親愛なるアッティクスへ
以前、平太郎独白録 : 経済知識の普及を怠ってきた日本の経済立国 その2という記事を書いたときに、「農業立国へベクトルを向ける事も考えるべきではないか」というご意見を頂戴しました。
要旨としては、「食料自給率の低下」ということを憂いておられたようでしたが、私としては、先日も触れましたように、「組織は軍事・外交・経済に約分できる」という考えのもと、このときの記事では、「外交立国というのは事実上、あまり、有り得ない選択肢であることから、となれば、軍事立国か経済立国かということになり、軍事立国が有り得ないとすれば、もっと国民に経済の知識を持たせるべきではないか?」・・・ということが主旨でしたので、今回、改めて、この問題について採り上げさせて頂きました。
で、食糧自給率という点では、確かに私も大いに危惧するところですが、では、「農業立国」とまで言い切って良いか・・・と言えば、私はこれはかなり非現実的な話であるように思います。
まず、農業立国ということになれば、日本が単独で世界に存在しているわけでもない以上、日本で生産した農産物を外国に輸出し、外貨を得ることを考えなければなりませんよね。
(水は自前で使うとしても、肥料や工作機械などは輸入しないといけないでしょうから。これ即ち、農産物を作るにしても、種をまいておけば自然に生えてくる・・・というわけではないということでしょうか。)
次に、国際競争力という点では、日本の安全な低農薬農産物は競争力を持つことが出来るでしょうが、それだと、元々が日本は山が多い地勢ゆえ、絶対量が不足するように思えるのです。
となれば、限られた農地当たりの収穫量を増やさなければならず、となれば、安全性に目をつぶってでも絶対量を確保しなければならないことになり、となれば、この図式は成り立たない・・・ということになるのではないでしょうか。
また、一方で、江戸時代、日本は自給自足できていたからといっても、当時の日本の人口は3,000万人程度であり、果たして、現在の1億人を養い、さらに、余剰を外国に競争力を持たせた上で輸出することができるのか・・・というのは大いに疑問です。
さらに、江戸時代も、貨幣経済の伸張というものは、国内に食料の偏在という問題を生み、日本全体で見れば何とか食料は足りていたのに多くの餓死者を出したという事実も見逃すことが出来ないところです。
つまり、農業立国ということになると、外貨を得るために国内需要にはある程度目をつぶってでも輸出に回さざるをえず、となれば、食糧自給率は高くとも、国内では餓死者が出るということにもなりかねず、これでは本末転倒になるのではないでしょうか。
上記のようなことを踏まえたならば、食糧自給率の問題を農業立国にまで繋げてしまうのは、やはり、かなり無理があるように思うのです。
ただ、では、食糧自給率は現在のままで良いのか?と言われれば、やはりそれは別問題です。
ここから先は、農業従事者減少の問題も含め、実は私の中でも十分に消化できているとは言い難い状態なのですが、まず気になるのは、日本人の食に対する軽視姿勢です。
私などは、食い物を残すと親から死ぬほど殴られた世代ですので、今の日本人の食い物に対する考え方には実に危機感を持っています。
日本人は、食い物というのはいつでも欲しいときに手に入るものだと思っている節がありますが、国家の最大の責務は、「食の確保」にこそあると思っています。
古代ローマでは、属州・・・、特にエジプトから安い小麦が入ってくるようになったとき、主食である小麦のイタリア本国での生産を放棄したという事例がありますが、このときのローマと現在の日本とでは決定的に違う要素があります。
それ即ち、古代ローマでは、もし、生産地がローマへの小麦の回送を拒否するような事態になったときには、ローマは、いつでも、力でそれを回復することが出来た・・・という点ですね。
つまり、軍事力と、その行使いう点で、大きく違う・・・と。
ここから先はまた、後日・・・。
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以前、平太郎独白録 : 経済知識の普及を怠ってきた日本の経済立国 その2という記事を書いたときに、「農業立国へベクトルを向ける事も考えるべきではないか」というご意見を頂戴しました。
要旨としては、「食料自給率の低下」ということを憂いておられたようでしたが、私としては、先日も触れましたように、「組織は軍事・外交・経済に約分できる」という考えのもと、このときの記事では、「外交立国というのは事実上、あまり、有り得ない選択肢であることから、となれば、軍事立国か経済立国かということになり、軍事立国が有り得ないとすれば、もっと国民に経済の知識を持たせるべきではないか?」・・・ということが主旨でしたので、今回、改めて、この問題について採り上げさせて頂きました。
で、食糧自給率という点では、確かに私も大いに危惧するところですが、では、「農業立国」とまで言い切って良いか・・・と言えば、私はこれはかなり非現実的な話であるように思います。
まず、農業立国ということになれば、日本が単独で世界に存在しているわけでもない以上、日本で生産した農産物を外国に輸出し、外貨を得ることを考えなければなりませんよね。
(水は自前で使うとしても、肥料や工作機械などは輸入しないといけないでしょうから。これ即ち、農産物を作るにしても、種をまいておけば自然に生えてくる・・・というわけではないということでしょうか。)
次に、国際競争力という点では、日本の安全な低農薬農産物は競争力を持つことが出来るでしょうが、それだと、元々が日本は山が多い地勢ゆえ、絶対量が不足するように思えるのです。
となれば、限られた農地当たりの収穫量を増やさなければならず、となれば、安全性に目をつぶってでも絶対量を確保しなければならないことになり、となれば、この図式は成り立たない・・・ということになるのではないでしょうか。
また、一方で、江戸時代、日本は自給自足できていたからといっても、当時の日本の人口は3,000万人程度であり、果たして、現在の1億人を養い、さらに、余剰を外国に競争力を持たせた上で輸出することができるのか・・・というのは大いに疑問です。
さらに、江戸時代も、貨幣経済の伸張というものは、国内に食料の偏在という問題を生み、日本全体で見れば何とか食料は足りていたのに多くの餓死者を出したという事実も見逃すことが出来ないところです。
つまり、農業立国ということになると、外貨を得るために国内需要にはある程度目をつぶってでも輸出に回さざるをえず、となれば、食糧自給率は高くとも、国内では餓死者が出るということにもなりかねず、これでは本末転倒になるのではないでしょうか。
上記のようなことを踏まえたならば、食糧自給率の問題を農業立国にまで繋げてしまうのは、やはり、かなり無理があるように思うのです。
ただ、では、食糧自給率は現在のままで良いのか?と言われれば、やはりそれは別問題です。
ここから先は、農業従事者減少の問題も含め、実は私の中でも十分に消化できているとは言い難い状態なのですが、まず気になるのは、日本人の食に対する軽視姿勢です。
私などは、食い物を残すと親から死ぬほど殴られた世代ですので、今の日本人の食い物に対する考え方には実に危機感を持っています。
日本人は、食い物というのはいつでも欲しいときに手に入るものだと思っている節がありますが、国家の最大の責務は、「食の確保」にこそあると思っています。
古代ローマでは、属州・・・、特にエジプトから安い小麦が入ってくるようになったとき、主食である小麦のイタリア本国での生産を放棄したという事例がありますが、このときのローマと現在の日本とでは決定的に違う要素があります。
それ即ち、古代ローマでは、もし、生産地がローマへの小麦の回送を拒否するような事態になったときには、ローマは、いつでも、力でそれを回復することが出来た・・・という点ですね。
つまり、軍事力と、その行使いう点で、大きく違う・・・と。
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