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「平凡」肯定論の微妙さ

2011年10月11日 | 教育よもやま話
リーディングス日本の教育と社会①『学力問題・ゆとり教育』
第Ⅲ部、学力のメルクマールをめぐって『個性という脅迫』小浜逸郎、より抜粋



「平凡であることがいちばんいい」

平凡な人がこのことばをあまりくりかえすと、「ひかれ者の小唄」のようにとらわれやすい。もし本当にそうなら黙って平凡な人生を生きていればいいのに、わざわざそんなこというのはどこかに非凡であることへのこだわりがあるからこそだ、実は非凡になれなかった自らのルサンチマンを、そのような呪文によって慰撫しているのではないか、と。

また個性的な仕事で目立っている人がこういうことをいうと、心にもなくきざっぽいことを言っているととられやすい。自分は力があって人からぬきんでた仕事をしているくせに、そんなことをいうのはおかしい、もし本当にそう思うなら、自ら恃むつまらないプライドを捨てて、あっさりと平凡な人生に踏み込めばいいではないか、そうしないのは、平凡への憧れのかげに、実は平凡への軽蔑を隠しているからではないのか、と。

これらの反論や反感は、このことば自らが引き寄せる難問なのである。ただはっきりしているのは、やはり「平凡がいい」ということばのほうが「個性的であることはよいことだ」という思想の単純さよりははるかに深い含蓄を秘めており、いったんそれを味わってしまった以上は、もはや「個性」のやみくもな称揚などに立ち戻ることはできないということである。

平凡な人が平凡のよさをいうのは、ルサンチマンではなく、むしろルサンチマンを超えた諦観の境地からであって、そこには不安定なものはないのである。また個性的な仕事によって生きている人が、きざに陥る危険を自覚しながらあえてそれをいうとしたら、自分の足跡がとり返しのつかない逸脱した資質の所産であることが過不足なくとらえられているからである。

資質として「個性的であること」そのものは別段ほめたたえられたり推奨されたりすることではないのだ。なぜならば、彼が「個性的である」のは、ただ彼が「個性的である」ことしかできなかったゆえにすぎないからである。



私の好きな論考です。まずは抜粋のみ。

明日は、もしかすると、生徒・元生徒が読んでくれるかもしれないという期待を込めて、

易しく「翻訳」してみようかと思います。