僕の平成オナペット史

少年からおっさんに至るまでの僕の性欲を満たしてくれた、平成期のオナペットを振り返る

記憶に残らぬ小倉優子

2020-04-27 18:21:50 | 日記
 小倉優子を初めて知ったのは、男性週刊誌のグラビアだった。それから二〇〇一年三月に発売された初めての写真集「恋しくて優しくて」を手にした僕は、ひたすらそれを用いて自慰に勤しんだ。この年の自慰素材は小倉が後続を大きく引き離しているはずで、とにかく夢中になって何度も何度も射精した。

 今でこそ主婦タレントの代表格として広く知られているが、僕の知っている小倉はまだメジャーになる前のグラビアアイドルとして、絶えず股間を熱くさせてもらった。スタイルの貧弱さを補って余りあるロリータフェイスに、僕はすっかり魅了され、ポスト「お菓子系」のオナペットとみなすのに時間はかからなかった。この年から僕の自慰手段は手淫からオナホールに変わり、枕の隆起と隆起の間にそれを挟んで腰を振り続けた。

 「恋しくて優しくて」が発売された当時、僕は書店を何軒か回ってやっと手に入れたほど、小倉はまだ無名だった。胸の立体感を強調するグラビアアイドルが、デビュー即メジャー入りが当たり前だった頃、僕はそれらには目もくれずに、まだ垢抜けていない小倉をじっくり堪能した。

 小倉はこの年、英知出版から二作目の写真集「未来・少女」を発表。僕はそれと翌年の三作目「恋心」と四作目「りんごともも」を買った。同じグラビアアイドルの写真集を四作品も買ったのは後にも先にも小倉だけで、僕の二十代を振り返るうえで記録に残るオナペットにちがいない。一方で、小倉が徐々にメジャーになっていくのと、やはりスタイルに対する消化不良感からか、徐々に小倉を素材に用いる回数が減っていき、四作目においては数回程度しか使わずに、四作品まとめて古書店に買い取ってもらった。一年二カ月ほどの付き合いだった。

 僕が写真集を処分したのと前後して、小倉はキー局のイメージガールに選ばれ、「ゆうこりん」としてトップアイドルへと駆け上がっていく。それに対して僕は何の感慨もなく、むしろ小倉に夢中になっていた自分が自分でないような違和感に苛まれた。僕の小倉に対する関係性と、世間一般のそれとのずれが違和感を生じさせているのであって、小倉が地上波での露出を高めれば高めるほど、僕は彼女をオナペットとして楽しませてもらったことに信じられなくなってくる。

 今の小倉は老若男女に知られているタレントだが、その地位を築くまでにグラビアの仕事を続け、僕を含む男性諸氏のオナペットであり続けた。それは所属事務所ぐるみの芸能界での処世術にすぎないのだが、グラビア以外の芸能界の仕事は周囲に担がれているだけにしか見えない。それも一種の才能なのかもしれないが、何をやってみても中途半端な感が否めないと感じるのは、僕だけではないはずだ。

 僕はメジャーになる前の小倉で散々性欲を放出し、メジャーになったのを機に一切素材に用いるのをやめた。僕は歴代のオナペットを懐かしみ、歳月を経て再び素材を入手することもあるのだが、小倉に対しては一度もそんな気になったことがない。記録には残るが、記憶には残らない。



公衆トイレと個室ビデオ

2020-04-24 16:25:02 | 日記
 僕が書店で自慰用の素材を買って、自室に戻るまで我慢できずに公衆トイレで射精に至った初めてのオナペットは、当時十六歳の山田まりやだ。一九九六年夏、池袋の東武百貨店内にある旭屋書店で、山田のファースト写真集を買った僕はそのまま男性用トイレの個室に駆け込み、ランダムにページをめくりながらペニスをしごいた。池袋から僕の自室までは電車で三十分もかからないのに、それを制御できないほど当時の僕は山田の肢体に夢中になっていた。

 単身生活が長いので、公衆トイレでの自慰は数えるほどだ。一回目の転職の際、貯金のなかった僕は実家からの通勤を余儀なくされた。出戻りの身ゆえに、両親と同じ屋根の下でポルノグラフィを所持することがみっともないと感じ、自宅内での自慰行為を極力控えた。それでも、当時二十五歳の僕は性欲旺盛だったので、外出ついでに公衆トイレや個室ビデオで溜まっていた性欲を放出した。

 荻窪へラーメンを食べに行ったついでに、西友で眞鍋かをりを素材に用いたり、地元の高速道路を運転したついでに、サービスエリアで井川遥を素材に用いたりと、週刊誌の数ページのグラビアで僕のペニスはたちまち屹立し、自慰をはかどらせた。児童ポルノ法施行直後だったので、十八歳以上で我慢せざるを得なかったが、それでもまだ十六歳だった宮地真緒が少年誌のグラビアでデビューし、自宅内にそれを隠し持つほど何度も素材に用いた。

 個室ビデオは、日本橋のとらやの隣にあった店を繰り返し利用させてもらった。実家で自慰できないストレスを溜め込んだ僕は、中途採用の一年目でありながら、職場のホワイトボードに行き先を適当に記入しては個室ビデオに飛び込み、九十分か百二十分かの利用時間内で素材をとっかえひっかえしながら四、五回射精した。短時間で何度も射精に導けるほど、あの時の僕は素材さえあれば何でもよかった。

 半年ほどの実家暮らしを経て、僕は再び単身生活を始めた。しかし、その頃誰をよく利用させてもらったのかほとんど覚えていない。性欲が盛んだったから、実家での自慰行為は家族の留守を見計らってこっそりしていた。宮地のグラビアと「お菓子系」出身の佐藤えつこの写真集は、自室の机に鍵をかけて保管していたのを記憶しているが、彼女たちを歴代のオナペットと比較するとインパクトに欠ける。

 児童ポルノ法施行で「お菓子系」が着エロ・ヌード路線へ転向する一方で、少年誌で宮地の水着姿が平気で掲載されるという事態に、僕は釈然としなかった。そして、眞鍋や井川もメジャータレントになるのを機に性的興味は薄れていった。僕の記念すべき公衆トイレでの初めての自慰素材となる山田も、グラビアの仕事を踏み台に地上波での露出が増えていった。

 本来なら「お菓子系」のようなアングラ媒体からスタートし、そこで終わってもよかったモデルが、芸能プロダクションに囲い込まれ、マスメディアに売り込むことでメジャーへの道も開ける。ただ、それはデビュー当初から垢抜けた画一的なモデルばかりで、僕は素材として用いることに拒否反応を示してしまう。それだけ僕のマイナー志向は本物なのだ。

フォーエバー「お菓子系」③~小野田優美編~

2020-04-22 17:25:36 | 日記
 「お菓子系」モデルの活動期間は数カ月程度で、彼女たちのほとんどはメジャーデビューを果たせずに引退していく。僕の知るかぎり、地上波の番組に出るまでに成り上がったのは児島玲子と浅田真子(現・熊切あさ美)ら片手で数える程度で、彼女たちが掲載された「クリーム」を買った覚えはあるが、素材として使った記憶はない。記憶に刻まれているのは、一、二回きりの掲載で知らずに消えていった素人たちだ。

 児童ポルノ法施行直前までが「お菓子系」の最盛期で、月刊誌に複数回掲載されたモデルは単体での写真集とイメージビデオも発売された。「クリーム写真集」などの総集編では、巻頭以外では七ページ前後と満足感が得られなかったので、オナペットにかなうモデルの写真集発売の通知は、僕をひどく興奮させた。その代表的なのが、一九九九年の小野田優美だ。

 小野田の体操服姿とスクール水着姿は、自慰素材として申し分なかった。胸が大きくて垢抜けたグラビアアイドルよりも、僕は素人っぽさの残る「お菓子系」のモデルを好み、しかも単体の写真集まで出してくれる。当時掲載されたインタビューによると、小野田はバレーボール部に所属し、モデル活動と並行して大学受験を目指していたそうだ。高校では理系のクラスだったそうだが、僕は小野田のファンではないので、そういうプライベートな話題には興味がなかった。

 「夏色のスケッチ」と題された小野田の写真集は、「クリーム」のグラビアをほぼ踏襲する形となったが、期待値よりも低かったのは否めない。七年後に再び中古で手に入れたものの、当時の同年代のグラビアアイドルのイメージビデオに比べて露出が控えめなのは明らかで、三、四回使わせてもらっただけで押入れの収納棚行きとなり、引っ越しの際に処分した。せっかくの写真集なのだから、「お菓子系」の枠からはみ出る衣装や演出を見せてほしかった。

 児童ポルノ法施行によって、小野田は「お菓子系」のアイドルで終わってしまった。あとになって知ったが、小野田は少年誌のオーディションにノミネートされるほどメジャー志向だった。しかし、金田美香にグランプリを奪われ、古巣も十八歳以下がNGとなり、活動の場を失ってしまった。ヌードや着エロを目指すほど、モデルの仕事に未練がなかったのだろう。

 「クリーム」以外の月刊誌が休刊に追い込まれ、少年誌や週刊誌も十八歳以下のアイドルのグラビアの掲載を控えるか、過度な演出を控えるのを余儀なくされた。金田は受賞翌年に写真集を出しているが、当時十六歳でもワンピースの水着姿が何ページかあった。児童ポルノ法では3号に該当するが、「性欲を興奮させまたは刺激するもの」ではないとみなし、出版社もゴーサインを出したのかもしれないが、僕はしっかり素材として使わせてもらった。

 二〇〇〇年代になると、芸能プロダクションが十八歳以下のグラビアアイドルを育成する動きが進み、「お菓子系」は着エロやジュニアアイドルなどニッチな市場で読者を獲得せざるを得なくなる。それが児童ポルノ法改正のきっかけとなり、今や「クリーム」は隔月刊のコスプレイヤー専門誌へと様変わりしている。自分たちが育てた市場が法規制の対象となり、しかもマスメディアにノウハウを真似されてより先鋭化し、自縄自縛に陥っていく中小出版業界の悲哀を感じずにはいられない。



フォーエバー「お菓子系」②~横澤りか編~

2020-04-21 16:58:04 | 日記
 ブラック企業に入社した僕は、激務の合間を縫ってはロードサイドのセルビデオ店に足を運び、「お菓子系」の雑誌を買って性欲を放出した。素人臭の抜けない十八歳以下の少女が、スクール水着と下着を模したビキニをまとって画一的なポーズをしてくれるだけで、僕の股間は熱くなった。その頃は彼女たちと同年代の優香がデビューしていたが、僕は今まで一度も素材に用いたことがない。

 社会人一年目が過ぎようとした頃、九八年四月号の「クリーム」で横澤りかのグラビアが掲載された。横澤はぽっちゃりした体躯で、素材としては申し分なかったが、その号は巻末の倉上涼子の陰部が見えそうで見えない学生服姿と立派な太ももにすっかり性的想像力がかき立てられ、横澤は後回し的存在だった。

 横澤が衝撃的だったのは、同年六月号の「クリーム」巻頭だ。体操着越しに伝わる胸の立体感とスクール水着、ピンクのビキニ。たったそれだけの演出にもかかわらず、僕は満足だった。どんなに素材がよくても、学生服姿や体操服姿で射精に導くなど今の僕には到底無理だが、あの頃は横澤の顔と太ももを眺めるだけで、たとえ水着のページが少なくても何回でも射精できた。肌の露出が抑えられていた分、想像力を働かせながら性的興奮を高めていった。

 横澤は「クリーム」以外の競合誌でもグラビアを掛け持ちし、その年の夏に刊行された「クリーム写真集」のような総集編でも、グラビアアイドルに引けを取らないビキニ姿を見せてくれた。横澤のモデル活動はそこまでで、秋以降彼女のグラビアを見ることはなかった。読者の人気がなかったから仕事がなくなったのか、それとも読者に自慰素材として用いられるのに耐えられなかったのか。いずれにせよ、「お菓子系」モデルの活動期間は短く、次から次へと新しいモデルを供給してくれるのに慣れていたから、横澤への性的興味も徐々に薄らいでいった。

 僕は「お菓子系」と並行して週刊誌のグラビアも素材に用いていたが、芸能プロダクションが当時売り込もうとしていたモデルのほとんどは印象に残っていないのに対し、彼女たちよりもずっとマイナーで素人同然のモデルの顔と名前は、今でもまだ鮮明に覚えている。ブルセラというニッチな市場を開拓しなければ生き残れない中小出版社の経営戦略に、アンチメジャーの僕は共感を覚え、全盛期をともに歩んできた。

 しかし、僕と「お菓子系」との蜜月関係は、翌年の児童ポルノ法施行で絶たれてしまう。施行直後に刊行された「でかクリーム2」は、すべてのモデルが十八歳以上で、彼女たちが体操服を着ようと、スクール水着姿になろうと、何のリアリティも感じず、それでも買った分の元を取ろうと自慰に勤しんだのは、散々お世話になった「お菓子系」への義理を果たしたかったのかもしれない。



フォーエバー「お菓子系」①~中山由香編~

2020-04-20 17:44:45 | 日記
 一九九六年三月。

 就職活動を間近に控えながらも、性欲の抑えられない僕は馴染みの書店で「クリーム」の四月号を買った。そこに掲載されていた中山由香というモデルは、僕の「お菓子系」遍歴を振り返るうえで絶対に忘れてはいけないほどのキーパーソンで、彼女を思い出すたびに惜敗続きだった就職活動の苦い記憶が甦る。

 中山はどこにでもいそうな当時十五歳のモデルだが、どこにでもいそうな女性がスクール水着姿や下着を模した白ビキニ姿を披露してくれることに、僕は極度に興奮した。七ページのグラビアと綴じ込みのポスター。たったそれだけの内容にもかかわらず、僕は精液の飛沫が付着してページがめくりにくくなるほど、彼女を素材に用いて自慰に耽った。

 「クリーム」で中山のグラビアが掲載されたのは九六年四月号だけで、ほかの雑誌の掛け持ちもなかった。おそらく「お菓子系」ファンにとっても知る人ぞ知るマニアックな存在で、本人自体も撮影に参加したことを忘れているかもしれないが、僕にとっては大変重要な人物で、その後も古書店で当該号を定価の四倍近くで入手するほど、オナペットとして重宝させていただいた。

 当該号で未掲載の中山のグラビアは、その年の七月に刊行された「クリーム写真集3」で掲載され、僕は喉から手が出るほど欲しかったが、一方でたった七ページのために買うことへの抵抗と金銭的問題によって立ち読みで我慢した。僕は就職活動で来ていた長野市内のコンビニでそれを何度も見返し、スクール水着越しの胸の立体感に性欲が高ぶり、宿泊先でそれを思い出しながらペニスをしごき、射精に導いた。同じく秋田へ移動の際、寝台列車の個室でも中山のグラビアを脳内であぶり出しながら自慰に勤しんだ。素材が眼前になく想像のみによる自慰は、中山以降今日まで存在しない。

 就職活動が終わり、卒業論文を書くためにアパートと図書館を往復する日々が続き、帰り道に書店で「お菓子系」雑誌を物色する日々が続いたが、中山に匹敵するオナペットはなかなか見つからず、オーバーエイジ枠(十八歳以上)でメジャーになる前の小島可奈子しか記憶に残っていない。「お菓子系」の人気モデルは、当時なら浅川千裕(現・浅川稚広)、その翌年なら相川みさおが有名だが、僕はその二人を素材に用いた覚えはない。

 僕の偏見かもしれないが、「お菓子系」モデルの大半はメジャーになる気などさらさらなく、小遣い感覚でグラビア撮影に応じていただけではないか。何の芸能スキルがなくても、学生服と体操服、スクール水着と画一的な衣装で撮影に応じるだけでギャラがもらえる。読者のほとんどが自慰の素材として用いていることも知っているはずだが、「どうせ長くやる仕事じゃないんだから」と割り切っていたからこそ、彼女たちは撮影に参加してくれたのだと思う。

 おそらく中山もその一人で、下着を売ったり売春したりするよりはましだという考えがあったのではないか。性の商品化に加担しているのは否めないが、彼女たちの中には学費や家計の足しに撮影に応じるケースもあったはずで、のちの児童ポルノ法による規制はそういった仕事の機会を完全に失わせたと言える。