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020―第百四十八段(三里のお灸)―徒然草の中の医療

2016-10-11 19:41:34 | 徒然草の中の医療

第百四十八段

(原文)

四十以後の人、身に灸を加へて、三里を焼かざれば、上気の事あり。必ず灸すべし。



(解説1)

『絵本徒然草』元文五年

  つまり、四十歳過ぎて、こうしたら、

 こうしましょう。

 そうしないと、上気することがある、ということです。


(解説2)

 江戸時代の鍼灸医学書、本郷正豊の『鍼灸重宝記』、「三里」の項目には、

凡そ年三十已上の人は、三里に灸せざれば、気上て目に冲しむ、又四花、膏肓、百会等に灸せば、後に三里に灸して上熱を下せ。

 とあります。また、「膏肓兪」には、

後に気海、丹田、関元、中極、四穴の内一穴と足の三里とに灸して火気を引下てよし。

 とか、「四花」には、

後に三里に灸して気を下すべし。

 などと記載されています。

 鎌倉時代の医学書、梶原性全の『万安方』にも、

人、三十已上、若し、三里に灸せざれば、気上り、目を衝かしむ。三里は、以て気を下ぐる所なり。

 と記されています。

 つまり、第百四十八段で兼好法師の言っていることは、でたらめはなく、医学書に記載されている、根拠のあるものなのです。

 また、これら『鍼灸重宝記』や『万安方』の記述は、中国は唐代の医学書、孫思邈の『千金翼方』「雑法第九」に由来します。

人の年、三十以上なれば、若し頭に灸し、三里穴を灸せざれば、人の気をして上らしめ、眼は暗ふ。所以、三里穴は気を下す也。一切の病は皆、三里に三壮灸せよ。毎日、常に灸し気を下せ。

 『千金翼方』の「眼は暗ふ」は、それぞれ『万安方』では「目を衝かしむ」、『鍼灸重宝記』では「目に冲しむ」に意訳されています。「上気」すると、目に症状が出る可能性があるのですね。

 また、年齢が「三十以上」というのは、これら医学書のうちで共通しています。医学書は文献学的根拠を重視しますので、理由がない限り、記載事項を変えることはあまりないのです。

 しかし、『徒然草』では年齢は「四十以後」に替えられています。なぜでしょう。

 まず、だれでも思いつくのは平均余命の変化ですね。七世紀末の中国と、十四世紀の日本の平均余命との間に十歳ほど差があった可能性があります。

 でも、それぞれの時代の正確な平均寿命を知ることは困難ですし、たとえそれが導き出されたとしても、それにもとづいて、兼好法師が、年齢の記述をその時分に合うように替えた、と証明することは不可能です。この仮説は検証できません。

 しかし、推理することはできます。『徒然草』の、第七段にはこうあります。

命あるものを見ると、人より長生きのものはない。かげろうが夕べを待ち、夏の蝉が春秋を知らないのもその例だ。つくづくと一年を暮らすあいだにも、こよなくのどかなものだ。飽きないで、惜しいと思えば、千年を過すとも、一夜の夢の心地であろう。住み続けられない世で、みにくい姿となって、何をするというのか。命長ければ辱多し。長くても、四十に足らないほどにて死ぬことが、目安であろう。

その年齢を過ぎると、容貌を恥じる心もなくなり、人前に出で交わろとする事を思い、人生の黄昏時に子孫を愛して、栄えていく将来を見るまでの命を望み、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれを知ることもなくなっていく。あさましいことだ。

 また、第百十三段にはこう記されています。

四十を越している人の、色恋に関して、自ずから忍んでいるのは、どうしようもない。しかし、言葉に打ち出して、男女の事や、人の身上を言い戯れることは、年齢に、似つかわしくなく、見苦しい。大方、聞きにくく、見苦しき事は、老人が、若い人に交って、興味をひこうと物言うことだ。

 つまり「四十」は、兼好法師にとって、老若、美醜を隔てる分水嶺であるようですね。

 彼は「命長ければ辱多し。長くても、四十に足らないほどにて死ぬことが、目安であろう」と言っていますが、だからといって、四十までに死ぬことを人に勧めているわけではありません。なぜなら、この段で、「四十以後の人、…必ず灸すべし」と灸治、養生について述べているからです。

 彼にとって大切なことは、長く生きることではなく、美しく生きることなのです。

 「三十以上」が「四十以後」に替えられているのは、こんな理由、兼好法師の人生観からなのでしょう。


(解説3)



 『絵本徒然草』の絵、右下には柿と柿落としが描かれていますね。なぜでしょう。

 もちろん、これは「柿」を「下気」または「火気」「下とす」に引っかけた、洒落です。



 また、お灸をすえられている女性の隣にある衝立には富士山が描かれていますね。これはなぜでしょう。

 これは『竹取物語』を連想させていますね。かぐや姫が天へ去って行ったあと、中将が、かぐや姫から貰った不死の薬を、天にもっとも近い山で燃やした話です。

 また、富士山には徐福にまつわる伝説がいくつも残されています。徐福は秦の始皇帝から、不老長生の薬を持ちかえるように命ぜられ、富士山までたどり着いたと謂われています。

 富士山には不老不死のイメージが昔から付いていたようですね。

 足の三里のお灸は、松尾芭蕉が実践していたと『奥の細道』にありますし、本居宣長も若い時には毎日すえていたようです。貝原益軒は「また三里に毎日一壮ずつ灸をして百日間つづけた人もいる。…この方法を実行して効果があったという人の多いのは事実である」と『養生訓』に記していました。

 三里はおもしろいツボです。

(ムガク)


おまけ

『鍼灸重宝記』

三里 膝眼の下三寸、骨の外、大筋の中。灸三壮七壮あるひは一二百より五百壮まで、針五分八分、留ること十呼、瀉ること七吸、あるひは一寸、留ること一呼。胃中寒、心腹脹満、小腹脹堅く、腸鳴、臓気虚し、真気不足し、腹いたみ、不食、心悶、心痛、逆気上り攻、喘息、腰いたみ、けんべき、四肢満、膝いたみ、脚気、目明ならず、産後血暈、傷寒悪寒、熱病汗出ず、嘔吐、口苦、発熱、反折、口噤、頷腫痛み、乳癰、乳腫、こうひ、胃気不足、久泄利、食化せず、苦飢、腹熱し、身煩、狂言、みだりにわらひ、恐れ、怒り、霍乱、遺尿、失気、頭眩、大小便利せず、しやくり、五労七傷、諸病皆治す。凡そ年三十已上の人は、三里に灸せざれば、気上て目に冲しむ、又四花・膏肓・百会等に灸せば、後に三里に灸して上熱を下せ。

膏肓兪 四椎の下、五の椎の上にちかし、脊中を左右へ相去こと各三寸、口伝に胛骨のきはに一指を側置ほどに點すべし。後に気海・丹田・関元・中極、四穴の内一穴と足の三里とに灸して火気を引下てよし。灸百壮五百壮まで。虚損、伝尸、骨蒸、遺精、痩つかれ、健忘、痰飲、しやくり、上気、発狂を主る。膈噎、心中妨悶、項背こわり、目病、気病、諸病治せずといふことなし。

四花(四穴) 稗心を三条ばかり結びつぎ、正中を大椎にあて、頚にかけ両の端を前に下し、鳩尾にて両の先を截る。さて其稗心の正中を結喉へあて後へまはし、稗の盡る処の脊の正中に假に墨を点す。別に又口の広さの寸を唇のなりに随ひ取て、其正中を前の假点に横に当、両の端に点し、又その稗を竪にして正中を假点に当て上下の端に点す。これ四花の穴なり。中の仮点はぬぐひさるべし。先、患門の二穴と四花の横の二穴と合て四穴を同時に灸す。一穴に廿一壮づつ毎日灸して、一穴に百五十、二百壮に至る、其灸漸く愈んとするとき竪の二穴を灸すべし。一穴に七壮づつ毎日灸して、一穴に五十壮百壮まで、後に三里に灸して気を下すべし。伝尸、労咳、骨蒸、虚熱、元気いまだ脱ざる先に灸すれば必ず効あり。又、崔氏が四花の穴は鬲兪・膽兪の四穴に合る。聚英に曰く、血は鬲兪に会す、膽は肝の府、血を蔵す、故に此を取る。類経四花  崔氏四花。

『徒然草』

(原文)

第七段

あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮すほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て、何かはせん。命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出で交らはん事を思ひ、夕べの陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。

第百十三段

四十にも余りぬる人の、色めきたる方、おのづから忍びてあらんは、いかゞはせん、言に打ち出でて、男女の事、人の上をも言ひ戯るゝこそ、にげなく、見苦しけれ。大方、聞きにくゝ、見苦しき事、老人の、若き人に交りて、興あらんと物言ひゐたる。数ならぬ身にて、世の覚えある人を隔てなきさまに言ひたる。貧しき所に、酒宴好み、客人に饗応せんときらめきたる。

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