はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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021―宣長とあめぐすり ―本居宣長と江戸時代の医学

2015-07-21 16:18:35 | 本居宣長と江戸時代の医学

 宣長は医師として生活しながら、国学の研究にいそしんでいましたが、ある時期からあめぐすりなどの販売をはじめました。なぜでしょう。

 再現された宣長飴 製造 柳屋奉善 (おいしい) 
 

 まず、そのあめぐすりの効能書が残されているので見てみましょう。(多少漢字等を読みやすく直しました)
 


 家伝 あめぐすり    百目代銀三匁  五十目代銀一匁五分


この薬は建中湯を本体とし、家伝の製法有て、別に又種々の薬味を加え、飴を以て調合せしむる所なり。経験の効能左の如し
○男女大人小児とも、大病長病にて虚脱羸痩したるに用いて、大に元気を益し身体を補う。尤も煎薬服用の中、此の薬兼用してよろし
○病後力付おそく、肥立かねたるに甚だよろし
○総じて何れの病という事なく、虚弱なる病人には、皆用いて大に益ありて、病名挙るに及ばず
○疝癪腹痛不食くだり腹たんせき等にもよろし
○小児乳ばなれ並びに乳ふそくなるに、常に用いて大によし
○もろもろのむし症虚弱なる小児に用いて甚だよろし
○疱瘡の節、弱くて張りすくなく、膿まはりかひなきに用いて甚だよろし。総じて弱きには、疱瘡の中始終ともよろし
○暑寒並びに長雨等の節、兼ねて此の薬服用すれば其の気にあたらず
○旅中所持して毎朝用いれば、山海水土不正の気をうけず
○大人小児とも虚弱なる生れ付きには平生地薬に用いて大によし。総じて密煉の薬はなづむ人多きものなるに、此の薬はたべごこちよくなづむ事なく、甚だ便宜の良き薬なり
○此の薬、少しばかり用いて即は見えがたき事もあるべく候え共、漸々に補益の功ありて功有りて、長く是を用いれば自然に其の効大なり
○服用分量、多少にかかわらず多く用いる程よろし。諸薬並びに食物さし合いなし


勢州松坂 本居氏製(印)
取次所 勢州四日市濱町 高尾九兵衛(印)


 

 これが完成した「あめぐすり」の効能書ですが、その草案も残されています。

 


加味 建中湯飴
「一名○あめくすり〔あめ〕」

〔一、此飴我等*1此度存付、始而令製合候、薬種随分所宜○*2を吟味いたし、「△殊に不食の病人は食の助とも相成かたがた其功すくなからす候、」製法等入念、尤肉桂は唐産*3を用ひ、飴薬味の〕分量迄○*4本方〔の通無相違所〕*5令調合○*6也、然者建中湯を○*7用〔ひ〕候も〔全〕同時に而、〔虚弱成〕*8病人〔なとは〕*9煎湯の間々に〔令〕兼用○*10甚宜〔敷〕*11、且又〔生付虚病の〕小児なとには、〔平生〕*12菓子の〔替〕*13に給させ候而、殊に宜敷候也、〔第一〕*14小児は〔惣体〕*15薬を嫌い〔申〕*16物に而、服薬〔の義〕甚難渋に候所、此飴○*17は薬気不相知、尋常*18の飴を給候も同前の風味〔に候〕ゆへ、○*19小児も随分悦而給*20〔申〕少々過候而も害*21無之〔候段〕、*22無〔是〕*23上便宜の○*24薬〔に候也、以上〕*25

〔天明二年壬寅八月〕 松坂 本居氏製


*1:「余 ワレヲ 相考へ」 *2:「所」 *3:「一、右建中湯飴は、薬味并飴之」 *4「全く」*5:「に依り尚又家伝之加味を用ひ」 *6:「者」 *7:「服」 *8:「此方相応の」 *9:「は」 *10:「して」*11:「しく、△虚弱成ル人は平生とても用而大に有益、」 *12:「常々」*13:「代り」 *14:「惣而」 *15:「多く」 *16:「候」 *17:「薬」 *18:「ツネ」 *19:「薬嫌ひ成」 *20:「へ候事、尤」 *21:「サハリ」 *22:「彼是大人小児共、」 *23:「此」 *24:「良」 *25:「故、世上に売弘むる所也、」 


〔百目〕「大椦」入 代 銀札〔壹匁五分〕「貳匁」
〔五拾目〕「中椦」入 代 同〔七分五厘〕「壹匁」
〔三拾目〕「小椦」入 代 同五分

天明三年癸卯正月


 

  天明二年八月頃に「建中湯飴」の発売を計画し、天明三年正月に価格を検討しはじめ、最終的に「家伝あめぐすり」を販売したようですね。では、なぜこの時期だったのでしょう。多くの要因がありましたが、そのきっかけは宣長が瘧(ギャク)を患ったことでした。

 宣長は天明二年七月に瘧になりました。日記には、「十五日、今日より余は初めて瘧を病む。久しく居に引籠す」とあり、天明二年十月八日の田中道麿宛て書簡には、「愚老の瘧病やうやう力付き申し候」とあるので、宣長は二三カ月瘧に苦しみました。

 瘧とは俗に言う「おこり」のことであり、高熱や汗、悪寒や振えが出たり止んだり繰り返すもので、『素問』や『金匱要略』にも記載がある歴史の長い病です。瘧には癉瘧、寒瘧、温瘧、食瘧、牝瘧、牡瘧があり、また疫瘧、鬼瘧、勞瘧、老瘧、母瘧など種類が多いのですが、いずれも「皆外寒風暑湿の気に感じて生ずる所なり」と言われています。夏秋の山林の蚊の多い地帯に発生するとも言われていたので、マラリアも瘧の一種でした。

  宣長は「久しく居に引籠す」と日記に記していますが、『済世録』を見ると、医師としてこの間も診療を続けていました。この当時の医師はとてもハードな肉体労働です。重い薬箱を持ち、時には往診で一日中歩き続けねばなりません。病に苦しむ患者に頼まれれば断ることは難しいし、働かなければ生活することができません。宣長はこの瘧で身体が弱ってしまったのです。

 肉体労働以外の収入源の確保、宣長は瘧に苦しんでいる間にそれを求めたのでした。「大病長病にて虚脱羸痩したるに用いて、大に元気を益し身体を補う」あめぐすりは、宣長の自分自身の治療、建中湯を商売に結び付けたことで生まれたのです。しかし、瘧に罹っただけではあめぐすりは生まれませんでした。他にどんな要因があったのでしょう。

 宣長が半年当たり何軒治療していたかを見てみましょう。

  天明元年秋まではほぼ順調に治療軒数を維持していましたが、天明二年にその数は減少をはじめます。また半年あたりの診療報酬も見てみましょう。(線の途切れている箇所は記録の欠落部分)

  天明元年まで診療報酬はほぼ順調に増加し、その秋には過去最高の五十二両一分一匁三分を得ました(風邪の大流行のため)。しかし次の半期には三十二両五分となり、収入が約37.6%も減少してしまったのでした。これは宣長の責任ではありません。天候不順により景気が悪化しはじめたためです。草間直方の『三貨図彙』を見てみましょう。

天明二年壬寅年
當五月ヨリ土用中ニ至る迄雨天続キ、江戸ハ七八月ニ入、地震度々コレ有リ、五畿内ハ大風雨ニテ、東西国々不熟ナリ、米穀六分ノ作ニテ拂底ニ付、當五月ヨリ、追々高値に相ナリ、極月ニ到リ

『三貨図彙』より

 天明二年から急激に米価が上がっていますね。宣長も毎年、日記に米価を記録していました。ちょっと見てみましょう。

安永七年 二十七八俵 五貫九百文から六貫 (214文/俵)
安永八年 三十一二俵 六貫二百文 (194文/俵)
安永九年 三十三四俵 六貫二三百文 (185文/俵)
天明元年 二十八九俵 六貫二三百文 (217文/俵)
天明二年 二十俵 六貫百文 (305文/俵)
天明三年 三月 十七俵 金十両
     五月 十四俵 金十両
     十二月 十六俵 六貫百五十文 (384文/俵)

 この米価の上昇、天明元年から二年にかけて140%も上がり、翌三年の三月五月には通常なら銭で購入出来た米が、金で取引されるようになっていました。この時期の為替に照らして計算すると、約六万文以上、十倍以上の高値です。十二月には少し落ちついたとは言っても今までの約二倍の価格でした。宣長は「諸色高値、世上困窮」と日記に記しています。

 この経済的危機に陥りはじめた時、宣長の打ち出した対策があめぐすりの発売でした。なぜそう言えるのでしょう。ただ小児科医として純粋に小児の健康を考えてあめを作り、また効能書きの草案に記されている年月と実際の発売は全く別の時期だった可能性はないでしょうか。それには、まず販売価格から見てみましょう。

 宣長ははじめは百目入のあめを銀札一匁五分と記していましたが、それを二匁に書き直しています。結局は銀三匁で販売しましたが、当初の予定の二倍の価格の設定です。五十目入も同様価格を二倍に上げています。なぜでしょう。それはその時が物価が急激に二倍に上がった天明二年から三年の時期だったからです。

 銀三匁というのは、天明二年の為替相場では、銭一貫文が銀九匁五分前後だったので、銭315.6文です。飴一個あたりは約三文、早起き分の価格であり、江戸の飴屋、「お万が飴」は一個あたり四文、飴買い幽霊は三途の川の渡し賃、六文銭で六日間飴を買いました。一個あたりとしては妥当な金額です。

 しかし飴百個、銀三匁は米が約一俵(60kg)買えます。宣長の一月分の家賃収入が五匁、宣長が京で買った医学書『本草摘要』は二匁五分、『小児方彙』は四匁五分、『痘疹良方』は一匁六分、決して安い金額ではありません。それでも比較的に誰でも買いやすい三十目入、またそれより小さい個数の発売は見送られました。なぜでしょう。それは木綿産業で潤った松坂の裕福な家を販売対象にしていたからです。

  宣長は、「小児は多く薬を嫌い申候物に而、服薬の義甚難渋に候所、此飴薬は薬気不相知、尋常の飴を給候も同前の風味に候ゆへ、薬嫌ひ成小児も随分悦而給へ申し候事、尤、少々過候而もサハリ無之」と、薬嫌いの小児が喜んで服用できるように、そして食べ過ぎても害がないように、この飴を開発したのです。宣長は小児の事をよく考えていました。しかし目的は別です。

 あめぐすりはとてもよく考えられています。

1.男女大人小児、だれが服用してもよい
2.病中・病後・病前の予防としていつ服用してもよい
3.どんな病気の時でも服用してよい

 と言うことで、服用対象を限りなく拡大しています。宣長は医師としては患者の対象を病気の治療の必要な人に限定せざるを得ませんでした。治療が必要でなければ、見廻りだけですませていたのです。貝原益軒は『養生訓』総論上において以下のように言っています。

薬と鍼灸を用るは、やむ事を得ざる下策なり。薬と針灸と、損益ある事かくのごとし。やむ事を得ざるに非ずんば、鍼灸薬を用ゆべからず。只、保生の術を頼むべし*1

 病気でもない人にみだりに治療することはできず、収入を増やすには病気の人を増やさねばなりませんが、それは無理な話です。しかし、あめぐすりは誰が、いつ、どんな病気の時でも使ってかまわないのです。

4.食べやすく続けられる
5.効果はすぐに目に見えないが、長く服用し続けると効果が大きい
6.多量に服用するほどよい。他に薬や食物を摂っていても害がない 

 また薬には適切な量と必要な時があり、過剰あるいは不必要な時であれば病が治癒するのではなく、逆に害が出ます。またさまざまな薬や食物などの間の相互作用もあるため、いたずらに種類を増やすこともできません。儲けを増やすために、薬の量を増やしたり、種類を増やすことはできません。しかし、あめぐすりは、「長く服用し続けると効果が大きく、多量に服用するほどよく、他に薬や食物を摂っていても害がない」のです。言い換えれば、宣長はあめぐすりをすべての人に多量に長く服用してほしいと望んでいたのです。

7.疝・癪・腹痛・不食・くだり腹・たん・せき・疱瘡・むし症など諸々の具体的な病名、症状を挙げている
8.小児の離乳時、母親の乳不足によい

 また、具体的な症状を挙げることでそれらの症状を持つ人々の、また「小児の離乳時、母親の乳不足によい」と、乳幼児・小児の死亡率が非常に高かった時代の子孫・後継者の養育に関心があった人々の目を引くようにしました。

 実際にあめぐすりはどのようなものであったのでしょうか。建中湯には何種類かありますが、大きく分けて二種類、大建中湯と小建中湯があります。大建中湯の成分は人参・山椒・乾姜であり、小建中湯の成分は桂枝・芍藥・大棗・甘草・乾姜・膠飴です。主に小児向けで虚弱者向けの飴なので、宣長は小建中湯をもとにしたのでしょう。

 もし飴に人参を入れたとすると飴の製造原価が跳ね上がりますし、山椒を入れると独特の風味のため、芍藥を入れると収斂性の味のために小児に喜ばれる味でなくなります。桂枝・大棗・甘草・乾姜・膠飴の中からいくつか選択し配合するとおいしくなります。

 「 一、右建中湯飴は、薬味并飴之肉桂は唐産を用ひ」とあるので桂枝は必ず配合されています。桂枝(桂皮・肉桂)はシナモン、乾姜はドライジンジャー、大棗、甘草、膠飴とも全て香辛料、食品として使われます。医食同源、薬食同源と言いますが、あめぐすりもその一つです。

 宣長は飴に付加価値を持たせたのでした。宣長は商品開発、宣伝広告に関しても高い能力を持っていたのかもしれません。その後、あめぐすりの収入は継続的に『諸用脹』に記され、宣長の家計を支え続けるようになりました。

 ちなみに松坂では天明三年には豊作となりました。しかし米価は下がりません。物価は高騰したままです。なぜでしょう。それは三年五月から七月に浅間山が(VEI=4)、また六月からはアイスランドでラキ火山、グリムスヴォトン火山(VEI=6)が噴火したからです。天明二年三年は気候不順と大規模噴火が続いて起こった年でした。噴火による冷害によって奥州諸国の米作が壊滅的な打撃を受け、豊作だった伊勢からも多量の米が江戸へ送られることになったのです。物流システムが整っていた江戸時代だからこその不況であり、天明の飢饉の始まりです。

つづく

(ムガク)


*1: 貝原益軒の養生訓―総論上―解説 010 

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学



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