僕の平成オナペット史

少年からおっさんに至るまでの僕の性欲を満たしてくれた、平成期のオナペットを振り返る

英知出版への十五年越しの謝辞①

2022-02-24 11:58:38 | 日記
 僕が英知出版という社名を知ったのは、中学二年の冬に「デラべっぴん」を買ったときだ。書店員に訝しがられながらも、生まれて初めてポルノグラフィを手に入れ、自慰用素材とした。確か牧本千幸が巻頭だったと思う。当時は「英知」という言葉の意味などわからず、エッチな雑誌を発行しているからそういう社名なんだな、という稚拙な発想で十代後半から二十代後半にかけて、同社とその系列会社が手がける出版・映像媒体のお世話になった。

 英知出版は二〇〇七年四月に倒産。九六年に所得隠しが発覚して以来、三度にわたって親会社が変わるほど経営が不安定になり、末期になると全盛期を支えていた「ビデオボーイ」などの主要雑誌をも手放してしまった。倒産から約十五年経った今、幾多の自慰用素材を供給してくれた同社に感謝の意を伝えたいとともに、あらためて一消費者として倒産に至るまでの経緯を振り返っていきたい。

 僕は高校生の頃から「すッぴん」を愛読し、自慰用素材に用いてきた。素人っぽさを残す高校生世代の少女の水着姿を堪能できる雑誌として、またメジャーになりきれないアイドルの寄せ集めとして、僕のような性癖を持つ読者の支持を集めた。表紙には登場モデルの氏名と年齢が明記され、それらのほとんどが十八歳以下だったことは、今日まで続く僕の自慰用素材の対象年齢として刻み込まれた。


 しかし、九〇年代に隆盛を極めた「お菓子系」との競合に巻き込まれたことが、「すッぴん」の相対的地位を下落させた。僕のようにお菓子系に流れた読者もいるはずで、正統派のグラビアとブルセラ路線がごちゃまぜのどっちつかず感が、「クリーム」の台頭を許してしまった。麻生久美子やさとう珠緒ら女優やタレントを目指すモデルのスタートラインという役割を果たしてきたが、先鋭化する読者のニーズに応えようとはしなかった。

 児童ポルノ法の施行を経て「すッぴん」は翌〇〇年に誌名を変えたが、高校生世代のモデルで占められた往時の面影は微塵もなく、成人誌と変わらぬコンテンツになり果ててしまった。メジャーへの橋渡しというとニッチな存在意義も、芸能プロダクションがまだ無名の少女をグラビアアイドルとしてデビューさせ、彩文館出版などが写真集を手がけるようになると、「すッぴん」で水着姿を披露する必然性は薄れた。高校生世代の少女の水着姿を堪能できる媒体の第一人者だったのに、お菓子系の台頭とその後のグラビアアイドルの間口拡大で一気に後塵を拝してしまった。

 英知出版倒産の原因を、九〇年代における「すッぴん」の栄枯盛衰に絞って考察してみたが、裏表紙に大手メーカーの広告が付いていたほど成人誌としてのステイタスが高かった同社にとって、ゼロから立ち上げたお菓子系の突き上げによって消耗戦を引き起こし、読者の分散を招いてしまった。かといって、「BOMB」などのように児ポ法施行後もアイドル雑誌としてのクオリティを保つことができなかったのは、「すッぴん」も所詮、成人誌なのだという世間の冷ややかな見方に屈してしまったのと、大手と中小という出版社間の縮められようがない経営体力によるものではないだろうか。

お菓子系最後のオナペット

2022-02-18 12:07:16 | 日記
 #KuToo運動で知られるフェミニストの石川優実が、お菓子系雑誌「クリーム」の常連として人気を博していたことは有名だが、その頃の僕はすでにお菓子系とは距離を置いていた。二〇〇〇年以降、新興の芸能プロダクションがグラビアアイドル市場に相次いで参入したことで、本来ならお菓子系の枠に留まるはずの高校生世代の少女が写真集やイメージビデオ(IV)を発表できるようになり、僕もそれらを自慰用素材に用いたことで、お菓子系への優先順位は年を追うごとに下がっていった。

 僕の中で、お菓子系アイドルの出世頭といえば福愛美の名前がすぐに挙がる。高校生世代を通じて活動し、写真集も三作品発表した。石川や木嶋のりこ(現・小原徳子)のように十八歳を過ぎてからの“なんちゃって”お菓子系ではなく、児童ポルノ法施行による自主規制が過ぎてから適齢期を迎えたという時世にも恵まれた。


 お菓子系アイドルの最後のオナペットは誰かと問われると、〇四年に十六歳でデビューした手塚りえだろう。手塚は写真集を二作品発表し、僕はどちらも入手するほど彼女を自慰用素材として重宝していたにもかかわらず、〇四年と翌〇五年を代表するオナペットの一人として紹介するのを失念していた。痛恨の極みであり、この場を借りて本人に謝罪したい。

 手塚はお菓子系のど真ん中を行く少女だった。いい意味で言うと、九〇年代から連綿と続いてきたお菓子系の演出に完璧にマッチしているほどの王道的存在であり、悪い意味で言うなら、お菓子系アイドルのままで終わってしまう。お菓子系でトップを張った少女の誰もがメジャーアイドルになれなかったように、手塚も二十歳を過ぎてからの芸能活動は知られていない。

 それでも、お菓子系の定番とも言える制服、体操服(ブルマー)、スクール水着の“三点セット”を、そこらへんにいるような少女が違和感なく着こなしてくれたうえに、写真集というじっくり堪能できる形で発表してくれた功績は大きい。グラビアアイドルを自慰用素材とする誰もが、メジャーデビューで非の打ちどころのない洗練されたモデルを求めているわけでもなく、僕のように素人っぽさを残したまま、何もわからず精一杯撮影に臨んでいる少女を求める消費者もいるはずだ。

 石川のように、僕が手塚より後のお菓子系アイドルを名前しか知らないのは、高校生世代の少女が芸能プロダクションに所属して写真集やIVを発表できるようになり、そのコンテンツにおいてモデルにスクール水着を着させるなどお菓子系のテイストが取り入れられているからだ。お菓子系を下に見ていたわけでもないが、その頃の「クリーム」は九〇年代後半の全盛期に比べて明らかに不健全なのが表紙からも伝わってきて、成人雑誌色が強くなってきたことも、お菓子系から遠ざかっていった原因だ。

 そんな時代背景において、石川の芸能人生のスタートがお菓子系というのは、よく言えば写真集もIVも買えないほど金銭的余裕のない男性諸氏の性欲を満たしてくれたヒロインであり、悪く言えば「クリーム」のお下劣路線を助長し、僕のようなオールドファンにそっぽを向かせた一人だろう。

古き良きお菓子系写真集

2022-02-16 12:44:21 | 日記
 お菓子系雑誌の代表格である「クリーム」は、一九九四年からほぼ一年おきに別冊の「クリーム写真集」を発刊していた。写真集といっても二、三千円もするほど高価なものではなく、千円でおつりが帰ってきて、しかも本誌に登場した複数のモデルによる総集編というコストパフォーマンスに優れた自慰用素材だった。僕がお菓子系というジャンルを知ったのも、書店でこのムックを手に取ったからで、それ以来お菓子系雑誌とは切っても切れない関係になった。


 九九年十一月の児童ポルノ法施行直前まで、お菓子系はクリームだけでなく、いくつかの競合誌があるほど僕のような性癖を持つ読者の支持を集めた。そこそこ人気があるモデルは単体での写真集を発表し、お菓子系がグラビアアイドルのサブカテゴリ―として市場で認知されるようになったが、児ポ法施行で十八歳未満のモデルの掲載を見合わせるようになると、彼女たちは活動の場を失ってしまった。

 児ポ法施行前に発表されたお菓子系アイドルの写真集として、本ブログでは以前、小野田優美の「夏色のスケッチ」を挙げたが、今回は菊池りえの「M.U.K.U」を紹介したい。今振り返ると、九八年十月に発表された同作品は、もしかしたら「夏色のスケッチ」よりも実用的で、自慰回数も多かったのではないか。ヤフオク!に出品されているサンプル画像を見ながら、自慰に耽っていた当時の記憶がよみがえる。


 「M.U.K.U」は、心交社の「美少女アルバム」シリーズの二作目として発売。表紙には「ゆらぎの中の16才」というサブタイトルがあしらわれ、制服姿に当時流行りのルーズソックスとブルセラチックな表紙写真に、一般書店で買うのは気が引けるが、幸いにも僕はそれをセルビデオ店で入手した。

 心交社の作品といえば、ジュニアアイドルの過度な露出が売りのイメージビデオがすぐに思い浮かぶが、「M.U.K.U」にはまだその片鱗が見られない。ただ、お菓子系の枠にとらわれない衣装や見せ方を菊池に求め、その大胆な試みに僕の股間を幾度となく熱くさせた。下着姿になったり、Tバックを履かせたりするようなわかりやすい着エロではなく、制服姿でもスカートの奥が見えそうで見えないという絶妙なバランスに、素人臭さが抜けきれない菊池の表情が合わさる。メジャーアイドルの写真集では絶対に味わえない醍醐味だ。

 さらに、海賊やボディコン、チアリーダーを模したコスプレも披露。いずれも体のラインが強調され、下半身が見えそうで見えないというお菓子系のグラビアにはない攻めた演出で、かといって着エロのような露骨さもなく、性的想像力を養うにはうってつけの作品だと思う。惜しむらくは、菊池がもっと遅く生まれていたら、児ポ法施行による自主規制の影響を受けず、福愛美のようにお菓子系アイドルとして息の長い活動ができたのではないだろうか。

児童ポルノ法施行直後のお菓子系

2022-02-13 14:12:22 | 日記
 一九九九年十一月に児童ポルノ法が施行され、「クリーム」をはじめとするお菓子系雑誌は一時壊滅的ダメージを負った。その頃の僕は、自宅から電車で往復約三時間半かけて県外の支社へ通っていたのに加え、本社の上司からは何の業務指示も与えられず、入社三年目でありながら半ば追い出し状態だった。その憂さ晴らしのために、安月給にもかかわらず週一回のペースで会社近くのファッションヘルスに通い、終電に間に合わなければオフィスの床に寝そべるか、たまにもらえるサウナ併設のカプセルホテルの無料券で一夜をしのいだ。

 児ポ法施行直後、僕の手元にあったお菓子系雑誌で今でも記憶に残っているのが「ラッキークレープ」の十二月号だ。表紙を飾った豊谷小百合は撮影時すでに十八歳を過ぎていて、“なんちゃって”お菓子系の範疇だが、水分を吸収してぴたっと体に張りついた赤いスクール水着姿と制服姿、そこらへんにいそうなロリータチックな佇まいという数ページのグラビアだけで、幾度となく勃起と射精を繰り返した。

 当該号はほかにも、五十嵐結花や久保亜沙香、大森亜由子らお菓子系ファンなら誰でも知っているモデルが勢ぞろいだが、いずれも豊谷と同様、高校生世代ではないのが児ポ法を見据えてのキャスティングだ。僕は五十嵐がずっと気になっていて、彼女の写真集が欲しくてたまらなかったが、当時は経済的余裕のなさからそれに支出を回せなかったのと、セルビデオ店でグラビアアイドルの写真を売っておらず、一般書店で買うのが気恥ずかしかったこともあってか、かなり後になって中古で手に入れたのを覚えている。

 ラッキークレープは当該号をもって休刊。児ポ法の影響をもろに受けた格好だが、その頃の僕は高校生世代にとりたてて拘りはなく、美少女で体躯がよければ十八歳以上でも自慰対象とみなした。「すッぴん」九八年十一月号の表紙と巻頭グラビアを飾った中島礼香が気になり、のちに写真集「moment」を躊躇なく手に入れたが、それを用いての自慰回数は多くなかったと思う。当時はまだ週末に一日四、五回の固め打ちをするほど性欲が旺盛ではなかったし、まだ社会人三年目ゆえに自慰に明け暮れるほど自身に余裕がなかったからだ。

 また、中島の写真集がお菓子系雑誌に比べて実用性に劣っていたのも、今日において彼女がオナペットだったと振り返られないゆえんだ。数十ページにわたる中島の水着姿よりも、豊谷の数ページのグラビアのほうがずっと記憶に残っているのは、僕がお菓子系雑誌の単純な演出にまんまとはまってしまったからで、スタンダードなグラビアアイドルとは相容れられなかったのかもしれない。

 九〇年代末期の僕の自慰用素材は、お菓子系を中心に回っていた。お菓子系のルーツを辿ると、英知出版の「大海賊」や「すッぴん」で、お菓子系はそれらのテイストをさらに凝縮させた形で、ブルセラオンリーの一点突破で高校生世代の素人モデルを発掘し、僕のような性癖を持つ読者の支持を集めた。僕が今、オークションサイトで中島のデビュー時の作品を手に入れようとするなら、やはり「moment」よりも「すッぴん」だろう。


忘れていたオナペット~松山まみ編~

2022-02-11 12:08:47 | 日記
 僕がこれまでお世話になってきたオナペットは、ほとんどが十八歳以下のメジャーになりきれていないグラビアアイドルに限られ、美少女度の高さと体躯のよさを兼ね備えているのに対しては、自慰回数がぐんぐんと増えていった。一方で、小倉優子のように体躯が年相応の十人並みでも、それを補って余りある美少女の顔立ちに魅了され、写真集を買わずにいられなくなったのも少なくない 以前、本ブログでポスト小倉優子として中村知世を挙げたが、彼女の前にすでに小倉の系譜を受け継ぐ松山まみがいたことが、今になって気づいた。


 青森出身の松山は中学生のときに小倉と同じプロダクションに所属。二〇〇三年十一月に写真集「まみラシク歩イテク。」でデビューした。年相応の第二次性徴が進行中の体つきでスクール水着を着こなす表紙に、僕は女子中学生で性欲を発散してみたくなった。

 撮影当時は中学三年なので、ジュニアアイドルという括りになるが、その頃は過度な露出もなく、せいぜいビキニ姿を披露してくれるだけだった。それも下腹部はすっかり覆われていたが、性的想像力を高めるのに何ら支障はなかった。今では時代遅れの感が否めないが、当時はスクール水着や体操服といったブルセラ要素さえあれば、僕の下半身はたちまち屹立した。

 松山は〇五年三月に二作目の写真集「告白~伝えたい思い~」を発表。一作目でそれなりの自慰回数を稼いだので、僕は躊躇なく二作目を購入した。しかし、その頃は石井めぐるや島本里沙など見事な体躯の美少女が次々とデビューし、僕もそれらをとっかえひっかえ素材に用いていたので、単なる美少女では物足りなさを感じた。結局、一作目ほどの自慰回数を重ねることなく、古書店送りになったと思う。

 僕の人生において年間の最多自慰回数を記録した〇四年は、石井を筆頭に島本や川村ゆきえなど器量もスタイルも抜群の高校生世代が相次いでデビューしたから、器量だけの素材は写真集こそ手に入れたものの、オナペットとみなすほど重宝しなかった。瀬戸早妃(現・咲嬉)や高橋幸子ら何人かの名前が挙がるが、いずれも巨乳美少女の箸休めにすぎず、松山もその一人だった。

 松山は高校生世代の三年間をほぼグラビアの仕事に費やし、女優への道を進んだが、いくつかの端役をもらった程度で芸能活動が途絶えてしまった。グラビアアイドル上がりの誰もが綾瀬はるかのようになれるわけでもないが、彼女の場合は本人の努力と老舗プロダクション所属なのでスタートラインが異なる。松山の所属先でブレイクしたのは小倉や眞鍋かをりに代表される“意識高い系”のタレントで、彼女たちのようなコミュニケーション能力がなければレースクイーンに回された。新興ゆえに女優を育てるノウハウがなかったのが、松山にとって不運だったのかもしれず、あらためてグラビア後の芸能人生設計の難しさが窺える。