親愛なるアッティクスへ
以前、藤沢武夫という人物について触れたことがありましたが、覚えておいででしょうか?
企業人として私が、もっとも敬愛する人物です。
改めて、触れておきますと、藤沢武夫という人は、元本田技研工業副社長・・・というよりも、「ホンダの創業者」にして天才技術者としても知られる本田宗一氏の共同経営者です。
現役時代は、「技術の本田、営業の藤沢」と呼ばれたそうですが、この点は、ソニーの井深大・盛田昭夫コンビとよく比較されるようですが、井深・盛田コンビが、コンビと言いながらも、年齢差が13歳もあったのに対し、本田・藤沢は4歳しか離れていなかったこともあり、盛田氏が、井深氏の後を継ぎ、ソニーの社長になったのに対し、藤沢さんは社長にならなかったが故に、今日では、藤沢さんの知名度はあまり高いとはいえないようです。
(引退から15年後、藤沢さんが亡くなったとき、ホンダの広報がマスコミに電話したら、「藤沢?誰??」という扱いだったとか・・・。)
結局、藤沢さんは、自らが社長になることなく退任したわけですが、それは一説によると、迷走し始めた本田宗一郎を退任させるべく、自らと抱き合わせで引退させる狙いがあったとも・・・。
で、本田さんに自らの退任の意向を申し入れたところ、この点は、さすがに、老いたりと言えども本田宗一郎!
藤沢さんの退任の意向を聞いたとき、即座に「辞めるなら二人一緒だ!」と答え、二人揃っての見事な退任劇となったそうです。
もっとも、技術と営業というと、参謀や番頭などというものを想像しがちですが、ワンマンならぬ「ツーマン」と呼ばれたほど、当時のホンダは完全に技術開発と経営を分離していたそうですから、その意味では、事実上のホンダの創業経営者だったと言えます。
本田さんは、作業服を着て工場に、藤沢さんは、ネクタイを締めて本社に居る・・・。
よく、藤沢さんを経営参謀などと書いてあるものも見かけますが、現役時代は、二人とも、決して、今日言われるような仲良しコンビなどではなく、長年、ろくに口もきかないような関係だったといいます。
それを言われると、いつも二人は、「最初の頃にまとめて全部話しちまった」と言っておられたそうですが、普通は、密接な関係を保っていたとしても、「あの頃は奴も、ああ言ったが・・・」などという意識が芽生えて来て・・・。
仮に二人の間に何もなかったとしても、周囲には面白おかしく騒ぎ立てる軽薄な輩もおり、あの西郷盛でさえも、下野後、盟友、大久保利通への中傷を聞いて、「大久保も堕落した」と嘆いたということを考えれば、現実に、こんな「出会った頃にまとめて話したから・・・」と言って、長年、顔も合わせないような関係が継続するとは、私には、どうにも合点がいかないことでした。
(実際、当時の財界マスコミは、「藤沢がいずれ、ホンダを乗っ取る!」と言い続けたそうです。)
で、最近、ようやく、このことが愚鈍な私にも理解出来るようになってきました。
二人は、実際、出会って間もない頃、共同経営者として乗り出した頃は、まさに、「水魚の交わり」と言えるほどに、毎日毎日、寝食を惜しんで色々なことを語り明かしたそうです。
(三国志で有名な劉備と葛亮もそうだったと言いますが・・・。)
で、その後は、話さなくなっても、折りに付け、お互いに「社員の仲人にはならない」、「肉親を会社に入れない」などなどの、「かつて、語りあかした理想」が変質してないことをチェックしていたのではないでしょうか?
それさえ確認できていれば、後は人が何と言おうと構わない・・・、それが、二人のギリギリの所での信頼感確保だったのかと・・・。
ちなみに、二人が出会ったのときのことを回想して言った、本田さんの言葉があります。
当時、本田宗一42歳、藤沢武夫38歳。
「あの頃は、あっしも若かったが、うちの副社長も若かったねー。」と。
今や私は、すでに、このときのお二人の年齢を超えてしまいましたが、いたずらに、馬齢を重ねてきたのみで、何ら為すことを得ず・・・。
我が身の愚鈍が悔やまれます・・・。
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以前、藤沢武夫という人物について触れたことがありましたが、覚えておいででしょうか?
企業人として私が、もっとも敬愛する人物です。
改めて、触れておきますと、藤沢武夫という人は、元本田技研工業副社長・・・というよりも、「ホンダの創業者」にして天才技術者としても知られる本田宗一氏の共同経営者です。
現役時代は、「技術の本田、営業の藤沢」と呼ばれたそうですが、この点は、ソニーの井深大・盛田昭夫コンビとよく比較されるようですが、井深・盛田コンビが、コンビと言いながらも、年齢差が13歳もあったのに対し、本田・藤沢は4歳しか離れていなかったこともあり、盛田氏が、井深氏の後を継ぎ、ソニーの社長になったのに対し、藤沢さんは社長にならなかったが故に、今日では、藤沢さんの知名度はあまり高いとはいえないようです。
(引退から15年後、藤沢さんが亡くなったとき、ホンダの広報がマスコミに電話したら、「藤沢?誰??」という扱いだったとか・・・。)
結局、藤沢さんは、自らが社長になることなく退任したわけですが、それは一説によると、迷走し始めた本田宗一郎を退任させるべく、自らと抱き合わせで引退させる狙いがあったとも・・・。
で、本田さんに自らの退任の意向を申し入れたところ、この点は、さすがに、老いたりと言えども本田宗一郎!
藤沢さんの退任の意向を聞いたとき、即座に「辞めるなら二人一緒だ!」と答え、二人揃っての見事な退任劇となったそうです。
もっとも、技術と営業というと、参謀や番頭などというものを想像しがちですが、ワンマンならぬ「ツーマン」と呼ばれたほど、当時のホンダは完全に技術開発と経営を分離していたそうですから、その意味では、事実上のホンダの創業経営者だったと言えます。
本田さんは、作業服を着て工場に、藤沢さんは、ネクタイを締めて本社に居る・・・。
よく、藤沢さんを経営参謀などと書いてあるものも見かけますが、現役時代は、二人とも、決して、今日言われるような仲良しコンビなどではなく、長年、ろくに口もきかないような関係だったといいます。
それを言われると、いつも二人は、「最初の頃にまとめて全部話しちまった」と言っておられたそうですが、普通は、密接な関係を保っていたとしても、「あの頃は奴も、ああ言ったが・・・」などという意識が芽生えて来て・・・。
仮に二人の間に何もなかったとしても、周囲には面白おかしく騒ぎ立てる軽薄な輩もおり、あの西郷盛でさえも、下野後、盟友、大久保利通への中傷を聞いて、「大久保も堕落した」と嘆いたということを考えれば、現実に、こんな「出会った頃にまとめて話したから・・・」と言って、長年、顔も合わせないような関係が継続するとは、私には、どうにも合点がいかないことでした。
(実際、当時の財界マスコミは、「藤沢がいずれ、ホンダを乗っ取る!」と言い続けたそうです。)
で、最近、ようやく、このことが愚鈍な私にも理解出来るようになってきました。
二人は、実際、出会って間もない頃、共同経営者として乗り出した頃は、まさに、「水魚の交わり」と言えるほどに、毎日毎日、寝食を惜しんで色々なことを語り明かしたそうです。
(三国志で有名な劉備と葛亮もそうだったと言いますが・・・。)
で、その後は、話さなくなっても、折りに付け、お互いに「社員の仲人にはならない」、「肉親を会社に入れない」などなどの、「かつて、語りあかした理想」が変質してないことをチェックしていたのではないでしょうか?
それさえ確認できていれば、後は人が何と言おうと構わない・・・、それが、二人のギリギリの所での信頼感確保だったのかと・・・。
ちなみに、二人が出会ったのときのことを回想して言った、本田さんの言葉があります。
当時、本田宗一42歳、藤沢武夫38歳。
「あの頃は、あっしも若かったが、うちの副社長も若かったねー。」と。
今や私は、すでに、このときのお二人の年齢を超えてしまいましたが、いたずらに、馬齢を重ねてきたのみで、何ら為すことを得ず・・・。
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