芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

光陰、馬のごとし あるダービージョッキーの死

2016年03月11日 | 競馬エッセイ
                                                  

 数日前、あるダービー騎手が死んだ。自死である。彼の死から、いろいろなことを思い出し、また流れゆく時代を考えた。

 東京優駿(日本ダービー)は距離2400メートルである。競馬の一マイル半は中距離と言うにはやや長く、長距離レースに入るだろう。昔フルゲートは28頭という多頭数だった(現在18頭)。当時、毎年1万1000頭ものサラブレッドが誕生していた。短距離・早熟血統の馬たちも、距離の短い3歳(現在の馬齢では2歳)戦で賞金を稼いで出走権を獲得し、勝つのはとても無理とは百も承知でこの大レースに歩を進めた。何しろダービーは、同年生まれのサラブレッドの4歳(現馬齢表記は3歳)の頂点を決めるお祭りレースだからである。馬主も調教師もこのレースには出走させたいのだ。

 最初はシンザンが、そしてタニノムーティエとアローエクスプレスの東西両雄の激闘が競馬ブームを引き起こした。やがて最強世代と言われたタイテエム、ロングエース、ランドプリンス、そしてハイセイコーが競馬ブームを決定的にした。しかし年間1万1000頭の生産はあきらかに過剰であった。中央競馬、地方競馬を 合わせて、約八千頭しか競走馬として入厩できないのだ。セリ市で売れ残る馬が続出し、彼らは馬肉として売られていった。ある年のように、デパートの屋上で50万円の価格で売りに出され買い手がついたアローエクスプレスやハイセイコーの仔は、とても幸運だったのだ。彼らは乗馬用として大学や一般の乗馬クラブに入った。現在、年間のサラブレッドの誕生数は8000頭くらいである。しかし地方競馬が次々と廃止されているため、今も市場で売れ残ってしまう馬たちがあふれている。

 地方競馬の消滅は、地方都市が衰退し、その商店街が寂れてシャッター通りになっていくのと軌を一にしている。
何千万、あるいは何億もする高額の良血馬の多くは、賞金額の高い中央競馬に入厩する。安馬の多くが地方競馬に入る。昔から中央と地方の格差はあったが、その差はますます加速度的に拡大しつつある。
 中央競馬より地方競馬の調教師や騎手の腕が劣るわけではない。地方競馬で年間150勝、200勝も挙げる騎手たちでも、中央競馬で年間15勝か 20勝程度の騎手より稼ぎは少ない。それほど賞金額に差があるのだ。だから安藤勝己や岩田康誠、小牧太騎手、内田博幸騎手などは、先のない地方競馬を捨て、中央競馬に移籍した。彼らはたちまち武豊らとリーディングを争う騎手となっている。しかし中央競馬の騎手免許を得て移籍できるのは、地方競馬で目覚ましい実績を挙げたごく少数者に限られている。

 競馬は血統である。誰もが高額の名血・良血馬をありがたがった。それは人情である。しかし、昔はその一流血統、良血馬たちを蹴散らす二流三流血統の馬たちがいた。
 その当時、父は無名種牡馬、母は三流血統ながら、怪物と称されたタケシバオーが出た。ちっぽけな黒ネズミと笑われたカブトシローが、良血馬たちを嘲笑い、魔王、裏切り者と罵られた。長く未勝利馬として低迷していたアカネテンリュウは、突然良血馬たちを蹴散らしはじめ、野武士と呼ばれた。サラ系で安馬のヒカルイマイは、皐月賞とダービーで最後方から良血馬たちをゴボウ抜きにして、雑草、反逆児と呼ばれた。カブラヤオーは良血馬たちに影も踏ませず二冠を獲り、カツラノハイセイコもダービーを勝った。オグリキャップは地方の笠松競馬場から中央競馬に転厩し、グランプリホースとなった。

 それらの馬は爺ちゃんと婆ちゃんが営むような、小さな小さな牧場から出た。彼らは自分たちの牝馬や預託の繁殖牝馬に安い種付け料の馬を選んだ。
 例えば英国から一流種牡馬を輸入した際、「ついでにこの馬も持って行ってよ」というオマケの種牡馬なのである。
 世話をする人手も少ないので、夜も厩舎に入れてもらえず、そのまま放っておかれた仔馬たちである。知らない間に肋骨が陥没していた馬である。サラブレッドには見えぬ太い首、太い足、まるで孕み馬のような腹、不格好な背タルの馬。牝馬のように細くガレた貧弱な牡馬に関係者は落胆の溜息を吐いた。セリ市で売れ残り、仕方なく母馬の馬主に引き取られた(主取り)馬。狭い斜面に作られた放牧地で自然に足腰を鍛えられた仔馬たちである。彼らは入厩しても、調教師は当初ろくに調教もほどこさなかった。端から期待薄だったのである。…これらの異端児たちの大レース制覇は、私たち競馬ファンを驚嘆させ楽しませた。それは人情である。
 
 今、こういう二流三流の馬たちが、その血や生い立ちに反逆するかのように大レースを勝つことはほとんどなくなった。もう爺ちゃん婆ちゃんたちの小牧場経営は全く困難になり、多くが潰れたり廃業したのである。生産しても良血馬でないと全く売れないのである。
 今は種付け料500万円くらいは普通で、当たり前に1000万、2000万円の一流種牡馬の子でないと売れないのだ。資本力のある大規模経営の社台牧場グループや、ビッグレッドファームのような牧場でないと、サラブレッド生産は不可能な時代になったのである。こうしてサラブレッド生産の格差は広がり、寡占化、一極集中の時代となったのだ。

 昔、ジャパンカップ(JC)の創設が決まった際、中央競馬会は欧米の競馬開催国から競馬記者たちを招待した。日本の競馬を視察させ、彼らに好意的な記事を書いてもらい、新設のJCへ欧米の一流馬を誘致しようというのである。「ほら大きな綺麗なスタンドでしょう。大レースともなると15万人もの入場者数があり、馬券の売り上げは一日400億円を超えるのです。それに賞金額も高いでしょう。」…ところが英国のM記者は次のように書いて競馬会を激怒させた。
「イギリス人にとって競馬はノーブルなスポーツである。フランス人にとって競馬は大衆の娯楽である。アメリカ人にとって競馬はビジネスである。そして東洋の国、日本人にとって競馬はギャンブルに過ぎない。」
 M記者は◎〇▲の予想屋ではなく、競馬の「ジャーナリスト」だったのだ。
 このレースの創設からしばらくは、海外の一流半もしくは二流馬が、日本の一流馬を破り続けたが、やっと日本の一流馬の質が海外に比しても一流となり、JCを勝つようになった。海外の一流馬は日本の馬場の固さを気にしてやって来ないのだ。
 日本の競馬場のスタンドは一流だが、馬場は一流半で、スピードレースを重視して芝を短く刈りそろえた軽く固い馬場なのである。したがって海外に比し、日本の競走馬の故障率は非常に高い。
 競馬会はファンがスピードレースを望むと言っているが、ファンは大好きに馬たちの故障に胸を痛めているのである。 
 
 昔、日本の馬主たちには鷹揚な旦那たちがたくさんいた。古くからの馬主でハクセツ、ジョセツで知られた中村勝五郎は、千葉・成田で何代も続く大地主で、侠気の人であり馬事文化人あった。クリの冠で知られる栗林商船の栗林友二、タケシバオーの小畑正雄も、運輸倉庫業のトウコウの渡辺喜八郎も、好きが高じて牧場と種牡馬まで所有したオンワード樫山の樫山純三も、アローエクスプレスの伊達秀和もそうであった。
メジロの北野豊吉もそういった一人である。大旦那の馬主・北野には競馬への強い信念があった。日本における最強馬は決して若馬のダービー馬ではなく、古馬になって3200メートルの長距離に耐え抜く天皇賞馬であると。だからメジロは長距離と底力と晩成型の重厚な血を重視した。逆に伊達秀和はスピードのあるマイラーを重視した。日本の軽い馬場なら、十分距離も持つだろうと考えたのだ。
 現代競馬は、素軽くスピード豊かで、たとえ早熟でも2歳の短距離戦から賞金を稼ぎまくる血統が主流になった。底力のある長距離・晩成型の血統は 「99頭の未勝利馬と1頭の名馬」と言われるほど外れが多い。それは今もっとも流行らない血統である。
 長距離・晩成型・底力血統を重視したメジロの御大はとうに亡く、夫の意思を継いだミヤ夫人も逝って、経営していた本業の建設業も揺らいだ。昨年、北野家は競馬から撤退しメジロ牧場は廃業した。それは多くの競馬ファンにとって実に衝撃的なことであり、また極めて象徴的なことでもあった。

 シンボリ牧場の和田共弘と社台牧場の吉田善哉は、他の大旦那馬主たちと異なり、大旦那で大馬主でありながらオーナーズブリーダーとして馬産を専業とした。この二人は狷介な性格で強烈な個性を持ち、互いに反目し合い、ライバル視し合っていた。配合、生産、育成、調教などの分業、競争原理など、二人にはそれぞれ共通の信念もあった。
 和田の信念の集大成はシンボリルドルフで、その後シリウスシンボリやシンボリクリスエスを輩出したものの、やや精彩と発展性を欠き、今や社台牧場グループに大きな差をつけられてしまった感がある。和田のシンボリは、スピードシンボリ、パーソロンといった種牡馬と、その特定の血を持つ繁殖牝馬に拘り過ぎたきらいがある。

 吉田善哉は戦後アメリカの馬産地を視察し、強い影響を受けた。彼は父から引き継いだ牧場を、ドライにダイナミックに売却と買収と拡大を繰り返して、アメリカ型牧場の生産、育成、調教の分業を確立した。
 善哉、社台の凄さはディクタス、ノーザンテースト、リアルシャダイ、サンデーサイレンスを輸入したこともさることながら、大袈裟でなく20年先、50年先を考えた種牡馬や繁殖牝馬を導入し、布石を打っていたことである。日本の競馬ファンにはあまり馴染みのないアルゼンチンから、晩成型・長距離(スピードも豊か)の底力血統エルセンタウロや、スピード一辺倒で早熟・短距離血統の種牡馬ボールドアンドエイブル等を輸入して、牧場の繁殖牝馬の血の多様性を図り、流行の血とのアウトブリードを狙ったのである。
 また善哉は子息たちをアメリカに送って、徹底した競争原理と市場原理の「競馬ビジネス」を学ばせ、欧米のホースマンとの人脈づくりに当たらせたのである。彼らは配合・馬産・育成技術と種牡馬のシンジケートモデル等を学び、それらを日本に導入し、会員制馬主クラブ組織をビジネスとして確立した。

 イギリスのM記者が喝破したようにアメリカ型の競馬は「ビジネス」なのである。競馬は娯楽でも、ましてやロマンなどでもない。競馬はギャンブルではなくハイリターンを求める投資・投機なのである。馬産は「農業」ではなく、大きな売り上げと利益が得られる投資であり、会員制馬主たちには競馬ロマンを楽しむ人たちもいようが、確実な配当を求める投資家たちが増えたのである。またIT長者の新しい馬主たちは「超良血馬」を求め、時に億を超す高額で買うのだが、彼らはかつての鷹揚な大旦那ではなく、投資額に相応するリターンを求める投資家なのである。
 だから生産者は確実に高額で売れるような「一流血統馬」の配合を目指し、会員制馬主クラブやIT長者は、時に億を超える高額でそれを購入し、その仔馬たちは、「馬主の意向をよく汲む」柔軟性も「実績」もある「一流調教師」の元に預けられ、「実績」のある「一流騎手」が騎乗し、重賞レースで賞金を稼ぎまくる。競走馬として活躍する期間は、3、4年前後に過ぎないが、G1レースを勝つような馬なら、やがて引退すれば種牡馬として高額でシンジケートが組まれ、その後の14、5年は高額の種付け料で競馬の賞金より何十倍も稼ぎ出すことができるようになるのだ。牝馬ならば、6、7頭の子供を産み、彼らは一頭何千万、時には億を超す金で売買されるのだ。
 種牡馬サンデーサイレンスは、その競馬のビジネスモデルを、日本に確実に根付かせたのである。

 昔、吉田善哉の親戚でもある早来・吉田牧場の吉田一太郎や吉田権三郎は「無事之名馬」を信念とした。彼らは善哉・社台とは対極の競馬観を持っていた。時代の流行の血統とは一線を画すアウトブリードで、とにかく丈夫で、長く数多くのレースに耐え、重賞レースの常連となる力を持つ馬こそ理想であった。 選ばれた種牡馬は現役時の成績に見るべきものもないカバーラップ2世である。彼らの信念の集大成は天皇賞馬カシュウチカラやプリティキャストであり、雪の舞う淀で骨折し、治療の甲斐無く命を落としたあのテンポイントである。今、一太郎や権三郎のような競馬観を持つ生産者はほとんどいなくなった。

 昔、日本の種牡馬は三百数十頭余が登録されていた。その中で最も繁殖牝馬を集めたのがチャイナロックの年90頭余で、彼は「性豪」と呼ばれた。その後も人気種牡馬のテスコボーイやパーソロンなども年7、80頭の種付けであった。今、サンデーサイレンスはすでに亡くなったが、彼やその人気後継種牡馬は、一頭で毎年200余頭もの牝馬を集めている。彼らは性豪ではなく牧場(工場)の「種付けマシン」になったのだ。
 例えば、ある近年の任意のG1レース、18頭立ての出馬表で、出走馬の血統を眺めていただきたい。6頭はサンデーサイレンス直仔である。6頭は種牡馬となったサンデーサイレンス産駒の仔である。そして残りの6頭は母の父がサンデーサイレンスである。
それは苛烈な市場原理、競争原理、経済原則一辺倒がもたらした寡占、一極集中現象なのだ。さらに近年のG1レースでは、社台系や有力馬主、有力クラブ法人の馬が3頭出し、4頭出しが当たり前になっており、有力調教師も同様に2頭出し、3頭出しが普通になっている。調教師も騎手もごく少数の者に集中するようになっているのだ。それは現代を象徴するものである。

 多頭数のダービーでは、最後方からの追い込みは難しい。ダービーを勝つためには、3コーナーで十番手内に位置し、大ケヤキのあたりから徐々に進出し、直線坂下では五番手内にいることだと言われていた。同じように、坂があり直線の長い東京競馬場で、2400メートルを逃げ切ることも難しいと言われてきた。 しかし逃げ切って栄誉に輝いた馬はかなりいる。古くはダイゴホマレ、メイズイ、キーストン、タニノハローモアがおり、カブラヤオーも一気に逃げ切った。
その後、私は仕事で競馬場にいて、アイネスフウジンとミホノブルボンが逃げ切ったダービーを目撃している。
特にミホノブルボンのスピードは鮮烈だった。ブルボンは皐月賞に続いて、デビューから七戦全勝のダービー馬となった。デビュー時からブルボンに騎乗していたのは、まことに地味な小島貞博騎手であった。私は皐月賞の際、「苦労人、ベテラン小島貞騎手G1初制覇」と知った。このダービーで生のミホノブルボンと 小島貞博を初めて見た。
 若い騎手たちを見慣れてきた私には、小島貞博騎手の顔に深く刻まれた皺が印象に残った。ダービーで圧倒的な一番人気になって、逃げ戦法をとるにはかなり勇気がいる。スタート直後の激しい先行争い、直線の坂とゴールまでの長い距離、きつい後続馬のマーク…それでも堂々逃げ切った小島貞博は達者な騎手だと思った。やはりベテランにはそれなりの技があるのだ。私はブルボンをスピードと底力のある長距離馬だと感じた。過去にも母の父にダラノーアを持つカブラヤオーがそうであった。

 栗毛に額の流星、ミホノブルボンは賢そうな顔立ちをしていた。ブルボンの父はマグニチュードである。マグニチュードは6戦未勝利の馬ながら、ネバーベンド系の名馬ミルリーフの産駒で、母系も素晴らしい世界的な超一流血統だった。典型的な長距離の底力血統で、しかも豊かなスピードもある。
 しかし当初からミホノブル ボンは短距離馬と見られていた。同じマグニチュード産駒の桜花賞馬エルプスが典型的なスピード系マイラーだったし、母の父シャレーが短距離系で、ブルボンが調教で見せるスピードがあまりにも素晴らしく、老練な戸山為夫調教師をして「これは短距離馬だ」と判断させた。
「なあに、短距離馬でもハードトレーニングでスタミナもつくし、頑張り根性もつく」と、戸山は言った。彼は坂路調教を繰り返し、ブルボンのスタミナを徹底的に鍛え上げた。
 戸山調教師はハードトレーニングで知られていた。だから彼に高額の血統馬を預ける馬主は少ない。ハードトレーニングで馬が壊れることを恐れたからである。タニノの冠名で知られるカントリー牧場の谷水信夫もハードトレーニングで知られており、「ハードに鍛えて壊れるのなら、それだけの馬だったということです」と、二人の気は合った。
 戸山為夫は苦労人である。騎手としては身体が大きかったこともあって減量に苦しみ、障害レースばかりに騎乗した。ついには騎手を断念し調教師に転じた。愛想が悪いわけではなかったが、狷介な性格で、耳の痛いことでも率直にズバズバ言う人柄が煙たがられ、彼を嫌う人も多かった。頑固一徹な職人・技術者なのである。
 しかし戸山師は義理と人情も重んじた。苦労を共にする厩務員や調教助手、騎手などの弟子たちを大事にした。自分と同じように苦労している騎手を応援した。そういう弟子を育て、自厩舎の馬は全て弟子を乗せた。
 馬主が「他の一流騎手を騎乗させろ」と言うと、「じゃあ、ウチとの預託契約を破棄して違約金を払ってヨソの厩舎に転厩させろ。わしは馬と人のどちらかを選べと言われたら人を選ぶ。ずっと苦労を共にしてきた仲間のほうが大切だからね」と言った。
「そりゃあ、たくさん乗れば騎手は上手くなる。馬が騎手を育てるんだからね。騎乗機会が少なければ騎手は育たないよ。わしは自分の弟子たちにできるだけたくさん乗せて あげたい。みんな上手くなってほしいからね」
 馬のハードトレーニングで有名な戸山師だったが、戸山は人にもハードトレーニングを課した。弟子に対する厳しさはすごかったらしい。彼は調教助手の森秀行や、騎手の鶴留明雄や小島貞博、小谷内秀夫を育てた。
 鶴留や小島は騎手としては比較的身体が大きく、減量に苦労し、平場の騎乗機会に恵まれず、主に障害レースに活路を求めた。
 障害騎手には「勇気」がいる。この二人の弟子は障害の騎手として名手の域に達した。小島の障害レースでの勝率はなんと4割を超えた。しかし、日本における障害競走は平場の未勝利馬の救済レースの感があり、しかもレース施行数も年々減少し、今は中央競馬の八競馬場で年間120レース程度に過ぎない。

 小島は北海道生まれで、家庭の事情で少年時代から苦労し、中学校に通うかたわら近くの牧場でアルバイトをしていた。あるとき「おまえ騎手になれ」と、谷水信夫の紹介で戸山調教師に紹介され、騎手を目指すことになった。小島少年に付き添って戸山の元に連れてきたのは鶴留騎手であった。
 やがて調教師に転じた鶴留も、スタッフを大事にし、弟子を育てた。なるべく自厩舎の馬は弟子を乗せたが、他厩舎やフリーでも騎乗機会が少なくて苦労している騎手がいれば、可能な限り彼らに騎乗を回した。

 ミホノブルボンは菊花賞で二着に敗れ、その後屈腱炎のため長期休養を余儀なくされた。戸山調教師が癌で亡くなり、彼の元で調教助手をしていた森秀行が師に代わって調教師となって、ブルボンは森秀行厩舎に転厩した。しかしブルボンはその後も脚部不安のまま復帰できず、生涯8戦7勝2着1回の成績で引退した。
 戸山師の後を引き継いだ森秀行調教師は、師匠に対して批判的な考えを持っていたようである。彼の考えでは、先ず競馬に義理人情は不要である。クライアントである馬主と喧嘩してまで、所属騎手を守るのは間違っている。馬主あっての厩舎ではないか。わがままな馬主の意向も聞き入れ、柔軟に対応しなくてはならない。もっと有力大牧場や有力馬主、有力クラブ法人に積極的に人脈をつくり、彼らの一流血統馬を預からせていただくべきである。競馬界は徹底した経済原理、市場原理、 競争原理で動くべきである。自厩舎の馬は常に「実績のある一流騎手」に騎乗を依頼し、できるだけ勝利の確率を高めるべきである。全ての騎手はフリーになって苛烈な競争を生き抜くべきである。馬も騎手も積極的に海外のレースに出るべきである。
 こうして森師は自厩舎の馬に小島貞騎手と小谷内騎手を乗せないと宣言した。森秀行調教師は社台グループなどの有力牧場や有力馬主に人脈をつくり、その信頼を得て、彼らの馬を管理するようになった。さらに海外のレースに積極的に挑戦し見事な実績を挙げた。

 小島貞騎手と小谷内騎手の騎乗機会が激減した。そんな彼らに鶴留調教師が騎乗機会を回した。鶴留師の恩に応えるように、小島はチョウカイキャロル でオークスを制覇した。翌年タヤスツヨシで二度目のダービーを制覇した(私はこの時も仕事で競馬場にいてレースを目撃した)。タヤスツヨシはサンデーサイレンス産駒の最初のダービー馬となった(この年、フジキセキが故障していなければ、フジキセキがサンデー産駒の最初のダービー馬となったであろう)。
 ダービーを勝つということは大変なことなのである。ダービー2勝は実に素晴らしいことなのである。むろん、武豊騎手のようにダービー4勝という大騎手もいる。しかし、武騎手は常に同一レースで数頭の騎乗依頼を受け、G1レースともなると7、8頭前後の騎乗の打診を受けるのだ。武騎手はその中から最も能力のありそうな馬、調子の良さそうな馬、有力な馬を、自分で選択することができたのである。

 鶴留師も応援したが、小島貞博騎手の騎乗機会は減り続けた。彼は話し下手で、派手な自己アピールも営業も苦手なのである。鶴留や小島には戸山師と似た、無口で頑固で人情家の職人のイメージがある。
 小島は調教師になった。当初は順調なスタートを切ったが、社台グループや有力馬主、有力クラブ法人との人脈が薄かった。良い馬が入らない。平場でなかなか勝ち上がらない馬を障害競走に下ろし、中山大障害を制覇するなど実績を挙げたが、厩舎の経営は苦しい。美浦で苦労していた娘婿の田嶋翔騎手を栗東に転厩させ、自厩舎の主戦騎手とした。しかし、厩舎の成績はなかなか思うように上がらず、田嶋の騎乗機会も少なかった。小島貞厩舎の成績は低迷し、苦労が続き、借金ばかりがかさんでいった。心労もたまっていったのだろう。彼はつくづく疲れたのだろう。
 今年の1月23日、小島貞博調教師は自厩舎で縊死した。
 合掌…
 苦労人・ダービージョッキー小島貞博の死は象徴的である。彼を死に追い詰めたものは、現代の競馬界を覆う情勢、現代社会を覆う苛烈な情勢なのではなかったか。

 今、JRAの悩みの一つが若い騎手の伸び悩みなのである。原因は彼らの騎乗機会が減少していることである。若手騎手の騎乗機会が少なくなれば、彼らは「実績」がつくれない。だから騎乗依頼もこない、そのため腕前も上達しない。
 若手の三浦皇成騎手は全く幸運だったのだ。彼が所属の河野厩舎からデビューする前、弱小厩舎だが親分肌の河野通文調教師があちこちに頭を下げて回り、「どうかどうか、うちのアンちゃんを乗せてやってください。なかなか見込みがある奴なんです。どうかよろしくお願いします。」と頼み込んで歩いたのである。新人・三浦騎手はたくさんの騎乗機会に恵まれた。そして彼にはそれに応える才能があったのだ。
 ちなみにその後、河野師はアドマイヤの冠名で知られる成金の有力馬主・近藤オーナーに楯突き、あげく暴力団幹部との交際を理由にJRAから調教師免許を剥奪され、競馬界から追放されてしまった。河野師がアドマイヤの近藤オーナーと喧嘩をした理由は、三浦が調教をつけていたアドマイヤの馬が躓いて落馬故障した際、河野が報告の電話をオーナーに入れると、「人間はどうでもええ、馬はどうなったンじゃい!」と怒鳴られたことにあるという。河野はカッとしたらしい。
 もうひとつちなみに、河野は以前トラックの運転手をしていたという変わり種であった。ところで私は、河野調教師が組関係者と交際があるとJRAに伝えたのは、有力暴力団関係者にも顔の広い、有力馬主である某氏だったのではなかろうかと推測している。「わしに逆らうとは生意気な奴ちゃ」…むろん、何の根拠もない勝手な憶測である。

 今時の有力馬主は「投資」のリターンを求める。一頭何千万、時に億円もする高額の投資なのだ。大手の会員制馬主クラブ法人は「利益」を上げて「配当」をしなければならない。だから彼らは「実績」のある「一流騎手」に騎乗を依頼したい。その意向を受けた調教師もまた、実績のある一流騎手と契約をしているエージェントを通し、彼等にオファーを出す。
 すると武豊、福永祐一、安藤勝己、内田博幸、岩田康誠、横山典弘、小牧太、蝦名正義、四位洋文、川田将雅、浜中俊、後藤浩輝、三浦皇成らや、短期免許を交付されて来日する外国人騎手のO・ペリエ、M・キネーン、A・ムンロ、C・ルメール、D・デムーロ、L・デットーリ、C・スミヨン、N・ピンナ等に騎乗依頼が集中する。
 日本の一流騎手には騎乗依頼などを管理・交渉するエージェントがいる。その第一号は岡部幸雄騎手から始まった。岡部騎手も海外の一流騎手における代理人制度を見習ったのである。だから来日する外国人騎手も、ほとんどエージェントがいて、騎乗レースの交渉等を行っている。彼らは通常の騎乗料に更なるギャラの上乗せや、優勝や上位入賞した場合のボーナスまで条件交渉しているのではないか。有力馬主や有力調教師はそれをいとわないだろう。勝てばいいのだから。
 ところで外人騎手は本当にそれほど上手いのだろうか。能力に高い馬に普通に乗れば、誰でも勝てる確率が高まるというだけのことではないのか。若い騎手が、その馬のデビューから調教やレースに乗り、良い成績を残しても、G1のような大レースでは、「実績」のある「一流」騎手や「外人」騎手に乗り変わる…これでは若手騎手の「実績」は形成できないだろう。今若手騎手や中堅騎手が次々に引退している。騎手生活に魅力が無くなったということらしい。

 競馬がギャンブルなのはファンの話であって、 社台のような有力牧場、有力馬主、有力クラブ法人にとって、競馬は投資、ビジネスなのである。
 ところで騎手エージェントのほとんどは、JRAから認可された競馬記者や予想紙の記者たちなのである。予想の印を付ける者が、そのレースの騎手を選ぶ。競馬ファンとしては何か判然とせず、納得がいかない。それで本当に、レースの公正は担保されていると言えるのだろうか。
 何はともあれ、調教師にも騎手にも苛烈な格差が広がっている。それは現代を象徴する現象のひとつなのである。
 一人のダービージョッキーの悲しく淋しい死が、様々なことを想い起こさせるのである。

     (この一文は2013年2月1日に書かれたものです。)