経穴と経脈はそれぞれ別に存在していましたが、戦国時代以降に結合し、漢代には不即不離なるものとして考えられるようになったようです。(『No.74 経絡経穴における錯誤(その3)』より)
ちなみに『足臂十一脈灸經』や『霊枢』の経脈篇、経別篇などの文献は経脈と経穴が結合する以前のものでしょう。それらの文献において、経脈の中を流れるものはあくまで気血や水血と呼ばれる液体です。
さて『霊枢』経脈篇によると、例えば「肺手太陰脈(手太陰肺経)」は以下のように流れます。
「中焦に起り、下りて大腸に絡い、還りて胃口に循い、膈を上りて肺に属す。肺系より横に行き、腋の下に出で、下りて臑の内に循い、少陰心主の前を行き、肘の中を下り、臂の内に循い、骨の下の廉を上り、寸口に入り、魚に上り、魚際に循い、大指の端に出づ。其の支なる者は、腕の後より、次指の内の廉に直に出て、其の端に出る」
ここで注意することがあります。つまり経脈の流れは、一本であるとか、蛇行せず真っ直ぐであるとか、枝分かれは大きなもの以外ない、などの制限はないということです。
しかし経脈が経穴と結合したことで、経脈の定義が変化をはじめました。右の図のように経穴と経穴を最短距離で結んだ線が経脈であると思われるようになって来たのです。
これは誤まりでも何でもありません。これは新しい経脈の定義であり、経脈は関係論的存在に変化したと言ってもよいかもしれません。
新しい経脈を実在論的に捉えてしまうと、経絡図にあるような線を解剖学的に発見しようとする試みが生まれます。この試みはなかなか成功しないようですが、今後もし経絡図の線上に連なる微小な器官が発見されたら、今度はそれが経脈であると新しく定義されるのでしょうね。
何をもって経脈と名づけるかは人それぞれの自由です。しかし伝統医学を学ぶには、時代ごとの経脈の意味を知っておく必要がありそうです。
(ムガク)