宣長が儒学や医学を学ぶために京へ留学していた時代は、医学史上の様々な出来事が起きた時代でもありました。宣長が勉学中のすぐ近所で、日本初の医学的な解剖が山脇東洋によって行われ、吉益東洞は「万病一毒論」を主張してその門弟を増やし、旅先で亡くなった「儒医一本論」の香川修徳は葬され、まさに時代が変わりつつある場に若き日の宣長がいたのです。宣長は宝暦七年、28歳で故郷松阪に帰り医師として開業しましたが、その同年、杉田玄白はオランダ流外科を日本橋にて開業しています。では玄白が見た当時の医学の状況を、彼が老年時に著した『形影夜話』から見ていきましょう。きっと宣長の意見と一部似通っていることに気が付くことでしょう。
○
ちょっと見たことでも眼に留まり、ちょっと聞いたことでも耳に留め、これを心に徹底させておき、用に臨んで行うのが聡明、叡智というものであろう。手っとり早く言えば、万事に気の付く人をいうのであろう。医を行おうと思う人はここを一番大事だと思って学ぶことが必要であろう。昔から医を業とする人が、このことに心付かない訳ではあるまい。昔から一家を立てた人々は、みな博学多才の人でそれぞれ自分の意見を大いに発表した人も多いが、みなはっきりしないことを基礎として議論したから、真理を詳らかにすることが出来なかったのだと思われる。それは昔から医者が拠りどころとする『素問』『難経』をはじめとして、たくさんの医書の中に、実験に基づいた真実が少ないからである。
医者は人の病を治す業だから、まず身体の内外の構造をよく知るということを第一の仕事とすべきである。ところが、これまでの医者はこれをよく知らないから、従来、内臓のことを説くにも、肝臓は右にあるのだが、その治療法は左に取ると説いたり、甚だしいのになると、飲食はまず肝臓に入り、肝臓から脾臓に伝わり、脾臓から胃に送られるなど、でたらめの説を唱えるものまで出てきても、誰もこれを怪しんで、実物についてこれを明らかにしようとするものがない。こうして昔から一致した本がなく、空しく数百年も過ごしてきたのである。これはとんでもないことだ。例えば背骨の椎骨のごときものも、元の滑氏(滑寿・伯仁)は、その接続は毎節下の低いところと決めている。だから大椎の兪穴を決めるにも、第一椎の上のくぼみの中にありと説いている。ところが明の張氏(張介賓・景岳)の説では、その節上の高いところで接続するとしている。こうなると背骨について見ても両家の説では一寸ほどの違いがある。しかも人々は自分勝手な証拠を挙げているが、どちらが良くどちらが悪いと言わないのはおかしな話だ。これは始めに言った、「好むところの切なる人」がないからであろう。本当に医学を好む人であったら、そんなことはあるまい。人は同じだのに、こんなに違いがあっては人を治す業はなりたたないぞと、疑義を抱くのが当然ではないか。
さればこそ、我が国で後藤艮山氏は一つの意見を立てて『内経』の欠点を見破って、今言ったようなあやしい説を反撃するためか、経絡は無用なものだと断言された。それはなるほど大した卓見であるというべきである。その門人の香川修徳氏がこれに次いで立って、先生の業を唱え、それに自分の見解を加えて一家をなした。またそれに続いて山脇東洋君が出て、この点に気付かれてか、自ら解剖して従来の旧説を改め、むしろ古書にある「九臓の目」を唱えて、昔からの一つの大きな誤りを正そうそして『蔵志』を著された。しかしこれも確実というところまでに至っていない。ただわずかに、実物についてのその元を明らかにせよ、というきっかけを作られただけである。
また吉益東洞氏等は近来の豪傑だが、その基とすべき医書がないために、ただ『傷寒論』の一書に精力を尽くされたが、これにしても大雑把な本で、確かなところが少ないと言って、自分に納得出来る説ばかりを採用して、結局、脈などは用のないものだ、大切なのは腹候だけだと門人に教えられたそうである。これも止むを得ないことであろう。
私の家も代々医術で我が君に仕えているのであるから、逃れようとしても逃れられぬ業である。ことに自分としても嫌いな道でもない。それて幼い時から和漢の医書を断片的に見たが、生まれつき不才でどの本を読んでも是非が分らない。他の人はよくも分るものだと自分の不才を恥ずかしく思いつつ年月を経てきた。ところが二十二歳の時に同僚の小杉玄適(玄白と同じ小浜藩の藩医)という男が京都での勉強から帰ってきて、京都では古方家と称える人が出てきたが、その中で山脇東洋先生などは専らこのことを主張して自分で刑屍を解剖して古来説いているところの内臓の構造とは大いに違っていることを知られた、ということを聞いた。その頃、松原、吉松などという人たちが共に復古の業を起こしたとか、そのいろいろの論説を聞いて、私はさてさて羨ましいことだ、内科医ではすでに豪傑が起こって旗を関西に立てた。幸いに外科医に生まれた身だから外科で一家を起こそう。そう考えて断然志を立てたが、何を目当てに何を力に事を計るべきかも分らないのでいたずらに思いを巡らすばかりであった・・・。
○
当時の医学の経典、教科書であった『内経』、『素問』や『霊枢』と呼ばれるものや『難経』は、まじめに医学を学ぼうとするものに必読の書でありました。しかしその内容が抽象的または現実離れし過ぎて多くの医生に理解できないものとなっていたのです。そこへ現れたのがいわゆる古方派に属する人々でした。親試実験を主張し、現実、実際の生命を、過去の抽象化した理論にしばられずに見つめて対処しようと試みたのでした。これを評価しまた惹きつけられたのは玄白だけではありません。多くの若者が古方派に影響され、そして宣長もその一人なのです。宣長が京で医学を学んでいたころ、堀景山の門下生であり共に医学を学ぶ友人であった岩崎榮良(藤文輿・肥前大村藩の藩医)にこう言っています。
○
この頃、本邦の医人は往々にして素霊・陰陽旺相・五行生剋説を迂誕(大げさなウソ)として退けて棄てる。甚しき者は五藏六府、十二経絡を廃するに至る。思うに後藤氏がこれを初めに主張し、香川氏がこれを継ぐ。その論は千古において卓絶、ああ盛言かな。しかれども言う所はおおむね彼らの憶測より出ている。すなわちまだ謬誤がないわけでははい。山脇氏のごときは識見が高過ぎて、かえってそれがせまくていやしい。根拠がないでたらめを言っているのであり、取るに足らない。わずかによく峻剤(強力な下剤)を用得するが、害が出るものが過半を見て、全き者は十のうち三四である。畏るべきかな。
たいてい今人の少しく見解有る者は、事に務めることに抜き出て優れていると自惚れ、小方(小さな治療法)を屑とは考えず、ただ古方を施す。まさに概をもって百病を治そうとするようなものだ。難しきかな、古方をもって今の病を概すはもとより不可能である。かつ明らかでもないのにこれを使い、天年を誤らざるを恐れる者はたいへん少数である。俗医が李朱(李杲と朱丹渓)を視るや、聖人のごとし。古方家はこれを嗤う。しかしまた彼らが長沙(張仲景・『傷寒論』の著者)を視ることは、神のごとし、殊に知らないが仲景は何人ぞ、丹渓は何人ぞ。彼らはみな単なる古(いにしえ)の一人の医師なのだ。優劣を方べ立てるも、時に循いて世は変化する。その宜しきを截ち切り、古を是とし今を非とするは、偏れるかな。未だ五十歩の失を免れないのだ。
○
ということで玄白と宣長の言葉から当時の医学の状況が見えてきたのではないでしょうか。彼らの意見で大きく異なるのは、山脇東洋の評価です。なぜその相違が生じたのか。その一つは、東洋が玄白の友人小杉玄適の師だったからです。そして玄白はその解剖が行われた半年後にはそれについて直接彼から聞いて知っていたのです。解剖の実現には玄適の力も大きく、彼もまたそれに立ち会い、玄白はその結果だけでなく、いろいろな苦労話も聞くことができたかもしれません。もう一つは、宣長は上記のように言った時、東洋が解剖を行ったことについて、まだ知らなかったためです。解剖は宝暦四年三月七日六角獄舎の中でも人の目に触れない場所で秘密裏に行われました。それ故、それが行われた事実は宝暦七年に東洋が解剖の報告書『蔵志』を刊行するまで、徐々に漏洩はしたでしょうが、一部の関係者以外知ることはなかったのです。東洋が口だけの人ではなく、行動できる人であると知っていれば、宣長のこの評価も変わったかもしれません。もう一つ、東洋がまだ生きていたことが関係しています。もし彼が亡くなっていれば、宣長もそこまで非難することは無かったかもしれません。昆山や修徳にも欠点はあったのですが、彼らはすでに亡くなっていたので、彼らへの批判は長所を認めた上での客観的な指摘に止まります。こういう所も日本人の特徴の一つですね。
また玄白は外科医師の家に育ち、外科医師を志しました。関西では古方派が興ったので自分は外科で一家を起こそうと考えました。宣長はどうであったのでしょう。彼は19歳の頃、寛延元年に紙商売を行う家に養子となるも、その年に「和歌道に志」し、翌年には「専ら歌道に心をよ」せました。そして翌年にはその家と離縁し、宣長の母の勧めで生活のために医師になろうと上京してきたのでした。宣長には医師で一家を起こそうという考えは微塵もなかったことでしょう。「自分が何を目当てに何を力に事を計るか」を知るのは、玄白に『ターヘル・アナトミア』というオランダの医書と前野良沢らとの出会いが必要であったように、宣長には『古事記』と賀茂真淵との出会いが必要だったのです。しかし、それは宝暦十三年、宣長が34歳の時であり、もう少し後のことです。
さて宣長は生活のために医師になろうとしましたが、どのような医師になろうとしたのでしょうか。それを明らかにする鍵、それは「稚髮」にあります。
つづく
(ムガク)
最新の画像[もっと見る]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます