はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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021―宣長とあめぐすり ―本居宣長と江戸時代の医学

2015-07-21 16:18:35 | 本居宣長と江戸時代の医学

 宣長は医師として生活しながら、国学の研究にいそしんでいましたが、ある時期からあめぐすりなどの販売をはじめました。なぜでしょう。

 再現された宣長飴 製造 柳屋奉善 (おいしい) 
 

 まず、そのあめぐすりの効能書が残されているので見てみましょう。(多少漢字等を読みやすく直しました)
 


 家伝 あめぐすり    百目代銀三匁  五十目代銀一匁五分


この薬は建中湯を本体とし、家伝の製法有て、別に又種々の薬味を加え、飴を以て調合せしむる所なり。経験の効能左の如し
○男女大人小児とも、大病長病にて虚脱羸痩したるに用いて、大に元気を益し身体を補う。尤も煎薬服用の中、此の薬兼用してよろし
○病後力付おそく、肥立かねたるに甚だよろし
○総じて何れの病という事なく、虚弱なる病人には、皆用いて大に益ありて、病名挙るに及ばず
○疝癪腹痛不食くだり腹たんせき等にもよろし
○小児乳ばなれ並びに乳ふそくなるに、常に用いて大によし
○もろもろのむし症虚弱なる小児に用いて甚だよろし
○疱瘡の節、弱くて張りすくなく、膿まはりかひなきに用いて甚だよろし。総じて弱きには、疱瘡の中始終ともよろし
○暑寒並びに長雨等の節、兼ねて此の薬服用すれば其の気にあたらず
○旅中所持して毎朝用いれば、山海水土不正の気をうけず
○大人小児とも虚弱なる生れ付きには平生地薬に用いて大によし。総じて密煉の薬はなづむ人多きものなるに、此の薬はたべごこちよくなづむ事なく、甚だ便宜の良き薬なり
○此の薬、少しばかり用いて即は見えがたき事もあるべく候え共、漸々に補益の功ありて功有りて、長く是を用いれば自然に其の効大なり
○服用分量、多少にかかわらず多く用いる程よろし。諸薬並びに食物さし合いなし


勢州松坂 本居氏製(印)
取次所 勢州四日市濱町 高尾九兵衛(印)


 

 これが完成した「あめぐすり」の効能書ですが、その草案も残されています。

 


加味 建中湯飴
「一名○あめくすり〔あめ〕」

〔一、此飴我等*1此度存付、始而令製合候、薬種随分所宜○*2を吟味いたし、「△殊に不食の病人は食の助とも相成かたがた其功すくなからす候、」製法等入念、尤肉桂は唐産*3を用ひ、飴薬味の〕分量迄○*4本方〔の通無相違所〕*5令調合○*6也、然者建中湯を○*7用〔ひ〕候も〔全〕同時に而、〔虚弱成〕*8病人〔なとは〕*9煎湯の間々に〔令〕兼用○*10甚宜〔敷〕*11、且又〔生付虚病の〕小児なとには、〔平生〕*12菓子の〔替〕*13に給させ候而、殊に宜敷候也、〔第一〕*14小児は〔惣体〕*15薬を嫌い〔申〕*16物に而、服薬〔の義〕甚難渋に候所、此飴○*17は薬気不相知、尋常*18の飴を給候も同前の風味〔に候〕ゆへ、○*19小児も随分悦而給*20〔申〕少々過候而も害*21無之〔候段〕、*22無〔是〕*23上便宜の○*24薬〔に候也、以上〕*25

〔天明二年壬寅八月〕 松坂 本居氏製


*1:「余 ワレヲ 相考へ」 *2:「所」 *3:「一、右建中湯飴は、薬味并飴之」 *4「全く」*5:「に依り尚又家伝之加味を用ひ」 *6:「者」 *7:「服」 *8:「此方相応の」 *9:「は」 *10:「して」*11:「しく、△虚弱成ル人は平生とても用而大に有益、」 *12:「常々」*13:「代り」 *14:「惣而」 *15:「多く」 *16:「候」 *17:「薬」 *18:「ツネ」 *19:「薬嫌ひ成」 *20:「へ候事、尤」 *21:「サハリ」 *22:「彼是大人小児共、」 *23:「此」 *24:「良」 *25:「故、世上に売弘むる所也、」 


〔百目〕「大椦」入 代 銀札〔壹匁五分〕「貳匁」
〔五拾目〕「中椦」入 代 同〔七分五厘〕「壹匁」
〔三拾目〕「小椦」入 代 同五分

天明三年癸卯正月


 

  天明二年八月頃に「建中湯飴」の発売を計画し、天明三年正月に価格を検討しはじめ、最終的に「家伝あめぐすり」を販売したようですね。では、なぜこの時期だったのでしょう。多くの要因がありましたが、そのきっかけは宣長が瘧(ギャク)を患ったことでした。

 宣長は天明二年七月に瘧になりました。日記には、「十五日、今日より余は初めて瘧を病む。久しく居に引籠す」とあり、天明二年十月八日の田中道麿宛て書簡には、「愚老の瘧病やうやう力付き申し候」とあるので、宣長は二三カ月瘧に苦しみました。

 瘧とは俗に言う「おこり」のことであり、高熱や汗、悪寒や振えが出たり止んだり繰り返すもので、『素問』や『金匱要略』にも記載がある歴史の長い病です。瘧には癉瘧、寒瘧、温瘧、食瘧、牝瘧、牡瘧があり、また疫瘧、鬼瘧、勞瘧、老瘧、母瘧など種類が多いのですが、いずれも「皆外寒風暑湿の気に感じて生ずる所なり」と言われています。夏秋の山林の蚊の多い地帯に発生するとも言われていたので、マラリアも瘧の一種でした。

  宣長は「久しく居に引籠す」と日記に記していますが、『済世録』を見ると、医師としてこの間も診療を続けていました。この当時の医師はとてもハードな肉体労働です。重い薬箱を持ち、時には往診で一日中歩き続けねばなりません。病に苦しむ患者に頼まれれば断ることは難しいし、働かなければ生活することができません。宣長はこの瘧で身体が弱ってしまったのです。

 肉体労働以外の収入源の確保、宣長は瘧に苦しんでいる間にそれを求めたのでした。「大病長病にて虚脱羸痩したるに用いて、大に元気を益し身体を補う」あめぐすりは、宣長の自分自身の治療、建中湯を商売に結び付けたことで生まれたのです。しかし、瘧に罹っただけではあめぐすりは生まれませんでした。他にどんな要因があったのでしょう。

 宣長が半年当たり何軒治療していたかを見てみましょう。

  天明元年秋まではほぼ順調に治療軒数を維持していましたが、天明二年にその数は減少をはじめます。また半年あたりの診療報酬も見てみましょう。(線の途切れている箇所は記録の欠落部分)

  天明元年まで診療報酬はほぼ順調に増加し、その秋には過去最高の五十二両一分一匁三分を得ました(風邪の大流行のため)。しかし次の半期には三十二両五分となり、収入が約37.6%も減少してしまったのでした。これは宣長の責任ではありません。天候不順により景気が悪化しはじめたためです。草間直方の『三貨図彙』を見てみましょう。

天明二年壬寅年
當五月ヨリ土用中ニ至る迄雨天続キ、江戸ハ七八月ニ入、地震度々コレ有リ、五畿内ハ大風雨ニテ、東西国々不熟ナリ、米穀六分ノ作ニテ拂底ニ付、當五月ヨリ、追々高値に相ナリ、極月ニ到リ

『三貨図彙』より

 天明二年から急激に米価が上がっていますね。宣長も毎年、日記に米価を記録していました。ちょっと見てみましょう。

安永七年 二十七八俵 五貫九百文から六貫 (214文/俵)
安永八年 三十一二俵 六貫二百文 (194文/俵)
安永九年 三十三四俵 六貫二三百文 (185文/俵)
天明元年 二十八九俵 六貫二三百文 (217文/俵)
天明二年 二十俵 六貫百文 (305文/俵)
天明三年 三月 十七俵 金十両
     五月 十四俵 金十両
     十二月 十六俵 六貫百五十文 (384文/俵)

 この米価の上昇、天明元年から二年にかけて140%も上がり、翌三年の三月五月には通常なら銭で購入出来た米が、金で取引されるようになっていました。この時期の為替に照らして計算すると、約六万文以上、十倍以上の高値です。十二月には少し落ちついたとは言っても今までの約二倍の価格でした。宣長は「諸色高値、世上困窮」と日記に記しています。

 この経済的危機に陥りはじめた時、宣長の打ち出した対策があめぐすりの発売でした。なぜそう言えるのでしょう。ただ小児科医として純粋に小児の健康を考えてあめを作り、また効能書きの草案に記されている年月と実際の発売は全く別の時期だった可能性はないでしょうか。それには、まず販売価格から見てみましょう。

 宣長ははじめは百目入のあめを銀札一匁五分と記していましたが、それを二匁に書き直しています。結局は銀三匁で販売しましたが、当初の予定の二倍の価格の設定です。五十目入も同様価格を二倍に上げています。なぜでしょう。それはその時が物価が急激に二倍に上がった天明二年から三年の時期だったからです。

 銀三匁というのは、天明二年の為替相場では、銭一貫文が銀九匁五分前後だったので、銭315.6文です。飴一個あたりは約三文、早起き分の価格であり、江戸の飴屋、「お万が飴」は一個あたり四文、飴買い幽霊は三途の川の渡し賃、六文銭で六日間飴を買いました。一個あたりとしては妥当な金額です。

 しかし飴百個、銀三匁は米が約一俵(60kg)買えます。宣長の一月分の家賃収入が五匁、宣長が京で買った医学書『本草摘要』は二匁五分、『小児方彙』は四匁五分、『痘疹良方』は一匁六分、決して安い金額ではありません。それでも比較的に誰でも買いやすい三十目入、またそれより小さい個数の発売は見送られました。なぜでしょう。それは木綿産業で潤った松坂の裕福な家を販売対象にしていたからです。

  宣長は、「小児は多く薬を嫌い申候物に而、服薬の義甚難渋に候所、此飴薬は薬気不相知、尋常の飴を給候も同前の風味に候ゆへ、薬嫌ひ成小児も随分悦而給へ申し候事、尤、少々過候而もサハリ無之」と、薬嫌いの小児が喜んで服用できるように、そして食べ過ぎても害がないように、この飴を開発したのです。宣長は小児の事をよく考えていました。しかし目的は別です。

 あめぐすりはとてもよく考えられています。

1.男女大人小児、だれが服用してもよい
2.病中・病後・病前の予防としていつ服用してもよい
3.どんな病気の時でも服用してよい

 と言うことで、服用対象を限りなく拡大しています。宣長は医師としては患者の対象を病気の治療の必要な人に限定せざるを得ませんでした。治療が必要でなければ、見廻りだけですませていたのです。貝原益軒は『養生訓』総論上において以下のように言っています。

薬と鍼灸を用るは、やむ事を得ざる下策なり。薬と針灸と、損益ある事かくのごとし。やむ事を得ざるに非ずんば、鍼灸薬を用ゆべからず。只、保生の術を頼むべし*1

 病気でもない人にみだりに治療することはできず、収入を増やすには病気の人を増やさねばなりませんが、それは無理な話です。しかし、あめぐすりは誰が、いつ、どんな病気の時でも使ってかまわないのです。

4.食べやすく続けられる
5.効果はすぐに目に見えないが、長く服用し続けると効果が大きい
6.多量に服用するほどよい。他に薬や食物を摂っていても害がない 

 また薬には適切な量と必要な時があり、過剰あるいは不必要な時であれば病が治癒するのではなく、逆に害が出ます。またさまざまな薬や食物などの間の相互作用もあるため、いたずらに種類を増やすこともできません。儲けを増やすために、薬の量を増やしたり、種類を増やすことはできません。しかし、あめぐすりは、「長く服用し続けると効果が大きく、多量に服用するほどよく、他に薬や食物を摂っていても害がない」のです。言い換えれば、宣長はあめぐすりをすべての人に多量に長く服用してほしいと望んでいたのです。

7.疝・癪・腹痛・不食・くだり腹・たん・せき・疱瘡・むし症など諸々の具体的な病名、症状を挙げている
8.小児の離乳時、母親の乳不足によい

 また、具体的な症状を挙げることでそれらの症状を持つ人々の、また「小児の離乳時、母親の乳不足によい」と、乳幼児・小児の死亡率が非常に高かった時代の子孫・後継者の養育に関心があった人々の目を引くようにしました。

 実際にあめぐすりはどのようなものであったのでしょうか。建中湯には何種類かありますが、大きく分けて二種類、大建中湯と小建中湯があります。大建中湯の成分は人参・山椒・乾姜であり、小建中湯の成分は桂枝・芍藥・大棗・甘草・乾姜・膠飴です。主に小児向けで虚弱者向けの飴なので、宣長は小建中湯をもとにしたのでしょう。

 もし飴に人参を入れたとすると飴の製造原価が跳ね上がりますし、山椒を入れると独特の風味のため、芍藥を入れると収斂性の味のために小児に喜ばれる味でなくなります。桂枝・大棗・甘草・乾姜・膠飴の中からいくつか選択し配合するとおいしくなります。

 「 一、右建中湯飴は、薬味并飴之肉桂は唐産を用ひ」とあるので桂枝は必ず配合されています。桂枝(桂皮・肉桂)はシナモン、乾姜はドライジンジャー、大棗、甘草、膠飴とも全て香辛料、食品として使われます。医食同源、薬食同源と言いますが、あめぐすりもその一つです。

 宣長は飴に付加価値を持たせたのでした。宣長は商品開発、宣伝広告に関しても高い能力を持っていたのかもしれません。その後、あめぐすりの収入は継続的に『諸用脹』に記され、宣長の家計を支え続けるようになりました。

 ちなみに松坂では天明三年には豊作となりました。しかし米価は下がりません。物価は高騰したままです。なぜでしょう。それは三年五月から七月に浅間山が(VEI=4)、また六月からはアイスランドでラキ火山、グリムスヴォトン火山(VEI=6)が噴火したからです。天明二年三年は気候不順と大規模噴火が続いて起こった年でした。噴火による冷害によって奥州諸国の米作が壊滅的な打撃を受け、豊作だった伊勢からも多量の米が江戸へ送られることになったのです。物流システムが整っていた江戸時代だからこその不況であり、天明の飢饉の始まりです。

つづく

(ムガク)


*1: 貝原益軒の養生訓―総論上―解説 010 

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学


貝原益軒の養生訓―総論下―解説 031 (修正版)

2015-07-21 16:16:44 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

爰に人ありて、宝玉を以てつぶてとし、雀をうたば、愚なりとて、人必わらはん。至りて、おもき物をすてゝ、至りてかろき物を得んとすればなり。人の身は至りておもし。然るに、至りてかろき小なる欲をむさぼりて身をそこなふは、軽重をしらずといふべし。宝玉を以て雀をうつがごとし。

心は楽しむべし、苦しむべからず。身は労すべし、やすめ過すべからず。凡わが身を愛し過すべからず。美味をくひ過し、芳うんをのみ過し、色をこのみ、身を安逸にして、おこたり臥す事を好む。皆是、わが身を愛し過す故に、かへつてわが身の害となる。又、無病の人、補薬を妄に多くのんで病となるも、身を愛し過すなり。子を愛し過して、子のわざはひとなるが如し。

(解説)

 「総論上―解説 010」にも出てきました。「薬は皆気の偏」なのであり、「参芪朮甘の上薬といへども、其病に応ぜざれば害あり。況、中下の薬は元気を損じ他病を生ず」るのです。病気でもないのに薬を飲んではいけません。

 子供への愛情。どんな愛も過剰になれば害となります。貝原益軒は『和俗童子訓』という育児書を残していますが、この中で以下のように述べています。

凡、小児をそだつるに、初生より愛を過すべからず。愛すぐれば、かへりて、児をそこなふ。衣服をあつくし、乳食にあかしむれば、必、病多し。衣をうすくし、食をすくなくすれば、病すくなし。富貴の家の子は、病多くして身よはく、貧賎の家の子は、病すくなくして身つよきを以、其故を知るべし。小児の初生には、父母のふるき衣を改めぬひて、きせしむべし。きぬの新しくして温なるは、熱を生じて病となる。古語に、凡そ小児を安からしむるには、三分の餌と寒とをおぶべし、といへり。三分とは、十の内三分を云。此こころは、すこしはうやし、少はひやすがよし、となり。最古人、小児をたもつの良法也。世俗これを知らず、小児に乳食を、多くあたへてあかしめ、甘き物、くだ物を、多くくはしむる故に、気ふさがりて、必脾胃をやぶり、病を生ず。小児の不慮に死する者は、多くはこれによれり。又、衣をあつくして、あたため過せば、熱を生じ、元気をもらすゆへ、筋骨ゆるまりて、身よはし。皆是病を生ずるの本也。からも、やまとも、昔より、童子の衣のわきをあくるは、童子は気さかんにして、熱おほきゆへ、熱をもらさんがため也。是を以、小児は、あたためすごすが悪しき事を知るべし。天気よき時は、おりおり外にいだして風日にあたらしむべし。かくのごとくすれば、はだえ堅く、血気づよく成て、風寒に感ぜず。風日にあたらざれば、はだへもろくして、風寒に感じやすく、わづらひおほし。小児のやしなひの法を、かしづき育つるものに、よく云きかせ、教えて心得しむべし。

 今も昔も過保護な親はいるものです。愛することは大切な人情。しかし自身の身体へも子供へもそれが過剰にならないように気をつけましょう。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 030 (修正版)

2015-07-21 16:14:43 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

酒食の気いまだ消化せざる内に臥してねぶれば、必、酒食とゞこほり、気ふさがりて病となる。いましむべし。昼は必、臥すべからず。大に元気をそこなふ。もし大につかれたらば、うしろによりかゝりてねぶるべし。もし臥さば、かたはらに人をおきて、少ねぶるべし。久しくねぶらば、人によびさまさしむべし。

日長き時も昼臥すべからず。日永き故、夜に入て、人により、もし体力つかれて早くねぶることをうれへば、晩食の後、身を労動し、歩行し、日入の時より臥して体気をやすめてよし。臥して必ねぶるべからず。ねぶれば甚害あり。久しく臥べからず。秉燭の比おきて坐すべし。かくのごとくすれば夜間体に力ありて、ねぶり早く生ぜず。もし日入の時よりふさゞるは尤よし。

養生の道は、たのむを戒しむ。わが身のつよきをたのみ、わかきをたのみ、病の少いゆるをたのむ。是皆わざはひの本也。刃のときをたのんで、かたき物をきれば、刃折る。気のつよきをたのんで、みだりに気をつかへば、気へる。脾腎のつよきをたのんで、飲食、色慾を過さば、病となる。

(解説)

 食後の消化していないうちに横になって寝てはいけない。これは今も一般的に言われているので解説しなくていいですね。『千金方』にも「食して則ち臥すは傷なり」と書かれているように昔から経験的に知られていたことです。

 昼寝をしてはいけない。これは「総論上」でも出てきました。

 「脾腎のつよきをたのんで・・・」というのは何でしょう。これは五臓六腑のうち脾の臓と腎の臓のこと。「脾胃なる者は、倉廩の官、五味焉より出る」(『素問』霊蘭秘典論)というように食べ物を受け入れる臓器であり、「脾気は口に通じる。脾和すれば則ち口は能く五穀を知るなり」(『霊枢』脈度篇)というように、食欲と味覚をつかさどる臓器でもあります。「腎なるものは、蟄を主り、封蔵も本、精の処なり」(『素問』六節蔵象論)とあるように、生殖に関係深い精を貯蔵している臓器です。それゆえ、飲食、色慾行動をおこすには脾腎の力が必要であり、もしそれが強いから、もしくは強いと思い込むことで飲食、色慾を過せば、それらの気を消耗し病になると益軒は言ったのです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 029 (修正版)

2015-07-21 16:13:07 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

華陀が言に、人の身は労動すべし。労動すれば穀気きえて、血脈流通す、といへり。およそ人の身、慾をすくなくし、時々身をうごかし、手足をはたらかし、歩行して久しく一所に安坐せざれば、血気めぐりて滞らず。養生の要務なり。日々かくのごとくすべし。呂氏春秋曰、流水腐らず、戸枢螻まざるは、動けば也。形気もまた然り。いふ意は、流水はくさらず、たまり水はくさる。から戸のぢくの下のくるゝは虫くはず。此二のものはつねにうごくゆへ、わざはひなし。人の身も亦かくのごとし。一所に久しく安坐してうごかざれば、飲食とゞこほり、気血めぐらずして病を生ず。食後にふすと、昼臥すと、尤、禁ずべし。夜も飲食の消化せざる内に早くふせば、気をふさぎ病を生ず。是養生の道におゐて尤いむべし。

千金方に曰、養生の道、久しく行き、久しく坐し、久しく臥し、久しく視ることなかれ。

(解説)

 華陀とは名医の代名詞的存在にもなっていて、『三国志』にも登場し、曹操の権力にも屈服しなかった医師です。彼は「麻沸散」と呼ぶ麻酔薬を使用し、腹や背を切り開き内臓を治療するなどの外科手術をしていたことでも知られていますが、養生の術にも長けていました。華佗については、『後漢書』方術列伝下に記されています。

華佗は字を元化。沛国譙人なり。一名を歸 。徐土に遊学す。数経に兼通し。養性之術に曉る。年は百歳に且く、猶ほ壮容有り。時の人以って仙と為す。

 華陀は、百歳近くになってもその容貌は壮年の頃のようであり、「養性之術に曉」り、同じ時代の人々は彼を仙人のようであると言っていたのです。その華陀はこう述べました。

人体は労動を欲す。但し當に使極すべからず。動搖せば則ち穀氣は銷ゆ。血脈は流通す。病は生せず。譬えば猶ほ戸枢の終に朽ざるなり。

 と言うわけで、華佗以前の古の仙人は体を動かす体操「導引術」をあみだしたのですが、それは難しいので、華陀は「五禽之戯」と名づけた簡単な健康体操を推奨しました。それは、虎・鹿・熊・猿・鳥を真似て行なうもので、これを毎日続けると、九十歳になっても耳目聰明で歯牙完堅な身体を維持できると説きました。

 『千金方』は「総論上」でも出てきましたが、ここの出典は「道林養性第二」からです。『千金方』ではこう続きます。

久しく視るは血を傷る。久しく臥すは気を傷る。久しく立つは骨を傷る。久しく坐すは肉を傷る。久しく行ふは筋を傷る。

 ずっと横になって寝てばかりいればやる気が失せて行動する意欲がなくなり、ずっと立ちっぱなしの生活をつづけていると、腰痛や脊椎の圧迫骨折などが起こり、ずっと座ってばかりいると、大腿四頭筋や腓腹筋など目に見えて減少していき、休むことなく運動を続ければ筋肉・腱などを痛めます。ここまでは具体的に観察できるものです。しかし、「久しく視るは血を傷る」とはどういうことでしょうか。目で見ることを続けても、実際に出血することも貧血になることもないでしょう。

 そもそもこの記載は、『素問』宣明五気篇の一文が由来です(『千金方』は唐代、『素問』は漢代頃の書)。この篇の根底には五行学説が流れており、これは何でも五つに分類し、その関係性を考察し、一般化し、抽象的な理論になったものです。この五行説を利用した医学理論には、具体的な現象、事例とともに、理論的にそうあるべきだという演繹的帰結が混在しています。この「久視・・・」もその一つかもしれません。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 028 (修正版)

2015-07-21 16:11:00 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

凡、朝は早くおきて、手と面を洗ひ、髪をゆひ、事をつとめ、食後にはまづ腹を多くなで下し、食気をめぐらすべし。又、京門のあたりを手の食指のかたはらにて、すぢかひにしばしばなづべし。腰をもなで下して後、下にてしづかにうつべし。あらくすべからず。もし食気滞らば、面を仰ぎて三四度食毒の気を吐くべし。朝夕の食後に久しく安坐すべからず。必ねぶり臥すべからず。久しく坐し、ねぶり臥せば、気ふさがりて病となり、久しきをつめば命みじかし。食後に毎度歩行する事、三百歩すべし。おりおり五六町歩行するは尤よし。

家に居て、時々わが体力の辛苦せざる程の労動をなすべし。吾起居のいたつがはしきをくるしまず、室中の事、をつかはずして、しばしばみづからたちて我身を運用すべし。わが身を動用すれば、おもひのままにして速に事調ひ、下部をつかふに心を労せず。是、心を清くして事を省く、の益あり。かくのごとくにして、常に身を労動すれば気血めぐり、食気とどこほらず、是養生の要術也。身をつねにやすめおこたるべからず。我に相応せる事をつとめて、手足をはたらかすべし。時にうごき、時に静なれば、気めぐりて滞らず。静に過ればふさがる。動に過ればつかる。動にも静にも久しかるべからず。

(解説)

 「総論下」になると養生法がますます具体的になってきます。文章も読みやすく解説を挟む余地があまりないのですが、所々言葉の解説だけしていきます。

 「京門」というのは、ツボの名前であり、足少陽胆経の経穴の一つ。腎の募であり別名、気府とも気兪とも呼ばれ、季脇の下一寸八分の場所にあります。別名から推察されるように、気の集まるところであり、ここでは「食気をめぐらす」ために使っています。が、ここではツボの特性はあまり関係なさそうです。お腹を前面、側面、後面と「なで下ろし」ていますが、その側面を指示するために、「京門」という名前を使っています。

 「食毒の気」というのは、ゲップで出る気でしょう。

 ところで『徒然草』九十三段に以下のように書かれています。

  「人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しみを忘れて、いたづがはしく外の楽しみを求め、この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志、満つる事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人みな生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし」

 「日々是好日」と言うように、「存命の喜び、日々に楽しまざらんや」と富貴などではなく、なにげない日常の生きてきることそのものが楽しみである、という思想があります。また「生死の相にあづからず」という、生死を超越した悟りの境地もあります。この文章で使われている「いたづがはしく」は、「苦労して・骨を折って・大変な思いをして」というような意味でしょう。日々は楽しむものであり、辛く苦しい労働は養生のためにも良くありません。過ぎたるは何とやらです。

 宋代の詩人、陸游は『上殿札子』でこう詠っています。

人君と天は徳を同じくす、惟れ当に心を清くし事を省く、淡然とし虚静、之を損し又損し、無為に至る

 人君も天も、心から無用なものを取り除き、心は澄みきり、無駄な行いもすることはない。静かに余計なものをどんどん取り除き、無為に至るのです。何もしないわけではなく、道に法った自然な行い、無為の為をしているわけです。貝原益軒は養生のハウツーを説きながら、こっそり哲学を織り交ぜます。

(ムガク)



(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)