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022―宣長は下女に夜這いをして蹴飛ばされた?(斎藤彦麿について) ―本居宣長と江戸時代の医学

2015-08-13 12:54:11 | 本居宣長と江戸時代の医学

 宣長が下女にしつこく夜這いをして蹴飛ばされたという話が残されています。はたして本当でしょうか。この話は民俗学者、中山太郎の『愛慾三千年史』に残されてます。


本居宣長ノ宮: 現在は山室山から松坂城址の隣、四五百の森に移転されています



 国学の大家、本居宣長といえば、今日では伊勢の松坂の岩室山(ママ)に、神として祭られているが、その本居翁の内弟子に斎藤彦麿と云う人があった。此の人は相当の国学者であったが、先年、林若吉氏が此の彦麿自筆の日記を講読され、本居翁の日常生活に就いて二三の話を試みられたことがある。然るにその一節に、如何にも人間としての本居翁真骨頂を想わせる珍談があった。その概要を述べると左の如きものである。

 彦麿が或る朝のこと、他の二三の内弟子と共に、朝飯を食べながら

「本居先生こそ、本当の活神様と云うのだろう、学問と云い人格と云い、アレが本当の活神様だ」

 と云うと、同じく朝飯を食べていた他の内弟子が箸を休めて

「本当に活神様だ、日本広しと云えども宅の先生に上越す活神様はあるまい」

 と相槌を打ち、頻りと本居翁を活神様扱いにしていると、傍らに給仕していた下婢が、何を感じたか急に潜然と泣き出した。彦麿が不思議に思って

「何で泣くのか」

 と訊くと、下婢の返辞が実に振っている。曰く、

「その宅の活神様が年甲斐もなく、夜になると毎晩のように私の許え遣って来るのです。昨夜も遣って来ましたので、余り五月蠅ので足で蹴飛ばしてやりました。活神様を足げにかけたので、私は屹度神罰が当たると思うて悲しくなりました」

 とのことに、彦麿を始め他の内弟子達も、暫くは開いた口が塞がらなかったと云うことである。

 神に祭られているからとて本居翁も人間である。斯うした半面があったとしても、それは決して不思議でも何でもない。翁が若年の折に医学修行のため京都に遊学していた時分には、かなり宮川町辺の妓楼へでかけたようであるから、アノ古事記伝を大成した絶倫なる精力の点から云えば、斯うした事のあるこそ寧ろ当然だとも言えるのである。



 林若吉は収集家であり、彼の祖父は大槻俊斎や伊東玄朴と共に、お玉が池の種痘所を設立した奥医師、林洞海であり、父の林研海は直接オランダで医学を学び陸軍軍医総監となりました。また叔父には司馬遼太郎の『胡蝶の夢』で活躍した松本良順(幕府奥医師・初代陸軍軍医総監)がいます。中山太郎はこの林若吉が「彦麿自筆の日記を講読され、本居翁の日常生活に就いて二三の話を試みられた」のを聞き、この逸話を一節に残したのでした。

 「彦麿自筆の日記」を実際に拝見したことはないのですが、この話には何かしっくりしない所があります。別に、妻がいる身で、若くもないのに下女に夜這いをしてもぜんぜん悪くはありません。ぜんぜんと言うと誤解されるかもしれませんが、この当時にはキリスト教的な倫理などはまだ普及していませんでしたし、たとえ『源氏物語』を愛した宣長が光源氏のように振舞ったとしても、まったく責めるところはありません。あえて言えば嫌がる女性の気持ちを察しなかったことがいけませんでした。夜這いは伝統的な日本の文化です。何がしっくりこないのでしょうか。

 斎藤彦麿は国学者として、また平田篤胤が本居宣長に夢の中で会い入門を許された絵を描いた画人としても知られています。どのような人物だったのでしょうか。まずは簡単にまとめられている田中義能の『本居宣長の哲学』から彦麿の経歴を見てみましょう。

 
「夢中対面の図」



彦麿は本姓藤原氏、父は荻野彦兵衛信邦と云ふ。明和五年正月五日、三河国矢作郷に生る。幼名庄九郎。後斎藤家を相続するに及び、名を彦六郎と改め字を可怜と云ひ、号を宮川舎葦仮庵などと称せり。而して通称彦麿といふ。石見国濱田の城主松平康任に仕え、夙に江戸に出でて濱町の藩邸に住せり。

天明二年年十五、初めて伊勢貞丈の門に入りその教を受けしも、僅に二年にして貞丈歿せり。寛政四年彦麿二十五歳、名簿を捧げて宣長の門に入りぬ。爾来宣長の歿に至るまで前後十年、常にその教を蒙れり。

天保年間藩主故ありて封を奥州棚倉に移されぬ。彦麿亦従ひて奥州に赴けり。後幕府藩主を召して閣老とし、武州川越に封ずるや、彦麿亦茲に移りぬ。

彦麿志道に篤く、常に門人を教化し、著書に従事せり。

安政元年三月十二日を以つて歿す。年八十七、従ふて業を受くるの門人、五百二十九人ありき。著す所、『勢語図抄』五巻、『かはほり』一巻、『かたびさし』六巻、『竹箒』一巻、『嵯峨の山踏』三巻、『神道問答』二巻、その他甚だ多し。





 また彦麿の次男豊啓の拵えた「葦仮庵略年譜」*1 が残されているので、これも確認してみましょう。



明和 五、一歳、正月五日、三河矢作郷にて生る。
安永 四、 八、岡崎、渡邊隆□を師として、手習を始む。
同  七、一一、岡崎、志賀與惣右衛門を師として、大和流弓術を学ぶ。
同  九、一三、江戸に出づ。
天明 元、一四、甫喜山主税を師として、獨明流剣術、及び、真砂流柔術を習ふ ○加茂季鷹の門に入る。
同  二、一五、元服す。名を小太朗源智明と改む ○伊勢貞丈の門に入る。
同  四、一七、六月五日、師貞丈大人歿す。
同  五、一八、四月十二日、実父信邦死す。
寛政 元、二二、著述を始む ○座論梅成る。
同  二、二三、野中の古道成る。
同  三、二四、京都大坂を遊覧す。
同  四、二五、三島三木笑談成る ○本居宣長の門に入る。
同  八、二九、斎藤家再興。
同  九、三〇、初学教語成る。
同 一一、三二、長男小太郎生る。
享和 元、三四、 勢語図抄五巻成る ○九月廿九日師宣長大人歿す。
同  二、三五、甲冑色目考評一巻、祭祀略式一巻成る○彦麿と改む。

・・・(省略)・・・

安政 元、八七、三月十二日死す。法名磯岳忠信士、法音寺に葬る ○門人五百二十九人。



 彦麿は寛政四年に宣長の門に入り、享和元年に宣長が亡くなったので、宣長の夜這いの話はその約十年の間に起きたものかもしれませんが・・・。

 ただし、ここで注意することがあります。斎藤彦麿の名は宣長の「授業門人姓名録」に残されていません。内弟子であれば姓名と束脩が「諸用帳」や「金銀入帳」に残されていてもおかしくないのですが、それもありません。斎藤彦麿の名は宣長の跡取の「本居大平教子名簿」に残されています。平田篤胤も、本居春庭(建亭)に入門願いした時の書簡に、「松平周防守様御家中斎藤彦麻呂と申仁、是は大平大人之御門人に而・・・」と記しています。そうすると、寛政四年に「本居宣長の門に入る」という記載は誤りなのでしょうか。それを明らかにする前に、なぜ彦麿は宣長に入門しようとしたのでしょう。

 それは彦麿の主君、石見国濱田藩十二代藩主、松平周防守康定が学識が高く、国学に熱心であり、自ら宣長のもとへ教えを請いに赴くほどだったからです。石見国の多くの家臣、康定の老妻や侍女までが宣長に入門するほどでした。彦麿はその家中にいたのです。


宣長が松平周防守康定から拝領した和歌の色紙


 濱田藩で最初の宣長の門弟は、遠江生れの儒臣、小篠道冲(敏・御野・ミヌ)であり、安永九年に入門しています。次に天明三年には家老の子息、岡田権平次 (源元善)、家中の三浦七左衛門(正道)、そして濱田三隅の医師、斎藤利三(藤原秀麿)が入門しました。

 彦麿は荻野家に生まれましたが、後に養子として斎藤家を相続しました。本姓は藤原です。宣長の門弟斎藤利三(藤原秀麿)は濱田の医師であり、彦麿は康定の子息康任に仕えていました。寛政八年には斎藤家が再興しました。これは何を意味するのでしょう。

 それは、斎藤家は何らかの理由により失職し、医師として濱田藩に仕えていたこと。斎藤利三(藤原秀麿)が宣長に入門したのが天明三年であり、彦麿はその時は小太朗という名で、伊勢貞丈の門下にありました。秀麿と彦麿は同一人物ではないこと。利三(秀麿)は彦麿の養父あるいはそれに代わる家族であり、彦麿は江戸の藩邸に人質として軟禁されていた康任に仕えていたこと。そしてその間に学問に励み、家を再興し、儒臣としての身分を手に入れたこと。(これは貝原益軒も主君の怒りを買い罷免された後、一時期医師として生活していましたが、その後、儒者として復職したことと同じです。)小太郎は宣長が亡くなった後、秀麿の一字を貰い受け、斎藤彦麿と名乗ったことを示唆しています。

 康定やその家臣たちは参勤交代で江戸と石見を往復する生活を送っていました。小篠御野などの宣長の門弟たちは康定に仕えていたので、宣長の許で住み込みで学んでいたわけではありません。ちょうど宣長が賀茂真淵に入門し、江戸と松坂の間を書簡を応酬することで国学の研究や歌の添削などをしていたように、彼らもそのように宣長から学んでいたのです。今で言うところの通信教育です。もっとも御野は康定の命により、宣長の源氏物語の講義を聴くため、しばらくの間松坂に逗留していたことがありますが。

 彼ら門弟たちと宣長との書簡がいくつか残されています。例えば、利三(秀麿)は医者らしく、宣長の子息の春庭の眼病の具合を心配しています。宣長はそんな心遣いに対してかたじけなく思い、「倅の目はもはや治しがたいので、京へ鍼法の稽古に出ている」と手紙を送っています。*2 春庭も日本を代表する国学者でしたが、彼らにとって学問は就職のためでも生活のための手段でもありませんでした。春庭は鍼医となって生計をたてようとしたのです。

 この当時の日本は失明する人が少なくありませんでした。松本良順の師、ポンペ・ファン・メールデルフォールトは、「眼病もまた日本にはきわめて多い。世界のどこの国をとっても、日本ほど盲目の人の多いところはない」と言っています。ポンペは、「その理由は、眼病の治療法をまったく知らないことにその大半の原因がある。そのために、はじめによく処置すればまもなく全快するような病気が、結局失明に終わってしまうということもきわめて多いのである。網膜疾患は特に多い。白内障もしかり・・・」とも言いました。*3


松本良順(左下)とポンペ・ファン・メールデルフォールト(右下)

 もしかしたら、日本に盲目の人が多かった理由はそれだけではなかったかもしれません。つまり日本には盲目になっても食べていける手段があったのです。音楽の才能があれば琵琶法師、学問があれば鍼医、なくても按摩師など、目が見えなくなっても社会的に活躍できる場があったのです。

 話は戻り、彦麿が宣長の内弟子であった蓋然性は極めて低いのです。正式な門弟ですら松坂に滞在することは主君の命による特例でした。では彦麿が寛政四年に「本居宣長の門に入る」という記載はどういうことでしょう。それは、どうも宣長が医者になった時に、頭髪を剃ってもいないのに薙髪したと言ったように*4、言葉の定義の問題がありそうです。

 「門に入る」の定義を、師宣長に「入門誓詞」を提出し、「授業門人姓名録」に登録されることにしても良いですし、あるいは宣長の学問に出会い、それを好み信じ楽しむ境地(好信楽)になった時、個人的な意志により、主観的に門に入ったと言っても良いのかもしれません。篤胤も客観的には本居春庭の弟子でしたが、本人は宣長の弟子であると称していました。「宣長の歿に至るまで前後十年、常にその教を蒙れり」と言っても、身近にいた宣長の高弟から間接的にであっても良いのです。

 それでは彦麿が宣長に寄宿していなかったとすれば、あの夜這いの話はどういうことでしょう。いくつかの可能性があります。

1.彦麿の作り話
2.林若吉の作り話、あるいは「彦麿自筆の日記」は偽物
3.中山太郎の作り話

 彦麿が日記に作り話を載せたという可能性はあるでしょうか。彦麿ほどの国学者、熱心に国学を研究し、多くの門下生を教え導き、その学問は宣長のものに忠実で、珍奇な説を唱えることはありませんでした。彦麿の著作、『諸国名義考』には「見む人他に考へ得たる説あらバ我にさとし給へ、速に改め直してむ」とあり、真摯で謙虚な性格が顕れています。そのような人物が師の醜態を日記に偽って残す可能性はほとんどないでしょう。

 中山太郎はとても真面目で精力的な民俗学者です。彼の本は史料を広くよく調べて仕上げられています。たとえ話の素となる史料、根拠の真偽を深く検証することなく本に著したとしても、積極的に嘘をついたという可能性は、これもまたほとんどないと言っていいでしょう。書を著す学者には責任が伴います。

 と言うことで、この話は林若吉の作り話の可能性が一つあります。内輪の集まりで、おもしろいことを言ってしまった、あるいは「彦麿自筆の日記」が偽物である可能性です。江戸時代には滑稽本、洒落本のたぐいが無数にありました。これもその一つかもしれません。

 結論、宣長が下女にしつこく夜這いをして蹴飛ばされた、という話は嘘でした。

チャンチャン♪

つづく

(ムガク)

*1: 『国学者伝記集成』
*2: 『本居宣長全集』十七巻書簡集
*3: 『新異国叢書』第10巻より『ポンペ日本滞在見聞記』
*4: 「006―薙髮―本居宣長と江戸時代の医学

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学



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