僕の平成オナペット史

少年からおっさんに至るまでの僕の性欲を満たしてくれた、平成期のオナペットを振り返る

ひときわ異彩を放った素人モデル

2023-05-21 10:01:20 | 日記
 インターネットのオークションサイトでは、かつて僕がお世話になった写真集や雑誌グラビア、イメージビデオなどが絶えず出品されていて、そのサンプル画像を見返しながら当時を懐かしむだけでなく、頭の片隅にすっかり埋もれていた自慰用素材の記憶を呼び戻させている。中学、高校時代に数回程度しか素材に用いなかった媒体でも、それが後々の自慰遍歴に少なからぬ影響を与えたことに気づかされる。

 園田俊明という写真家が手がけたムック「女子高生水着大図鑑 おしゃまま2」(双葉社)は一九八九年の初版だが、僕はそれを所持していた覚えがある。ただ、購入時期が中学三年か高校一年かはもう忘れてしまった。同書はその名のとおり、現役女子高校生の制服姿と水着姿が収録されたもので、文庫本よりもやや大きく、「BOMB!」などのアイドル雑誌よりもやや小さいサイズだったので、大判の写真集と違って家の中で隠し持つのに最適だった。

 園田は八〇年代後半から、高校生世代の素人モデルを撮り続けていたようで、それらを収録したムックをいくつか発表している。英知出版の「すっぴん」(後にすッぴん)が創刊したのは八六年五月だが、同誌がマイナーながらも芸能プロダクションに所属しているモデルを起用するのに対して、園田のムックは本当にそこらへんにいるような素人ばかりを集めたので、数撃てば当たるという寄せ集めのコンテンツだった。

 そのため、僕が所持していた「おしゃまま2」も、帯に「少女36人一挙収録!」とやたら人数の多さを訴求していたが、モデルのほとんどは実用性を欠いていた。美少女もいるのだが、その表情や体つきが僕の性的欲求とシンクロせず、当時の僕には一人を除いて全員はずれだった。

 三十年以上前のことなので「おしゃまま2」の存在も同書でお世話になった素材も、すっかり記憶から抜けていたが、たまたまヤフオク!に出品されていた同書のサンプル画像ですぐに思い出した。藤澤慶子という撮影当時埼玉の県立高校三年生のモデルで、僕は彼女のわずか数ページのグラビアに性的想像力を存分に働かせた。それ以外のモデルを素材に用いた記憶はない。

 帯の表紙側には三人、裏表紙側には藤澤を含む六人の掲載モデルが取り上げられ、それは編集者の人選なのだろうが、僕はその九人の中で藤澤が一頭地を抜いていると思う。ビキニブラから覗える丸みを帯びた乳房と、まだ垢抜けていないワンレングスというアンバランスは、まだ成熟した女性になりきれていない少女のままで、僕の劣情をいたく掻き立てさせてくれた。

 しかも、ほかのモデルたちの水着や髪型の古臭さが否めない半面、藤澤のそれらは令和の今日にタイムスリップしてもグラビアアイドルとして十分通用するほどの性的アピールを醸し出している。素人モデルで終わってしまったのが残念な逸材だが、それもまた青春時代にしかできない貴重な経験として、藤澤自身の記憶に深く刻まれているかもしれない。

人生初の性的興味を抱いたアイドル

2023-03-14 10:17:29 | 日記
 僕の人生において、初めて性的興味を抱いたアイドルタレントは、確か伊藤美紀だったと思う。一九八六年に大手芸能プロダクションのオーディションでグランプリを受賞した伊藤は、翌年歌手としてデビュー。僕はその頃中学生になったばかりで、折を見て枕にペニスをこすりつける行為を繰り返していたが、それが自慰だという自覚はまだなかった。

 伊藤の存在を知ったのは、当時定期購読していた雑誌「ファミコン通信」(現・ファミ通)のインタビュー記事だ。伊藤の二作目のシングル「哀愁ピュセル」がゲームソフト「奇々怪々―怒涛編―」のCMソングに採用され、その宣伝を兼ねての記事だったはずだが、水着姿でもない伊藤の全身グラビアを見て、初めて年上の女性に対して性的興味を持ってしまった。これまでのアイドル歌手は、僕が小学生だったこともあってか純粋に歌を聞かせてくれる存在にすぎなかった。

 水着姿ではなかったものの、僕は伊藤のまだ不慣れなカメラ目線の表情とスカートからの下肢を交互に見比べながら射精に導いたはずだ。伊藤は松田聖子や中森明菜、小泉今日子のようなメジャーアイドル特有のオーラがなく、そこらへんにいそうなまだ擦れていない少女の佇まいだったが、それが三歳年下の僕にはたまらなく、溢れ出る性欲を発散しないわけにはいかなかった。

 しかし、実際に伊藤を自慰素材に用いたのはファミコン通信のグラビアだけで、水着姿が収録された写真集や雑誌を買う機会もないまま時間が過ぎ去った。伊藤は高校生世代のわりには立派なプロポーションで、四作品もの写真集を発表しているが、中学生の僕にとって写真集の購入は敷居が高すぎた。高校生になると、自分と同年代の少女が水着姿を披露してくれる「すッぴん」を自慰用素材に用いるようになったので、三歳年上の伊藤への性的興味も失っていった。

 高校二年の時、長渕剛主演のドラマ「しゃぼん玉」に、当時二十歳の伊藤が看護師役で出演していたが、そのときはもう彼女に対して何の性的感情も持たなくなっていた。高校生世代でなくなったのと、「すッぴん」を通じて僕の自慰対象が同学年か年下、または一学年上の少女に限定されてしまったからだ。また、少女だった頃の伊藤の水着姿を堪能するよりも、同年代の少女のほうが性的想像力が高められた。

 もし伊藤が僕と同学年か一学年上だったら、性的興味の対象として長く繋ぎ止められていたかもしれない。写真集を四作品も発表するほど、水着の仕事への拒否感はなかったようで、当時の高校生世代としては珍しくビキニ姿を惜しみなく披露しているが、いかんせん中学生の僕はそれらが掲載されたアイドル雑誌を買う金も勇気もなかった。リアルタイムでの伊藤の水着姿を自慰用素材に用いることができなかったのは、つくづく残念でならない。

マイナーより優先順位の低いメジャー

2023-02-17 00:25:23 | 日記
 佐藤仁美が大手芸能プロダクションのオーディションでグランプリを受賞したのは一九九五年で、デビューしたばかりのまだ素人っぽさを残す水着姿に、僕はぜひ彼女を自慰用素材に用いたいと思ったが、結局その機会は一度もないまま今日に至っている。性的興奮を高められる存在でありながらも、それを汚そうとしなかったのは、当時の経済的事情とほかの素材に比べて優先順位が低かったからだ。

 佐藤の写真集「Bless You…!」(近代映画社)が発売されたのは九六年八月で、その頃の僕は就職活動で忙しく、性欲に対して抑制的だった。二千円以上もする写真集どころか、お菓子系雑誌「クリーム」の八百円のムックすら買う金銭的余裕がなかった。しかも、当時は山田まりやがデビューしたばかりで、一作目の写真集を発表するという知らせにも触れたので、買うなら佐藤よりも彼女の作品だと決めていた。

 同年九月に山田の写真集が発売され、僕はそれを池袋の東武百貨店内にある旭屋書店で購入し、すぐに男子トイレに駆け込んで自慰に耽ったことを四半世紀以上経った今でもはっきり覚えている。一冊の写真集を買うことはかなりぜいたくな経済行為だったゆえ、自室に戻ってゆっくり堪能する余裕がなかったのだろう。山田の写真集を選んだことで、佐藤のそれを買う機会は遠のいた。


 それでも佐藤が気になる存在で、いつか「Bless You…!」を手に入れようと思ってはいたものの、僕の自慰用素材は九五年から九六年を境に「お菓子系」のそこらへんにいるような高校生世代の少女に傾倒していったことで、メジャーなアイドルタレントへの性的興味が急速に薄れていった。佐藤もそうだし、彼女の翌年にグランプリを受賞した深田恭子も二作目の写真集「COLORS」で水着姿を披露したが、僕はこれまで一度も素材として用いたことがない。

 ヤフオク!に出品されている佐藤のデビュー当時の画像を見返すと、胸の立体感が露わで、高校生世代に特有の健康的なエロティシズムも醸し出されていて、今さらながら素材に用いる機会がなかったことを反省することしきりだ。ただ、佐藤よりもお菓子系アイドルや山田に性的興味がどうしても集中せざるを得なかったのは、彼女たちの性的アピールのほうが粗削りで横道に逸れていたからで、オーソドックスなエロティシズムに終始する佐藤の優先順位は下がってしまった。

 自慰用素材としてはおろか、女優やバラエティとしての芸能活動についても何も綴れないが、僕の勤務先が名古屋だった九九年に、地下鉄駅のホームに掲出されている地元金融機関の広告に佐藤の見返り姿があったのを記憶している。それを目にして初めて佐藤が愛知県出身なのを知り、以来僕の中では地方銀行のイメージキャラクターは地元出身者だという思い込みを強くしている。

制服美少女を追い込ませすぎた駄作

2022-12-31 11:05:01 | 日記
 大手出版社が発刊する漫画誌において、現役女子高校生のオーディションが始まったのは一九九二年で、これを機に十八歳未満のグラビアアイドルのデビュー基準が緩くなった。当時は歌手デビューを果たしたアイドルが、専門誌で水着姿を披露したり、写真集を発表したりするのが一般的だったが、歌や演技の経験のないスカウトされたばかりの美少女でも、グランプリを受賞すれば所属プロダクションと出版社のバックアップで商業作品を発表できるようになった。

 ただ、あくまでもこのオーディションはグラビアアイドルになるためだけの近道にすぎず、その後の芸能人生をどう歩んでいくのかは本人の適応能力と所属先のマネジメント次第だ。だから、グランプリ受賞者の中には有名女優になったのもいれば、警察の厄介になったのもいる。水着の仕事までは約束されているが、そこから先の面倒までは見てくれない。


 九三年にグランプリを受賞した武田恵子は、僕も写真集を二作品所持していたほど期待値が高かったが、彼女を自慰用素材として繰り返し用いるには難があった。著しく実用性に欠ける作品ではなかったものの、せっかくの美少女の原石が先鋭的な撮影と演出によってかえって台なしになってしまったからだ。

 武田のデビュー作「夏服の天使」が発表されたのは九四年七月で、当時の僕はまだ「お菓子系」を知らず、高校生世代の水着グラビアといえばもっぱら雑誌の「すッぴん」頼みだったので、同作品はまさに画期的だった。写真集というページ数も多く、じっくり被写体を堪能できる出版物で、美少女がどんな姿を見せてくれるのか、そして自慰用素材にかなうほどの仕上がりなのか、そんな期待に股間を膨らませながら表紙を開いた。

「夏服の天使」は全編を通じて暗くてシリアスな仕上がりで、僕が日頃お世話になっていた「すッぴん」のような高校生世代の明るく健康的なエロティシズムがまるっきり伝わってこなかった。武田が泣いている表情もあり、それは処女喪失を読者に連想させようとしているのだが、僕はまったく性的興奮が湧かず、白けた気持ちでそのページをめくったものだ。カメラ目線でないページが散見されていたのも、性的な感情移入を妨げた。

 それでも、武田が気になる存在だったのは変わらず、翌年発表された二作目の「憧憬」も手に入れた。作風は前作と変わらず、下着姿を披露するなど大胆な仕上がりだったが、両作品に共通するのは撮り方や衣装によって武田がかなり不細工に見えてしまい、自慰の手を鈍らせた。制服のブラウスや水着のチョイスも古臭さを感じさせ、言うなれば一昔前の少女ヌード写真集のモデルに乳房と性器を隠したような見せ方で、僕の性的嗜好にマッチしなかった。

 武田のグラビアをあらためて見返すと、胸も大きめでぐっとくる美少女だったことに変わりはない。しかし、少女と大人の狭間で揺れる十代後半の両作品が、作り手の独りよがりの演出によって肝心な美少女度が削がれてしまい、武田の芸能生活にも少なからぬ影響を与えたと思うと、極めて残念でならない。

写真集を出してほしかった逸材~遊井亮子編~

2022-12-16 09:15:17 | 日記
  グラビアアイドルというサブカテゴリーを確立させたのは、一九八八年にイエローキャブを設立した野田義治なのは言うまでもないが、その黎明期に人気を博した堀江しのぶやかとうれいこ、細川ふみえらを、僕はこれまで一度も自慰用素材に用いたことがない。彼女たちが僕よりも年上で、すでに大人の女性として完成された佇まいに性的な感情移入ができなかったからだ。

 当時の愛読誌が「すッぴん」で、確か僕が高校生の時に買った号にも細川のグラビアが掲載されていたはずだが、それを用いることなく、まだ洗練されていない無名の少女の水着姿でひたすら下半身を慰めた。野田が売り出すグラビアアイドルはデビュー時からすでにメジャータレントの風格が漂っていて、僕の性的嗜好にかなったのは素人っぽさがまだ残っていた山田まりやと滝ありさぐらいだ。

 九〇年代後半になると、自分よりも年下の少女がデビューし、漫画誌や男性誌で水着姿を披露するようになると、僕は作品や記事の中身よりも、グラビアのモデルが自慰用素材にかなうかどうかで購入を判断した。「週刊ヤングマガジン」で巻頭を飾った遊井亮子は、悪く言えば可も不可もないどこにでもいそうな普通の少女だったが、そんな彼女がビキニを着てぎこちなくポージングするのが何ともたまらなく、長きにわたって掲載号を保管していた覚えがある。

 遊井は九五年にキー局のアイドルユニットの一人に選ばれ、水着の仕事に軸足を置くと思ったが、写真集を発表することなく女優への道を歩んでいった。僕は女優としての遊井に一切興味を持たず、何年か経って準キー局制作の帯ドラマながらも主役に抜擢されたことを知ったときも、それを録画して彼女の演技を見ようとも思わなかった。遊井は今でもコンスタントにドラマに出演するほど中堅女優として広く知られている。

 九〇年代は〇〇年代以降と違って、グラビアアイドルの粗製乱造が顕著ではなかった。マイナーな人材は「すッぴん」や「お菓子系」雑誌の域に留まり、そこからメジャーへの階段を駆け上がっていくのはほんのごく一部にかぎられた。写真集やイメージビデオといった商業作品も、メジャーの仲間入りを果たしたタレントにのみ発表の機会が与えられ、過度な露出や演出を抑えた控えめな仕上がりだったが、それでも十分自慰用素材となり得た。

 遊井はグラビアアイドルとしてメジャーの域に達していたにもかかわらず、女優へのオファーが早かったせいか、写真集を出さずに水着の仕事から足を洗った。僕も遊井に対する性的興味が薄れ、「お菓子系」雑誌に登場する無名の少女のスクール水着姿の虜になった。ちょうど九五年から九六年にかけてで、僕の自慰用素材がマイナー志向に傾倒していく分水嶺だった。