僕の平成オナペット史

少年からおっさんに至るまでの僕の性欲を満たしてくれた、平成期のオナペットを振り返る

実用度に欠けた初DVD

2020-10-31 10:46:28 | 日記
 僕の年間自慰回数が三十歳を迎えた二〇〇四年を境に減少を辿っていく一方で、グラビアアイドルの低年齢化はますます進んでいった。今日では、製販ともに十八歳以下の写真集やDVDの発売に及び腰になり、新作がまったく発表されないなど市場は壊滅状態になっているのだから、もはや隔世の感がある。率先して高校生世代の水着姿を中吊りや新聞の広告に掲載していた大手出版社が、権力側に抵抗せず、また表現の自由を突き詰めようともせずにそれらを「なかったもの」にしてしまったのは、ひたすら残念でならない。

 〇五年のトピックスとして、初めて映像作品を購入したことが挙げられる。そのグラビアアイドルの写真集が発売されなかったのがもっぱらの理由で、不覚にもその素材の名前を覚えていない。音楽の勉強のために福島から上京し、その手の高校に通っているというエピソードだけが妙に印象的で、その後「ピュア・スマイル」レーベルで幾度となくお世話になる竹書房の作品だったような気がしたが、同社のホームページの目録には掲載されていない。

 初めてのDVDは、全編のほとんどがいわゆる“捨てチャプター”で、実用性を欠いた代物だった。インタビューで尺を取るのはともかく、全編が芝居仕立てでカメラ目線で動いていないのだから、観賞する側は被写体との一体感が感じ得ない。しかも、写真集より約千円高く、僕にとっては静止画像での自慰にずっかり慣れきっていたこともあってか、DVDへのシフトは不要不急だと感じた。

 モデルの名前すら覚えていないDVD初体験だったが、写真集を出さずにDVDからデビューするグラビアイドルが、この当時から増えてきたように思える。実際に僕が自慰専用のポータブルDVDプレーヤーを買わざるを得なかったのは〇五年の秋頃だし、翌年には写真集との併用を経てDVDへの完全移行となる。セルビデオ店に並ぶAV作品も、すでにビデオテープは淘汰されていた。

 技術革新に抗うことなく、僕はDVDでの自慰に移行するのだが、動画に慣れきってしまうと画像で自慰するのは「もったいなさ」を感じてしまうのが、僕のみみっちい性分だ。かといって、ムックの付録によくあるメイキングDVDは、撮影の様子をダラダラと撮っただけで、ないほうがましだと感じさせるものばかりだ。結局、ぞのモデルの画像による自慰も長続きせず、動画作品を探し求めることを繰り返す。

 この項を書き終える段になっても、初めて購入したDVD作品のモデルの名前が思い出せないのは、とてもくやしいし、彼女に対して非常に失礼だと思う。この場を借りて本人に謝罪したい。僕はお世話になったグラビアアイドルの現在地にはまるで興味はないが、彼女に対してはどんな形であれ、当時のインタビューで語っていたように、今でも音楽の道を歩んでいると信じてやまない。

芸能界への執着は強くても……

2020-10-28 09:31:41 | 日記
 十代の頃に英知出版の出版物を自慰の素材として用いていたのがきっかけで、僕の歴代オナペットはメジャーになりきれないのが多数を占めた。北米のプロ野球リーグにたとえると、3Aや2Aクラスの素材で、彼女たちは一九九〇年代までは英知出版と「お菓子系」に活動領域がかぎられていたが、高校生世代のグラビアがビジネスになると睨んだ芸能プロダクションと出版社が次々とモデルを発掘し、各種媒体への露出を増やしていった。

 僕は大手出版社の販促に乗せられる形で、〇二年に週刊誌や漫画誌のグラビアでブレークしたアイドルの写真集に手を出したことがある。写真集ではなくムックだったはずだが、マイナーな素材を好む僕の主義に反する形で、市川由衣と仲根かすみのを買ってしまった。市川はともかく、仲根を素材に用いたことを打ち明けるのはどういうわけか気恥ずかしさが先立つ。いつまでも若かりし頃の思い出として記憶に留めておきたい自慰もあれば、黒歴史として消し去りたい自慰もある。仲根はまさに後者と言えよう。

 さて、〇五年もマイナーからデビューした高校生世代のグラビアアイドルが僕の股間を慰めてくれたが、まずは疋田紗也を挙げたい。疋田はこの年だけで写真集を三作品発表し、僕はいずれも手にするほど彼女の虜になったが、それでも年間最多のオナペットではなかったし、この稿を書き進めていくうちにふと思い出したのだから、この場を借りて本人に謝罪したい。

 むろん、疋田の容姿はしっかり覚えている。典型的なロリ巨乳の持ち主で、僕の中で前年の石井めぐるの後継者としての期待も高まったが、石井よりも美少女度が劣るのは否めず、写真集を買い揃えたわりには自慰回数は伸び悩んだ。翌年、インターネット上で疋田の性に対する奔放さを露骨に表す本人の書き込みが話題になったが、そのときすでに彼女に対する性的興味は失せていた。

 写真集を三作品も購入したのに、そのオナペットに対する記憶が薄らいでいたのは明らかに僕の過失だが、その言い訳としては当時、素材をとっかえひっかえ用いるほど僕の性欲が強かったのと、疋田に美少女度が欠けていたからだろう。ポスト石井を期待しても、僕の中では彼女での自慰はやり尽くした感があり、それをまだ垢抜けていない疋田に求めても、しょせん二番煎じにすぎなかった。

 疋田は一四年までグラビア作品を発表し続けていたから、芸能界への執着は強かったようだが、磯山さやかや川村ゆきえのようにメジャーな舞台に呼ばれることなく、霊感の強さというニッチなキャラクターも窮めることができなかった。グラビアという同じスタートラインなのに差がついてしまうのは、所属事務所と各種メディアの力関係もあるが、やはり本人にもコミュニケーション能力や頭の回転の速さなどが求められるのは言うまでもない。残念ながら、疋田が磯山らに比べてそれらの力量に欠けていたのだろう。


実用性を欠いた写真集~篠原直美編~

2020-10-26 16:42:13 | 日記
 僕がグラビアアイドルの写真集を集中的に買い求めていたのは、二〇〇〇年代にほぼ集約されるが、オナぺットとして何十回も繰り返し使わせてもらった作品もあれば、ほんの数回きりで古書店行きになった作品もある。雑誌などで事前に情報を知り、その素材に対して性的興味が湧いたはずなのに、三千円近くも投じて買った写真集をぺらぺらとめくった途端、実用性を欠いた構成にがっかりした経験も少なくない。

 九〇年代から始まった漫画誌のオーディションで、酒井若菜と同じく準グランプリでデビューした篠原直美の写真集「NOW」も、その一つに挙げられる。僕の性癖なら、ロリ巨乳系の酒井に対して股間が膨らむはずなのに、奇しくも今日まで一度も彼女を素材に用いたことがない。篠原の写真集を買おうと思ったのは、その漫画誌のグラビアのスクール水着姿が初々しくてたまらなかったからだ。

 篠原の写真集が発表された九七年は、まだ社会人一年目でまともに休日が取れない日々が続いていた。しかも安月給だったので、自慰用の素材はもっぱら「お菓子系」雑誌か、漫画誌や週刊誌のグラビアにかぎられ、「NOW」を買うのも多少の逡巡を経てのことだった。行きつけのセルビデオ店は写真集を取り扱っていなかったので、自宅から少し離れた宮脇書店で買ったのを今でもはっきり覚えている。

 自室に戻り、さっそく自慰を始めようと写真集を開いてみると、僕が期待していた構成ではないことに戸惑いを覚え、しかし大枚をはたいたのだから所期の目的だけは達成しなければならないと、いつもより性的妄想をたくましく働かせながら射精に導いた。それから五回も使わなかっただろう。どう処分したのかも覚えてなく、今となっては「篠原直美」という素材の名前しか覚えていない。

 普段使いが「お菓子系」雑誌という実用性に富んだ素材だったので、正統派アイドルとして売り出そうとした篠原の写真集では股間が反応しづらかったのかもしれない。「ヤフオク!」に出品されている写真集のサンプル画像をあらためて見返すと、胸の膨らみが目立つ黄色のワンピース姿にもかかわらず、西瓜を汚く食べているショットに当時げんなりしたのを思い出す。帯には「水着がいっぱい」と煽っていながらも、篠原自身に性的アピールが足りないから全体的に中途半端だ。

 同じ出発点でありながらも、酒井はグラビアで認知度を高めたうえで女優としての仕事も増やしていったが、篠原は売り出そうとする側の頭が固かったゆえに、メジャーになりきれなかった。アイドル歌手がまだ市場として成り立っているという誤った判断が、胸の大きめな美少女という篠原のポテンシャルを生かしきれなかった。

 また、篠原自身も芸能界で図太く生きようとしなかったから、ハウス食品のスナック菓子のCMぐらいしか代表作がなかった。歌も写真集も次作を残せなかった篠原と同様、彼女が出演した「こうばしコーン」も、「とんがりコーン」のような誰でも知っているメジャー商品になれぬまま終売となった。


U-18写真集の新陳代謝

2020-10-25 09:32:58 | 日記
 十八歳以下のグラビアアイドルが次々とデビューしていた頃は、自室に保管してある写真集の新陳代謝も激しかった。敷布団の下には常時、四、五冊を忍ばせていて、そのときの気分で素材を選んだ。時間が経てば飽きが生じ、古書店に買い取ってもらっては新しい写真集を買うための原資とする自転車操業が続いた。僕がこれまで手にした写真集の中で、最も保管期間が長かったのは、小倉優子の一作目「恋しくて優しくて」ではないだろうか。これが発売された二〇〇一年は、児童ポルノ法施行の余波が残っていたせいか、高校生世代の写真集があまり市場に出回らなかったので、僕の中で小倉が過大評価され、この年のオナペットはほぼ彼女一択だった。

 その後、彩文館出版やぶんか社、アクアハウスなどが、まだマイナーの域に留まっている高校生世代のグラビアアイドルの写真集を次々と発売し、僕の知るところとなった。それ以前は「お菓子系」に活動領域が限られていたものの、ビジネスになると睨んだ芸能プロダクションが参入するようになって、契約したばかりの素人でも顔立ちがよかったり、胸が大きかったりすれば写真集が出せるようになった。

 高校生世代の市場拡大に寄与したのは、写真集に特化した出版社と新興の芸能プロダクションだが、一方で「お菓子系」からは後々まで語り継がれるような人気モデルが輩出されなくなり、勢力が衰えていった。素人っぽさが失われていくのに違和感を覚えながらも、徐々に露出過度になっていくグラビアアイドルの低年齢化の一消費者として、僕は「クリーム」に興味を失い、三千円近くする写真集を買い求めた。

 「お菓子系」出身のモデルが芸能界で大成するのが難しいように、高校生世代でデビューしたグラビアイドルの多くも写真集を出したきり、目立った活動を残せぬまま所属事務所との契約が打ち切られる。〇四年のオナペットの一人、大津あずさもそうではないだろうか。小柄ながらも胸はかなり大きく、一作目の写真集「AZUBALOON」は僕にとって実用的だったが、しょせん時間が経てば飽きてしまう存在にすぎなかった。大津のその後の芸能活動も、いくつかの映像作品を発表しただけだ。

 つまり、大津ほどの器量のモデルは、五、六年前なら「お菓子系」に留まって芸能活動に見切りをつけていたはずなのに、出版社と芸能プロダクション双方のビジネスの持ち駒として強引に写真集市場に担ぎ出された。割を食らったのは僕たち消費者で、これまで雑誌で済ませていたのに高価な写真集を買わざるを得なくなった。しかも、表紙は性的興奮をそそるのに中身はさっぱりという駄作にも付き合わされる羽目になった。

 とはいえ、僕は出版社に対して恨みつらみはなく、むしろ高校生世代の市場を拡げていったことを評価したい。市場が拡大しなければ、良質なオナペットに邂逅することができなかっただろうし、僕の自慰回数も右肩上がりで増えなかったはずだ。DVDの製作コスト低下によって出版件数を減らしていく直前までが、写真集市場のピークだったと言えよう。


メジャーになり損ねた逸材

2020-10-23 09:50:22 | 日記
 僕の二〇〇〇年代は、金曜日の夜になるたびに、仕事から帰るやすぐに郊外のセルビデオ店に向かって素材を探す日課が続いた。牛丼チェーン店やセルフサービスの定食店などで適当に夕食を済ませ、週末の食料品を買い込んでから自室に戻り、写真集やDVDを観賞しながら自慰に励む。それらは常に当たりはずれの連続で、当たりだったら何十回も繰り返し用いるが、はずれの際はいっぺん見ただけで古書店行きとなる。

 幸いにも、僕の行きつけだったセルビデオ店は新刊の写真集にもかかわらず定価の約四割引きで売られていて、よく重宝させてもらった。その後、転居を何度か繰り返し、自慰用の素材もインターネットによるダウンロードが主流となり、セルビデオ店に立ち寄る機会がめっきり減ってしまった。先日、僕が最も性欲旺盛だった〇四年ごろ足繁く通っていた店の近くを訪れてはみたものの、一軒は台湾料理店にテナントが代わり、もう一軒は店舗什器が雨ざらしという無残な状況だった。

 さて、年間最多自慰回数を記録した〇四年のコアとなったオナペットとしてもう一人、島本里沙を挙げたい。石井めぐると川村ゆきえの印象が強すぎて、うっかり島本の存在を忘れてしまいそうだったが、彼女もまた僕の股間を絶えず熱くさせてくれたロリ巨乳系の一人だ。この年まで写真集三作品を発表しているが、僕が購入したのを今でもはっきり覚えているのは彩文館出版から上梓された「RI‐CHA」だ。

 島本は十六歳でグラビアデビューし、ロリータフェイスには不釣り合いな胸の大きさに、僕はすっかり虜になった。胸の谷間をことさら強調したほか、石井や川村も着なかった眼帯ビキニのショットもあり、ソフトな着エロを堪能することができた。高校生世代が惜しげもなく際どい水着姿になり、僕はその写真集を観賞しながら性的な想像力を掻き立てて射精に導く。着衣姿だけでも興奮しそうなのに、惜しげもなく素肌を披露してくれるのだから、本当におおらかな時代だったと言えよう。

 島本は〇八年まで芸能活動を続けていたようだが、十九歳を境に写真集やDVDを発表しなくなった。それまでの作品の売れ行きが芳しくなかったのか、それとも本人がグラビアの仕事を続けることを嫌がったのか、今となっては知るよしもない。確かにまともな羞恥心の持ち主なら、素肌を晒し続け、不特定多数の男性たちの性的対象となり続けるのは耐え難いはずで、川村や原幹恵のような十年選手は極めてまれだ。

 当時は次から次へと十八歳以下のモデルが水着姿になり、週刊誌や漫画誌の巻頭を彩った。島本もその流れに乗りかかろうとしたが、マイナーからメジャーに昇格しきれないま現役を終えてしまった。そのせいか、〇四年のオナペットを振り返る中で、メジャーな素材ばかりに気を取られてしまい、不覚にも島本の存在を忘れそうになった。この場を借りて本人に謝罪したい。