電話が鳴っている。
受話器に手を伸ばしたくてもままならない。この時間帯に掛かって来る電話は、いたずらでなければ余程緊急なものである。香西和真は焦る心をグッと抑えた。
ちょうど喫茶店で最も忙しい時間だった。客は二十人程度だが、一人でその注文をこなすのはきつい。大半は珈琲の注文客だが、モーニングサービスが付く。トーストとゆで卵を皿に乗っけて客席へ運ぶのにかなり手間がかかる。そこにココアなどがオーダーされると発狂したくなる。とても動きを中断して電話に出られない。ともかく客優先である。
「マスター、あたし出ようか?」
カウンター席に座る常連の女の子が立った。結城洋子だった。近くにあるYMCAスイミング教室でコーチのバイトをやっている。毎朝店に寄ってくれる。カウンターが定席で、和真の手が空けば間髪をいれず話し掛けて来る。こちらから訊ねなくても、彼女の身の上は本人が口にする。若く見えるがもう二十代後半だ。就職にあぶれ、バイトで食いつないでいるらしい。スイミングのコーチをやっていて体格は頗るいい。すすんで珈琲を客席まで運んでくれる。世話好きなのだろう。
「……ああ、頼むわ。悪いね、洋子ちゃん」
和真の返事を待たずに。洋子はレジ横にある電話を取った。
「はい、七枚の画布(キャンバス)です。マスター?いま手を離せないんです。はい、そうです。あ?ママさんやったん。はい、いいですよ。そう伝えます」
電話の相手は和真の妻、咲江らしい。(何かあったのか?)和真は不安を覚えた。それでも、客にモーニングセットを供するのに集中するしかなかった。手は止められない。
「何だって?」
「子どもさんの具合が悪いんで、お店に出られないそうです」
「そう…分かった」
和真は、カウンターに入ると、次のオーダーの用意にかかる。この時間はロボットになって切り抜けるしかない。オープントースターにパン二切れを放り込むと、サイフォンコーヒーにかかる。ゆっくりでは間に合わない。
五人だてのフラスコに湯を入れてバーナーに点火する。ロートに布フィルターを仕込み、ミルで粉砕したコーヒー豆を放り込む。フラスコの口に突き刺すと、ポコポコと湯が躍り、ロートに湯がのぼる。湯がのぼり切るとすかさず竹ベラで撹拌する。この連続した作業は集中力がいる。油断をして、吹きこぼれたりフラスコを破裂させたことがある。
「マスター、新しいお客さん。注文訊くね」
洋子はシルバー盆にお冷のコップとおしぼりの人数分を既に載せている。しょっちゅうの手伝いで、スタッフ並みの対応だ。
「うん。済まんけど頼むわ」
「まかしといて」
洋子は顔を輝かせてホールに回った。
和真は内心ホッとした。これでこのピークタイムをしのげる。客への対応は洋子に任せて、カウンター内の仕事に集中出来るのだ。アイドルタイムまで頑張ればいい。
(つづく)
受話器に手を伸ばしたくてもままならない。この時間帯に掛かって来る電話は、いたずらでなければ余程緊急なものである。香西和真は焦る心をグッと抑えた。
ちょうど喫茶店で最も忙しい時間だった。客は二十人程度だが、一人でその注文をこなすのはきつい。大半は珈琲の注文客だが、モーニングサービスが付く。トーストとゆで卵を皿に乗っけて客席へ運ぶのにかなり手間がかかる。そこにココアなどがオーダーされると発狂したくなる。とても動きを中断して電話に出られない。ともかく客優先である。
「マスター、あたし出ようか?」
カウンター席に座る常連の女の子が立った。結城洋子だった。近くにあるYMCAスイミング教室でコーチのバイトをやっている。毎朝店に寄ってくれる。カウンターが定席で、和真の手が空けば間髪をいれず話し掛けて来る。こちらから訊ねなくても、彼女の身の上は本人が口にする。若く見えるがもう二十代後半だ。就職にあぶれ、バイトで食いつないでいるらしい。スイミングのコーチをやっていて体格は頗るいい。すすんで珈琲を客席まで運んでくれる。世話好きなのだろう。
「……ああ、頼むわ。悪いね、洋子ちゃん」
和真の返事を待たずに。洋子はレジ横にある電話を取った。
「はい、七枚の画布(キャンバス)です。マスター?いま手を離せないんです。はい、そうです。あ?ママさんやったん。はい、いいですよ。そう伝えます」
電話の相手は和真の妻、咲江らしい。(何かあったのか?)和真は不安を覚えた。それでも、客にモーニングセットを供するのに集中するしかなかった。手は止められない。
「何だって?」
「子どもさんの具合が悪いんで、お店に出られないそうです」
「そう…分かった」
和真は、カウンターに入ると、次のオーダーの用意にかかる。この時間はロボットになって切り抜けるしかない。オープントースターにパン二切れを放り込むと、サイフォンコーヒーにかかる。ゆっくりでは間に合わない。
五人だてのフラスコに湯を入れてバーナーに点火する。ロートに布フィルターを仕込み、ミルで粉砕したコーヒー豆を放り込む。フラスコの口に突き刺すと、ポコポコと湯が躍り、ロートに湯がのぼる。湯がのぼり切るとすかさず竹ベラで撹拌する。この連続した作業は集中力がいる。油断をして、吹きこぼれたりフラスコを破裂させたことがある。
「マスター、新しいお客さん。注文訊くね」
洋子はシルバー盆にお冷のコップとおしぼりの人数分を既に載せている。しょっちゅうの手伝いで、スタッフ並みの対応だ。
「うん。済まんけど頼むわ」
「まかしといて」
洋子は顔を輝かせてホールに回った。
和真は内心ホッとした。これでこのピークタイムをしのげる。客への対応は洋子に任せて、カウンター内の仕事に集中出来るのだ。アイドルタイムまで頑張ればいい。
(つづく)
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