最新のR&Bチャートをご紹介

最新のR&Bチャートをご紹介します。
速藤年正 Toshimasa Hayato

ケニー・ロジャース「愛・ひととき」

2005年05月30日 20時25分09秒 | 全米チャート
kenny_rogers

今回は、カントリー界のケニー・ロジャース(Kenny Rogers)とポップス界のシーナ・イーストン(Sheena Easton)によるデュエット「We've Got Tonight」を紹介します。

キム・カーンズ(Kim Carnes)、グラディス・ナイト(Gladys Knight)、ドリー・パートン(Dolly Parton)をはじめ、もともとケニー・ロジャースにはデュエットのヒット曲が多かったのですが、大ベテランのケニー・ロジャースにデビュー3年目のシーナ・イーストンというコンビは、当時としてはかなり異色な組み合わせでした。今で言えば、北島三郎と松浦亜弥のデュエットみたいな感じでしょうか…。

さてさてそのクオリティですが、これが最高なんですよ、ホントに!

まず、ソングライトはボブ・シーガー(Bob Seger)。ロックグループ、ボブ・シーガー&ザ・シルバー・ブレッツ・バンドの中心人物です。1982年に「Shame On The Moon」(1983年全米シングルチャート2位)が大ヒットしましたが、この「We've Got Tonight」と共通する哀愁ムードいっぱいのバラードナンバーなので、機会があったらぜひ聴いてみて下さい。

そして、プロデュースはデヴィッド・フォスター(David Foster)。今やスーパープロデューサーとして君臨する音楽界の重要人物です。そう言われると、イントロ部分のピアノなんてデヴィッド・フォスターらしい孤高のアレンジだと思いませんか??

優しく歌い出すケニー・ロジャースに、透き通るようなハイトーンで答えるシーナ・イーストン。デヴィッド・フォスターのアレンジも徐々にクライマックスに近づき、1分48秒の部分からこれ以上ないほどディープに攻めてくるケニー・ロジャース。二人同時に歌い始めた直後(2分05秒近辺)のゴージャスなアレンジなんて、もう感涙モノですよ。これでもかと盛り上げるデヴィッド・フォスターのアレンジ(2分18秒近辺)に、本日最大のシブさで歌うケニー・ロジャース(2分21秒近辺)。そこにいきなり(2分33秒近辺)トップスピードで歌い込んでくるシーナ・イーストンが、なんてったって最高じゃないですか。デビュー3年目にしてこんな歌い方(切り込み方)ができるんですから、グラミー新人賞もダテじゃないですよ。いや~、改めて聴いてもいまだに3回は鳥肌が立ちますね。

ちなみに「We've Got Tonight」の邦題タイトルは「愛・ひととき」です。

デュエットの多いケニー・ロジャースはデュエットアルバム『Duets』(1984年)なんていう作品も発表してますが、シーナ・イーストンとの「We've Got Tonight」は、ケニー・ロジャースの1983年のアルバム『We've Got Tonight』からの1stシングルとしてカットされ、全米シングルチャート6位をマーク。もちろん、デュエットアルバム『Duets』にも収録されています。

国宝に認定したほうがいいんじゃないかと思うほどの名デュエット「We've Got Tonight」は、個人的評価☆☆☆☆☆(五つ星)の大オススメ作品です。

■ケニー・ロジャース■
1938年8月21日テキサス州ヒューストン生まれ。高校時代にロカビリーバンドのThe Scholarsから3曲のシングルをリリース。高校卒業後ソロとして2枚のシングルを発表し、ジャズ楽団のThe Bobby Doyle Threeや、Kirby Stone Fourでベースを担当。Kirby Stone Four脱退後、マーキュリーレコードから何作かのソロシングルを発売するがヒットに結び付かず契約は解消。1966年フォークバンドのThe New Christy Minstrelsに加わり、1年後の1967年に自らのカントリーグループ(The First Edition)結成に向け何人かのメンバーとバンドを脱退。大手リプリーズレコードと契約したThe First Editionは1968年にシングルデビューを飾り、1969年にKenny Rogers & The First Editionと名称変更。1960年代後半から1970年代前半にかけて数多くのヒット曲を生み出し、自らのテレビ番組を持つほどの人気振りを見せるが、シングルセールスは徐々に落ち込み、1973年リプリーズと離別。ケニー・ロジャースの独自レーベルに移籍後も不調は続き、1974年ケニー・ロジャース脱退、1975年バンド解散となる。多額の負債を抱えてしまったケニー・ロジャースは、アダルトコンテンポラリーを意識したポップなカントリーミュージック路線で再スタートを切り大成功。1976年から1984年の間にリリースされたアルバムは、すべてがゴールドアルバムかプラチナアルバムに輝いている。中でもライオネル・リッチーがソングライト&プロデュースを手がけた「Lady」(1980年11月15日付全米チャート1位~6週連続)が初の全米ナンバーワンを獲得するとともに、ビージーズのソングライトによるドリー・パートンとのデュエット「Island In The Stream」(1983年10月29日付全米チャート1位~2週連続)も全米ナンバーワンをマークした。テレビ番組のレギュラーや映画俳優としても人気を集め、最近ではアルバムリリースと並行して、チャリティコンサートの運営、ファーストフードチェーン(Kenny Rogers' Roasters)の経営など、幅広い活躍ぶりを見せている。

■シーナ・イーストン■
1959年4月27日スコットランド生まれ。バーブラ・ストライザンドのアルバム『The Way We Were』(1974年)に影響を受け、シンガーの道を志して王立スコットランド音楽大学に入学。卒業後、オーディションからデビューに至る道のりを1年間にわたって追い続けるイギリスBBCテレビのドキュメンタリー番組『The Big Time』に出演。これがきっかけでEMIレコードとの契約が成立し、デビュー曲「Modern Girl」(1980年イギリスシングルチャート56位、再エントリー後8位を記録)、2ndシングル「9 to 5」(1980年イギリスシングルチャート3位)の2曲がトップ10ヒットに結び付く。イギリスでの1stアルバム『Sheena Easton』(1981年)リリースに続き、アメリカデビューも決定。大御所ドリー・パートンのヒット曲「9 to 5」(1981年2月21日付全米チャート1位~2週連続)との混同を避けるため「Mornig Train (Nine to Five)」と改題された同曲は、1981年5月2日付全米チャートで2週連続のナンバーワンをマーク。ロジャー・ムーア主演映画『007 ユア・アイズ・オンリー』主題歌「For Your Eyes Only」(1981年全米チャート4位)のヒットに続き、第24回(1982年開催)グラミー賞で最優秀新人賞を受賞した。1984年のアルバム『A Private Heaven』では、1stシングル「Strut」(1984年全米チャート7位)や、ソングライターにプリンスを迎えた2ndシングル「Sugar Walls」(1985年全米チャート9位)など、従来の清らかなイメージとはまったく違ったセクシーな一面も披露。ベイビーフェイスが10曲中5曲のプロデュースを手がける1988年のポップなアルバム『The Lover In Me』リリース後、ドン・ジョンソン主演のテレビドラマシリーズ『Miami Vice』にも出演。ミュージカル『ラ・マンチャの男』のステージを務め、ジャズやスタンダードを歌ったアルバム『No Strings』(1993年)や、ディスコの名曲カバーでつづるアルバム『Fabulous』(2000年)などもリリースしている。


DSC00002全然関係ありませんが、現在ニューヨークに来てます。すごくいい天気です。HOT97でもMTVでもマライア・キャリーの「We Belong Together」がかかりまくってます。さすが全米ナンバーワンですね☆ 2005年5月30日、タイムズスクエアにて。

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メイズの「When You Love Someone」

2005年05月26日 13時06分18秒 | 全米チャート
Maze

今回は、男性7人組R&Bグループ、メイズ・フィーチャリング・フランキー・ビヴァリー(Maze Featuring Frankie Beverly)の「When You Love Someone」を紹介します。

心を和ませてくれる優しいサウンドと、フランキー・ビヴァリーのなめらかなシルキーヴォイスで包み込んでくれる「When You Love Someone」は、彼らのライブアルバム『Live In Los Angels』(1986年)に収録されていた新曲で、アルバムからの2ndシングルとしてカットされ、1986年12月13日付R&Bチャート38位を記録。ちなみにポップチャートにはエントリーしませんでした。

まあ、名曲はそんなにヒットしなくてもいいんですよ…。たまにレコード盤に針を落として、「ああ、いい曲だよなぁ」とじっくり感慨にふけるだけでシアワセになれますから…。きっとフランキー・ビヴァリーだって、チャートの上下より、21世紀に入ってもいい曲だと聴き続けてもらえるほうがうれしいんじゃないですかね??
30秒間の試聴もできますので、ぜひトライしてみてください。

マーヴィン・ゲイ、スモーキー・ロビンソン、ルーサー・ヴァンドロス、マイケル・マクドナルド、ジェフリー・オズボーンなど、シルキーヴォイスという形容詞が当てはまるシンガーはたくさん存在しますよね。でも、つやっぽくなく、セクシーでもなく、ディープでもない、純然たるシルキーヴォイスというのはフランキー・ビヴァリーだけだと思うのですが、いかがでしょうか??

当時レコード盤で発売された2枚組のライブアルバム『Live In Los Angels』は、1枚目のA面にライブ4曲、B面にライブ4曲、2枚目のA面にライブ3曲、B面にスタジオ録音の新曲4曲という構成でした。
ライブだとアレンジを変えてたり、声が出てなかったり、演奏がイマイチだったりと、同じ曲でもアルバムバージョンのほうが格段に聴きやすいっていうことがありますよね?? メイズ・フィーチャリング・フランキー・ビヴァリー自体もともとライブに定評のあるグループなので、1枚目のA面から2枚目のA面ラストまで通して聴くとホントにその会場の一番前にいるような興奮が伝わってきます。
その熱い感動の直後にスローナンバーの「When You Love Someone」が出てくると、ライブでヒートアップしたカラダをクールダウンさせてくれるかのような心地いい優しさに包まれること間違いナシですよ!

あまりヒットしなかったメイズ・フィーチャリング・フランキー・ビヴァリーの「When You Love Someone」、個人的評価☆☆☆☆☆(五つ星)の大オススメ作品です。

■メイズ・フィーチャリング・フランキー・ビヴァリー■
グループの創設者であり、プロデューサー兼ソングライターのフランキー・ビヴァリーは、1946年12月6日、ペンシルヴァニア州フィラデルフィア生まれ。本名ハワード・ビヴァリー。1956年にわずか9歳でドゥーワップグループのフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズの影響を受け、自らをフランキーと呼ぶ。教会で歌っていたフランキー・ビヴァリーは、12歳で地元ドゥーワップグループ、シルエッツ(Silhouettes)に加わり、1959年からツアー参加。1960年代初頭に入り、自らのグループ、ブレンダーズ(Blenders)を結成するが、ブレンダーズ解散後の1963年、ノーザンソウル系グループ、ザ・バトラーズ(The Butlers)を作り再スタート。地元のマイナーレーベルから何枚かのシングルを発表するも不発に終わる。1970年、フランキーは新たにロウ・ソウル(Raw Soul)を結成し地元レーベルから3曲のシングルをリリース。フィラデルフィア出身=フィリーソウルというカテゴリーから脱却するため、1971年にはサンフランシスコのベイアリアに活動拠点を移す。サンフランシスコやオークランドで演奏活動を続ける中、彼らのアイドル的存在であったマーヴィン・ゲイがフランキー・ビヴァリーの歌唱力とソングライト能力に感銘を受け、グループをキャピトルレコードに紹介し、1976年にメジャー契約が成立。彼らはマーヴィン・ゲイからグループ名を変えたほうがいいのではというアドバイスを受け、メイズ・フィーチャリング・フランキー・ビヴァリーに改名。1977年のデビューアルバム『Maze Featuring Frankie Beverly』はゴールドアルバムに輝き、何人かのメンバーチェンジを繰り返ものの、1978年の2ndアルバム『Golden Time Of Day』、1979年の3rdアルバム『Inspiration』、1980年の4thアルバム『Joy And Pain』と、立て続けにゴールドアルバムを生み出す。R&B界最高のライブパフォーマンスと称された彼らは、1981年に新曲入り2枚組ライブアルバム『Live In New Orleans』をリリース。1983年のオリジナル5thアルバム『We Are One』、「Back In Stride」(1985年4月13日付全米R&Bチャート1位~2週連続)の全米R&Bナンバーワンを生んだ6thアルバム『Can't Stop The Love』に続き、新曲入り2枚組ライブアルバム『Live In Los Angels』(1986年)を発表。1989年にキャピトルを離れワーナーに移籍。移籍第一弾となる7thアルバム『Silky Soul』からは、1stシングル「Can't Get Over You」(1989年9月23日付全米R&Bチャート1位~2週連続)がR&Bナンバーワンに輝くとともに、マーヴィン・ゲイにささげた「Silky Soul」(1990年1月20日付全米R&Bチャート4位)もヒットを記録。北米とヨーロッパツアーの後、充電のために長期の休養を取るが、1993年に8thアルバム『Back To Basis』をリリース。彼らはツアーのオープニングアクトに新人時代のトニ・ブラクストン、アニタ・ベイカー、レジーナ・ベルといったアーティストを積極的に起用し、パフォーマンスの機会を与えたことでも知られている。


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レネ・マーリン「Unforgivable Sinner」

2005年05月23日 11時53分02秒 | 全米チャート
lene_marlin

今回は、ノルウェー生まれの女性シンガーソングライター、レネ・マーリン(Lene Marlin)の「Unforgivable Sinner」を紹介しましょう。

レネ・マーリンも、先にピックアップしたトリーネ・レインと同じノルウェーの出身(トリーネ・レインの場合はアメリカ生まれですが…)。高校時代に歌った「Unforgivable Sinner」があっという間に大ヒットを記録し、ノルウェーだけでなく、全世界から愛される女性シンガーソングライターに成長しています。

切なくも叙情的なメロディとシンプルなサウンド。しんの強いクリアな歌声。とても17歳とは思えない存在感で心を揺さぶる「Unforgivable Sinner」は、デビューアルバム『Playing My Game』(1999年)からの先行シングルとしてカットされ、ノルウェーのヒットチャートで8週連続のナンバーワンを獲得。

ところで、レネ・マーリンとトリーネ・レイン以外のノルウェー出身シンガーをご存知ですか?? もちろん、ノルウェー出身のシンガーを何人でもいいので答えてくださいとシンプルに質問されたって、通常であれば、レネ・マーリンとトリーネ・レインだって思い付きませんよね…。全米チャートでナンバーワンを獲得しているノルウェーのグループが一組だけ存在したんですよ。答えはオスロ出身男性3人組のa-haです。超高速ビートの「Take On Me」が1985年10月19日付全米チャートで1位を獲得。そのほか、アバのフリーダもノルウェー出身です。
ヨーロッパで毎年行われているEurovision Song Contestでも、長い歴史の中でノルウェー勢がグランプリに輝いたのはわずか二度だけ。女性2人組のThe Bobbysocks「La Det Swinge (Let It Swing)」(1985年)と、ヒーリング系男女2人組のSecret Garden「Nocturne」(1995年)の2組ですが、どちらもあまりなじみがないですよね…。

音楽とは全然関係ないですが、いつだったかロンドンの和食店でマグロの刺身を注文したら、メニューにノルウェー産と書いてあったのを今でも覚えています。

2005年6月ごろ待望の3rdアルバム『Lost In A Moment』発売予定のレネ・マーリン。彼女の記念すべきデビューシングル「Unforgivable Sinner」は、個人的評価☆☆☆☆★(四つ星)のオススメ作品です。

■レネ・マーリン■
1980年、ノルウェー北部のトロムゼ生まれ。高校入学後の15歳でギターを持ち、友達とグループを作ってギター演奏やソングライトを始める。1997年の夏、オリジナル曲を歌う才能豊かなティーンエイジャー(=レネ・マーリン)発見という情報がNRK (ノルウェーのテレビ・ラジオ局)に届き、ラジオ局側はトロムゼ支局でのスタジオ録音を打診。このデモテープがVirginレコードのマネージメントディレクターに渡りメジャーデビューのきっかけをつかむ。わずか17歳でのリリースとなったデビューシングル「Unforgivable Sinner」はノルウェーのシングルチャートで8週連続1位をマーク。2ndシングル「Sitting Down Here」、3rdシングル「Where I'm Headed」のヒットも飛び出した1999年の1stアルバム『Playing My Game』は、ノルウェー、イギリス、フランス、スウェーデン、デンマーク、イタリアでプラチナアルバムに輝き、一瞬にして国際的なスターに君臨。しかし成功の絶頂にあったレネ・マーリンは、自分の生活がいかに劇的に変わってしまったか、そしてスターの地位は自分が本当に望んでいたものなのかを考え直すためにオフを取る。4年間のブランクを経て発表された2ndアルバム『Another Day』(2003年)からは、「Another Day」、「You Weren't There」の2曲がシングルヒット。その後、ミケイラ(Mikaila)「So In Love With Two」(2001年1月6日付全米チャート25位)、ミスティーク(Mis-Teeq)「Scandalous」(2004年7月10日付全米チャート35位)といったプロデュースで知られる3人組プロデューサーチームのスターゲイト(Stargate)とプロジェクトを組み、レコード会社に内密のままトロンヘイムにある彼らのスタジオでニューアルバムを録音。ある日レコード会社に新しい曲ができたことを伝え、スタッフからデモで何曲か歌ってほしいと頼まれたレネ・マーリンは、独自に完成させていたアルバムを差し出す。果たしてレコード会社の指示や意向をまったく取り入れていないアルバムは認められるのか?? アルバムを聞いたスタッフの評価は「最高!」の一言。2005年6月8日国内盤発売のニューアルバム『Lost In A Moment』からは、「How Would It Be」が1stシングルとしてカットされている。


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トリーネ・レイン

2005年05月19日 00時29分12秒 | 全米チャート
trine_rein

今回はノルウェーの歌姫、トリーネ・レイン(Trine Rein)の「Just Missed The Train」を紹介します。

陽気なスウェーデンポップスとは対照的に、冷たい影をも感じさせる深遠な歌声と北欧のノスタルジーを詰め込んだ郷愁サウンドの「Just Missed The Train」は、トリーネ・レインの1stアルバム『Finders Keepers』(1993年)からのヒットナンバーです。
最近では、初代アメリカンアイドルのケリー・クラークソン(Kelly Clarkson)が1stアルバム『Thankful』(2003年)で取り上げたり、椎名林檎が歌っている映像がスカイパーフェクTVのスペースシャワーTV(265チャンネル)やテレビ朝日系『AXEL』で流れたりしたので、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか??
ちなみに、デビュー前の椎名林檎(当時はグループで参加)が高校2年生のときにヤマハ主催の音楽フェスティバル全国大会で同曲を歌い激励賞を受賞しています。

この「Just Missed The Train」は、女優としても活躍していたアメリカのシンガーソングライター、ダニエル・ブリズボワ(Danielle Brisebois)がオリジナル。1993年にトリーネ・レインがアルバム『Finders Keepers』で取り上げ、1994年にダニエル・ブリズボワが自身の1stアルバム『Arrive All Over You』でセルフカバーしました。

カバー曲に関しては、トリーネ・レインの2ndアルバムからのヒット「Torn」を何人かのアーティストがカバーしてますよね。
最も有名なのがナタリー・インブルーリア(Natalie Imbruglia)の「Torn」で、デビューアルバム『Left Of The Middle』からの1stシングルとしてカットされ、1998年12月12日付全米チャート42位、1998年4月11日付全米モダンロックトラックスチャート12位、1998年9月5日付全米アダルトコンテンポラリーチャート4位をマーク。フレッシュでキュートな歌声が魅力的なカバーです。
次に有名なのが、ダンスポップシンガー、ナタリー・ブラウン(Natalie Browne)の「Torn」でしょうか。キラキラのダンスポップに生まれ変わった「Torn」は、1998年6月20日付全米ダンスシングルセールスチャート13位を記録するとともに、日本のオムニバスアルバム『ダンスマニア』シリーズにも登場しています。

何度聴いても心が切なさでいっぱいになってしまう名曲「Just Missed The Train」は、個人的評価☆☆☆☆★(四つ星)のオススメ作品です。

■トリーネ・レイン■
1970年サンフランシスコ生まれのノルウェー育ち。幼いころからポップスターにあこがれ、18歳でノルウェーのSaturnというグループにヴォーカル参加。1991年にはヒップホップとダンスの融合バンド、W.I.P.(World In Peace)の依頼により、グループの1stアルバム『The Songs We Write』(1991年)向けに女性コーラスをレコーディング。ここからの1stカット「Ghost Jam」が1991年の夏にノルウェーチャートのトップ10ヒットに輝き、シンガーとして認められたトリーネ・レインはEMIノルウェーとのレコード契約が成立。1993年11月発売の1stアルバム『Finders Keepers』はわずか1カ月で5万枚を売り上げ、ノルウェーの音楽史において最も成功したアルバムのひとつとなった。最終的に全世界で60万枚、ノルウェーで20万枚のセールスを打ち立て、ノルウェーのグラミー賞で新人賞を受賞。「Torn」のヒットが生まれた2ndアルバム『Beneath My Skin』(1996年)も30万枚のビッグセールスを樹立。昔からの夢であるポップスターの座を手中に収めたトリーネ・レインは、アメリカでの成功を目標に一路ロサンゼルスへ旅立つ。アメリカのプロデューサーも交えてレコーディングされた3rdアルバム『To Find The Truth』(1998年)は10万枚のセールスに終わったものの、2000年にはカリフォルニア永住を決意。リムジン会社で運転手のアルバイトをしながらソングライターやプロデューサーとのネットワークを作っていった。運転手としての評判が良かったトリーネ・レインは、リムジン会社から副社長ポストのオファーを受けるが、夢を追い続けるためにアルバイトを辞職。新天地を求めて愛車の赤いカマロに乗りひたすら南下。それから1週間、ノースハリウッドで住まいとアルバイトを見つけ、ミュージック・エクスプレスというリムジン会社での運転手を始める。当時のお客さんにはクインシー・ジョーンズやアッシャーもいたとのこと。そんなある日、ノルウェーのエージェントから、2004年にオスロ郊外で行われる夏のフェスティバルへの出演依頼を受ける。ノルウェーの全国紙にカムバックが大々的に報じられ、EMIノルウェーからもベストアルバム『The Very Best Of Trine Rein』(2004年)作成の打診が舞い込んだ。6週間にも及ぶサマーフェスタは大成功に終わり、現在は新作に向けてのスタジオ作業を開始させている。


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ジョン・セカダの「Just Another Day」

2005年05月16日 18時14分02秒 | 全米チャート
jon_secada

今回は男性ラテンシンガー、ジョン・セカダ(Jon Secada)の「Just Another Day」を紹介しましょう。

ラテンと言うと、リッキー・マーティン(Ricky Martin)「Livin' Da Vida Loca」(1999年5月8日付全米チャート1位~5週連続)みたいな陽気さが前面に出ますよね。でも、この曲やマーク・アンソニー(Marc Anthony=ジェニファー・ロペスの夫)「You Sang To Me」(2000年6月3日付全米チャート2位)のような切ないバラードも味わい深くて聞き所だと思うんですよ。そんなワケで、今回はラテンのバラード「Just Another Day」を取り上げてみました。

夕暮れの浜辺をイメージさせる切なくもメロディアスなサウンドをバックに、その夕日に向かってやるせなさをぶつけるように歌う「Just Another Day」は、ジョン・セカダの1stアルバム『Jon Secada』からの1stシングルとしてカットされて、1992年8月1日付全米チャート5位、1992年8月8日付全米アダルトコンテンポラリーチャート2位を記録。

ソングライトはジョン・セカダ、プロデュースはエミリオ・エステファン(グロリア・エステファンの夫)、バックコーラスはグロリア・エステファンと、ラテンのプロフェッショナルが豪華にサポートしたものの、全米チャート5位っていうのはちょっと残念な結果でしょうか。

ちなみに1992年8月1日付の全米チャート上位10曲を振り返ると、

01.Sir Mix-A-Lot「Baby Got Back」
02.Madonna「This Used To Be My Playground」★
03.TLC「Baby-Baby-Baby」
04.Billy Ray Cyrus「Achy Breaky Heart」
05.Jon Secada「Just Another Day」
06.Guns N Roses「Novemver Rain」
07.Tom Cochrane「Life Is A Highway」
08.Boyz II Men「End Of The Road」★
09.En Vogue「Giving Him Something He Can Feel」
10.The Cover Girls「Wishing On A Star」

…となってました。

サー・ミックス・ア・ロットの全米ナンバーワンが今となっては不思議ですが、★の付いてる曲はこの後全米ナンバーワンを獲得します。そのほかTLCとかガンズとか、結構な競合がひしめいていたんですよね。
個人的にはもうちょっと上がってほしかったものの、新人だったというハンデと、ポップフィールドの人じゃないというハンデと、競合が強かったというハンデを総合的に考慮すれば、やっぱり最高5位が妥当なのでしょうか。

この週のチャートは非常にいい例だと思うのですが、4位のビリー・レイ・サイラスなんて知りませんよね?? 7位のトム・コクランだって知ってる人は少ないのでは?? やっぱりナンバーワンになるからこそ人の耳と記憶に残るのであって、センター前ヒットよりホームランが必要なんでしょうかね、音楽界においては…。

1994年サッカーワールドカップ・アメリカ大会のオープニングセレモニーで「If You Go」(1994年7月2日付全米チャート10位)を歌ったり、トニー・モラン(Tony Moran)による「Too Late, Too Soon」のハウスリミックスが高値で取引されたりと、着実に知名度は上がっているジョン・セカダ。そのデビュー作にして最大のヒットとなった「Just Another Day」は、個人的評価☆☆☆☆★(四つ星)のオススメ作品です。


■ジョン・セカダ■
1963年キューバの首都ハバナ生まれ。1971年に家族でアメリカへ移住し、両親が喫茶店を開いたマイアミで育つ。マイアミ大学入学後はジャズヴォーカルを学び、グロリア・エステファンのアルバム『Into The Light』(1991年)で6曲のソングライトを担当。中でも、ジョン・セカダ自身がバックコーラスを務めた「Coming Out Of The Dark」(1991年3月30日付全米チャート1位~2週連続)は全米ナンバーワンに輝いている。その後SBKレコードとソロ契約し1stアルバム『Jon Secada』(1992年)を発表。ここから「Just Another Day」のヒットが生まれ、アルバムは全世界で600万枚のセールスを記録。R&B、ポップス、ラテンの融合が幅広いファン層を獲得し、英語圏のポップフィールドだけでなく、スペイン語圏のラテンシーンでも大活躍。スペイン語版『Jon Secada』はラテンアルバムチャートでナンバーワンを獲得するとともに、第35回(1993年開催)グラミー賞最優秀ラテンポップアルバム賞を受賞。英語2ndアルバム『Heart, Soul & A Voice』(1994年)からも「If You Go」のヒットが飛び出し、アルバムは100万枚のプラチナセールスを打ち立てた。1995年のスペイン語2ndアルバム『Amor』が第38回(1996年開催)グラミー賞最優秀ラテンポップパフォーマンス賞を獲得し、3rdアルバム『Secada』(1997年)発表後エピックレコードに移籍。リッキー・マーティンやジェニファー・ロペスのソングライトを手がける傍ら、2000年に移籍第一弾アルバム『Better Part Of Me』をリリースしている。1990年に法的手続きを取って本名をJuan SecadaからJon Secadaに変更した。


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