はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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江戸時代の外科手術(6)-腫物に針を刺切焼法- (修正版)

2015-06-11 19:40:56 | 江戸時代の医学

 前回の「鉄砲之玉をぬく方」では灸が少し出てきたので、今回は針を使う治療法をご紹介しましょう。

萬ノ腫物ニ針ヲサスハ、先ツ腫物処ヲ見テ、アシキ処カ、亦ハ脉処ナラバ針ヲササズ、膏薬ニテ吸ヤブラセヨ。両ノ手ノ脉計ニテアラズ。動脉トテ幾処モ身ノ内ニヲドル処アリ。



 すべての腫物に針をして良いというわけではありません。治療前によく見て、アシキ処、つまり心臓や肺など針が内臓に達するおそれがあるなど針をするのに向いていない部位や、動脈がある部位には針をせずに、膏薬で治療します。
 両ノ手ノ脉計とは寸口の脉のこと、つまり手首の脈、橈骨動脈のことです。医者はここの動脈の拍動から患者さんが助かるかどうかを診ました。ちなみに重傷の人の脉は「沈小弱沈遅」がよく、「浮大浮数」はよくないと考えられていました。当時は医者の間で脉といえばここを指すので、ここではなく全身にある拍動する動脈のことである、と言っているのです。

夜ツネニ我身ノ内ニテ覚ベシ。又筋ノアル処ヲヨケテサスベシ。

 これは、つねづね夜中に自分の身体を触って、どこに動脈があるか確認するようにという意味です。夜中の暗く静かな環境では感覚が研ぎ澄まされ、小さな拍動の動脈も発見できるようになります。また訓練を重ねると騒がしい昼間でも分かるようになります。これが夜に行う主な理由だと思いますが、昼間だと、裸になって自分の全身を触っている姿を人に見られるリスクが高い、というのも理由かもしれません。
 筋や腱は避けて針をするように、とのことです。

 三稜鍼

膿タルハ押テ見ルニ、クボクナリタル処指ヲトレバ上ヘフキアガルナリ。ウマヌハ押テ見レハ、クボクナリテアガラヌゾ。

 これは腫物が膿んでいるかどうか調べる方法です。

ウマヌニサセハ、針殊外イタムナリ。アトモ久シクウヅクナリ。

 膿んでもいないのに、針を刺すと結構痛いし、痛みが長く続きます。針をするのは膿んでいる腫物に限ります。
 ちなみにここでの針は火鍼のこと、燔鍼とも焼鍼とも呼ばれます。火で真っ赤になるほど熱した針を刺して、排膿するとともに、熱により内部を消毒します。この一石二鳥の方法は、意外にも抗生物質の服用や単なるメスでの切開よりも、早くすっきりと治ります。しかしこの火針は、何度も自分の身体で試しましたが、勇気が毎回必要です。

針ヲタテニサセバ、タトヒ筋ヲ刺テモ筋キレズ。ヨコニサセバ筋キレテ針刺ヤウノナンニナルヘシ。フカサハ大形ハ三分四分入レヨ。物ニヨリテ五六分モ入ヨ。

 これは筋肉や腱の流れ、起始停止を結ぶ直線に平行に針をすると、たとえ筋に針を刺しても筋が切れることはありません。しかし垂直に針すると筋が切れることがあります。針刺ヤウノナンとは針刺様の難のこと。

針サシテアトヘサグリヲ入テ、サグレハ殊外膿血出ルナリ。押ベカラズ。ヲセハ肉イタムゾ。

 腫物に針を刺したまま、グリグリと動かすと膿だけでなく、血も出て肉が傷むので、必要以上に針を入れてはいけません。

口ニ紙ヨリヲシテ四分ホド入テヲケ。ソレヲノミト云フソ。長サ八分許シテ内ヘ四五分サシ入、アマリハ腫物ノハリグチヘヨコニシテ折イガメ、其上ニカウヤクヲ付テヲキ毎日右ノ如クカウヤク付替ル時ノミヲヌキ、又ノミヲ今付ヨ。次第に内イユレハ、ノミ入時ソコイタムソ。其時ハノミイレズ。

 また傷口に和紙をひねって作ったこよりを入れて残っている膿を吸い取らせます。ノミとは隙間にいれる詰め物のこと。こよりは8cmくらいで中へ4、5cmほど入れて、残りは横に折り曲げて、その上から膏薬を貼ります。こよりは毎日取り替えるので、少し長めに作っておくと、それが楽になります。次第に治ってくると、ノミを入れると痛むので、そうなったらもう入れる必要はありません。

     ついでながら、ここで使える膏薬についても紹介しておきましょう。

○黄膏ハウミスイアゲシ、シアゲイヤスコトハヤシ。
○紫金膏ハヨクウミヲスイ肉ヲアグル、イタミヲトムル、イヘヤスシ。
○青膏モ同前

 気づかれた人もいると思いますが、似たような名前の薬が今でも売られていますね。そう、一般的に華岡青洲が考案したとされる中黄膏と紫雲膏です。それぞれ黄柏と紫根が主成分です。

つづく

(ムガク)

(これは2010-09-14から2010-09-28までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)


江戸時代の外科手術(5)-鉄砲之玉をぬく方- (修正版)

2015-06-11 19:39:24 | 江戸時代の医学

 今回は鉄砲で撃たれて、その銃弾が体内に残った時にそれを摘出するための手術です。現代の日本ではほとんど関係ないですね。でもこれも歴史と文化の勉強です。

 「賤ヶ岳合戦図屏風」

先其疵、此如灸ヲシテ、抜薬ヲ入テヲケバ六七日ホドシテクサルナリ。其時キリヤブリ玉ヲトリ出シ、アトニハ青膏ヲ付ヨ。



 銃弾が身体の深くに残った場合は、上の図のように銃創とその周囲の四点に灸をします。灸とはヨモギから作られた艾を身体の表面で燃やす治療法のこと。もともとはユーラシア大陸の遊牧民族、烏丸族などの伝統的な治療法でした(正史『三国志』魏書参照)。それが春秋戦国時代あたりには中国にもたらされ(『孟子』参照)、その後日本へ輸入されたようです。灸は身体を温めるという作用とともに、患部を熱により消毒する作用があります。また人工的に火傷を作ることにより、白血球数などが増加することが知られています。
 抜薬については後にくわしく記されています。

亦処アサク玉アラバ、当座ニキリヤブリ、テンタヲ入テスクヒトルナリ。

 銃弾が浅い所にある場合は、すぐさま摘出します。テンタとは「玉ヲトル道具」のこと。

弱モノニハ気付ヲ度々用テ気ヲトリタテ療治スベシ。

 患者さんが弱っている場合は気付を行います。「腹を納る法」でも気付が出てきましたが、ここでは気付の薬を二種類ほどご紹介しましょう。
 まずは蒲黄散、これは「金瘡並産婦気ヲ失ウヲ治スルコト神ノ如シ」と言われていました。これは蒲黄、人参、葛根、甘草、胡椒などを粉末にして服用させます。これは蒲黄が主薬です。大国主神が因幡の白兎を治療するために使ったことで知られていますね。止血の効果が高いので出血した時の気付向きです。
 それから茯神散、これは当帰、川芎、人参、白茯神、赤茯苓を煎じて使います。これは気血を補い、その巡りを促進するため、貧血や立ちくらみのような症状の時の気付に良いでしょう。
 次に抜薬について記載されています。

 矢根ヨロズ鉄針木竹肉ノ中ニ有を抜薬
○磁石(一匁)、鮫皮(内ノ白トリ用)、生栗、松茸、各七分
右細末ニシテ之塗、竹木ヲ抜ニハ磁石ヲ去リ、柿核霜加ヘテ水ニテネバネバトシテ付ル。

 面白い配合ですね。中国にもヨーロッパにもない処方かもしれません。主薬が磁石、つまりここでは朱砂です。殺菌消毒が目的です。また鮫、栗、松茸、これらは内服薬として使用されることがありますが、外用薬として使っている医学文献を、まだこれ以外見たことがありません。栗、松茸、柿と秋の味覚、おいしそうな薬剤です。きっと秋に開発された薬なのでしょう。ネバネバにするためだけでしょうか。いえ、目的は患部を腐らせること、そして弾丸を排出しやすくすることです。しかし、どの程度効果があるかは不明です。ちなみに栗粉は小麦粉の代用品にもなるので良い基材になりそうです。
 そう言えば天明八年(1788年)に「柿栗松茸」という落語が作られましたが、『外科手引艸』が記されたのは天明七年、その一年前です。何か関係有るのでしょうか…。

 なさそうですね。

○抜毒散 萬腫物ノ根ヲ抜ク、亦金創鉄砲之玉抜取ニ用ユ。秘伝ノ薬ナリ。
信石(五分)、赤六(五分)、雄黄(一匁)

 信石とは砒霜とも呼ばれ、三酸化二砒素 (As2O3 )のことです。昔から外用、特に患部が腐るような時、また内服にも使われてきました。砒素なので高い毒性がありますが、現在でも白血病や骨髄異形成症候群、多発性骨髄腫にも使われています。雄黄とは(三)硫化砒素(AsS・As2S3)のこと。これも皮膚の化膿や傷、寄生虫症など解毒や虫下しに使われてきました。信石ほどではないにしろ、砒素なので毒性があります。
 赤六とはアカニシ(赤螺)の黒焼きのことです。現在ではサザエの代用品として知られています。

右三味細末ニシテ、腫物ニハナカミ四分バカリニフトサ一分ニシテ、ソクイニテ、口ニ入ル。又金創ニモ右ノ通ナリ。但シ、スグニ用ルコト。有ソクイニテヲシ合セ丸メテ用ユルコトモアリ。口伝ナリ。

 この三味を粉末にしてから練って長さ4cm、太さ1cmくらいの円柱状に形を整え、傷口に挿入します。傷を負ったらすぐに手当てすること。あるいは丸めて用いることもあります。口伝ナリとは、実際のこと、臨床の微妙なことは面と向かって伝えるということです。

つづく

(ムガク)

(これは2010-09-14から2010-09-28までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)


江戸時代の外科手術(4)-手足の落たるを続法- (修正版)

2015-06-10 20:01:26 | 江戸時代の医学

 今回は手足を切り落とされてしまった時の手術です。紹介はしますが、真似はしないでくださいね。身近な人の手足が切れて落ちたら、応急救護をして救急車を呼びましょう。

 「施薬院男解体臓図」

先、ヲチタル手ヲトリヨセ、砂ナドツキタラバ其口ヲ洗テ、能々見ヨ。筋肉ノ内ヘチヂミ入テアルモノナリ。



 其口ヲ洗テとありますが、洗う方法はいくつもあります。ここでは疵洗薬を使う方法をご紹介しましょう。疵洗薬は藤瘤、蓮葉、石南、車前草、それから塩を三合、水を八升を煎じて六升五分になるまで煮詰めて作ります。これを温かいうちに疵口にかけて洗うのです。これは相当塩分濃度が高いことが分かると思います。仮に天然塩で一合170gとした場合だと、この塩分濃度は7.8%あり、人間の体液の浸透圧が0.9%の食塩水と同じなので、相当しみるはずです。しかしそれを補って余りあるメリットがあります。それは煮沸消毒した直後の洗浄液を使用するという点と、浸透圧による殺菌を期待できるという点です。
 ちなみに疵口を温めた酒で洗うという方法もあります。華岡青洲も焼酎で傷を洗ったように、これらはアルコール消毒のことですね。

ソレヲツガニノツメニテ筋ヲカキヲコシ、トウシンニテモ生柳ノ枝ナリトモ骨ノ内ヘシンニ入レ両方ノ筋ヲ合セ、皮ノ上ニ墨ニテシルシヲシテヲキ、…

 ちょっと長い文なので、間に解説を挟みましょう。ツガニ(頭蟹)とはモクズガニという蟹のことです。日頃、その蟹を多く採っておき、肉やミソを全て取り去り、干して保存しておきます。その蟹の爪を、落ちた手の切口の内側に縮み入った筋肉を掻き起こすのに使います。そして灯心や生柳ノ枝など細い棒を、骨の切口の穴に入れて真っ直ぐになるようにし、両方の筋肉を合わせて正しい位置になるように調節して、ずれないように皮膚の上に墨で印を付けておきます。

扨、筋渡シノ薬ヲ両方ノ筋ノ処ニバカリ貼テ、落タルキレクチニ人油ヲヌリ、アイシルシノテンニ合セ少シモチガハヌヤウニヲシ合セテ、針ニ糸ヲツケテ八處ヌヒテ、人油ヲ切口ニクルリト引テ、…

 筋渡シノ薬は河童から製法を教わったという伝説の薬の名前。新撰組の芹沢鴨が作っていたことでも知られています。医者がそれぞれ独自の秘伝の製法を持っていたようですね。詳細は不明ですが、おそらくここでは人油膏の一種(人油や葡萄酒、野師油、乳香、小麦などから作られた軟膏)のことだろうと思います。
 墨でつけた印に合わせて、筋肉や腱を縫合していきます。

偖テ唐綿ノイカニモホソキウスキカネキンヲ水ニテ洗ヒ蝋気ヲナクシテ、常ニタクハヘ置、長サ三寸ホドハバ四分カ三分ニイクツモキリテ、…

 これは手術用の脱脂綿の作り方ですね。長さが約9cm、幅は3、4cm。カネキンとはカナキン(金巾)のこと。ガーゼのポルトガル語です。

其モメンニ天利膏ヲアツク貼テ、鶏ノ卵ツブシ白ミヲ皿ニ入テ、天利膏ノ貼タル木綿ヲタマゴニヒタヒタニツケテ、ヌウタルイトヲ一処ツツニテキリテ、合セタル両口ヲモメンノマンナカニナルヤウニ間ヲ一分カ半分アケテクルリトツケテ、其上ニ青膏ヲ紙ニ付テ、上ヲ張ナリ。

 前々回(腹を納る法)でも出てきた、鶏ノ卵。古来、日本で使われてきたその卵の白身は無菌状態であり、良質のタンパク質を豊富に含み、また細菌の細胞壁を分解するリゾチームも含んでいます。卵を割らない限り、衛生状態が保たれるので、合戦の陣中でも使える質の良い薬でした。
 次の段落はグロテスクな表現を含みますので、気の弱い方は飛ばしてお読みください。

其上ヲ鶏ノヒヨコノウヅラホドナルヲケヲムシリ、クビノキハカラト羽モ胴ノキワカラ足モキワカラキリテ、二ツニワリテワタヲ去テ温マリ有ル内ニヲチタル方ヘ大分カケテクルリトマクホド、ヒヨコヲキリテマキ、上ヲフクサニテツツミ、イタニノセテ、ヲチタル方ヲ少シサカリカゲンニシテ女ヲソバニヲキ、ヲチタル方ヲソロソロサスラスベシ。ソバ伴ヲツケヲクベシ。

 ウズラ位の大きさの鶏ノヒヨコを用意します。それを生きたまま毛をむしり、首と羽と足を根元から切断します。そして胴体を二つに割って、内臓を取り、温かいうちに、切断した手の末端側、青膏を貼布した上に、くるりと巻いていきます。大部分を覆ったらフクサで包みます。患部を板にのせて位置を少し下げます。馬肉の湿布というものがありますが、このヒヨコの湿布は作用がまったく異なります。馬肉の湿布は冷やして炎症を鎮めるのが目的ですが、これは保温が主な目的です。またヒヨコの若い生命力や成長促進因子をもらう、という意味もあったかもしれません。手を少し下げるというのは新鮮な血液を供給させたいがため。そしてマッサージを行います。

次ノ日ハイロハズ中一日ヲキテヒヨコヲトリ、青膏モ天利膏モトリテ亦前ノ如ク療治スベシ。十五六日シテ本ノ如クツゲルナリ。股ヲツグモ同前ナリ。少シ二三分ホド成トモ皮カカリアレバ、ナヲナヲツギヤスシ。

 次の日は何もしないで、中一日おいたら全て取り替えます。これを繰り返すと15、6日ほどで手は元通りにつながる、とのことです。しかし、ここでは血管も神経も縫合していませんし、元通り動かせたか否かは不明です。現代の日本での実証は困難でしょう。

惣ジテ手ヲヒニカカリテハ、今死スルモノニモイカニモ心ヤスキヤウニ云モノナリ。ソレニテ手ヲヒチカラヲエルナリ。ソバノ人ガ云分ニハ實ニセネトモ、医者ノ言コトハ實トヲモヒテ気ヲヨクスルモノナリ。大事ノ手ヲヒナラバ、手ヲヒニカクシテシンシヤクスベシ。

 手ヲヒとは患者さんのこと。一般的に、今にも死にそうな患者さんにでも、安心するように話さねばなりません。そうすると患者さんは治す力を得られるのです。身近の人からの励ましを信用しなくても、医者が「大丈夫。心配いらないよ。だんだん良くなるよ」などと言えば本当のことだと思って、気分が良くなります。命の危険がある患者さんに「あなたは死ぬかもしれない」などと言わず、斟酌すべきであると、言っています。

 ここであえてこのように言及しているのは、当時死にそうだと思われる患者さんに、「あなたは死ぬ」という医者がいたからです。でもこれは江戸時代からではありません。二千年以上前から死を予言する医者の逸話が数多く残されているのです。むしろ死を予言することが名医であるように伝えられてきたので、医者がそれを目指すことは普通でした。現代でも「あなたの病気は治りません。余命〇年です。あきらめなさい」などと医者から言われる患者さんが結構いますね。でも、もしそう言われても信じないことです。フランスの哲学者、アランも以下のように言っています。

カッサンドラは不幸を告げる。眠っている魂たちよ、かずかずのカッサンドラに不信をいだけ。真の人間は奮起して未来をつくるのである。

つづく

(ムガク)

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江戸時代の外科手術(3)-疵を縫う法- (修正版)

2015-06-10 20:00:56 | 江戸時代の医学

前回(腹を納る法)、前々回(頭脳を納る法)と傷口の縫合が出てきましたが、今回はそれについて、もう少し詳しくご紹介いたします。出典はやはり『外科手引艸』からです。

針ハ皮ヌイ針ヲ用ユ。糸ハ南毛大白上々ヲ、ツネノ絹糸ノフトサニシテ、イカニモクリニヨラセテ持ツナリ。其糸ヲ長サ一尺ホドヅツニシテヌウナリ。



 南毛とは南蛮から輸入された木綿糸、コットンのこと。 大白とは、きわめて清潔なものという意味です。それを撚ってふつうの絹糸の太さにして使用します。  現代でも縫合の糸には、化学合成のもの(ナイロンなど)がいろいろ出て来ていますが、依然、絹糸も使われています。絹糸は自然のものの中で人体への親和性が高く、縫合には最適なのですが、この当時は使うことが出来ませんでした。なぜなら絹は非常に高価なものであり、また一般人の使用には規制があったからです。そんな訳で華岡青洲も縫合には絹糸を使えず、蝋を引いた木綿糸を使っていたのです。ちなみに麻糸だと小児などの柔らかい肉が切れやすいので、使い難かったようですね。(『外科摘要』参照)

一処ヅツニテヨクシメテ、三ツハカリムスビテ、残リノ糸ハキルナリ。腸入レテモヌイ、手足ツギテモ縫、イグチヲツギテモヌウナリ。イグチツグニハ三処ヌウナリ。何モ糸ハ一処ヅツニテヌイキルベシ。

  糸は一つ縫うごとによく締めて、三つ結び、切ります。こうすると抜糸するのが楽になります。イグチとは生まれながらにして、口唇が縦に裂けている奇形のことです。今で言うところの口唇裂のこと。

ウチ身ニモキヅニヨリヌウコトアリ。同シ心得ナリ。其薬モ人油、天利膏ヲ用ユ同前ナリ。

 縫合した傷口の上には例によって人油、天利膏を使います。これが縫合の一つの方法です。

 『金創口授』より

つづく

(ムガク)

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江戸時代の外科手術(2)-腹を納る法- (修正版)

2015-06-10 06:09:55 | 江戸時代の医学

 今回はお腹を刀などで切られてしまい、はらわたが出てしまった時の手術です。紹介はしますが、真似はしないでくださいね。身近な人のお腹が裂けてしまったら、応急救護をして救急車を呼びましょう。

 「寛政婦人解剖図」

腹ヲ納ルコト先ツ、気付ヲ用テ入ルベシ。大麦ヲヨク煮テ其汁ニテ腹ヲ洗ヒテ、モシ腹ニ疵アラバ人油ヲ付テ糸ヲ以テヌイ、右ノ麦ノ煮タルアツキヲフクサモノニツツミ、二ツモ三ツモコシラヘテ腹ニヲシアテ、腹をアタタムナリ。アタタマレハ、腹ヤハラクナリ、チイサク成ナリ。冷レハコハバリ、大キニフトルナリ。



 お腹を入れるに先立って、患者さんを気付けさせます。それから大麦を使うのですが、これは煮汁とカスを両方使います。煮汁はお腹の洗浄に使いますが、この中にはカンジシンが含まれています。これは血圧を上げたり、呼吸や心拍数を抑制したりといった作用を持っています。また煮出した麦は熱いうちにフクサに包んでホットパック(カイロ)を作ります。こうしてお腹を温めると、傷口の筋肉が過剰に収縮した状態を緩和できます。一石二鳥ですね。

サテ生レテ十七日ノ内ノ赤子ノフンヲ、鳥ノ羽ニテヨク腹ニクルリトツケテ、柳ノヘラニテソロソロト押シ入ベシ。イラズバ、人ヲシテ童ノアヲノキネタルヲ膝ヘアゲルヤウニ、病人ノ左ノ方ヨリ片手ハクビボンノクボヘ入レ、片手ハ足ノヒツカガミニサシ入レテ、ソロソロヲコサセテヘラニテ押入ルベシ。入レテ両ノ疵ノ口ニ人油ヲ引テヌウナリ。人油ヲ引トキシヅクモ内ハヲチヌヤウニ引ベキナリ。

 前回の「頭脳を納る法」でも出てきた赤子のフン、これは生後17日以内のものを使います。赤ちゃんのウンチは、生まれてからの日数とともに質が変ってきます。だんだんと臭いが強くなり、清潔でなくなってくるのです。なので外科医は、どの家にいつ生まれた赤ん坊がいるか、常に調べておく必要があったでしょうね。
 鳥ノ羽は、柔らかくて人体に与える刺激が少なく、フンをまんべんなく塗るために使います。これも清潔なものが良いですね。
 柳ノヘラはしなりがあり柔らかく、またサリチル酸を含んでいるので、痛みや炎症に少しは良いかもしれません。でもこれを使う最も重要な理由は、後に記されています。
 赤ちゃんのオムツを換える時の姿勢にするとお腹が緩み、はらわたを入れやすくなります。

サテ疵ノ大小ニヨリ、イク処ナリトモヌイテ、天利ヲモメンニ付テタマゴニヒタシ、上ニ付テ其上ニ青膏ヲ紙ニ付テ上ニ貼ヲクナリ。毎日天利青膏ヲ替テ療治スベキナリ。

 天利青膏は前回も出てきましたね。

多クハ入リ残リタル腹有ベシ。其レハ巴豆ヲ皮ヲ去リテ油ヲトリ、右ノ糸三筋バカリ一ツニ合セ、其糸ニ巴豆ノ油ヲヨク付テ腹ノ入リノコリタルキハヲ三ツ四ツマトヒテ、シツカリトムスビテ、糸サキヲキリテ、上ニ青膏ヲ付テヲクナリ。

 巴豆ノ油は歴史の長い毒薬です。主に下剤として使われてきましたが、とても毒性が強いので、現代ではほとんど使われることはありません。ありとあらゆる生物に毒性を示します。皮膚につくと強い灼熱感や炎症をひき起こし、水疱になることもあります。また白血球を増加させるというデータもあります。それを、お腹に入りきらなかった肉を縛るための糸に塗るのです。

亦色々ニ入レテモ、腹大キニフトリ、コハバリテ入リガタクバ、ヘラニテ腹ノ痛マヌヤウニ、ワキヘヲシヨセ、切カタナニテ腹ヲ五分バカリキリヒロゲ入ルベシ。

 なかなか腸がお腹に収まらない場合は、メスで傷口を切り広げて入れる場合があります。

先ツ萆麻子ヲツブシ、ソクイノヤウニヲシテ、アツアツトカミニ付テ、疵ノトヲリノウシロニ、大キサ四寸四分バカリニシテ付テヲキ、腹モ入テ療治シ、マイタラハ背ノ付薬ハトルベシ。

 萆麻子はひまし油のひましです。少し毒がありますが、排膿や抜毒、止痛や患部の腐敗防止の効果などがあります。
 ソクイというのは続飯のことで、ご飯粒をつぶして練って作った糊のことです。

又モヤシ麦ヲ細末ニシテ腹入時ヒネリ懸ルハ一段トヨシ。入レサマニ内ヘ磁石滑石等分ニシテ細末ニシテウス茶一プクバカリ湯ニテ用ユ。其跡ニテモ日ノ内二三度用ヨ。

 モヤシ麦とは食べ物ではなく、燃やし麦のことで、炭化した麦です。炭は毒物の吸着に優れていて、内服薬としても用いられます。現代でも尿毒症の時によく服用します。
 磁石滑石はどちらも薬です。磁石は、ここでは磁鉄鉱のことではなく、おそらく朱砂をさしています。朱砂は水銀鉱物で化膿に使われていました。今ではほとんど見かけなくなった赤チンも水銀です。でも有機水銀ではないので中毒の心配はありません。
 滑石は加水ハロサイトのことです。現代の漢方薬にもよく使われていますが、浸出の多い皮膚炎などに外用薬としても使われていました。

其後ハ内薬ハ補気調血飲ヲ用ユルナリ。

 補気調血飲とは煎じ薬のことで、「諸々ノ金瘡尤モ反張アル者、治之如神」と言われていました。配合は当帰、川芎、生地黄、人参、白芍薬、白茯苓、白芷、沢瀉、蒲黄(生)、紫檀、枳殻、沈香、大黄(半生半炮)、肝木(葉クキトモニ日ニホシ各等分)、甘草(少)などですが、症状により他の生薬を加えます。詳しくは割愛します。

大事ノ者ナリ。不功者ナレバ見アヤマリ死スルナリ。脉ヲタシカニシテ、問薬ヲ用ヒ、能タメシテ療治スベシ。若シ死レハ、ヘタニテ療治シコロシタルト人ニイワルルナリ。様子ヲヨク見テコトハツテスベシ。

 お腹を切られて、はらわたが出ている患者さんは命を落とす危険がある大事ノ者である、ということです。程度の低い医師だと見誤り、患者さんは死んでしまいます。慎重に慎重を重ねて治療しなければなりません。治療した後に患者さんが死んでしまうと、「ヘタニテ療治シ、コロシタル」と言われてしまうからです。診断とインフォームドコンセント(説明と同意)の重要性を、医師の立場から説いています。
 問薬というのは、薬を飲ませて患者さんの生死を試定する診断法のことです。小児の臍帯を刻んで煎じて用います。これを服用させ三度吐くと、必ず死ぬと言われていました。また陰干ししたイノシリ草や虎の肉を使う方法もあります。残念ながら、この診断法の仕組みや精度は不明です。

偖又、始終腹ヲ指ニテイロフベカラズ。毒ナリ。ヘラニテイロフベシ。モシワタニモキズアラバ、ソレモヌウテ青膏ヲツケズニ入テウヘヲヌウベシ。

 イロフとは弄ふのこと。始終、お腹を指で触ってはいけない、それは毒になると言っています。面白いですね。院内感染予防の父と呼ばれるゼンメルワイスが、産褥熱の研究から院内感染の原因が医師の汚染された手である、と主張したのは19世紀中頃のことです。それより半世紀以上前、江戸時代にそのような思想があったのですからね。柳のヘラで処置する理由は感染の予防のためなのです。

つづく

(ムガク)

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江戸時代の外科手術(1)-頭脳を納る法- (修正版)

2015-06-10 06:06:11 | 江戸時代の医学

(これは2010-09-14から2010-09-28までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

 しばらく育児を言い訳にしつつブログを休んでいましたが、そろそろ再開させていただきます。さて、何について書こうかなと考えましたが、広く知られている事柄については面白くないので、江戸時代の外科的医療についてはいかがでしょうか。ただここでは華岡青洲(1760-1835)の業績のようなエポックメイキング的なものではなく、日々日常のドロドロとしたものを取り扱っていこうかと思います。主な出典は天明七年頃(1787年頃)に記された『外科手引艸』です。



江戸時代の外科手術(1)-頭脳を納る法-

 「解剖存真図」

 頭を強打し頭蓋骨が割れて、中身が出てしまった時の手術です。紹介はしますが、真似はしないでくださいね。身近な人の頭が割れてしまったら、応急救護をして救急車を呼びましょう。

ハチワレタラハ、ワレメニ人油ヲ付テツヨクヲシ合セ、両方ニ物ヲカヒテツヨクシメテユイテ、件ノ天利ヲ玉ゴニヒタシ付テ上に青膏付テヲク。



 この人油というのはどうも人間から採った油脂のようですね。牛から採れば牛脂、豚から採れば豚脂、ゴマから採ればゴマ油、ヤシから採ればヤシ油と呼ばれます。同じ水に溶けない油脂でも動物性のものと植物性のものではその融点が異なります。動物性の油脂は融点が高いので常温では固体であるのに対して、植物性のそれは低いので常温では液体です。固体だとハマグリなどの貝殻に入れるなどして携帯や取り扱いが楽になります。この人油、どうやって採ったのでしょうか。想像したくないので記しません。しかし人体というものは宗教的道徳的そして法的に禁じられるまでは、世界のあらゆる場所で、食料としてまた薬として扱われていました。日本でも明治時代になっても薬店で人体から作られた薬が売られていました。人の尿も乳も薬です。「爪の垢を煎じて…」の爪も薬です。プラセンタと呼ばれる胎盤もそうです。輸血や臓器移植も人体を利用した医療ですね。その目的が生命を助けること、そこに仁愛があるのであれば、それらの印象も変ります。

 天利というのは天利膏のことで、これは白蝋と野師(ヤシ)油を混合して作った軟膏です。続物縫物によく使われます。配合は季節によって異なります。白蝋と野師油の比率は、夏は6:4、冬は5:5となっています。夏は暑いので融けにくくなるように工夫されていますね。
 青膏は「たこの吸出し」という名で今でもありますね。殺菌力のある塩基性炭酸銅、緑青が使われています。

毎日薬を替ベシ。脳出デタルモ、ウス皮ヤブレズハ生ベシ。ソレトモドロケタルモノ出ルニハ赤子ノフンヲウスキ皮ニモ脳ニモ付テ入レハ則チ入ナリ。ムラナク出タル分ニ付ベシ。入タルアトハ右ノゴトク療治スベシ。

 ウス皮とは脳を保護する硬膜やクモ膜、軟膜などのことです。頭が割れて脳が出ても、これらの膜が破れなかったら、クモ膜などの出血もなければ、大丈夫です。(大丈夫でもないですが)
 ドロケタルモノ、これはなんでしょう。脳脊髄液のことでしょうか。出ても大丈夫なの?っていう声も聞えてきそうですが、もし脳圧が亢進している状態だったら、少し出たほうが逆に良いかもしれませんね。(良くもないですね)

 赤子のフンは衛生的にどうなんでしょうか。ちょっと心配ですね。でも当時の他のものと比べるとはるかに良いものです。乳児は完全栄養食であり、殺菌力もあるラクトフェリンが含まれる母乳だけ口にして、腸内の細菌叢もまだありません。乳児のフンは人体に親和性が高く、また免疫グロブリンを多く含んでいるのです。問題はそれの保存であり、細菌が繁殖する前の新鮮なフンを使うのがベストですね。

内ヘ水油気入レハ死スルナリ。惣体赤子ノフンハ手足ヲツグニ骨ニ両方ニヌレ。ヨク骨ズイニ入テ合コト妙ナリ。

 もし脳のウス皮の中に水分や油分が入れば死んでしまいます。あるいは手術をしたのに死んでしまった場合に水分や油分が入ったためである、と説明したのかもしれません。赤子ノフンは手足の骨折にも使えるようですね。妙ナリというのは実際に成功する確率が高い、ということです。

 頭の外科手術は現代医学だけのものではありません。すでに古代ギリシャのヒポクラテスもインドのジーヴァカも頭の外科手術をしているのですから。現代のそれは、より衛生的に、精密に、深く治療できるように進歩したのです。ただ、今の時代も、昔の人が全国からあるいは海外から腕の良い先生を探す必要があったように、そういう努力や運が必要みたいですね。

つづく

(ムガク)


江戸時代の医学-人面瘡-

2015-04-11 19:18:21 | 江戸時代の医学

(これは2011.1.20から2011.2.12までのブログの修正版です。四つを一つにまとめてあります。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

-人面瘡(1)-

国立国会図書館所蔵「難病療治」、 左の中段が人面瘡。人面瘡に米を食べられていたので米屋の請求書を見せているところ。

 現代にまで語り継がれてきた「人面瘡」、怪談・奇談の一種として知られています。江戸前期の作家、浅井了意(1612-1691年)の『伽婢子』に記されてから、様々な小説、漫画などに取り上げられてきました。この人面瘡、どのようなものだったのか。それは身体の一部にできた人の顔そっくりのデキモノであり、物を食べたり酒を飲んだりして、その人を死に追いやるほど苦しめます。『伽婢子』ではある農民の足に人面瘡ができて死ぬところを、旅の僧が「金、石、土をはじめて、草木にいたりて、一種づつ瘡の口に」入れ、「貝母を粉にして、瘡の口ををし開き、葦の筒をもつて吹き入」れると、十七日後にその人面瘡は消えました。

 この貝母とはユリ科アミガサユリ属に属する植物の鱗茎のことであり、貝原益軒(1630-1714年)は『大倭本艸』の中で、「結気を散じ、煩熱を除き、心肺を潤し、所以に嗽を治し、痰を消す」と言っています。これは当時の中国でも癰瘍や瘰癧などによく使われていた生薬でした。

 さて実際に人面瘡のような奇妙な病はあったのか。実は当時の外科に関する医学書にそれについて記載されています。それは林子伯の『錦嚢外療秘録』(明和九年出版)ですが、少し引用してみましょう。

九十四 人面瘡
人面瘡、古有りと言ふ。近世罕(まれ)なり。此三陽の湿熱、患いを成す。膝上に生じて、人面に似たり。
荊防排毒散 貝母を倍して、之を治す。方は十七に見たり。太乙膏之を治す方は一に見たり。

 明和九年は西暦1772年なので、林子伯は浅井了意よりも数世代後の人。江戸中期には人面瘡はまれであったことが分かります。三陽、身体の太陽、陽明、少陽という陽部の湿熱が発症の要因と子伯は言っています。

 荊防排毒散は「諸瘡疥癬便毒下疳を治す」薬のことで、荊芥、防風、羌活、獨活、柴胡、前胡、薄荷、連翹、枳殻、桔梗、川芎、茯苓、金銀花、甘草、沢瀉に生姜や燈心などを入れて作りますが、配合は結構適当です。症状によって同じ名前でも生薬の配合はかなり変わります。旅の僧が使った様々な生薬はもしかしたら、この荊防敗毒散の一種のことだったかもしれませんね。やはり貝母が、倍量使われているので、重要な役割を担っていますが、はたして実際に効果があったのでしょうか。

 ちなみに太乙膏は軟膏の名前で、肉桂、白芷、当帰、玄参、赤芍、生地黄、大黄、木鼈子、阿魏、軽粉、槐枝、柳枝、血餘、黄丹、乳香、没薬、麻油などから作られています。現在でも薬局で売ってますね。

(つづく)

(ムガク)

-人面瘡(2)-

 人面瘡を実際に治療した人がいるのですが、それは『解体新書』の翻訳にたずさわった桂川甫周の祖父であり、幕府の蘭方医であった桂川甫筑(1697-1781年)です。漢詩人、菅茶山の随筆『筆のすさび』にその記録が残されていますが、短いので全文を見てみましょう。

*

城東材木町に一商あり。年二十五六。膝下に一腫を生ず。逐漸にして大に、瘡口泛く開き、膿口三両処、其位置略人面に像る。瘡口時ありて渋痛し、満るに紫糖を以てすれば、其痛み暫く退く。少選あつて再び痛むこと初めのごとし。

城東材木町(今の日本橋のあたり)にある商人がいた。膝の下に一つの腫瘍ができたが、日を追うにしたがってだんだんと大きくなり、瘡口は広く開きはじめ、膿が出る穴が三か所ほどあり、その位置がまるで人面のようであった。瘡口は時々痛み、ひどい時に黒砂糖を塗布すると、その痛みはしばらく退いた。が、それからまたしばらくすると、また前のように痛むのであった。

夫、人面の瘡は固より妄誕に渉る。然るにかくのごときの症、人面瘡と倣すも亦可ならん乎。蓋、瘍科諸編を歴稽するに、瘡名極めて繁し。究竟するに、其症一因に係て、而発する所の部分、及び瘡の形状を以て、其名を別つに過ざるのみ。人面瘡のごときも亦是なり。

そもそも、人面の瘡ははじめは根拠のない嘘であった。それなのに、このような病症を人面瘡と呼ぶのは正しいのだろうか。たしかに瘍科に関する古今の医学書をいろいろ読むと、瘡の名前は極めて多い。しかし結局のところ、その症は要因が同じでも、発生する身体の部位と、瘡の形状によって、様々な瘡名が付けられているに過ぎない。人面瘡もその一つなのだ。

*

 というのが甫筑の主張です。彼はいわゆる飲食会話する怪談的人面瘡を「固より妄誕」として片付けました。瘡が人の顔に似ていれば人面瘡と呼んでいいのであって、それをそれと呼ぶためには、それが何かを食べたり飲んだりするとか、しゃべったりする必要はまったく無いのです。

 また治療に紫糖を使っているのは時代を反映していますね。享保時代に吉宗が糖業を奨励し、甘蔗の栽培法や、製糖法を求め、宝暦、明和ころから製糖法は諸国に広められました。それ以前は糖は輸入に頼る高級品であったので、瘡の治療に実験的に使えるようになったのは、この時代辺りからかもしれません。

 甫筑は人面瘡をどのように治療したか、ここでは言い残しませんでしたが、彼の四代後の桂川甫賢はもう少し詳しく書き残しています。

つづく

(ムガク)

-人面瘡(3)-

 桂川甫筑は人面瘡を治療しましたが、結局、具体的にどのような治療を施し、予後はどうなったのか記録が残されていません。しかし甫筑の四代後の桂川甫賢(1797-1845)が人面瘡を治療した時の症例がくわしく残されています。これはちょっと長いので二回に分け、原文は省略して現代語に直して見ていきましょう。

 文政二年(1819年)の中元(7月15日)、仙台のある商人が、門人を介してこう言ってきた。

「ある人が遠くから治療して欲しいと頼みに来ました。年は三十五なのですが、十四歳の時に左の脛の上に腫物ができました。それが潰れると、膿が流れ出てきて止まることがありませんでした。ついに腐ったような骨が二三枚出てきました。それから四年ほど経つとようやく瘡口が収まってきました。ただ全部の腫物は消えず、歩くことが非常に困難です。だから温泉につかったり、委中(膝の裏のツボ)の静脈に鍼を刺して瀉血をしたりしましたが、どれもあまり効果がありませんでした。医者を数人換えて治療したけれど、とくに改善することもなく歳月が流れ、むしろその腫物は大きくなり、膝を囲んで腿にまで達し、再び膿が出る穴が数ヶ所できました。前の瘡口が再び開いたかのように見えましたが、その症状は以前とまったく異なります。ただ痛みを感じることがなく、今年になって、瘡口は一ヶ所にとどまっています」

 桂川家は幕府の奥医師をつとめる家柄で、蘭方と呼ばれるオランダ医学を専門にしているので、腫瘍や怪我などの外科的治療を得意としていました。奥医師というと将軍家の治療に携わるため、高い身分、諸国の大名ほどの地位が与えられていました。一般庶民がおいそれと診てもらうことはできません。この人面瘡の患者は仙台の商人に口利きを頼み、桂川家の門人を介して甫賢に診療をお願いしたのでしょう。なお門人とは、ここでは医学を学ぶ弟子のことであり、師と寝食を共にし、師のお城務めの時には家を守ります。その門人が商人から話を聞いたのでした。

 そんなわけで甫賢は人面瘡を診ることになりましたが、はたしてどうだったのでしょうか。

つづく

(ムガク)

-人面瘡(4)-

 さて、桂川甫賢(1797-1845)は人面瘡を見ましたが、どうだったのでしょうか。今回もちょっと原文は省略して、翻訳しながらみていきましょう。

 瘡口が一つあったが、それは以前骨が露出していた場所であった。瘡口は大きく膨れて開き、あたかも口を開いているような形である。周囲は薄赤く唇のようで、少しそれに触れると血がほとばしった。痛みは無い。口の上に二つの窪みがあり、その瘡跡は左右対称で、窪みの内側にはそれぞれしわがある。あたかも目を閉じて、含み笑いをしているような形であり、目の下には二つの小さな穴があり、鼻の穴が下に向いているような感じである。両旁には又それぞれ痕があり、痕の周りにそれぞれ肉が盛り上がって、耳たぶのようになっている。その顔は楕円形であり、瘡の根は膝蓋骨にあるようで、頭の形をしている。

 かつ、患部はゆっくりと動いており、まるで呼吸をしているようである。衣を掲げて一たび見ると、まるで何かを言おうとしている人に似ている。決して、それが人の顔と同じであると言っているのではない。強いてこれを人面と呼んでいるに過ぎない。そして脛の内のスジは腿と股に連なり、腫れは大きく一斗の枡のようで、青筋が縦横に浮き上がって見え、これを触ってみると、緊張してもいないし、柔らかくもない。その脈は速くて力がある。食欲は減ることなく、大便も小便も問題ない。

 したがって、この症は多骨疽と呼ぶのが適当である。多骨疽の症は、多くは遺毒から発生する。そして瘡の状態がこのようなものにまで至るものもあるのだ。ただ、瘡口の内部は汚腐して、瘡薬を塗りこめても効果が無く、餌糖も、たとえ貝母でさえも、「眉をあつめ口をひらく」効果が無かった。

 というのが甫賢の記した内容です。ちょっと分かりづらいところを読んでいきましょう。「脈は速くて力がある」というのは、脈診という診断法の結果です。脈の拍動の状態を診ることで、その人の身体の状態を察するのです。脈拍が速ければ、一般的に体内に熱がある状態であり、力があれば、病邪が激しく、また抵抗力も残っている状態を示唆します。

 多骨疽というのは、『病名彙解』によると、「足脛ナドニ疽ヲ生ジ、腐乱シテ細骨ヲ出ス也、一説ニ此疽ハ、母懐胎ノトキニ親類ト交合スレバ、生マルル子ニ発スルト云へり」とあります。当時は原因不明の病気が顕われると、それは両親から受け継いだ毒によるものと説明されることが、多々ありました。当時流行していた、天然痘が胎毒で発生するという説もその一つです。因果応報の観念が入り込み、親の悪い行いが、子供に病気となって顕れるというもので、人々はそれを治療するため、胎毒下しを行ないました。それは生まれたばかりの胎児にマクリと呼ばれる湯液を服用させて、毒をウンチと一緒に出そうという試みでした。これは現在でも所々で続けられている習慣です。本当にそう信じていたかは分かりませんが、母親が妊娠中に親類と密通すると多骨疽が生じると、書かれています。この胎毒はここでは「遺毒」と呼ばれています。

 餌糖は甫賢の四代前の甫筑が使った、紫糖(黒糖)のこと。貝母は「江戸時代の医学-人面瘡(1)- 」で出てきました。まるで人面瘡の特効薬のように扱われていた薬です。「眉をあつめ口をひらく」とは、『伽婢子』に出てきた人面瘡が、貝母を口に入れられそうになった時に、「眉をしじめ、口をふさぎて食らはず」抵抗したことを受けた表現です。人面瘡が薬で苦しみ死ぬと(治癒すれば)、抵抗することがなくなり、「眉をあつめ口をひらく」のです。結局今回は、薬物治療は効果がありませんでした。治癒したか否かは記載されていません。桂川家はオランダ流の外科術が得意であったので、もし治療したのであれば、手術をしたことでしょう。また、もし劇的に治癒したのであれば、喧伝したとしてもおかしくありません。実際はどうだったのでしょうね。

(ムガク)

 

 


ヘイトスピーチと江戸時代

2014-09-27 14:17:57 | 江戸時代の医学

今から一年前、2013年9月22日には差別撤廃東京大行進が行われました。そして先日、2014年9月19日には、東京都国立市議会が「ヘイトスピーチを含む人種及び社会的マイノリティーへの差別を禁止する法整備を求める意見書案」を採択しました。国連人種差別撤廃委員会がヘイトスピーチを規制するように日本政府に勧告したのが先月の末、だんたんこの動きが他の自治体にも広がるかもしれません。


小生が東洋医学を学び研究していたのは新大久保でした。以前は韓流グッズや韓国料理を食べられる場所などあまりなかったのが、あっという間に数え切れないほど増え、町の雰囲気は変わってしまい、町はにぎやかに楽しくなってきました。


それが昨年頃から、◎◎会という団体が新大久保でデモを始めました。日本人が100人以上集まり、「韓国人ぶっ殺せ!絞め殺せ!」、「朝鮮人をガス室に送れ!」などと叫びながら行進し、また「お散歩」と呼ばれた暴力的な嫌がらせ行為も行われたようです。


昨年は新大久保へはあまり行かず、デモにも遭遇しなかったので、その具体的な雰囲気は判りません。マスコミもあまり取り上げてこなかったようにも見えます。しかしそのような人種差別のデモの存在を知っただけで、デモの参加者と話す機会もないのですが、彼らの思想や主義、方法論というものが、なかなか理解が困難です。どんな人でも、たとえ悪者であっても、少しくらい理解できても良いのでは、と思いつつ、それが出来ないのは自分が馬鹿なのでは、とも思ってしまいます。彼らの主張する在日特権というものが存在するようには見えないし、抗議する対象が正しいようにも見えません。暴力や言葉により弱い人々を傷つける理由は何なのでしょう。


言論や表現の自由は民主主義の基本です。カール・R・ポパーは、「開かれた社会」は、個人の自由、非暴力、少数者や弱者の擁護などが重要な価値とされている共同生活なのであり、国家形態や政体ではない、と言いました
*1。日本社会の少数派の弱い人々をいじめながら、表現の自由を行使している人たちは、いったい何をしたいのでしょう。カースト制度のあるインドでは、マハトマ・ガンジーはよく聴衆の前で、左手をあげて5本の指を開き、5つの主張をしました。そのうち2つが「不可触民の平等」と「女性の平等」です。生まれや性別により差別を受けないことはとても重要なことでした。


ヘイトスピーチっぽいものは江戸時代にもありました。それは儒学が官学になったことがきっかけであり、その代表者が賀茂真淵や本居宣長、平田篤胤や彼らの弟子たちです。それは、はじめのうちは、日本の儒学者たちが日本には日本の伝統ある文化があり、天皇もいるのにもかかわらず、唐(カラ)の文化を最上とし、皇帝や聖人を崇め奉り、日本の事を学びもしないことに対する批判でした。外国人に対する批判ではなく、日本人に対して批判を行うために唐の欠点を指摘していたのです。しかし、国学を学ぶものが増えてくると、自分たちのアイデンティティ確立のため、あるいは何らかの別の理由のためのヘイトスピーチが目立ってきたのです。


近世、加茂眞淵などは、僧契沖などのせつによりて、歌学を復古し古言を明かに弁じて、著書も多く、大いに俗眼を開けり。されども余りに日本のすなほなる君子国の風をおし尊ぶとて、唐山(カラ)の書、渡りてより、日本の風をけがしたるやうに説なり、遂に聖人の道をもからずして治国終身も済事のやうにいふによりて、其の徒、またその声によりて、唐山の事を吠えそしる事甚だし。
*2


エマニュエル・トッドは、日本や朝鮮、ドイツなど権威主義家族の地域は、存在しない差異を知覚することに優れていて、民族的な特徴を発明しようと努力すると言いましたが
*3、この特徴は今も昔も変わっていないようですね。また彼は、権威主義家族は、不平等主義的な価値と平等な社会実践を伝達し、核家族は、平等主義的な価値と、不平等な社会実践を伝達すると、言いましたが、現在、日本では核家族化が進んでいる過程なので、その対立が◎◎会とそのカウンターに現れているのかもしれません。トッドによると、権威主義家族は時折存在しない差異性を感知し、自分自身で発明したイデオロギー的な亡霊と闘おうとする傾向があり、差異性を社会的組成の不均質性としてとらえずに、外部からの攻撃として定義するようです。その最悪の結果がナチスによる反ユダヤ主義でした。


日本は江戸から明治、大正、昭和、平成とヤジロベエのように価値観が揺れ動いてきました。ドイツにしろ日本にしろ、過ちは何度も繰り返したくないものです。ではどうしたら良いのか。江戸期にヘイトスピーチを見てきた廣瀬臺山であれば、「恩を知る事」と言ったかもしれません。五穀を食物として選び、鎌鍬、鎗剣などを製造し、衣服、建築、文字、礼学、道徳、医学などたくさんのものを発明、発展させ、日本に教えてくれた国に対して、恩を知ることの重要性を説きました。「恩を恩と知らざるは、犬猫にも劣るといふものなり。人の恥慎むところなり」
*4


また臺山は、心の病として、不義不孝不忠、口目の欲、驕者の欲、金銭の欲、安逸の欲、淫乱の欲、人の善を妬み、己が能を誇り、義を欠きても己が利を貪り、或は吝嗇、惰弱、臆病を大病として挙げています。心の病には特殊な感染性があり、人と接触する必要がありません。現代ではインターネットを介して、あっというまに伝染する可能性があります。あの会やデモもインターネットを利用して仲間を増やしていったようです。とすれば、対策は病気の人の治療と、感染拡大の予防、未病の人の免疫の強化がまず考えられるでしょう。


マスクは感染予防に有効ですが、情報の規制、制限、インターネットに関してはフィルタリングはデメリットの方が大きいでしょう。これは民主主義的国家、独裁国家の行う手法です。ワクチンによる免疫強化は有効かもしれません。臺山は「聖経を読み、師親友につきて、能々療治すべきなり」と言いました。良い本や先生、親友というものはとても大事なものです。


ちなみにヘイトスピーチを禁止する法整備は、きっとこれとは別の分野ですね。おそらく、新法を作るか、あるいは名誉棄損や侮辱罪に関する法律を改正するか、どちらかでしょう。


臺山は、たとえどんな時でも「仁に違う事なかれ」と言いましたが、アルベルト・シュバイツアーなら、「生命への畏敬の世界観を持つこと」、と言ったことでしょう。ゲーテであればこう言うことでしょう。



人間はけだかくあれ

情けぶかくやさしくあれ

そのことだけが

われらの知っている

一切のものと

人間とを区別する*5



(ムガク)


*1: カール・R・ポパー/コンラート・ローレンツ、『未来は開かれている』

*2: 廣瀬臺山、『雅俗渭辨』

*3: エマニュエル・トッド、『世界の多様性―家族構造と近代性』

*4: 廣瀬臺山、『小頑俗訓』

*5: ゲーテ、「神性」という詩から


(資料の提供に関して改めてF女史に感謝いたします)


江戸時代の医学-人面瘡(4)-

2011-02-12 13:45:11 | 江戸時代の医学

 さて、桂川甫賢(1797-1845)は人面瘡を見ましたが、どうだったのでしょうか。今回もちょっと原文は省略して、翻訳しながらみていきましょう。


 瘡口が一つあったが、それは以前骨が露出していた場所であった。瘡口は大きく膨れて開き、あたかも口を開いているような形である。周囲は薄赤く唇のようで、少しそれに触れると血がほとばしった。痛みは無い。口の上に二つの窪みがあり、その瘡跡は左右対称で、窪みの内側にはそれぞれしわがある。あたかも目を閉じて、含み笑いをしているような形であり、目の下には二つの小さな穴があり、鼻の穴が下に向いているような感じである。両旁には又それぞれ痕があり、痕の周りにそれぞれ肉が盛り上がって、耳たぶのようになっている。その顔は楕円形であり、瘡の根は膝蓋骨にあるようで、頭の形をしている。


 かつ、患部はゆっくりと動いており、まるで呼吸をしているようである。衣を掲げて一たび見ると、まるで何かを言おうとしている人に似ている。決して、それが人の顔と同じであると言っているのではない。強いてこれを人面と呼んでいるに過ぎない。そして脛の内のスジは腿と股に連なり、腫れは大きく一斗の枡のようで、青筋が縦横に浮き上がって見え、これを触ってみると、緊張してもいないし、柔らかくもない。その脈は速くて力がある。食欲は減ることなく、大便も小便も問題ない。


 したがって、この症は多骨疽と呼ぶのが適当である。多骨疽の症は、多くは遺毒から発生する。そして瘡の状態がこのようなものにまで至るものもあるのだ。ただ、瘡口の内部は汚腐して、瘡薬を塗りこめても効果が無く、餌糖も、たとえ貝母でさえも、「眉をあつめ口をひらく」効果が無かった。


 というのが甫賢の記した内容です。ちょっと分かりづらいところを読んでいきましょう。「脈は速くて力がある」というのは、脈診という診断法の結果です。脈の拍動の状態を診ることで、その人の身体の状態を察するのです。脈拍が速ければ、一般的に体内に熱がある状態であり、力があれば、病邪が激しく、また抵抗力も残っている状態を示唆します。


 多骨疽というのは、『病名彙解』によると、「足脛ナドニ疽ヲ生ジ、腐乱シテ細骨ヲ出ス也、一説ニ此疽ハ、母懐胎ノトキニ親類ト交合スレバ、生マルル子ニ発スルト云へり」とあります。当時は原因不明の病気が顕われると、それは両親から受け継いだ毒によるものと説明されることが、多々ありました。当時流行していた、天然痘が胎毒で発生するという説もその一つです。因果応報の観念が入り込み、親の悪い行いが、子供に病気となって顕れるというもので、人々はそれを治療するため、胎毒下しを行ないました。それは生まれたばかりの胎児にマクリと呼ばれる湯液を服用させて、毒をウンチと一緒に出そうという試みでした。これは現在でも所々で続けられている習慣です。本当にそう信じていたかは分かりませんが、母親が妊娠中に親類と密通すると多骨疽が生じると、書かれています。この胎毒はここでは「遺毒」と呼ばれています。


 餌糖は甫賢の四代前の甫筑が使った、紫糖(黒糖)のこと。貝母は「江戸時代の医学-人面瘡(1)- 」で出てきました。まるで人面瘡の特効薬のように扱われていた薬です。「眉をあつめ口をひらく」とは、『伽婢子』に出てきた人面瘡が、貝母を口に入れられそうになった時に、「眉をしじめ、口をふさぎて食らはず」抵抗したことを受けた表現です。人面瘡が薬で苦しみ死ぬと(治癒すれば)、抵抗することがなくなり、「眉をあつめ口をひらく」のです。結局今回は、薬物治療は効果がありませんでした。治癒したか否かは記載されていません。桂川家はオランダ流の外科術が得意であったので、もし治療したのであれば、手術をしたことでしょう。また、もし劇的に治癒したのであれば、喧伝したとしてもおかしくありません。実際はどうだったのでしょうね。



(ムガク)


江戸時代の医学-人面瘡(3)-

2011-02-05 19:22:08 | 江戸時代の医学

 桂川甫筑は人面瘡を治療しましたが、結局、具体的にどのような治療を施し、予後はどうなったのか記録が残されていません。しかし甫筑の四代後の桂川甫賢(1797-1845)が人面瘡を治療した時の症例がくわしく残されています。これはちょっと長いので二回に分け、原文は省略して現代語に直して見ていきましょう。


 文政二年(1819年)の中元(7月15日)、仙台のある商人が、門人を介してこう言ってきた。


「ある人が遠くから治療して欲しいと頼みに来ました。年は三十五なのですが、十四歳の時に左の脛の上に腫物ができました。それが潰れると、膿が流れ出てきて止まることがありませんでした。ついに腐ったような骨が二三枚出てきました。それから四年ほど経つとようやく瘡口が収まってきました。ただ全部の腫物は消えず、歩くことが非常に困難です。だから温泉につかったり、委中(膝の裏のツボ)の静脈に鍼を刺して瀉血をしたりしましたが、どれもあまり効果がありませんでした。医者を数人換えて治療したけれど、とくに改善することもなく歳月が流れ、むしろその腫物は大きくなり、膝を囲んで腿にまで達し、再び膿が出る穴が数ヶ所できました。前の瘡口が再び開いたかのように見えましたが、その症状は以前とまったく異なります。ただ痛みを感じることがなく、今年になって、瘡口は一ヶ所にとどまっています」


 桂川家は幕府の奥医師をつとめる家柄で、蘭方と呼ばれるオランダ医学を専門にしているので、腫瘍や怪我などの外科的治療を得意としていました。奥医師というと将軍家の治療に携わるため、高い身分、諸国の大名ほどの地位が与えられていました。一般庶民がおいそれと診てもらうことはできません。この人面瘡の患者は仙台の商人に口利きを頼み、桂川家の門人を介して甫賢に診療をお願いしたのでしょう。なお門人とは、ここでは医学を学ぶ弟子のことであり、師と寝食を共にし、師のお城務めの時には家を守ります。その門人が商人から話を聞いたのでした。


 そんなわけで甫賢は人面瘡を診ることになりましたが、はたしてどうだったのでしょうか。


つづく


(ムガク)



江戸時代の医学-人面瘡(2)-

2011-01-25 20:07:16 | 江戸時代の医学

 人面瘡を実際に治療した人がいるのですが、それは『解体新書』の翻訳にたずさわった桂川甫周の祖父であり、幕府の蘭方医であった桂川甫筑(1697-1781年)です。漢詩人、菅茶山の随筆『筆のすさび』にその記録が残されていますが、短いので全文を見てみましょう。


*


Jinnmen 城東材木町に一商あり。年二十五六。膝下に一腫を生ず。逐漸にして大に、瘡口泛く開き、膿口三両処、其位置略人面に像る。瘡口時ありて渋痛し、満るに紫糖を以てすれば、其痛み暫く退く。少選あつて再び痛むこと初めのごとし。


城東材木町(今の日本橋のあたり)にある商人がいた。膝の下に一つの腫瘍ができたが、日を追うにしたがってだんだんと大きくなり、瘡口は広く開きはじめ、膿が出る穴が三か所ほどあり、その位置がまるで人面のようであった。瘡口は時々痛み、ひどい時に黒砂糖を塗布すると、その痛みはしばらく退いた。が、それからまたしばらくすると、また前のように痛むのであった。


夫、人面の瘡は固より妄誕に渉る。然るにかくのごときの症、人面瘡と倣すも亦可ならん乎。蓋、瘍科諸編を歴稽するに、瘡名極めて繁し。究竟するに、其症一因に係て、而発する所の部分、及び瘡の形状を以て、其名を別つに過ざるのみ。人面瘡のごときも亦是なり。


そもそも、人面の瘡ははじめは根拠のない嘘であった。それなのに、このような病症を人面瘡と呼ぶのは正しいのだろうか。たしかに瘍科に関する古今の医学書をいろいろ読むと、瘡の名前は極めて多い。しかし結局のところ、その症は要因が同じでも、発生する身体の部位と、瘡の形状によって、様々な瘡名が付けられているに過ぎない。人面瘡もその一つなのだ。


*


 というのが甫筑の主張です。彼はいわゆる飲食会話する怪談的人面瘡を「固より妄誕」として片付けました。瘡が人の顔に似ていれば人面瘡と呼んでいいのであって、それをそれと呼ぶためには、それが何かを食べたり飲んだりするとか、しゃべったりする必要はまったく無いのです。


 また治療に紫糖を使っているのは時代を反映していますね。享保時代に吉宗が糖業を奨励し、甘蔗の栽培法や、製糖法を求め、宝暦、明和ころから製糖法は諸国に広められました。それ以前は糖は輸入に頼る高級品であったので、瘡の治療に実験的に使えるようになったのは、この時代辺りからかもしれません。


 甫筑は人面瘡をどのように治療したか、ここでは言い残しませんでしたが、彼の四代後の桂川甫賢はもう少し詳しく書き残しています。


つづく


(ムガク)


江戸時代の医学-人面瘡(1)-

2011-01-20 19:22:29 | 江戸時代の医学

 現代にまで語り継がれてきた「人面瘡」、怪談・奇談の一種として知られています。江戸前期の作家、浅井了意(1612-1691年)の『伽婢子』に記されてから、様々な小説、漫画などに取り上げられてきました。この人面瘡、どのようなものだったのか。それは身体の一部にできた人の顔そっくりのデキモノであり、物を食べたり酒を飲んだりして、その人を死に追いやるほど苦しめます。『伽婢子』ではある農民の足に人面瘡ができて死ぬところを、旅の僧が「金、石、土をはじめて、草木にいたりて、一種づつ瘡の口に」入れ、「貝母を粉にして、瘡の口ををし開き、葦の筒をもつて吹き入」れると、十七日後にその人面瘡は消えました。


 この貝母とは、ユリ科アミガサユリ属に属する植物の鱗茎のことであり、貝原益軒(1630-1714年)は『大倭本艸』の中で、「結気を散じ、煩熱を除き、心肺を潤し、所以に嗽を治し、痰を消す」と言っています。これは当時の中国でも癰瘍や瘰癧などによく使われていた生薬でした。


 さて実際に人面瘡のような、奇妙な病はあったのか。実は当時の外科に関する医学書にそれについて記載されています。それは林子伯の『錦嚢外療秘録』(明和九年出版)ですが、少し引用してみましょう。


九十四 人面瘡
人面瘡、古有りと言ふ。近世罕(まれ)なり。此三陽の湿熱、患いを成す。膝上に生じて、人面に似たり。
荊防排毒散 貝母を倍して、之を治す。方は十七に見たり。太乙膏之を治す方は一に見たり。


 明和九年は西暦1772年なので、林子伯は浅井了意よりも数世代後の人。江戸中期には人面瘡はまれであったことが分かります。三陽、身体の太陽、陽明、少陽という陽部の湿熱が発症の要因です(と子伯は言っています)。


 荊防排毒散は「諸瘡疥癬便毒下疳を治す」薬のことで、荊芥、防風、羌活、獨活、柴胡、前胡、薄荷、連翹、枳殻、桔梗、川芎、茯苓、金銀花、甘草、沢瀉に生姜や燈心などを入れて作りますが、配合は結構適当です。症状によって同じ名前でも生薬の配合はかなり変わります。旅の僧が使った様々な生薬はもしかしたら、この荊防敗毒散の一種のことだったかもしれませんね。やはり貝母が、倍量使っているように、重要な役割を担っていますが、はたして実際に効果があったのでしょうか。


 ちなみに太乙膏は軟膏の名前で、肉桂、白芷、当帰、玄参、赤芍、生地黄、大黄、木鼈子、阿魏、軽粉、槐枝、柳枝、血餘、黄丹、乳香、没薬、麻油などから作られています。現在でも薬局で売ってますね。


(つづく)


(ムガク)


 


江戸時代の医学―結核をもたらす虫(6)―

2010-12-04 20:38:40 | 江戸時代の医学

Photo_3  今回ご紹介するのは第六代の蟲です。


 これらの蟲は丑亥の日に行動し、腎兪穴というツボにひそみこみます。それ故治療はそのツボと周囲に灸をすえて、蟲を出したら腎を補い、精を鎮める治療を加えました。


 一対の尻尾ような蟲、亀やスッポンのような蟲、麵のようなコウモリのような蟲が描かれていますね。


 さて結核が結核菌によって起こると分かると、20世紀半ば頃にストレプトマイシンが発見され、結核菌を殺せるようになりました。これにより結核による死者は劇的に減少したのですが、現在新たな問題が浮上してきました。


 それは超多剤耐性(XDR)結核の出現です。抗生物質が効かない結核が世界各地で確認されるようになったのです。


 生物を殺そうと淘汰圧をかけると生き残ろうと努力するため進化するようですね。もしかしたら菌を殺さない治療も必要かもしれませんね。


 最後にクイズです。今回「結核をもたらす虫」で紹介した蟲の画の出典は何でしょうか?正解の方には素敵なプレゼントがあるかもしれません。


つづく


(ムガク)



江戸時代の医学―結核をもたらす虫(5)―

2010-11-30 18:39:48 | 江戸時代の医学

 Photo そうそう江戸時代はエキノコックスの感染症を勞瘵と呼ぶこともあったでしょうが、肺吸虫によってひき起こされる肺ジストマ症もそう呼んでいたかもしれませんね。この感染症も咳や血痰がでます。やはりこの虫も成長すると1cmくらいになるので肉眼で観察できます。


 さて今回ご紹介するのは第五代の蟲です。


 これらの蟲は壬癸の日に行動し、肝兪穴というツボにひそみこみます。それ故治療はそのツボと周囲に灸をすえて、蟲を出したら肝を補う治療を加えました。


 ねずみような蟲、足のないまた頭のない蟲、血のようなアメーバのような蟲が描かれていますね。


 昔の人は考えました。結核になって便や吐瀉物を見て何か普段あるものと別のものが入っていたらそれが結核の原因なんだろうと。または病気は虫が原因であると信じていたので、何でもないものを虫として捉えてしまったかもしれません。


 あるいはエビやカニ、蛙などを食べた後に、病気になったらそれらに似た虫が原因であると推測したのかもしれません。


 でも顕微鏡の普及とそれによる研究が進み、1882年にドイツのコッホにより結核菌が結核の病原体であることが証明されると、今まで虫と呼んでいたものの形を知る事ができました。
 
 そして今度は結核菌によって起こる病気に結核という病名がつけられるようになりました。病気の名前の付け方が変わったのです。


つづく


(ムガク)


江戸時代の医学―結核をもたらす虫(4)―

2010-11-25 18:59:50 | 江戸時代の医学

Photo  今回ご紹介するのは第四代の蟲です。


 これらの蟲は己巳の日に行動し、脾兪穴というツボにひそみこみます。それ故治療はそのツボと周囲に灸をすえて、蟲を出したら脾を補う治療を加えました。


 糸が絡まったような蟲、豚の肺ような蟲、マムシのような蟲が描かれていますね。


 そうそう結核の昔の名前、勞瘵と傳尸病は正確には異なります。勞瘵は疲れ果て、やせ細り、咳が続き喀血します。傳尸病は勞瘵のうちの一つで、三尸虫という腹の中にいる虫が臓腑を食べることで起き、一家親類中に伝染すると考えられていました。


 この三尸虫とはもともとは道教の思想で、お腹の中に住んでいる虫のことで庚申の日に天に昇ってその人の罪を寿命をつかさどる神様に知らせます。人々はその虫を薬で下そうとしたり、庚申の日は徹夜で虫が天に昇らないように見張ったりしました。そんな庚申信仰により日本のいたるところに庚申塚が建てられたのは江戸時代のことです。


 現在では結核は結核菌によってひき起こされることが常識ですが、勞瘵がすべて結核菌によってひき起こされるとは限りません。


 たとえばエキノコックスという寄生虫は成長すると1cmくらいになることもあり肉眼で見ることができます。この虫による感染症も咳嗽や喀血することがあるので当時は勞瘵と呼んでいたことでしょうね。


つづく


(ムガク)