芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

数字の噓

2016年03月16日 | コラム
                                         

「この世には三つの嘘がある。嘘、ひどい嘘、そして統計」と言ったのは、19世紀のイギリスの宰相で数多くの警抜な名言を残したディズレリーである。ヴィクトリア女王が最も信任した政治家である。
 私が彼の名を初めて目にしたのは、高校の世界史の教科書であった。その後、イギリス映画「カーツーム」の中で、チャールトン・ヘストン演ずるゴードン将軍の台詞の中に、彼の名を耳にした。
 ディズレリーがあげつらった「統計」を、「計算方式」「計測方式」の相違による「数字」の嘘と置き換えてもよい。嘘と言うより、その作為的で恣意的な利用が招く「詭弁」「ごまかし」と、それによる相対的混乱である。
 計算方式が作り出す数字は、国家の食糧自給率や輸出依存度、対GDP比純債務残高、将来の年金制度の試算、原子力発電のコスト、電力の過不足の計算等に作為的、恣意的に利用されることが多い。計測方式の違いが生み出す混乱は、放射能における安全危険論議、近未来の巨大地震の確率等に頻繁に利用されている。
 放射能に関して言えば、そもそも政府、行政、東電、原子力安全規制委員会、電事連等の原子力村の、隠蔽体質と数々の詭弁が、あらゆる数値や説明の信頼性を損なってきた。そのため放射能ヒステリー症とさえ見える人たちも出た。しかし彼らは正しいのかも知れない。取り越し苦労なのかも知れない。
 どちらにせよ、もはや専門家から出される見解や数字の、信頼性が損なわれているのである。放射能を心配する人々には、もはやどんな計測数字でも安心も信用も与えるものではない。彼らは全く聞く耳も持たない。もし彼らの症状を癒やす者がいるとすれば、それはただ一人、児玉(龍彦)教授のみであり、彼による断固たる保証しかないのである。
 それにしても政府、行政、東電、規制委員会もあまりにも不誠実だ。行き当たりばったりで、いいかげんだ。福島第一は安倍首相のいうようにアンダーコントロールはされていない。収束どころか、悪化の一途をたどっているのではないか。こう言うと、地元から風評被害を広げるつもりか、復興の邪魔をするなという声が上がる。政府系、行政系の専門家や医者は、子どもたちの甲状腺癌は原発事故と関係ないという。第一原発で働く人間が減ると、年間の浴びても安全な放射線量を恣意的に上げたりする。その数字の根拠は何なのか。そもそもいい加減な数字なのか。

 社会学の祖と呼ばれるデュルケームは、社会的事実や客観的事実、統計資料を元にした分析を重視し、その方法を確立した。だから彼は社会学、社会「科学」の祖とされたのである。統計は科学なのだ。
 彼の代表的著作「自殺論」は、地域や信仰する宗教・宗派(ユダヤ教、カトリック、プロテスタント)による自殺率という統計を駆使したばかりではない。デュルケームは、月曜日や火曜日より木曜日や金曜日に、昼より夜に、そして夏より秋に、秋より冬に自殺率が高まると書いた。

「死のうと思っていた。今年の正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色の細かい縞目が織り込まれていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。」(太宰治「葉」)

 あんがい人は、こんな理由で死ぬ時期を選ぶのかも知れないのだ。あるいは、明るい光に満ちた真っ青な空を見て、ふと言いしれぬ悲しみに襲われ、死のうと思うかも知れないのだ。また人の心理や、個々人が抱えた苦悩の深さを、絶望を、その時代や社会が与える圧力や閉塞感を、また芥川龍之介のような「唯ぼんやりとした不安」を、デュルケームの統計の「科学」が何も語ることができないのは当然である。
 かと言って、フロイトやユング等による精神分析という「科学」でも、何も解き明かすことができないのは当然である。人の心は解説不能の謎なのである。
 繰り返すが、あの大政治家ディズレリーは「この世には三つの嘘がある。嘘、ひどい嘘、統計」と言ったのである。
 村上春樹は「作家は真実を書くのが仕事」と言った。つまり彼の作品は全て真実を書こうとしたものなのでる。これは比喩、寓意、仮構に託して、人の心や時代や社会の真実を描くという意味であろう。優れた作家の真実は、彼が凝視し、比喩、寓意として抽出した仮構の視像の中にある。

 だいぶ以前も書いたが98年以降、私は東谷暁という経済ジャーナリストの著作や論文を愛読し、彼を高く評価している。東谷は経済学者ではない、エコノミストでもない。経済誌や論説誌の編集者、編集長を経てフリーの経済ジャーナリストになった。
 特にいわゆるエコノミストと呼ばれる経済学者、経済評論家の言説をウォッチし続け、分析し、彼らの無責任で矛盾だらけの怪しげな言説を厳しく批評してきた。
 主な著書に「グローバル・スタンダードの罠」「BIS規制の嘘」「経済再生は日本流でいこう」「IT革命 煽動者に糺す」「誰が日本経済を救えるのか」「アメリカ経営の罠」「エコノミストは信用できるか」「日本経済新聞社は信用できるか」「民営化という虚妄」「世界金融崩壊 7つの罪」等があり、また共著に「IT革命? そんなものはない」(柳沢賢一郎)「TPP開国論のウソ」(三橋貴明)がある。私の尺度ではいずれも名著に入る。

 東谷はケインジアンであろう。彼にもっとも近いエコノミストは山家(やんべ)悠紀夫や佐伯啓思、柳沢賢一郎あたりであろうか。彼がもっとも唾棄した政治家は詭弁を弄した売国奴の小泉純一郎、もっとも軽蔑した経済学者は詭弁を弄した売国奴の竹中屁蔵である(私はこの男を平蔵と記したことがない)。
 東谷も多くの経済統計や指標を引用し、駆使する。彼が軽蔑する売国奴エコノミストたちが示す統計、指標がいかに恣意的に利用され、その計算方式、数字がいかに作為的に国民に喧伝されてきたかを示すためである。彼らの作為は嘘やデマという言葉に置き換えてもよい。私は東谷の著書から、何度も目から鱗…の様々なことを学んだ。 
 東谷の最新刊は「間違いだらけのTPP」である。いま東谷がもっとも真剣に取り組んでいる言論案件が、関岡英之、小倉正行、三橋貴明らとの共闘によるTPP参加反対運動なのだ。TPPは「郵政民営化」に次ぎ、再びアメリカに国を売り渡す行為だからである。

 ちなみに、TPPを「平成の開国」と呼んだ馬鹿者どもを、あの魔女のような浜矩子が鼻先でせせら笑っていた。彼女が鼻先で「フン」と笑うことほど恐ろしいことはない。とは言え、私は魔女好きである。
 浜については、だいぶ以前書いたことがある。毎日新聞に寄稿した彼女の短文を読んだ際に、私はえらく感心してしまった。それ以来、彼女のすこぶる過激な著作を愛している。最近の彼女のいささか過激な発言に、「1ドル50円が妥当」「リーマン・ショック前に戻れは大きな間違い。…リーマン前に戻ることは、百年に一度の危機が三年ごとに起き続けるということだ」「震災前の生産水準に戻す必要はない」…それらの言説は、これまでの統計、指標、計算方式と数字の「経済の常識」と嘘を突き崩すものである。もちろん彼女は、別の統計や指標、数字の提示をしているのである。まあ経済の常識や嘘と言うより、我々があまりにも不勉強だったのだ。
 TPPに関する浜のあっと驚く発言は、「TPPは平成の開国どころか現代の鎖国である。特定地域の経済圏として囲い込もうとする集団的鎖国主義、閉鎖主義である。…TPPが実現すればそれだけ貿易の自由度が高まるという発想はおかしい。それどころか…状況は1930年代的な様相を呈してくる。」「基軸通貨が存在しない時代、1ドル50円時代に備えよう」等…というものである。
 TPPを「現代の鎖国」と言い放った人は、おそらく浜矩子だけではあるまいか。私は寡聞にして他に知らない。

        (この一文は2012年の2月26に書かれたものである。)