僕の平成オナペット史

少年からおっさんに至るまでの僕の性欲を満たしてくれた、平成期のオナペットを振り返る

制服美少女を追い込ませすぎた駄作

2022-12-31 11:05:01 | 日記
 大手出版社が発刊する漫画誌において、現役女子高校生のオーディションが始まったのは一九九二年で、これを機に十八歳未満のグラビアアイドルのデビュー基準が緩くなった。当時は歌手デビューを果たしたアイドルが、専門誌で水着姿を披露したり、写真集を発表したりするのが一般的だったが、歌や演技の経験のないスカウトされたばかりの美少女でも、グランプリを受賞すれば所属プロダクションと出版社のバックアップで商業作品を発表できるようになった。

 ただ、あくまでもこのオーディションはグラビアアイドルになるためだけの近道にすぎず、その後の芸能人生をどう歩んでいくのかは本人の適応能力と所属先のマネジメント次第だ。だから、グランプリ受賞者の中には有名女優になったのもいれば、警察の厄介になったのもいる。水着の仕事までは約束されているが、そこから先の面倒までは見てくれない。


 九三年にグランプリを受賞した武田恵子は、僕も写真集を二作品所持していたほど期待値が高かったが、彼女を自慰用素材として繰り返し用いるには難があった。著しく実用性に欠ける作品ではなかったものの、せっかくの美少女の原石が先鋭的な撮影と演出によってかえって台なしになってしまったからだ。

 武田のデビュー作「夏服の天使」が発表されたのは九四年七月で、当時の僕はまだ「お菓子系」を知らず、高校生世代の水着グラビアといえばもっぱら雑誌の「すッぴん」頼みだったので、同作品はまさに画期的だった。写真集というページ数も多く、じっくり被写体を堪能できる出版物で、美少女がどんな姿を見せてくれるのか、そして自慰用素材にかなうほどの仕上がりなのか、そんな期待に股間を膨らませながら表紙を開いた。

「夏服の天使」は全編を通じて暗くてシリアスな仕上がりで、僕が日頃お世話になっていた「すッぴん」のような高校生世代の明るく健康的なエロティシズムがまるっきり伝わってこなかった。武田が泣いている表情もあり、それは処女喪失を読者に連想させようとしているのだが、僕はまったく性的興奮が湧かず、白けた気持ちでそのページをめくったものだ。カメラ目線でないページが散見されていたのも、性的な感情移入を妨げた。

 それでも、武田が気になる存在だったのは変わらず、翌年発表された二作目の「憧憬」も手に入れた。作風は前作と変わらず、下着姿を披露するなど大胆な仕上がりだったが、両作品に共通するのは撮り方や衣装によって武田がかなり不細工に見えてしまい、自慰の手を鈍らせた。制服のブラウスや水着のチョイスも古臭さを感じさせ、言うなれば一昔前の少女ヌード写真集のモデルに乳房と性器を隠したような見せ方で、僕の性的嗜好にマッチしなかった。

 武田のグラビアをあらためて見返すと、胸も大きめでぐっとくる美少女だったことに変わりはない。しかし、少女と大人の狭間で揺れる十代後半の両作品が、作り手の独りよがりの演出によって肝心な美少女度が削がれてしまい、武田の芸能生活にも少なからぬ影響を与えたと思うと、極めて残念でならない。

写真集を出してほしかった逸材~遊井亮子編~

2022-12-16 09:15:17 | 日記
  グラビアアイドルというサブカテゴリーを確立させたのは、一九八八年にイエローキャブを設立した野田義治なのは言うまでもないが、その黎明期に人気を博した堀江しのぶやかとうれいこ、細川ふみえらを、僕はこれまで一度も自慰用素材に用いたことがない。彼女たちが僕よりも年上で、すでに大人の女性として完成された佇まいに性的な感情移入ができなかったからだ。

 当時の愛読誌が「すッぴん」で、確か僕が高校生の時に買った号にも細川のグラビアが掲載されていたはずだが、それを用いることなく、まだ洗練されていない無名の少女の水着姿でひたすら下半身を慰めた。野田が売り出すグラビアアイドルはデビュー時からすでにメジャータレントの風格が漂っていて、僕の性的嗜好にかなったのは素人っぽさがまだ残っていた山田まりやと滝ありさぐらいだ。

 九〇年代後半になると、自分よりも年下の少女がデビューし、漫画誌や男性誌で水着姿を披露するようになると、僕は作品や記事の中身よりも、グラビアのモデルが自慰用素材にかなうかどうかで購入を判断した。「週刊ヤングマガジン」で巻頭を飾った遊井亮子は、悪く言えば可も不可もないどこにでもいそうな普通の少女だったが、そんな彼女がビキニを着てぎこちなくポージングするのが何ともたまらなく、長きにわたって掲載号を保管していた覚えがある。

 遊井は九五年にキー局のアイドルユニットの一人に選ばれ、水着の仕事に軸足を置くと思ったが、写真集を発表することなく女優への道を歩んでいった。僕は女優としての遊井に一切興味を持たず、何年か経って準キー局制作の帯ドラマながらも主役に抜擢されたことを知ったときも、それを録画して彼女の演技を見ようとも思わなかった。遊井は今でもコンスタントにドラマに出演するほど中堅女優として広く知られている。

 九〇年代は〇〇年代以降と違って、グラビアアイドルの粗製乱造が顕著ではなかった。マイナーな人材は「すッぴん」や「お菓子系」雑誌の域に留まり、そこからメジャーへの階段を駆け上がっていくのはほんのごく一部にかぎられた。写真集やイメージビデオといった商業作品も、メジャーの仲間入りを果たしたタレントにのみ発表の機会が与えられ、過度な露出や演出を抑えた控えめな仕上がりだったが、それでも十分自慰用素材となり得た。

 遊井はグラビアアイドルとしてメジャーの域に達していたにもかかわらず、女優へのオファーが早かったせいか、写真集を出さずに水着の仕事から足を洗った。僕も遊井に対する性的興味が薄れ、「お菓子系」雑誌に登場する無名の少女のスクール水着姿の虜になった。ちょうど九五年から九六年にかけてで、僕の自慰用素材がマイナー志向に傾倒していく分水嶺だった。

写真集を出してほしかった逸材~菊池あゆみ編~

2022-12-03 10:44:40 | 日記
 児童ポルノ法施行前(一九九〇年代)の自慰遍歴を振り返ると、施行後に比べて経済的余裕がなかったので、漫画誌や男性誌に掲載される数ページのグラビアでも頻繁にお世話になった。二千円以上もする写真集よりも、四百円でお釣りが返ってきて一週間借りられるアダルトビデオ(AV)で性欲を発散するのがスタンダードで、当時はアイドルの水着グラビアがAVの箸休めという、今とは逆の位置づけだった。


 だから、数ページのグラビアでも満足できたわけだが、中には写真集を出してほしかったアイドルタレントもいる。その一人が、菊池あゆみだ。菊池は九二年に大手芸能プロダクションのオーディションでグランプリを受賞。翌年には漫画誌や男性誌で水着姿を披露する。グラビアアイドルのような売り出し方ではないので、露出やポージングは極めて控えめだったが、今でも二度見しそうな一級品の美少女だったので、過度な演出がなくても僕は性的興奮を高められた。

 菊池のグラビアで最も強く印象に残っているのは、九三年七月に発売された男性誌「スコラ」だ。持田真樹が表紙の号で、六ページほど掲載された。衣装はワンピース水着にキャミソールドレスとガードが堅めだが、それでも胸の谷間と立体感が覗え、少女特有の透明感漂う菊池の表情とのアンバランスに僕はすっかり魅了され、汚さずにはいられなかった。当該号のメーンは真弓倫子のヌードだが、僕はそれにいっさい目もくれず、AVに飽きたら菊池のグラビアで下半身を熱くさせた。

 鳴り物入りでデビューしたので、大手出版社が発刊する漫画誌の巻頭グラビアを何度か飾ったが、その後は目立った芸能活動もなくフェードアウトしていった。大した結果を残せずに戦力外通告を受けた、プロ野球のドラフト一位選手みたいだが、せめて写真集を発表してくれたらよかったのに、と思えるほどの逸材だったことは間違いない。グラビアアイドルほどの恵まれた体躯ではないが、それを補って余りある抜群の美少女の表情と肢体をじっくり堪能できる出版物を残せなかったのは、大変残念なことである。

 菊池と同時にグランプリを受賞したのは、奇しくも同じ四国出身の馬渕英里何だ。馬渕もデビュー当初は水着の仕事をさせられたが、女優として成長し、今では名脇役として存在感を高めている。菊池がわずか数年で芸能界からリタイアしたのは、マネジメントをめぐる本人と所属先との齟齬があったのかもしれないが、やはり演技力やトークスキルなどの芸能界での適応能力が、四歳年下の馬渕に比べて決定的に欠けていたと思わざるを得ない。

 グラビアアイドルとしてはやや物足りない水着仕事でも僕の性的欲求を満たしてくれたが、所属先は女優やタレントとして育てていこうと、グランプリ受賞者の菊池にグラビア以外の仕事を手配した。企画段階としてはあったのかもしれないが、あれほどの美少女が写真集を発表できぬまま引退してしまったのは返す返す残念だ。