せと言って、父に迫った。」…夏目の父は結局、小判五十数両を奪われたのである。
 これは幕末の江戸に跳梁跋扈した、いわゆる「御用盗」であろう。御用盗は、江戸を不安と混乱に陥れて幕府から民心を乖離させるとともに、軍用金調達を目的としたゲリラ的謀略部隊である。薩摩の西郷隆盛が謀ったものとされ、その隊長は薩摩藩士・益満休之助であった。彼等は薩摩藩士、浪人、盗賊で構成されていたという。金を奪い、時に家人を殺傷し火を放って逃亡した。出動した幕府の役人に追われ、逃げ込んだ先が薩摩屋敷だったのである。益満休之助は鹿児島時代 から西郷隆盛の懐刀と言われていた。御用盗が強奪した金子は十数万両と伝えられている。これが官軍、戊辰戦争、明治新政府の資金となったことは言うまでもない。
「硝子戸の中」が書かれる、わずか五十年前の逸話である。…「私はこれを妻(さい)から聞いた。妻はまたそれを私の兄から茶受け話に聞いたのである。」

 勤王だ佐幕だ御用盗だと遠い昔の話のようでありながら、漱石にとってはつい五十年前の話である。だが漱石は、電車を待ち合わせる間に新聞を買い、電車に乗っている間に昨日起こった社会の変化を知って、そうして役所か会社に向かい、着くと同時に、新聞で仕入れたニュースをまるで忘れてしまわなければならないほど、忙しい時代に生きていた。
 その時代の変化は実に激しいが、これは今現在の話のようでもある。
 何しろ小沢が消費税の増税を唱えたのはついこの間のことなのである。そして消費税大反対を唱え、「国民の生活より選挙が第一」という政党を立ち上 げたのもついこの間のことなのである。石原が政治家なんて馬鹿馬鹿しいと言って国政から離脱したのはついこの間のことである。すぐ都知事選に出て、知事に就任したのもついこの間のことである。そして新党を作って国政に復帰すると言ったのも、ついこの間のこととなるだろう。
 アメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲルが「Japan as Number One」と日本を称揚したのは、ついこの間のことで、それからたちまち「失われた二十年」が過ぎて今日に至っている。ニュースを次々に忘れてしまわなければならないほど、実に忙しく、激変する時代なのである。
 しかし、私が生まれるほんの数年前まで大東亜戦争のまっただ中だったのである。まだ幼児の頃、ラジオは毎日新たな引き揚げ者名簿を読み上げていたのだ。MP、ヒロポンは子供でも知っている日常語としてあり、小学生の頃、シベリアからの引き揚げ船を待つ岸壁の母が、ニュース映画で映し出されていた。それは、 感覚として、ほんのついこの間のことなのである。