平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

敬愛する企業人・藤沢武夫翁に学ぶ水魚の交わり

2007年10月20日 | 経済・マネジメント
親愛なるアッティクスへ

以前、藤沢武夫という人物について触れたことがありましたが、覚えておいででしょうか?
企業人として私が、もっとも敬愛する人物です。

改めて、触れておきますと、藤沢武夫という人は、元本田技研工業副社長・・・というよりも、「ホンダの創業者」にして天才技術者としても知られる本田宗一氏の共同経営者です。
現役時代は、「技術の本田、営業の藤沢」と呼ばれたそうですが、この点は、ソニー井深大・盛田昭夫コンビとよく比較されるようですが、井深・盛田コンビが、コンビと言いながらも、年齢差が13歳もあったのに対し、本田・藤沢は4歳しか離れていなかったこともあり、盛田氏が、井深氏の後を継ぎ、ソニーの社長になったのに対し、藤沢さんは社長にならなかったが故に、今日では、藤沢さんの知名度はあまり高いとはいえないようです。
(引退から15年後、藤沢さんが亡くなったとき、ホンダの広報がマスコミに電話したら、「藤沢?誰??」という扱いだったとか・・・。)
結局、藤沢さんは、自らが社長になることなく退任したわけですが、それは一説によると、迷走し始めた本田宗一郎を退任させるべく、自らと抱き合わせで引退させる狙いがあったとも・・・。
で、本田さんに自らの退任の意向を申し入れたところ、この点は、さすがに、老いたりと言えども本田宗一郎!
藤沢さんの退任の意向を聞いたとき、即座に「辞めるなら二人一緒だ!」と答え、二人揃っての見事な退任劇となったそうです。

もっとも、技術と営業というと、参謀番頭などというものを想像しがちですが、ワンマンならぬ「ツーマン」と呼ばれたほど、当時のホンダは完全に技術開発経営分離していたそうですから、その意味では、事実上のホンダの創業経営者だったと言えます。
本田さんは、作業服を着て工場に、藤沢さんは、ネクタイを締めて本社に居る・・・。

よく、藤沢さんを経営参謀などと書いてあるものも見かけますが、現役時代は、二人とも、決して、今日言われるような仲良しコンビなどではなく、長年、ろくに口もきかないような関係だったといいます。
それを言われると、いつも二人は、「最初の頃にまとめて全部話しちまった」と言っておられたそうですが、普通は、密接な関係を保っていたとしても、「あの頃は奴も、ああ言ったが・・・」などという意識が芽生えて来て・・・。
仮に二人の間に何もなかったとしても、周囲には面白おかしく騒ぎ立てる軽薄な輩もおり、あの西郷盛でさえも、下野後、盟友、大久保利通への中傷を聞いて、「大久保も堕落した」と嘆いたということを考えれば、現実に、こんな「出会った頃にまとめて話したから・・・」と言って、長年、顔も合わせないような関係が継続するとは、私には、どうにも合点がいかないことでした。
(実際、当時の財界マスコミは、「藤沢がいずれ、ホンダを乗っ取る!」と言い続けたそうです。)

で、最近、ようやく、このことが愚鈍な私にも理解出来るようになってきました。
二人は、実際、出会って間もない頃、共同経営者として乗り出した頃は、まさに、「水魚の交わり」と言えるほどに、毎日毎日、寝食を惜しんで色々なことを語り明かしたそうです。
(三国志で有名な劉備葛亮もそうだったと言いますが・・・。)
で、その後は、話さなくなっても、折りに付け、お互いに「社員の仲人にはならない」、「肉親を会社に入れない」などなどの、「かつて、語りあかした理想」変質してないことをチェックしていたのではないでしょうか?
それさえ確認できていれば、後は人が何と言おうと構わない・・・、それが、二人のギリギリの所での信頼感確保だったのかと・・・。

ちなみに、二人が出会ったのときのことを回想して言った、本田さんの言葉があります。
当時、本田宗一42歳、藤沢武夫38歳
「あの頃は、あっしも若かったが、うちの副社長も若かったねー。」と。
今や私は、すでに、このときのお二人の年齢を超えてしまいましたが、いたずらに、馬齢を重ねてきたのみで、何ら為すことを得ず・・・。
我が身の愚鈍が悔やまれます・・・。

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