こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

5年前の記事

2019年02月20日 03時07分03秒 | Weblog
修学旅行先のドイツから帰った高校生の娘。炊き立ての白いご飯に相好を崩した。
「こんなにおいしかったんだ」
 旅行先の料理は口に合わなかったようだ。特にご飯は、食べる意欲を損なうものだったらしい。
 ドイツ料理はソーセージとジャガイモが、どっさり使われると、だれかに教えて貰った。いくらポテトチップスが好物の娘もうんざりするほどだったのだろう。それにアジア米。調理する人の顔も心も見えない。娘の口に合わなかったのも当然なのかも知れない。
 先だって国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に和食が登録された。和食の魅力が世界を凌駕する日も近い。
 しかし、国内で食品の虚偽表示などの問題が表面化した。人の命を育み、喜びや癒しを与えてくれる食の世界に欺瞞などとは論外である。それが表面化した以上、食の意味を真摯に見詰め直す最高の好機に代えるべきだ。
 下味に愛が必須の家庭料理とまではいかなくても、食べる人へのちょっとした思いやりを忘れない料理が世界中に浸透してほしいと願うのは欲に過ぎるだろうか。
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再会

2019年02月19日 00時40分47秒 | Weblog
小学校からの帰り道、
いつも友達は私の話に耳を傾けた。
勉強は苦手だったが、
図書室で本にかじり付いていた私。
いつしか即興で話をつくるようになった。
家に帰り着くまで四十分近く、
夢中で語っていた。
「お前のお話、
面白いなあ。
明日も楽しみや」
 別れ際に必ずそういった友達。
のちに東大に進学した優秀な彼と、
程ほどの成績しか取れなかった私。
釣り合わない二人をつないだのは、
思いつくまま語る
私のお話だったのだ。
 高校に入る頃には、
二人の接点は全く無くなった。
当時の国鉄に入り、
順調に出世した彼と、
調理師で
仕事を転々とした私との格差は、
高校時代から歴然たるものとなった。
 先日、
村の寄り合いで、
六十年ぶりに会った彼。
引退して帰郷、
村入りを果たしていた。
彼はすぐに私を見つけて
相好を崩した。
「忘れてへんで。
お前の話
面白かったやんか」
 お互い白髪と皺が目立った。
年を食って
また友達になれたと、
不覚にも目が潤んだ。
 
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六年前の原稿

2019年02月18日 02時06分43秒 | Weblog
「男っちゅうのは一生に家一軒建てなあかん」
 咲き誇る向日葵がビシリと埋め尽くした畑を見下ろながら父は言った。小柄な父の背丈を二倍は上回る茎の成長ぶりに驚く。大輪の黄色い花は一斉に空を睨んでいた。
 父の思いとは裏腹に、息子の気持ちはよそを向いていた。別に自分の家を持ちたくはなかった。そこにかけるお金は、もっと他に使えば、より有意義である。住まいは借家で充分だ。
 二十数年前、実家を出て仕事に就いて以来、アパートや借間を転々とした。さほど不便はなかった。むしろ好都合だった。いちいち家に必ず戻らねばという強迫に近い義務感を持たなくてもいいのだ。いやになれば次へ引っ越せばいい。
「どないや、ここでお前の家を建ててみいひんか?」
「うん?…家はいらんわ。そんな金持ってないし無理や」
「アホ!お前ひとりやったら、それでええわい。いまのお前には大切な家族がおるんやろが。三人の子どものためにも、家を建てるんが、父親の心意気や。金なら、わしが保証人になったる。農協で貸してくれるわ」
 父の言葉は私の心にビシッと響いた。そうだ。私には家族がいた。強く意識したのは初めてだった。父の一喝は、私に父親だとはっきり自覚させるのに充分だった。
「家族のためにお前の力で出来ることは、精一杯やったらんかい。家を建てるんは並みのこっちゃない。そやけど苦労したらした分だけ、自分の家やって愛着が湧くもんじゃ」
 養子に入って苦労した父。懸命に働き、自分の家族のため遂に家を建てた父である。その言葉には千金の重みがあった。その父の子どもである。私のいまやるべきことは、自分の家族の家を建てることだった。
 
真夏。炎天下に向日葵畑に入った。雑木を刈り取る厚手の鎌を振るって、向日葵の固くなった茎を刈り取った。汗まみれの奮闘も遅々として捗らぬ作業。何度となく抛り出してラクになりたいと思った。その誘惑は、父や家族の顔を思い浮かべては振り払った。家を建てる夢の実現への一里塚に、もう迷いは微塵もなかった。
 刈り払った向日葵の山に火を放って焼くと、広々とした畑地が広がった。満足感が全身に広がる。やっと家作りが始まる。
 
敷地の造成は、ブリキ屋の父の建設仲間の土建屋が安く施工してくれた。そして建前に突っ走る。大工は従兄だった。私は彼らの手足となって駆けずり回った。土や砂を運び、丸太の皮をはぎ、製材した板や角の部材を乾燥するのに躍起となって汗を流した。壁の下地に組んだり編んだりする竹の伐り出しや加工も……仕事は私の想像を絶するほどあった。しかし、もう私の足は決して止まらなかった。
 家を建てる!それは、もう私ひとりの夢でも目標でもなかった。父の、妻の、三人の子どもたちの笑顔が、いつも共にあった。彼らの支えを強く感じた。家を建てる、家を持つ。その意味を私はようやく悟った。
 
家が完成するまで、なんと三年かかった。四季の移り変わりを見ながら、私は家が生命を得るまでの道程を共に走り続けたのだ。
 
あれから二十七年。我が家の庭には家を建てた記念に植えた桜の木が大木となって、屋根の上に枝を四方八方に広げている。春を迎えれば満開の花で埋め尽くされる。
 この家で育った子どもたちも、それぞれ巣立った。長女は結婚した。長男と次男は名古屋の方で働いている。残るは家を建てている最中に授かった末娘だけ。彼女はこの春から大学生だ。
「そろそろ、二人になる準備をしなくちゃあね。こんな広い家じゃ持て余しちゃう。リフォームして、もっとちっちゃくしようか?」
「いや。この家はこのままでいい。また子供たちが気楽に戻って来られるように……!」
 妻の言葉に、私は頭を強く振った。
 まだまだだ。この家の役割はまだ終わっていない。私の一生に一度を担ってくれた家を、可能なら私の子どもが引き継いでくれるだろう。この家が育ててくれた四人の子どもたちの誰かが、この家の主になってくれる。
 子どもらの家族が、そしてその子供らが……家はそんな私の家族を守り続けてくれるのは間違いない。そんな家を、私は建てたのだ。
(わかったな。僕の家族はきみといつまでも一緒なんだぞ。これからもよろしくな)
私は家に語り掛けた。
何も答えてくれないが、見上げる私の視界に超然と聳える、私の家…父の、私の家族たちの家は、何もかも鷹揚に包み込んでくれている。

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四年前の原稿

2019年02月17日 09時39分41秒 | Weblog
古希を迎えて以来、
段ボールにいっぱい詰まったままの
書きなぐった原稿用紙を整理し始めた。
断捨離の一環である。
ところが懐かしくて、
ひとつひとつに見入ってしまう。
あの日、あの時の私を、
思い出しながら、
今日も薄汚れた原稿用紙を開いた。

「将来飲食店で独立するんやね。ならここで思い切り勉強したらいいじゃないか」
 調理師学校に紹介されたH商工会議所内のレストラン。面接相手は何のこだわりも見せない。自分の店を持つまでとハシゴ的な身勝手過ぎる求職者を「いいよ、いいよ」という感じで迎えてくれる。終始ニコニコと緊張感や余分な考えを包み込む。それがY専務だった。二十一歳の若者には父親同然に見えた。
 レストラン勤めは順調だった。調理師学校で学んだ調理技術は、職場の上司M調理主任のおおらかな指導のもと生かされた。優しい同僚たちにも恵まれて楽しく仕事をした。
「専務さん、仲人をお願いできますか?」
 就職して2年目。つきあっていた彼女と結婚を決め、Y専務のもとを二人で訪れた。
「ほうか。結婚するの。喜んで引き受けましょ」
 彼女と二人、感謝の頭を下げた。
 Y専務はすぐに動いた。結納で彼女の親元に出向き、結婚式場も早速押さえた。レストランと提携する結婚式場だった。
「これはというメニューを考えてやるよ。きみには一生に一度の晴れ舞台だからな」
 W主任も喜んだ。同僚らの好意的な冷やかしも心地よく嬉しかった。
「ありがとうございます!」
 何度も頭を下げながら、にやけた。
 それが3週間後、事態は一変した。
「結婚するの自信ない。…結婚できない…!」
「え?」
 寝耳に水だった。前日までは二人の未来をあんなに幸せいっぱい語っていたのに。
 彼女の心を取り戻すべく懸命に慰留したが、無駄だった。彼女の思いは決意に変わった。
「結婚はやめる!」
 初めてだった恋愛経験、その彼女との結婚しか考えられなくなっていた私には大ショックだった。しかし、もう彼女に取り付く島はなかった。
 何も考えられなくなり、職場を無届けで休み、アパートの自室にこもった。死にたいと思ったが、それを実行する勇気はない。知り合いの誰とも会いたくなかった。ただ布団を頭からかぶってモグラ状態で過ごした。
(…どうしたらいいんだろう?親には…専務さんは…主任さんは…)
 どの人にも申し訳ないが先に立つ。やっと落ち着いても、破談の後始末なんて、考えられるはずがない。職場の上司や同僚の顔を思い浮かべ、焦燥感に押しつぶされそうになるだけ。結局3日間、アパートは出られなかった。
 誰かがドアを叩いている。フラーッと玄関に移動した。でもドアのノブに手は出なかった。何度も何度もドアを叩いたあげく相手はようやく諦めた。「ホッ」と緊張が解けたとき、郵便受けに何かが差し込まれた。一枚のメモ書きだった。
 ドアの向こうに気配が消えたのを確かめると、やっとメモを手にした。
『みんな心配している。きょうの夕方、仕事終わりに専務と一緒に来るから、7時頃、家にいてくれよ M』
 3日間何も連絡せずに休むスタッフを心配した主任が、ワザワザ来てくれた。(忙しいのに…)また申し訳なくて堪らなかった。
時間を指定されてしまっては、もう居留守を使う訳にはいかない。Y専務とM主任、あの優しい上司と顔を合わせないわけにはいかない。
「オレ、外で待ってるからな」
 M主任の気配りで、私はY専務と二人きりにされた。罪悪感いっぱい、気まずい思いにいる私を慮った専務は先に口を開いた。
「お父さんに☎を貰った。向こうさんの家から連絡があったそうだ。えらく心配されていたよ」
 すべてを専務は知っている。それなのに、全く変わらない笑顔が目の前にあった。
「…ぼ、ぼく…」
「無理しなくていいから。ややこしい手続きは私がやっておくから。きみはこの週末まで休みをとるといい。落ち着いたら仕事に出なさい。みんな待ってるよ。きみがいないと寂しいんだってさ」
 ボロボロと涙が出た。
「ただ、どんなことがあっても、自分だけで持ち込むんじゃないよ。ご両親だって、僕も主任も、ちゃんと相談に乗れるんだから。せっかく出会えた相手だろ。大事にしなきゃ」
 何も言えない。止めどもなく流れ落ちる涙を頻りに拭った。
 週明けに職場へ。何とも言えない気恥ずかしさは、同僚たちがすぐ忘れさせてくれた。
「これからの君は、今回のことを生かして、強く成長しなきゃいけないよ。人任せの人生は何度も繰り返さない。いいね、約束だ」
 改めて詫びる私に向けたY専務の言葉は、私の胸に深く刻まれた。
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孫の誕生で

2019年02月16日 00時54分14秒 | Weblog
十二月十五日、二人目の孫が誕生!
産院へ足を運んで、娘を祝福。幸せいっぱいの様子に目がウルウルした。年を取ると、涙腺が緩むというが本当である。
母子ともに健康な姿を見て、やっと幸せに浸れた。といっても、初孫誕生の時の比ではない。あの日に書いた原稿を引っ張り出した。日の目を見ないままにしまい込んでいたものだ。じいじになった喜びと幸福感が、妻との出会いを思い出させていたのが懐かしく記されていた。
二〇一六年一月十四日記
「お義父さん、赤ちゃんいま生まれました」
 長女の夫からの連絡だった。
夢にまで見た初孫誕生!いま六十七歳。遅いといえば、遅いおじいちゃんである。
 おもむろに尋ねる妻。
「どんな気持ち?おじいちゃんよ」
「ピンと来やへん。俺がおじいちゃん……?」
「素直に喜べば。すべて順調ってことでしょ」
 確かに順調だった。授かった子供四人を無難に育て上げ、さほど問題のない人生を送って来ている。
 でも、モヤモヤしたものは脳裏に残ったままだった。結婚する際、妻と交わした約束を実現するどころか、諦めた形になってしまっているからだ。。
 三十五年前、いっぱいの夢と希望に満ちた未来へ胸をふくらませる高校生の妻に出会った。駅ビルの喫茶店調理場に勤める三十男の私と彼女の共通項は、演劇だった。
 全国大会で賞を取った高校演劇部の部長だった妻。社会人になっても演劇を続けたいと、私が主宰するアマ劇団に入ってきた。他のメンバーとは雲泥の差だった芝居にかける情熱は、いつしかグループのリーダー的存在になった。
 ちょうどその頃、私は念願だった喫茶店経営に踏み切った。社会に出た時から抱き続けた夢の実現である。開店準備に奔走する私を見かねたのか、彼女はアルバイトを申し出た。 
 彼女は最高の助っ人だった。短大に通いながら、時間があればアルバイトに駆けつける彼女に信頼は増すばかりだった。。
 短大を卒業する直前に彼女の逆プロポーズを受けた。女性との付き合いが苦手で結婚を諦め、自分の店と劇団に人生を賭ける覚悟をしたばかりだった。
「ひとりでバタバタしてるん見てられへん。かわいそうやから私がそばにいてやるわ」
 その日から私は彼女をひとりの女性と認めた。結婚を前提に付き合いが始まった。しかし、店の経営は生半可なものじゃない。人並みなデートもできない。それでも、店が終わると、できるだけ顔を合わせた。
 あれは、赤穂の海岸だった。星を見上げながら、私は彼女に結婚を申し込んだ。
「一緒に生きていこう。君でないと僕の人生のパートナーは務まらない」
 自分でも恥ずかしくなるキザっぷりだった。
「子供ができても、芝居作りは絶対やめへん。家族で劇団作って田舎を巡演して回ろう」
「それ本気なの?」
「ああ。僕と君をつなぐのは芝居なんだ。生涯二人で芝居をやっていかなきゃ。約束する」
「うん!約束だよ。じゃ結婚してあげる」
 今思えば青臭い宣言だった。それでも、あの瞬間、二人の絆は強く結ばれたのだ。
 子供に恵まれてからも、約束通り劇団活動を続けた。喫茶店も順調だった。
 三人目の子供を授かると、生活は大きく変わった。大黒柱の責任が重くのしかかった。子供らの将来を考えれば、収入を優先しなければならなくなった。劇団活動をしばらく休むことにした。結局、そのまま芝居は諦めざるを得なくなった。四十五年近く続けた芝居への未練を犠牲にした。いつか再開するとの思いを心の奥深く刻んだ。
 以来、仕事に専念した。不審になった喫茶店を閉めて、ほかの働き口を掛け持ちした。妻も共稼ぎで、育児家事に奮闘した。
 夫婦の頑張りは、四人の子供をそれなりの社会人に育てあげた。大学教育も受けさせた。親のやるべきことを、ついにやり遂げたのだ。
「いまさら芝居できっこないよなあ」
「当たり前やん」
 即答する妻に、芝居はもう思い出なのか。
「ごめんな。お前との約束、果たせなんだわ」
 私の中には、まだあの頃の青春が、影は薄くなってもちゃんと残っている。
「約束やなんて、あんなもん破るためにあるんや。おかげで、私ら幸せになったやんか」
 そう。あの約束をしゃかりきになって守っていたら……!いま私たちに笑顔はなかったかもしれない。複雑な思いで妻を見やった。
(お前の笑顔を絶やさんように頑張らなきゃ)
 それは妻にする、人生最後の約束だった。
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詩 じいじとばあば

2019年02月15日 02時43分49秒 | Weblog
にやけてしまう
相好を崩すというが
情けない顔がすぐ浮かぶ
それでもいい
誰彼に見せつけてやろう
最高の幸せを

無事に生まれたよ
メールは娘から
二人目の孫 誕生
ばんざい!万歳!
よくやった わが娘よ

「思い切りにやけとるよ」
そういう妻も
ごまかしかねている
底抜けのにやけ顔を
隠すな 勿体ないぞ
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通信発行

2019年02月14日 00時31分33秒 | Weblog
わが家で開設中の、
根日女創作倶楽部@まちライブラリーの
通信がは降雨できました。
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は?

2019年02月13日 08時24分52秒 | Weblog
 部分入歯を支えていた歯が駄目になったので歯医者へ。総入れ歯も覚悟していたが、それはまだ先のようであると分かり安心した。
 しかも歯の状態を診るためのレントゲンとケア診断で、なんとまだ二十二本の歯が残っていると判明した。十本も残っていないのではという不安が解消されて嬉しい限りである。
 八十歳で自分の歯を二十本残そうという『8020運動』をよく耳にするが、あと十年もあるから、達成できるかどうかは自信がない。若い時の十年とはまるっきり違うからだ。
 ただ残っている歯を守る努力をしようと思う。いまですら硬い食べ物を食べるのに四苦八苦している。歯を失えば、食べる楽しみがなくなってしまうのは容易に想像がつく。そうなれば生きている意味が半減する。やはり命ある限り、おいしく食べ続けたいと誰しも願うはずだ。私も例外ではない。
 歯を磨きキシリトールのタブレットを舐める。重曹でウガイも欠かさず頑張るしかない。 
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2019年02月12日 02時13分10秒 | Weblog
2月の雪にこりごりの朝。
娘を高砂まで送り届けるのに付き合って
5時三十分起きです。
大阪で遊んで飲んでくるというので、
仕方なく父親の出番でした。
しかし、雪の降る中、
車を走らせるのは及び腰になります。
現役のころ深夜に働いていたので、
冬場の凍えた道の怖さは何度も経験済み。
アイスバーンを5メートルぐらい滑走したり、
車が道路上で一回転して死ぬ思いをしたことも。
それに、
ここしばらくは車に乗らない日が殆ど。
ハンドルを握る手がガチガチで、
いや^^、家に帰り着くまでの
往復二時間余りのドライブ。
ほんとしんどかったなあ~~!(笑)、
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朗報

2019年02月10日 00時27分58秒 | Weblog
表彰式に行けなかった
岐阜の北方町から
表彰状と賞金と作品集が届きました。
年を取るたびに
益々遠出が億劫になってしまい、
岐阜行きを諦めてしまって、
主催の方に申し訳なく思っていたのに、
丁寧極まる対応を頂き、
恐縮するばかりです。

しかし、
自分の作品が活字になっているのを
読むのは最高ですね。
活字世代には答えられないですよ。
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