はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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008-本居宣長と江戸時代の医学―医学と和歌1/2―

2013-08-24 22:28:34 | 本居宣長と江戸時代の医学

Kusuribako

 伊勢は松阪、蒲生氏郷の築いた松阪城跡の一角に本居宣長記念館があります。そこには宣長の使用していた往診用の薬箱(久須里婆古)が展示されています。宣長はこれを持ち歩き医業に励んでいたのですね。

   さて、この薬箱の中には薬包がきちんと整理されて、一包毎に薬の名前が記されて入っています。一段目から見ていきましょう。

  葛・朴・防・雪・苓・童・芋・薑・茈*1・桂
圖・薑・茈・芍・精・葛・蕗・皓・苓・田

  Kusuribako1
*1 茈: 艸カンムリ+此 (注: 文字が消えている場合はUnicodeに設定してください)

   とありますが、これらはどんな薬か分るでしょうか。分らなくても大丈夫です。おそらく一見して全て分かる人は専門家の中でも数える程かもしれません。どうしたらそれらの薬が何であるか知ることができるのでしょう。どうぞご安心を。中身を取り出して分析しなくても、誰でも簡単にそれらを知る方法があるのです。

   宣長は医学を学んでいる時、『折肱録』という名の勉強ノートを作りました。このノート名は、『春秋左氏伝』定公にある「肱を三折して良医と為るを知る」から取られています。これは、「張仲景傷寒論摘方」と「同・金匱要略摘方」、「眼科秘書」と「一本堂家方抜粋」そして「方剤歌」、および他の雑多な処方から成っています。『傷寒論』や『金匱要略』は、宣長が古方派たちが彼を視ること「神のごとし」と言った、張仲景が著した医書であり、「一本堂家方」というのは香川修徳の家方です。またこれと別に『方剤歌』と『方彙簡巻』という処方集も作っています。これらを読んでまとめれば一目瞭然なのです。

   例えば、『方彙簡巻』に、「四君子 【彡伽匿甘】」とありますが、この「四君子」とは「四君子湯」のことで、これを構成する生薬は、「人参・白朮・茯苓・炙甘草」です。なので「甘」は「(炙)甘草」を意味していることが分りますね。また、きっと「彡」は「人参」の「参」の省略形でしょうが、確定するにはまた別の処方を比較する必要があります。「四君子」の隣には「六君子 【皓田四君子】」とあり、「六君子湯」という処方は「四君子湯」に「陳皮」と「半夏」を加えたものなので、「皓」と「田」はそれぞれどちらかを意味しています。また「二陳 【皓田匿甘】」というのもあり、「二陳湯」というのは「陳皮・半夏・茯苓・甘草」から成り立っているので、ここで「匿」が「茯苓」であること、「伽」が「白朮」らしいことが分ります。このようなことを続けていくと、ほとんどすべての物が特定できるのです。

   ということで、薬箱の一段目は、

  葛(葛根)・朴(厚朴)・防(防風)・雪(桑白皮)・苓(茯苓)・童(青皮)・芋(沢瀉)・薑(生姜)・茈(柴胡)・桂(肉桂・桂皮)
圖(桔梗)・薑(生姜)・茈(柴胡)・芍(芍薬)・精(蒼朮)・葛(葛根)・蕗(甘草)・皓(陳皮)・苓(茯苓)・田(半夏)

   と判明しました。では次に宣長が「一本堂家方抜粋」をどう書き記したか、その一部分を見ていきましょう。

 順気剤 匿 田 洞 淡 甘 姜
潤涼剤 匿 嬴 文 理 井 甘 姜
解毒剤 土ヘン+匿 翁 忍 芎*2 軍 (「甘」の書き洩れ有り)
敗毒剤 莞(「茯」の書き間違い) 揺 吉 芎 洞 周 甘 姜

  *2 芎: 艸カンムリ+弓

   とありますが、修徳の『医事説約』を見ると、

順気剤 茯 半 売 厚 草 姜
潤涼剤 茯 果 芩 知 膠 甘 姜
解毒剤 茯 通 忍 芎 大 甘
敗毒剤 茯 獨 桔 芎 枳 柴或は升に代う 甘 姜

   とあり、また他の部分も比較すると、宣長はこの『医事説約』を書き写したことが推察できます。ちなみに、修徳の敗毒剤の処方で、「柴 或は升に代う」とある所は、本来は「柴胡」を使い、時には「升麻」に代えても良い、という意味なのですが、宣長は柴胡は無視して「周(升麻の略)」を記していますし、また処方を書き違えた所があるのですが、それらはここでは問題ではありません。それぞれ生薬の名の省略の仕方を比べると、

  茯苓(匿・茯)、半夏(田・半)、枳実(洞・売)、厚朴(淡・厚)、甘草(甘・草)、生姜(姜・姜)
栝楼*3(嬴・果)、黄芩*4(文・芩)、知母(理・知)、阿膠(井・膠)、木通(翁・通)、金銀花(忍・忍)、川芎(芎・芎)、大黄(軍・大)、獨活(揺・獨)、桔梗(吉、桔)

*3 栝: 木ヘン+舌
*4 芩: 艸カンムリ+今

   とあり、大部分は異なっています。では、なぜ同じ生薬なのに人それぞれ違った名前に代えるのでしょうか。これが中国だったらそうはならないのです。産地や性質などにより生薬の名を変えることはあっても、歴史的民族的風土的に異なる生薬の名前が残ることはあっても、その名を積極的に使用することはありません。あらゆる医書は例えば「葛根」をあくまで「葛根」と書き表すのです。しかし、なぜ日本ではこうなるのでしょう。生薬名の略し方を見ると、大きく分けて三種類あります。

(1) 生薬名の中から文字を一つ(三文字以上では複数の場合もある)抜き出す。(例:葛根→葛)
(2) 生薬の別名の中から文字を一つ抜き出す。(例:桑白皮→延年巻雪→雪)
(3) 生薬名の中から文字を一つ抜き出し、それを同じ意味(または音)を持つ別の文字に置き換える。(例:茯苓→茯→匿)

(注) その後、さらに文字を省略することもある。(例:人参→参→彡)

   (2)については、生薬の名前が日本の人々にとって外国語であり、その翻訳を行ったため、ということが考えられます。例えば、「桑白皮」を「雪」と略したのは、その別名が「延年巻雪」であったためであり、「青皮」を「童」と略したのは別名が「童皮」、「沢瀉」は「芒芋」、「桔梗」は「房圖」、「蒼朮」は「山精」、「甘草」は「蕗草」、「陳皮」は「皓隠」、「半夏」は「守田」などとそれぞれが別名を持っていたのです。実物を想起しやすい名前を使用することは、医学薬学の普及や教育にとってメリットが多いものです。しかし、なぜ略したのか。その歴史は江戸時代よりさらにさかのぼりますが、省略は他の人にとって理解できなくなったり、誤解を生む可能性もあります。ここで『方剤歌』に移りましょう。

   宣長は、『折肱録』に「方剤歌」を80首、そして別の独立した『方剤歌』には54首を収載しました。これは何を意味しているのでしょうか。「方剤歌」は、『折肱録』に他の抜粋と一緒に載っていることから、またそこに「春庵撰」と記されていることから、宣長が創作した歌ではなく、以前からすでに有ったものと推察できます。また宣長は80首の中から54首を選び、それを『方剤歌』としてまとめているのであり、ここに宣長のそれらを記憶しようとする意志を感じますよね。

   「張仲景傷寒論摘方」や「同・金匱要略摘方」、「一本堂家方抜粋」などを『折肱録』に書き写すことと、『方剤歌』を新たにまとめ直すことは目的が異なります。前者は、自分が所持していない書を、その内容を忘れた時にそれを見て思い出すことが目的であり、後者は、その内容を忘れないように記憶することが目的なのです。なぜそう言い切れるのか、例えば『方剤歌』の第一首を見てみましょう。

  参蘇
参蘇飲 二陳葛根 桔梗しそ 人参前胡 きこく木香

   この歌の意味は、参蘇飲という『和剤局方』に収載されている処方は、二陳湯(半夏・陳皮・茯苓・甘草)に、葛根・桔梗・紫蘇・人參・前胡・枳殻・木香を加えたものである、というものです。このまったく風雅の趣を感じることも何の感動もない歌は、単なる語呂合わせと同じ、処方を記憶するためだけのものです。参蘇飲のようなあまり複雑ではない処方であれば、生薬名を省略する必要もありませんが、それが複雑になるとどうなるのでしょう。『方剤歌』の二十八首を見てみましょう。

  防風通聖
芒消に わうごん芎歸 麻苛堯兌 伽軍吉丹 餘液荊防

   これは、防風通聖散という『宣命論』にある処方で、芒消・黄芩・川芎・当帰・麻黄・薄荷・連翹・石膏・白朮・大黄・桔梗・山梔子・芍薬・滑石・荊芥・防風から成り立っている、という歌です。これはもう、名前の省略法を知らない人が見たら、きっと歌の意味は何も分らないことでしょう。しかし、ここに省略することのメリットが一つありましたね。そうしなければこの歌は創れなかったのです。

   ここにおいて日本の詩歌・和歌について考えていく必要が生まれました。三十一文字に意を込め、俳句ではもっと短く十七文字であり、そんな詩歌の形態が日本人を魅了してきました。多くの国々では、言葉を尽くし、その結果、文字が多くなってもそれを厭わないような詩が非常に多く残されており、それらをながむると、その作者たちは多くの人々からの理解、共感を求め、また影響を与えたいと望んでいるように感じられるのです。最近では中国でも「漢俳」のような短い詩がありますが、これはやはり日本との交流や相互理解を目的に始められたような印象があります。しかし、日本では異なります。彼らは多くの人々からの理解、共感を求めることはなく、歌は自然な感情の発露であり、求める理解や共感は、一あるいは少数の、特定の人またはコミュニティーからのものなのです。この潜在意識にある働きが、日本仏教や諸芸学問のあり方をも決定してきたのであり、これは現在も続いていることなのです。

   ということで、この生薬の名前の省略も、その働きの一つなのです。彼らは書き記した処方が多くの人に理解されることを望んでおらず、ただし理解されたくないとも思ってなく、ただ無意識に、また伝統に従っていたのです。省略するにも上記のようなルールがあるのであり、流派が異なればルールの選択傾向も異なるのです。

   さて『方剤歌』を見ていくと、そこにはいわゆる後世方派の処方が書き連ねられているのですが、『折肱録』には、「張仲景傷寒論摘方」や「同・金匱要略摘方」、「一本堂家方抜粋」などいわゆる古方派の処方が書かれてあります。いったい宣長はどちらの派閥に属するのか、それともどちらにも属さないのでしょうか。

  つづく

  (ムガク)


007-本居宣長と江戸時代の医学―漢意―

2013-08-17 18:02:46 | 本居宣長と江戸時代の医学

 宣長のいたころ、朱子学が官学になり日本に普及したころ、学問と言えば中国から入ってきた儒学のことであり、世の中の事すべてを、日本の神話や和歌なども陰陽論や五行論で説明しようとする風潮がありました。例えば、和歌が五七五・七七の文字で成り立っているのを、「上の句は天に象り、十七字にて陽の数、下の句は地に象り、十四字にて陰の数なり。五句なるは五行・五常・五倫にあたり、三十一(卅一)字は世の字をならいて、終われば又始まりて極まりなき理など」と言う人がいたのであり、それを聞いて喜ぶ人もありました。こういうことに対して宣長は主張します。

 

Innyou
陰陽五行などいう事は古にさらになき事なり。これらはみな人の国にて賢(さか)しら人の云い始めたる事なり。すべて漢国の人は何事にも道理をこちたく(仰々しく)せめて考えるくせにて、かように二つ相向いたる物には、必ず陰陽という事の理を説くけれど、基本を探れば、実にはみな造り事なり。わが御国はただ直く雅かなる道のみ有りて、さように目にも見えず耳にも聞こえぬ隠れたる理を尋ねもうけてとかく言える事さらになければ、火はただ火なり。水はただ水なり。天はただ天、地はただ地、日月はただ日月なりと見る外なし。まさに陰陽という物ありなんや。しかるを人ごとに、天地の間にあらゆる物は、おのずから此の陰陽の理は備えたるように思うは、みな漢文に染みたる心の惑いにて、実にはさる物あることなし。されば此の方の言にうつしては、女男又は火水などより外に言うべき詞なし。また五行と言う事は、いよいよ造り事なり。これも漢人のくせとして、この五つをよろずの物に配り当てて、その理をこちたく言うけれど、みな強言である。*1

 

 宣長は、こんな風に漢意(からごころ)の理という物の存在を否定しました。このことは『玉勝間』でも『古事記伝』でもずっと一貫して主張していることです。ところで、伊藤仁斎は「けだし天地の間は、一元気のみ。あるいは陰となり、あるいは陽となり、ふたつの者ひたすらに両間に盈虚消長往来感応して、いまだかつて止息せず」と「気一元論」を主張しました。彼は理の存在を、形而上学的に否定するのではなく、具体的な物を挙げることで否定したのです。

 

今もし板切れを六つもって相合わせて箱を作り、密閉するように蓋をその上に加える時は、自然と気は有り、その内に満ちている。気が有り、その内に満ちる時は、自然と白カビが生じる。すでに白カビが生ずるときは、また自然とキクイムシのシミが生じる。これが自然の理なり。思うに天地は一つの大箱である。陰陽は箱の中の気である。万物は白カビでありシミである。この気は、したがって生ずるところ無く、亦したがって来るところ無し。箱が有るときは気も有り、箱が無いときはすなわち気もない。故に知るのである。天地の間は、ただ是れこの一元気のみ。見るべし。理が有って後にこの気を生ずるのではないことを。いわゆる理とは、かえって是れ気中の条理のみ。それ万物は五行に基づく。五行は陰陽に基づく。そうして再びかの陰陽たる理由の基を求むるときは、すなわち必ずこれを理に帰することはできない。これが常識の必ずここに至りて意見が生じなくなる理由であり、そうして宋儒の無極太極の論が有る理由である。いやしくも前の譬喩をもってこれを見るときは、すなわちその理は彰然として明らかなること甚だしい。おおよそ宋儒のいわゆる理が有って後に気が有り、およびいまだ天地ができる前に、畢竟まずこの理が有る等の説は、みな臆度の見解にして、まるで蛇を画がいて足を添え、頭上に頭を安んずるような、実に見られた物ではない。*2

 

 というように、宣長のあの思想は、伊藤仁斎(あるいは荻生徂徠の)の「気一元論」と同じであることが分ります。この仁斎の「気一元論」は、最新の、日本人に受け入れやすい、今風に言えば「弁証法的唯物論」とでもいうべき理論ですが、なぜ宣長はその論を信じて受け入れたのでしょうか。彼は上京してすぐに契沖の『百人一首改観抄』の、歌の解釈に一つ一つ古書を引用し、根拠を積み上げていく学問方法に衝撃を受け、その方法を生涯貫き通しました。また、「師の説なりとて、必ず泥み守るべきにもあらず、良き悪しきを言わず、ひたぶるに古きを守るは、学問の道には、言うかいなきわざなり*3」と言い切った宣長がそれを信じて受け入れた理由が、本にそう書かれてあったとか、ある先生がそう言った、というのはありえません。その答えは、宣長が堀元厚に入門した時期に鍵が隠されているのです。

 

 宣長は宝暦二年三月十六日、23歳で上京し堀景山に入門し儒学を学びました。そして宝暦三年七月二十二日に、堀元厚に入門し医学を学び始めます。入門日はもっと前でも後でも良かったかもしれません。なぜなら宣長はその時すでに十分儒学書や医書を読む能力があったからです。でも宣長はその日にしたのです。なぜでしょう。

 

 それは、その時麻疹の大流行が起きていたからです。麻疹は江戸期に13回大流行しましたが、これはその7回目。麻疹は「はしか」とも言い、何万何十万の単位で死者を出す恐ろしい伝染病でした。宣長が伊勢に一時帰国していたころ、三四月ころから流行し始め、五月に帰京し六月になってもその流行は止みませんでした。京の町で多くの人々が麻疹に苦しみ亡くなっていく中で、宣長は江戸の木綿店の支配人であった布屋五兵衛や小津七右衛門が亡くなったのを聞きました。その時彼は何を思ったのか。おそらく彼がまだ11歳のころ、江戸で木綿商をしていた父の突然の死だったかもしれません。

 

 父小津三四右衛門定利が水分(みくまり)神社に祈誓し、誕生したのが宣長であり、宣長は父のその恩、亡くなった悲しみを終生忘れませんでした。そして、また似たような出来事が起きたのであり、さらに今回は身の回りで多くの人々が同じ悲しみに暮れているのです。七月十一日には、師景山の従兄弟、堀南湖(安芸候の儒官)の病死が知らされました。十六日に彼の葬儀が行われ、その六日後、宣長は二十二日に医学を学び始めたのです。

 

 その時、彼がそうすることは彼の心理にとっても、社会にとっても必要だったことでしょう。彼はもう何もできない子供ではなく、医を学び力をつければ多くの人を救うことができるのです。そして彼は医学を学び始めましたが、九月の中旬に頂髪を伸ばし始める間も、麻疹の流行は続いていたのです。

 

 その時、彼が講義を受けていたのが、霊枢、局方発揮、素問、運気論、溯洄集などであり、もし理論を「説明理論」と「記述理論」の二つに分けるとするなら、これらの講義の大半は「説明理論」であったと言えるでしょう。きっと宣長は思いました。人々が次々と亡くなっていく中で必要なのは説明ではない。人をいかに治し、いかに救うかが必要なのであると。もしそれらの講義の内容が、陰陽論や五行論が、麻疹の収束に少しでも貢献したのなら、その後の宣長の思想も変わったかもしれません。しかし実際にはそれらは無力であり、宣長を古医方の道へと進ませたのであり、漢意を否定する思想的根拠を与えたのでした。

 

 ここで次に進む前に、誤解のないように言っておくと、宣長は古医方を学びましたが、彼は古方派ではないのです。ついでに言ってしまえば後世方派でもありません。これらを次第に明らかにしていきましょう。

 

つづく

 

(ムガク)

 

*1『石上私淑言』巻三
*2『語孟字義』
*3『玉勝間』師の説になづまざる事

 

本居宣長と江戸時代の医学

006-本居宣長と江戸時代の医学―薙髮―

2013-08-14 19:49:51 | 本居宣長と江戸時代の医学

 前回、宣長がどのような医師になろうとしたのか明らかにする鍵が「稚髮(薙髮)」にあると言いましたが、それはなぜでしょう。結論から先に言ってしまえば、宣長が京都留学中に記した『在京日記』にこうあるからです。

 

宝暦五年
三月三日 稚髮を為し、名を更めて宣長と曰く。号を更めて春庵と曰く。春庵を以て常に相呼す。

 

 この時、宣長の叔父村田清兵衛は書状に、「改名され、稚髮になられたこと、めでたく大変悦ばしいことです。だんだん療用などもお勤めのこと、第一段の義、随分と医業にご油断なく精を出してください」と述べ、宣長が母に頼んだ医師としての衣装十徳と脇差を用意しました。ここが宣長の医師としての第一歩だったのです。

 

 「薙髮」とは「髪を薙ぐ」ことで、文字通り髪の毛を剃ることです。隣の清国では1645年に「薙髮令」が発せられ、「頭を留むる者は髪を留めず、髪を留むる者は頭を留めず」と漢民族は満州民族に弁髪を強要されていました。儒者にとっては毛髪も父母から授かった大切なものでありましたが、その切断だけでなく伝統的な衣冠の変更も強制されていたのです。

 

 日本でも同じようなことが起きていました。もともと薙髮は僧侶として出家する時に行うものであり、例えば僧であり歌学者でもあった契沖は「十三歳にして薙髪し、高野山に登」っています。しかし徳川家康は儒学者林羅山を側近に登用するために「薙髮をして道春と称」させ、また民部卿法印(僧の階級の一つ)の位に就けたのでした。それ以来、儒学者は仕官するためには僧侶でなくても、たとえ仏教を全く信じていなくても髪を剃り、僧侶のような格好をせねばならなかったのでした。これは家康にとって、士農工商の階級社会の中で、低い身分の者を法外の者として高い者と同列に置くための、単なる方便だったのです。

 

Touyou
 そしてそれは医師にとっても同じでした。幕府や各藩のお抱え医師になるには、「薙髮」し僧侶のような服装を身に着けることが必要だったのです。たとえ儒医であってもオランダ流外科医であってもです。名のある医師のほとんどが坊主頭であり、杉田玄白や山脇東洋(右絵)もそうだったのはそんな訳です。貝原益軒も医師になる時には薙髮しました。ただしこれは彼が習慣に従ったからであり、後に儒者になる時には髪を伸ばしましたが、それは彼が武士階級だったからでしょう。

 

 では宣長は「稚髮を為し」て、髪を剃って坊主頭になったのでしょうか。いいえ、実は違います。『在京日記』をもう少し前から見て追って行きましょう。

 

宝暦三年
七月二十二日 堀元厚氏に入門し、医書講説を聞く。
七月二十六日 堀元厚先生の講釈始まる。毎朝、霊枢、局方発揮なり。二七四九の日の夕は、素問、運気論、溯洄集なり。
九月九日 仮に名を健蔵と改めて曰く。
九月二十日 中旬より予め頂髮を生長す。

 

宝暦四年
正月二十四日 堀元厚[北渚先生と号す]先生死去。
五月朔日 武川幸順法橋の門に入り、医術を修業す。
・・・

 

宝暦五年
三月三日 稚髮を為し、名を更めて宣長と曰く。号を更めて春庵と曰く。春庵を以て常に相呼す。

 

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 このように、宣長は医学を学び始めて約二ヶ月後には頭頂の髪を伸ばし始めているのです。もちろん宣長は江戸時代の商人の家の生まれで、普通の月代のある髷でした。その剃ってある頭頂の髪を約一年半の間伸ばすことで「稚髮を為し」たのです。つまり、これは宣長の薙髮は薙髮ではなく、それは医師を称すること表現した言葉のあやであり、苦労することを骨を折ると言ったり、可笑しい時にへそで茶を沸かすと言ったりすることと同じなのです。ではなぜ宣長は髪を剃らず、逆に伸ばしたのか。江戸期の多くの名医が坊主頭であり、宣長の家は浄土宗の信徒であり、彼も「小来甚だ仏を好」んでいたので、剃髮してもおかしくなかったのです。でもしませんでした。なぜでしょう。

 

 

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 それは宣長は後藤艮山に倣ったからです。もちろん昆山は宣長が上京した時にすでに亡くなっていたので、正確には香川修徳など後藤流の門弟たちにです。昆山の肖像画と比べれば一目瞭然ですね。昆山は自分が儒学では伊藤仁斎よりも、仏教では隠元より勝ることはできないと自覚し、医学で頂点を目指そうと医師の道を選んだのでした。彼は、薙髮し僧衣を身に着け僧官を拝することを嫌い、髪を束ねて縫腋(十徳)を着て医業や研究に励んだのです。昆山の髪型は医師として画期的でしたが、これは彼が伊藤仁斎のそれに倣ったからかもしれません。なぜなら彼の医論「一気留滞論」は仁斎の「気一元論」を基に組み立てられているからです。彼らは終生仕官することなく、それ故清く貧しくもあり、髪を剃る必要が無かったのであり、きっとそれを望みもしなかったのです。そして彼らの、儒学では古学、医学では古医方と呼ばれるものが、門弟が増えるに従い世に広まりました。

 

 そして宣長も古医方の儒医に惹きつけられたのです。それも堀元厚の下で霊枢、局方発揮、素問、運気論、溯洄集など、いわゆる後世方医学を学び始めて二ヶ月後には自分が進む道の決心を固めたのです。それはなぜでしょう。また古医方のどのような所に惹きつけられ、どんなことを学んだのでしょうか。

 

つづく

 

(ムガク)

 

本居宣長と江戸時代の医学

005-本居宣長と江戸時代の医学―杉田玄白の見た江戸時代の医療と―

2013-08-10 17:51:30 | 本居宣長と江戸時代の医学

Gennpaku
 宣長が儒学や医学を学ぶために京へ留学していた時代は、医学史上の様々な出来事が起きた時代でもありました。宣長が勉学中のすぐ近所で、日本初の医学的な解剖が山脇東洋によって行われ、吉益東洞は「万病一毒論」を主張してその門弟を増やし、旅先で亡くなった「儒医一本論」の香川修徳は葬され、まさに時代が変わりつつある場に若き日の宣長がいたのです。宣長は宝暦七年、28歳で故郷松阪に帰り医師として開業しましたが、その同年、杉田玄白はオランダ流外科を日本橋にて開業しています。では玄白が見た当時の医学の状況を、彼が老年時に著した『形影夜話』から見ていきましょう。きっと宣長の意見と一部似通っていることに気が付くことでしょう。

 

 

 ちょっと見たことでも眼に留まり、ちょっと聞いたことでも耳に留め、これを心に徹底させておき、用に臨んで行うのが聡明、叡智というものであろう。手っとり早く言えば、万事に気の付く人をいうのであろう。医を行おうと思う人はここを一番大事だと思って学ぶことが必要であろう。昔から医を業とする人が、このことに心付かない訳ではあるまい。昔から一家を立てた人々は、みな博学多才の人でそれぞれ自分の意見を大いに発表した人も多いが、みなはっきりしないことを基礎として議論したから、真理を詳らかにすることが出来なかったのだと思われる。それは昔から医者が拠りどころとする『素問』『難経』をはじめとして、たくさんの医書の中に、実験に基づいた真実が少ないからである。

 

 医者は人の病を治す業だから、まず身体の内外の構造をよく知るということを第一の仕事とすべきである。ところが、これまでの医者はこれをよく知らないから、従来、内臓のことを説くにも、肝臓は右にあるのだが、その治療法は左に取ると説いたり、甚だしいのになると、飲食はまず肝臓に入り、肝臓から脾臓に伝わり、脾臓から胃に送られるなど、でたらめの説を唱えるものまで出てきても、誰もこれを怪しんで、実物についてこれを明らかにしようとするものがない。こうして昔から一致した本がなく、空しく数百年も過ごしてきたのである。これはとんでもないことだ。例えば背骨の椎骨のごときものも、元の滑氏(滑寿・伯仁)は、その接続は毎節下の低いところと決めている。だから大椎の兪穴を決めるにも、第一椎の上のくぼみの中にありと説いている。ところが明の張氏(張介賓・景岳)の説では、その節上の高いところで接続するとしている。こうなると背骨について見ても両家の説では一寸ほどの違いがある。しかも人々は自分勝手な証拠を挙げているが、どちらが良くどちらが悪いと言わないのはおかしな話だ。これは始めに言った、「好むところの切なる人」がないからであろう。本当に医学を好む人であったら、そんなことはあるまい。人は同じだのに、こんなに違いがあっては人を治す業はなりたたないぞと、疑義を抱くのが当然ではないか。

 

 さればこそ、我が国で後藤艮山氏は一つの意見を立てて『内経』の欠点を見破って、今言ったようなあやしい説を反撃するためか、経絡は無用なものだと断言された。それはなるほど大した卓見であるというべきである。その門人の香川修徳氏がこれに次いで立って、先生の業を唱え、それに自分の見解を加えて一家をなした。またそれに続いて山脇東洋君が出て、この点に気付かれてか、自ら解剖して従来の旧説を改め、むしろ古書にある「九臓の目」を唱えて、昔からの一つの大きな誤りを正そうそして『蔵志』を著された。しかしこれも確実というところまでに至っていない。ただわずかに、実物についてのその元を明らかにせよ、というきっかけを作られただけである。

 

 また吉益東洞氏等は近来の豪傑だが、その基とすべき医書がないために、ただ『傷寒論』の一書に精力を尽くされたが、これにしても大雑把な本で、確かなところが少ないと言って、自分に納得出来る説ばかりを採用して、結局、脈などは用のないものだ、大切なのは腹候だけだと門人に教えられたそうである。これも止むを得ないことであろう。

 

 私の家も代々医術で我が君に仕えているのであるから、逃れようとしても逃れられぬ業である。ことに自分としても嫌いな道でもない。それて幼い時から和漢の医書を断片的に見たが、生まれつき不才でどの本を読んでも是非が分らない。他の人はよくも分るものだと自分の不才を恥ずかしく思いつつ年月を経てきた。ところが二十二歳の時に同僚の小杉玄適(玄白と同じ小浜藩の藩医)という男が京都での勉強から帰ってきて、京都では古方家と称える人が出てきたが、その中で山脇東洋先生などは専らこのことを主張して自分で刑屍を解剖して古来説いているところの内臓の構造とは大いに違っていることを知られた、ということを聞いた。その頃、松原、吉松などという人たちが共に復古の業を起こしたとか、そのいろいろの論説を聞いて、私はさてさて羨ましいことだ、内科医ではすでに豪傑が起こって旗を関西に立てた。幸いに外科医に生まれた身だから外科で一家を起こそう。そう考えて断然志を立てたが、何を目当てに何を力に事を計るべきかも分らないのでいたずらに思いを巡らすばかりであった・・・。

 

 

 当時の医学の経典、教科書であった『内経』、『素問』や『霊枢』と呼ばれるものや『難経』は、まじめに医学を学ぼうとするものに必読の書でありました。しかしその内容が抽象的または現実離れし過ぎて多くの医生に理解できないものとなっていたのです。そこへ現れたのがいわゆる古方派に属する人々でした。親試実験を主張し、現実、実際の生命を、過去の抽象化した理論にしばられずに見つめて対処しようと試みたのでした。これを評価しまた惹きつけられたのは玄白だけではありません。多くの若者が古方派に影響され、そして宣長もその一人なのです。宣長が京で医学を学んでいたころ、堀景山の門下生であり共に医学を学ぶ友人であった岩崎榮良(藤文輿・肥前大村藩の藩医)にこう言っています。

 

 

この頃、本邦の医人は往々にして素霊・陰陽旺相・五行生剋説を迂誕(大げさなウソ)として退けて棄てる。甚しき者は五藏六府、十二経絡を廃するに至る。思うに後藤氏がこれを初めに主張し、香川氏がこれを継ぐ。その論は千古において卓絶、ああ盛言かな。しかれども言う所はおおむね彼らの憶測より出ている。すなわちまだ謬誤がないわけでははい。山脇氏のごときは識見が高過ぎて、かえってそれがせまくていやしい。根拠がないでたらめを言っているのであり、取るに足らない。わずかによく峻剤(強力な下剤)を用得するが、害が出るものが過半を見て、全き者は十のうち三四である。畏るべきかな。

 

たいてい今人の少しく見解有る者は、事に務めることに抜き出て優れていると自惚れ、小方(小さな治療法)を屑とは考えず、ただ古方を施す。まさに概をもって百病を治そうとするようなものだ。難しきかな、古方をもって今の病を概すはもとより不可能である。かつ明らかでもないのにこれを使い、天年を誤らざるを恐れる者はたいへん少数である。俗医が李朱(李杲と朱丹渓)を視るや、聖人のごとし。古方家はこれを嗤う。しかしまた彼らが長沙(張仲景・『傷寒論』の著者)を視ることは、神のごとし、殊に知らないが仲景は何人ぞ、丹渓は何人ぞ。彼らはみな単なる古(いにしえ)の一人の医師なのだ。優劣を方べ立てるも、時に循いて世は変化する。その宜しきを截ち切り、古を是とし今を非とするは、偏れるかな。未だ五十歩の失を免れないのだ。

 

 

 ということで玄白と宣長の言葉から当時の医学の状況が見えてきたのではないでしょうか。彼らの意見で大きく異なるのは、山脇東洋の評価です。なぜその相違が生じたのか。その一つは、東洋が玄白の友人小杉玄適の師だったからです。そして玄白はその解剖が行われた半年後にはそれについて直接彼から聞いて知っていたのです。解剖の実現には玄適の力も大きく、彼もまたそれに立ち会い、玄白はその結果だけでなく、いろいろな苦労話も聞くことができたかもしれません。もう一つは、宣長は上記のように言った時、東洋が解剖を行ったことについて、まだ知らなかったためです。解剖は宝暦四年三月七日六角獄舎の中でも人の目に触れない場所で秘密裏に行われました。それ故、それが行われた事実は宝暦七年に東洋が解剖の報告書『蔵志』を刊行するまで、徐々に漏洩はしたでしょうが、一部の関係者以外知ることはなかったのです。東洋が口だけの人ではなく、行動できる人であると知っていれば、宣長のこの評価も変わったかもしれません。もう一つ、東洋がまだ生きていたことが関係しています。もし彼が亡くなっていれば、宣長もそこまで非難することは無かったかもしれません。昆山や修徳にも欠点はあったのですが、彼らはすでに亡くなっていたので、彼らへの批判は長所を認めた上での客観的な指摘に止まります。こういう所も日本人の特徴の一つですね。

 

 また玄白は外科医師の家に育ち、外科医師を志しました。関西では古方派が興ったので自分は外科で一家を起こそうと考えました。宣長はどうであったのでしょう。彼は19歳の頃、寛延元年に紙商売を行う家に養子となるも、その年に「和歌道に志」し、翌年には「専ら歌道に心をよ」せました。そして翌年にはその家と離縁し、宣長の母の勧めで生活のために医師になろうと上京してきたのでした。宣長には医師で一家を起こそうという考えは微塵もなかったことでしょう。「自分が何を目当てに何を力に事を計るか」を知るのは、玄白に『ターヘル・アナトミア』というオランダの医書と前野良沢らとの出会いが必要であったように、宣長には『古事記』と賀茂真淵との出会いが必要だったのです。しかし、それは宝暦十三年、宣長が34歳の時であり、もう少し後のことです。

 

 さて宣長は生活のために医師になろうとしましたが、どのような医師になろうとしたのでしょうか。それを明らかにする鍵、それは「稚髮」にあります。

 

つづく

 

(ムガク)

 

本居宣長と江戸時代の医学

004-本居宣長と江戸時代の医学―儒医2/2―

2013-08-01 22:30:02 | 本居宣長と江戸時代の医学

 堀景山と荻生徂徠は親交がありましたが、徂徠は景山への書簡の中で徂徠の父荻生方庵が杏庵に会った時のことを記しています。

 

「私が幼年の時、このことを先大夫に聞きました。昔、洛(京都)に惺窩先生という者がいました。其の高第の弟子、羅山、活所諸公の若き者五人、名は海内に聞え、皆務めて弁博をもって相高っていました。しかるに屈(堀杏庵)先生は、独り温厚の長者であり、四人の間に詘然として退謙し、自ら率先して名の高きを求めませんでした。先生が東都(江戸)に来ると先大夫はまた一二度接見したと云っていました。儒者は断断として古より然りと為すが、能くしかる者は千百人中一人のみなのです」

 

 杏庵は、自分が正しいと思い熱く議論しあう他の儒者と異なり、温厚で謙虚であり、静かな人柄であったようです。そんな彼に捧げられた詩が残されているのでここで少し取り上げてみましょう。なぜわざわざそうするかと言うと、宣長の医学に対する考え方というのは基本的に詩歌に対するものと同じであり、それは景山に入門したことによる影響が大きく、また宣長が京都留学していたころ彼が師や友人と共に漢詩を歌いあったり、有賀の歌会に参加していたこともあり、その辺りのことも知っておいて損はないからです。

 

 惺窩門の石川丈山は漢詩で有名であり、彼の著作『覆醤集』には杏庵に悼げたものがあります。

 

新声妙句 韶光を写す
西堂に興起すること 夢一場
素問霊枢扁鵲を兼ね
春秋左伝 公羊を説く
昔は洛邑無辺の月に吟じ
今は蓬丘不老の方を弄ぶ*
仁術功成りて 才芸に富みたり
春風千載の 呂純陽


 

*蓬丘: 蓬莱山のこと。太上真人という仙人が住むとされる。 呂純陽: 道教仙人、八仙の筆頭。

 また別の漢詩も悼げています。

 

学は鄒軻の気を養い
術は廬扁の伝を包ぬ*

 

*鄒軻: 鄒衍と孟軻(孟子)。 廬扁:扁鵲のこと。扁鵲が廬の国に家居したことから。

 

 また林羅山も杏庵に悼げた漢詩を残しています。

 

筆は邪正を評して 洙水に臨み*
薬は君臣を弁じて 上池に汲む

 

*洙水: 孔子が弟子たちに儒学を教えたところ 上池: 桑君が扁鵲に薬を与え上池の水で以て飲ませたことから。扁鵲が名医となったきっかけ。

 

 杏庵が皆から儒学だけでなく医学に関しても一目置かれていたことが分かりますね。そして医正意、堀杏庵の人柄、彼の持つ雰囲気、学風というものは宣長の師である景山に引き継がれました。室鳩巣はこう言っています。

 

「屈景山は京師の人なり。其の先杏庵先生より、儒を以て当時に聞ゆ。翼子賢孫、家声を墜さず。君に至り大いに前烈を振ひ、祖業を恢(ひろ)め、旁らに師友の益を求めて已まず。その志を観るに、将に大成有らんとす。其の徳、古人と千載の上に頡頏す。夫の世の小を得て自足し下問を恥づる者を視るに、其の見る所の高下懸絶、何如と為すや」(『後編鳩巣文集』)

 

 そんな景山のもとで宣長は彼が亡くなるまで様々なことを学び過ごしていたのでした。ここで少し注意することは杏庵も景山も儒医ではないということです。彼らは非常に高い、おそらく普通の医者よりも高い、医学知識をもった儒者なのです。

 

 ところで景山と同年代に香川修徳(秀庵)という儒医がいました。彼は伊藤仁斎に儒学を、後藤艮山に医学を師事しました。宣長は医学医術に関して修徳に大きく影響を受けているので、それについて詳しくは後述します。修徳は「儒医一本論」を主張し、それに従う医師も多く、それ故その時代に儒医を称する医師が増えることとなりました。

 

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 そうして儒医が『京羽二重大全』に医師と並んで記載されるようになりましたが、その全体的な質には疑問が多く、平賀源内は『根南志具佐』でこう言っています。

 

「近年の医者どもは、切りつき普請の詩文章でも書きおぼえ、所まだらに傷寒論の会が一ぺん通り済や済まずに、自ら古方家あるいは儒医などとは名乗れども、病は見えず薬は覚えず・・・」

 

 とあるように、ろくに儒学も医学も学ぶことなく儒医を自称するものが少なくなかったのです。また修徳の師、伊藤仁斎などは儒者として身を立てるため、家族の勧めも聞かず医者を兼ねなかったので、儒医のことを、源内の言の比ではなく、非常に激しく非難しています。(『古学先生文集』儒医弁)

 

 また宣長の師、景山は「いかなればとて儒医などと云う名目は、文盲の甚しき事なり」と名前の付け方から批判しました。「医などの類は、世上の事を打忘れ、一向三昧に心を我が業に専らとし、他事なきゆへ、自然と世上の事は不案内なるが、成程妙手にもなるはず、また殊勝不凡にもある事なり」と、彼らの医術の向上を褒めつつこう続けます。

 

「儒者の業と云ふものは、五倫の道を知り、古聖賢の書を読み、その本意を考へ、身を修め国家を治める仕形を知る事なれば、人情に通ぜずして、何を以てすべきにや。世間の俗人をはなれて、五倫はいづくに求めんや」(『不尽言』)

 

 と儒医と称する人々は儒者の業を行っておらず、儒者ではないと言いました。さあ、医師になるために上京し、医学を学ぶ前段階として儒学を学んでいた宣長は、その師の言を聞いてどう思ったのでしょうか。それを明らかにする前に、もう少しその時代のまわりの状況を見ていきましょう。

 

つづく

 

(ムガク)

 

本居宣長と江戸時代の医学