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重要な考え方Ⅳ ピア・グループ効果

2011年06月30日 | 教育経済学
小塩隆士は『教育を経済学で考える』の中で、経済学が「教育成果」へアプローチする場合、アウトプットとインプットの関係を示す「生産関数」を想定するという。アウトプットとしての教育成果とは、テストの点数などで示される点数であるが、インプットは次の3つのグループに分けることができるという。

1つ目のグループは、その個人が生まれながらにして持っている属性や家庭・社会環境などである。知能指数がどれだけあるか、親の学歴や所得がどうなっているか、自宅でどれだけ勉強しているか、といった要因がこのグループに含まれる。

2つ目のグループは、学校で供給される教育の「質」である。生徒1人当たりの教員数(またはその逆数)、教員の学歴や経験、図書館の蔵書数などがそこに含まれる。

3番目の要因は、一緒に教育を受ける生徒の特性である。その生徒が属しているクラスを構成する生徒が平均的に持っている、生まれながらの能力や、(日本ではほとんど意味がないものの)人種の構成などがここに含まれる。この3番目の効果を「ピア・グループ効果」(peer-group-effect)と呼ぶことが多い。

 ここで注目すべき点は3番目の「ピア・グループ効果」である。最近では公立の学校でも、「習熟度別」という名を借りた「能力別」クラス編成が行われていると指摘した上で、次のように述べている。

 「朱に交われば赤くなる」という言葉がある。人間は、それほど強い存在ではない。周囲の影響に大きく左右される。まして、高校生ぐらいまでではしっかりとした自己が確立していない。友だち関係は、自己の形成に大きく左右する。能力別クラス編成の経済効果を考える場合、このような友だちの影響がピア・グループ効果として捉えられる。

 (中略)進学校を大学受験のテクニックをつめ込む学校であると決めつけるのは、一面的な解釈である。むしろ進学校は、生徒どうしが互いに刺激しあい、ピア・グループ効果がうまく発揮される「場」を提供できている学校というべきだろう。

 ただし、このピア・グループ効果は、ある程度、その学校に通ってくる子どもの頭の出来がよくなければ発揮されない。そのために進学校は、難しい入試問題を受験生に課して、入学する生徒の粒を揃える。(中略)頭のよい子どもたちが入学してくるのだから、進学校でピア・グループ効果が発揮されなければ、学校のほうに落ち度がある。

 一方、ピア・グループ効果は逆方向に作用することもある。同級生のほとんどが茶髪であれば、「オレも茶髪にしようか」と思うのが普通の人間である。友だちがだらしない格好で通学し、コンビニエンス・ストアで買い食いをしてゴミを街に撒き散らすのなら、自分もそうしなければならない。そうしないと、「優等生ぶりやがって」といじめられるのが目に見えている。こうして、ピア・グループ効果が悪い方向に作用すると、学校は教育困難校、底辺校への道をひたすら歩むことになる。そこから抜け出すのは、並大抵のことではない。

 このことは、高校であればまだ納得のいく話である。なぜなら、自らが入試を受け、選抜されて入学するのであり、行く行かないの選択の余地もまた残されている。しかしこれが、基本的に学校選択の余地がない(最近では選択制を取り入れている自治体もあるが)公立の小・中学校で起きているとすれば、そしてそれが目に見える形でわかるとすれば、かなり問題があるのではないだろうか。というのは、そこに行く生徒たちには選択権がなく、親の居住地域によって、よい方向のピア・グループ効果か悪い方向のピア・グループ効果が発揮されるかが、決まってしまうからである。

小塩隆士『教育を経済学で考える』 日本評論社 2003

教育を経済学で考える/小塩 隆士
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重要な考え方Ⅲ 不戦敗

2011年06月29日 | 教育社会学
学校での成功をあきらめ、現在の生活を楽しもうと意識の転換をはかることで、自信を高め自己を肯定している子どもたち、勉強をしなくなった、「学び」から逃避している子どもたちのことを、竹内洋は「不戦敗」と表現している。

まず勉強ができる・できないについて、勉強を「やればできる」勉強エリート、「やらなくてもできる」勉強超エリート、「やってもできない」勉強ノン・エリートという3つのグループに分ける。そこで勉強ノン・エリートは努力することによって、「負け」を確証するよりは、努力しないで「やればできる」を留保することを選んでいるというのである。これが「不戦敗」である。


これも大いに腑に落ちる概念で、最近の子どもを見ていると、何も自分から行動もしないし、努力もしないにも関わらず、「幼稚な全能感」を持っているのである。実際には何もできることはないのだが、本当に何かをやろうと思えば、自分は「何だってできる」というような「根拠の無い自信」だけはかなり持っているのである。もちろん、すべての子どもがそうであるとは言わないが、そのような子どもが少なからずいるということである。

私が思うに、このような子どもに共通する特徴は、「勉強することをバカにしている」「努力しない」「我慢することができない」「人をバカにする」「何かうまくいかないことがあれば、他人や世の中のせいにする」「自分は他人とは違うと思っている(特別だと思っている)」などである。要するに、自らが自分を磨き、光ることによってその存在を際立たせるのではなく、周囲や他人が光っていないことを確認しようとすることで、自分の存在を感じるのである。しかも、その子どもの親もそう思っていることが多く、甘やかしていることが多い。

しかし、それが幻想であることを思い知る時が必然的に訪れる。入試や就職などである。

例えば、高校入試について考えてみる。中学3年生になって、周囲の人間が少しずつ受験の準備を始めだす。自分は「やればできる」と思っているので、焦っている他人を見てバカにする。夏休みになり、そろそろ勉強しなくてはと思うが、今までしたことがないので勉強の仕方がわからない。でもまあ何とかなるだろうとタカをくくっている。いよいよ志望校を決めなければならない段階となり、自分が考えていた理想は現実には通用しないことがわかる。あわてて塾へと行ってみるが、厳しいトレーニングに耐える能力も根性もない。自分には勉強は向いていない、もっと他に自分の才能を発揮する場所があるはずだという希望的観測を抱く。しかし、社会に出て働こうという意欲も勇気も無く、専門学校や専修学校の知識も無く、親や周囲の人間は高校ぐらい出ろと言う。よって、不本意ながら自分が考えていたよりも下位の高校へ進学する。そしてこの結果については、本来自分は望んでいなかったと考え、学校の先生の勉強の教え方が悪かった、親の育て方が悪かったと、責任を他へ転嫁するのである。

これが極端な例であるとはあまり思わない。少なくとも一部分に当てはまる子どもは少なくないだろう。このようにして、更にその後も「不戦敗」を続けていった帰結にあるのが、フリーターやニートであるのではないだろうか。よってこの「不戦敗」を許容してしまう風潮が問題なのであろう。

そしてまた別の問題も起こってくる。「不戦敗」する人間が多くなるということは、当然、「不戦勝」する人間が増えるということである。勉強を「やればできる」勉強エリートは相対的に少しの努力で、「やらなくてもできる」勉強超エリートは相対的にその絶対量が増えるということである。それが全体的な学力を引き下げることとなるのではないだろうか。
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重要な考え方Ⅱ インセンティブ・ディバイド

2011年06月28日 | 教育社会学
 苅谷は『階層化日本と教育危機』において、勉強を今まで通りにする子どもと、ほとんどしない子どもへの二極分化が生じており、勉強する意欲を失っている子どもや、子どもに勉強をさせる意欲を持っていない親が増えている状況を、「インセンティブ・ディバイド(誘因・意欲の格差拡大)」というメカニズムが作動した結果であると述べている。

 これは近年の教育改革が「過度の受験競争」という認識の下によるものであり、偏差値追放、推薦入試、AO入試の拡大など、学力を基準とした競争の圧力を教育の世界から取り除くことに全力をあげ、その結果受験競争の圧力を弱め、教育の世界で競争を否定する価値を広めたことにより、受験競争が維持してきたインセンティブを見えにくくしてきた。そしてその動機付けの構造に変わって、子どもたちの学習意欲を引き出す役割として期待されたのが、「新しい学力観」によって主導された「興味・関心」であるが、全体的な傾向として学習意欲の衰退を招いているという。またそれがすべての子どもたちに一様に生じているわけではなく、社会階層による格差の拡大を伴っていると指摘している。

 さらにインセンティブが見えにくくなることは、相対的に階層の低い子どもたちが、あえて学校の成功から降りてしまい、それにより自己の有能感を高めるはたらきをもつと指摘している。つまり学校での成功をあきらめ、現在の生活を楽しもうと意識の転換をはかることで、自信を高め自己を肯定しているのである。

苅谷剛彦『階層化日本と教育危機』 有信堂 2001

階層化日本と教育危機 不平等再生産から意/苅谷 剛彦
階層化日本と教育危機 不平等再生産から意
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重要な考え方Ⅰ パイプライン・システム

2011年06月27日 | 教育社会学
 山田昌弘は学力低下という問題は、「教育という領域で勉強という努力が報われない」という状況が広がったから起きた現象ではないのかと提起している。戦後、高度経済成長を経て、1990年頃までは勉強の努力を保証するシステムがあったとして、パイプライン・システムという考えを紹介している。

 2002年のハーバード大学アジアと国際関係プロジェクトシドニー大会において、ダニエル・ヤンミンとチャン・マイミンは、戦後日本の教育システムを「パイプライン・システム」と表現した。学校システムは、分岐のあるパイプとして表現され、生徒はパイプの中を流れることによって自動的に職業に到達するように描かれている。これによれば、受験勉強という努力は自分の実力にあった学校に入学するという形で報われ、入学後は卒業するための努力をし、そして学歴に見合った職業に就けるという形で報われるということである。



山田はこの教育システムが生徒に希望を与えるものとして、以下のように大変よく機能したと述べている。

(1)能力に合った職に送り出す機能を果たし、生徒に将来の見通しと安心を与えた。つまり、これくらいの学力があればこれくらいの学校を出て、これくらいの職に就ける(女性は、これくらいの人と出会え、これくらいの生活ができる)という期待ができた。

(2)過大な期待を諦めさせる機能を果たした。特定のパイプラインに乗れなければ、特定の職に就くことを諦めるしかなく、パイプを流れる過程で、徐々に諦めがついた(いくら医者になりたくても、医学部に入る学力がなければ諦めるしかない)。

(3)階層上昇の機能(世代内上昇+世代間上昇)を果たした。少しでも頑張って勉強すれば、上の学校に行けて、よりよい生活が送れるという期待がもてた。そして、親よりもよい学校に行けば、父親以上の職に就ける(女性の場合は、そのような相手と結婚できる)という期待がもてた。

 しかし1990年代後半、経済社会構造の大きな転換が起こったと考えられ、それをニューエコノミーと呼ぶならば、経済のグローバル化、IT化と相俟って職業世界が不安定化する。それは、将来が約束された中核的、専門的労働者と、熟練が不要な使い捨て単純労働者へと職業を分化させ、そしてその影響はまず若者を直撃する。企業は若者を選別し、能力があるものは中核的、専門的社員として優遇し、それ以外は派遣、アルバイトなどの保障のない労働者で置き換えようとする。その結果、非正規雇用者が大量発生し、それが日本では、フリーターの増大として表れるのである。



 しかし日本では、職に応じて学校数が調節されるわけでもなく、教育機関としての学校は残り続け、パイプの出口が変化し細くなっているのに、パイプ自体の太さは変わらず、逆に大学院のように太くなってしまったものもある。結果、従来のパイプラインに亀裂が走り、「漏れ」が生じる。つまり、パイプを流れていてもそのままでは職に就けない、学校に入って卒業するという「勉強努力に対する確実性」がなくなる事態がほとんどのパイプラインで生じることになるのである。

 そして更に重要なのは、パイプ自体が無くなったわけではないということである。例えば、大卒だからといってホワイトカラーになれないということが、大学に行かなくてもよいということを意味するものではない。大学にいかなければ、ホワイトカラーになることがもっと難しいということである。これにより、学校教育のリスク化と職の二極化を引き起こしたと考えられる。

 リスク化とは、学校歴はそれに見合った職業を保証しない、つまり勉強して学校に入り努力しても、その努力が報われない「可能性」が高まることである。そして、学校歴に見合った職に就けた人と、就けなかった人との差が結果的に拡大することが二極化である。例えば、大学院博士課程修了者であれば、専任教師と非常勤講師、公務員保育士とパート保育士、正社員と派遣社員などさまざまな職種で生じている。学校歴や仕事能力にはほとんど違いがないにもかかわらず、パイプを流れ続けられたか、そこから漏れて正規の職に就けなかったかの違いで、処遇や将来の見通しに大差がつくという状況が生まれているのである。

 その結果、パイプから漏れた人は、勉強という努力が無駄になる体験を強いられることになる。別の職に転進、または別の学校へ入りなおすということができればよいが、それは今までの努力が無駄になることを自ら認めることになる。そして親は、自分の子どもの教育にかけてきたお金とエネルギーが無駄になることに心理的に耐えられない。よって、その努力が無駄になっている者が増えている状況を体感して、対極に生じているのが、勉強に努力をしても仕方がないと思う生徒、学生、そしてそう考える親であり、それが結果として学力低下として表れると結論付けている。

 そしてパイプライン・システムがうまく働かなくなったまとめとして、前出の機能と対比して以下のように述べている。

(1)学校で教育されることが、学校に見合った職に就ける保証ではなくなる。生徒、学生は、その職に就けるかどうか、「不安」の中で学ぶことになる。

(2)次に、過大な期待を諦める機会がなくなる。とりあえず、学校への入学は容易になるからだ。大学の数だけは増え、大学院拡充政策のおかげで、修士・博士課程への進学も容易になる。音楽学校、声優学校、ネイルアーティスト学校、アナウンサー養成所など、「格好いい」職に就くための専門学校も乱立状態である。日本では、基本的に親が高等教育の費用を出すので、とりあえず入学することができる。入学し、運がよければ、その学校が想定する職に就くことができる可能性はある。とりあえず、パイプには入れるので、自分の実力に見合わない過大な期待が広がる。

(3)そして、教育による階層上昇の期待が失われる。学歴インフレが起こっているので、親以上の学校に行っても、親以上の職に就けないケースの方が多くなっている。

参考文献 山田昌弘『希望格差社会』 筑摩書房 2004

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く/山田 昌弘 著
希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く
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ちっちゃな幸せ・・・その2

2011年06月26日 | 塾でのできごと
先日、中1の生徒が新しく入塾してきたのですが、

申込書にこう書いてありました。


  1学期中間テスト後、正座をして
  佑学塾に入りたいと言ってきました。
  ご指導よろしくお願い申し上げます。


嬉しいじゃないですか!

いまどき、正座をし、親に

「塾に行かせてください」と、

頭を下げる子なんて、なかなかいないのではないですか?

しかも、親御さんも、ご指導よろしくお願い申し上げますと。

う~む嬉しいです!



成績は今のところ芳しくないようですが、

案の定、この子は、

・挨拶をきちんとする
・敬語を使う
・目を合わせ話す

などなど、しゃんとした子でした。



はい、この子、伸びるのは鉄板!!!

このような子は、絶対出来るようになりますね。

頑張って欲しいなぁ~
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素晴らしい発想

2011年06月24日 | 教育よもやま話
数学で、たまに「問題を作れ」という問題があります。



「y=10xの関係が成り立つ問題を作れ」



これを普通だと

「10円のお菓子を個買うと、合計は円になります」 など

値段、お金を使った、分かりやすい問題を作ります。



その中で、一番素晴らしいと思ったのが、


cmは mmである」


というものです。

簡潔ですし、誰にでも分かりやすいですし。

こっちが唸るような柔軟な発想をする生徒を見ると、嬉しいものです。
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松陰先生のことば

2011年06月24日 | 教育よもやま話
堤堯氏が、とある本で「萩紀行」の中で紹介していた。

萩の藩校・明倫館の跡に、明倫小学校が建っている。
ここでは毎朝、全校生徒が「松陰先生のことば」を朗誦するそうだ。
朗誦する言葉は、学年ごと・学期ごとに変わるので、
卒業までに18の言葉を覚えるそうだ。

まずは1年生・1学期の言葉。

「今日よりぞ 幼心を打ち捨てて 人に成りにし 道を踏めかし」


すげえええええええええええええええ(笑)
これを毎日、1年生が朗誦するんですよ。
微笑ましく、素敵だと思います。
いいですなあ、こんな小学校。

そして、これについての1年生の感想がまたいいのです。

「しょういん先生のことばは、むずかしいところもあるけれど、みんなでこえをそろえていうと、とってもきもちがいいです。これからも、まいあさ、みんなと大きなこえでこころをこめていいたいです」


次に6年生の1学期。

「体(たい)は私(わたくし)なり 心は公(おおやけ)なり 私を役(えき)して公に殉(したが)う者を大人(たいじん)と為し 公を役して私に殉う者を小人(しょうじん)と為す」

それに対する6年生の感想

「松陰先生の言葉には、何かすごいパワーがあるんだと思います。朗誦すると、その日一日をがんばろうという気持ちになります。これからも、毎朝、大きな声で朗誦して、私自身を高めようと思います。」


訳は分からないかも知れないが、意味なんて後で、大きくなって分かるんですよね。
これが各人の内的規範となり、今後の人生の、とある場面で、
この朗誦したことが役に立つことがあるなら、素晴らしいですね。

いい試みですよねえ。
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ステレオタイプの言説

2011年06月23日 | 子育てにおけるマジックワード
子供が幼稚園や保育園に通っている保護者の
「幼児のころから、学習するべきか?」
という問いに対し、よくある言説・・・


「この時期の子供は元気に遊ぶのが一番だと思っています。ほかの人より何かが劣るわけでもないので沢山自然に触れさせてあげたいと思っています。とかく近年、自然に触れる機会が減っていて机での勉強ばかり熱心な親御さんが多いので。」

「基本はその年齢でしか経験できない事を沢山させてあげる事。沢山身体を動かして遊ぶことが、机の上での勉強よりはるかに脳を育てていきます。」

「経験をさせてあげるのであれば、学力ではない別のことを!」

「どっちみち大きくなったら勉強しないといけない訳で、起きてから寝るまで一日中遊び続けられるのは子どもの時だけ。その貴重な時間を例えば漢字を覚えるのに使ってしまうのは、非常にもったいない気がします。【今しかできないこと】があるのでは?」

「幼稚園までは自然と戯れる方がいいと思いますよ。むしろ遊んでいた幼稚園の子供の方が中学生位には成績が上になってます。」

「小学生になれば嫌でも勉強しなくてはなりません。それまではしっかり心と体を育ててあげることの方が大切だと思います。」

「お子さんが小さい内は勉強でなく、色々と体験させてあげてください。好奇心を持てるようにしてあげるのと親との色々な体験で育まれる感受性などの人間性の成長の方がいいかなぁと思います」


いや、間違ってはいないのですが、

【勉強・学習・学力】

  VS

【遊び、自然と触れ合う、色んな体験、心と体、感受性など】

何故、対立概念のように考えるのでしょうか?
できるならば両方伸ばせばいいんじゃないでしょうか?
まさか、前者を伸ばすためには、後者が犠牲になるとでも?

この仕事をず~っとやってきて感じるのは、このような言い方をする保護者には、
前者を伸ばそうとするためには、自分自身が子供と時間をかけて関わることが、
しんどいこともあるので、それを面倒に思い、心の中では苦々しく
思っているのだが、それを正当化するために、後者をエクスキューズに
している、という人が圧倒的に多いということです。

学習もさせて、いろんな経験もさせる。
決して二項対立するものではなく、両立するものです。
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昨日の名言?(笑)

2011年06月22日 | 塾でのできごと
小学生、算数、小6、分数を使った割合、の授業にて



算数は、数字のパズルちゃうねん!

数字を組み合わせて、答を「探す」んちゃうねん!

正しい式には、正しい答しか待ってないねん!

答を「当てる」んちゃうねん!

答を「合わす」ねん!


と、一気に言ってしまったのでした(笑)



算数の苦手な子に多いのですが、

足し算で間違えたら引き算。

掛け算で間違えたら割り算。

問題の意味を考えず、とりあえず数字を組み合わせて、答を探すのですね。

このような子には、

足し算の意味、引き算の意味、掛け算の意味、割り算の意味。

まずはここから理解させないといけませんね。
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ちっちゃな幸せ

2011年06月21日 | 塾でのできごと
我が塾では、入塾時に次のようなプリントを配布している。


「塾のルール・注意すべきこと(生徒用)」


絶対にやってはいけないこと

①宿題をサボること
②嘘をつくこと
③約束を破ること
④無断で欠席・遅刻をすること
⑤勉強しに来ている、ほかの人に迷惑をかけること

絶対に守らなければならないこと

①挨拶をきちんとすること。
②敬語(丁寧語)を使うこと。
③携帯電話は授業中必ず電源を切っておくこと。
④塾の設備や備品は大切につかうこと。
⑤月謝袋や重要なお知らせのプリントは必ず親に渡すこと。

その他、注意すべきこと

①自転車で通塾する人は、許可を得ること。
②塾の近辺で騒いだりしないこと。
③塾が終わったら寄り道せず、まっすぐ家に帰ること。
④貴重品を持ってこないこと。
⑤勉強のこと以外で、塾の先生と、両親の言うことが違っているときは、両親の言うことを守ること。
⑥塾は「タダ」ではありません。お金をだしてくれている人に感謝の気持ちを忘れず、一生懸命に努力すること。


といったものだ。

先日、小学3年生の女の子が2人、入塾してきたのだが、

その内1人のお母さんが、入塾申込書の通信欄に

以下のことを書いてくれていた。

「塾のルール・注意すべきこと、読ませていただきました。あたりまえの事ですが、この様に接して(子供に)いただける事、ありがたく思います。よろしくお願い致します。」

めっちゃ嬉しく、ちっちゃな幸せを感じたのでした。
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教育行動における「投資」と「消費」

2011年06月20日 | 教育経済学
例えば、塾や予備校。

保護者からすれば、「お金」を払って子供の成績を上げてもらう、
もしくは上位の学校に進学することができ、その結果、
子供が給与の良い職に付き「お金」を子供が回収することができる。

これが「投資」の一つの考え方。



がしかし「消費」の側面もある。


例えば、塾や予備校に子供を行かせることによって、

「何となく得られる安心感」

「子供にお金をかけているという陶酔感」

「塾・予備校に行かせさえすれば、上位の学校に行けるかも知れないという希望的観測に基づいた、行かせている間は得られる期待感」

「子育て、子供を見なければならない時間の低減による開放感」

などなど。



これらはどちらか一方に限定されるものではなく、
投資○割、消費○割、というように、人によって
そのバランスは違うだろう。


しかし、「消費」の側面があまりにも強い保護者の子供の学力は、
低い傾向があるという皮膚感覚がある。
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幼稚園と保育園でその後が違うのか

2011年06月18日 | 教育よもやま話
とある掲示板で、こういう話題がありました。
質問というか相談の内容は・・・

保護者です。私は働いているので、二人の娘は近所の公立の保育園に通っています。
お勉強的なことは一切なく、よくいえばのびのび、悪く言えば放任?といった感じの園です。
たまたま友達の誘いで幼稚園の見学に行きました。
そこは室内プール完備でスイミングが週2回、
体操も外部から先生を招きみんな逆立ちもできるそうです。
読み書きの時間もあり、漢字も読める子もいると聞いてびっくり!
うちの年中の子はひらがなだってまだ怪しいのに…。
そこの幼稚園の先生は「小学校に上がる前こそ大事な時期なのに、そんな何もしない園では子供が可哀相。小学校に行ったとき差がついてしまいますよ。」とおっしゃっていました。
その言葉が気になって、今からでも幼稚園に転園したほうがよいのではないか、と悩んでいます。
やはり通っていた園により差がついてしまうものなのですか?
その差は縮まらないものですか?
私は早期教育が必ず必要だとも思いませんが、入学までにできた方がいいこととはどの程度(ひらがなの読み書きなど)なのでしょうか?教えて下さい。

①「差がつくのか?」

そりゃ「差がつく」だろう。が、それを検証(証明)することはできない。
そこがポイントだろう。1人の子供を、幼稚園と保育園に同時に
行かせることはできないのだから。一卵生双生児なら比較できる
かも知れないが。よってまず、どんな子に育てたいか、小学校に
上がったときに、どのようになって欲しいのかを考える必要がある。
その上で、考えたようになるためには、幼稚園か保育園かという
ことを考えればよい。そして結果に責任を持てばよい。
この人は幼稚園を見て、明らかに違う内容に触れ、他人に差がつく
と言われたことで、不安になっただけだろう。が、多分小学校に
おいての主に「学力に繋がる」部分を想定していると考えられる。
しっかりとした学力をつけさせる(将来そうなる)ためには、
一概に言えないが(地域によって事情が異なるため)幼稚園の方が
小学校における学力は高いはずだ。幼稚園出身者と保育園出身者の
学力の比較データは見たこと無い。(そりゃそうだ、そんなの出したら
えらいことに・・・)だが、経験的に言って、幼稚園出身者の方が
【確率的】には学力が高い。だから学力にこだわるのであれば、
幼稚園の方がよいと考える。

②「勉強」と「遊び」は対立しない

この手の問題に対して、よく言われる、うんざりさせられる常套句は
「この時期の子供は元気に遊ぶのが一番」
「勉強より自然に触れる機会を増やした方が良い」
「勉強はいつでもできる。今しかできないことをさせた方がよい」
などのようなものだ。辟易する。両方すればいいのだ。外で元気に
遊び、家で勉強(幼児には遊び感覚でよいが)すればそれでいい。
何故かこの二つを、二項対立的にとらえる人が多い。そうとらえるのは
間違っていると私は痛切に思う。心身ともに健康に丈夫に育ち、
なおかつ学力が高いほうがいいに決まっている。

③結局は親の意識・行動である

子供の成長に一番の影響を与えるのは「親」である。親の意識・行動
が一番で、その次に親以外の「環境」だろう。幼児期には親の影響が
8割、環境要因が2割といったところか。

④特殊な例を出しても意味が無い

実際にあったコメント

小学生(低学年)で漢字や計算が苦手な子がいて
教師がその子の保護者に「家で勉強教えてあげてください」
と言ったけれど
「うちの子がハタチになっても漢字や計算ができなければ、その時に考えます」
といって全く取り合いませんでした。
小学校の間は塾にも通わず1日中遊んでいましたが、この子は結局、東大に進学しましたよ。
幼い頃の多少の「遅れ」など、大きくなったら
あっという間に取り返せてしまうものかもしれないですね。

こういう例は普遍化(一般化)できないのだ。あくまで結果だから。
その上、過去のことだから、都合よく改変(美化)されているかもしれないし。
井戸端会議・床屋談義の話題としては許されるけれど(笑)


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大人への条件

2011年06月17日 | 教育よもやま話
小浜 逸郎 さんの「大人への条件」という本における、

重要なフレーズです。


「自分はなにものか」という問いに対する答えは、たぶんない。

だが「自分が何になるのか」という問いには、

自ら行動によって答えなくてはならない。

その答えが自分のなかではっきりしてくる基本的な条件は二つあって、

そしておそらく二つしかないだろう。

ひとつは、

「自分のはたらきが人々の間に何らかの好ましい結果を生んでいるという確信が得られること」、

もうひとつは、

「身近な相手とうまくやっていけそうに思えること」

である。
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鴨川源次の名言(笑)

2011年06月16日 | 教育よもやま話
今日はかる~い話題で。

鴨川源次とは、ボクシングのマンガ「はじめの一歩」のジムの会長です(笑)

その会長の1つの名言に次のものがあります。



キサマらを強くするのは毎日の積み重ねじゃ
じゃが逆もまた然り!

毎日の積み重ねがキサマらを弱くする!
漫然と日々を過ごすなっ

四六時中ボクサーであるコトを自覚しろ
自分に足りないモノ、必要なモノを常に考えて行動せよ!!




これを受験生バージョンに書き換えると



キサマらを賢くするのは毎日の積み重ねじゃ
じゃが逆もまた然り!

毎日の積み重ねがキサマらをアホにする!
漫然と日々を過ごすなっ

四六時中受験生であるコトを自覚しろ
自分に足りないモノ、必要なモノを常に考えて行動せよ!!



この漫然と日々を過ごすな、というのがいいですね。

受験生はこのように過ごして欲しいものです(笑)



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「四殺」

2011年06月15日 | 教育よもやま話
今から約1800年前の中国、後漢(紀元25年-220年)王朝時代
「崔子玉」という賢人がいた。

日本語の「座右の銘」の原典になっていると言われている
『座右銘』という書を残しているそうだ。

その中に「四殺」というのがある。


  人は欲を持つことで自分を殺し、
  
  財産を残すことで子孫を殺す。
  
  政治を間違うと民を殺し、
  
  学問教育を間違うと天下を殺す。


欲=分不相応な欲、悪い欲とすればよく分かる。

財産?う~ん「美田を残さず」ということか。

政治を間違うと民を殺す、は分かりやすい。
政府に対し、間違うなよ、と声を上げるのは当然として、
日本は民主主義だから、自分で自分を殺すことになる、
ということにも気を配らなければならないだろう。

天下=世間、世の中とすれば、学問教育を間違うと
世の中を殺してしまうことになる。
教育者、親は肝に銘じなければならない。


しかしまあ、人間の言うことは、今も昔も

変わらない部分がある、ということだ。
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