はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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No.78 経絡経穴における錯誤(その6)

2009-05-25 22:06:06 | 経絡のはなし

経穴と経脈はそれぞれ別に存在していましたが、戦国時代以降に結合し、漢代には不即不離なるものとして考えられるようになったようです。(『No.74 経絡経穴における錯誤(その3)』より)


ちなみに『足臂十一脈灸經』や『霊枢』の経脈篇、経別篇などの文献は経脈と経穴が結合する以前のものでしょう。それらの文献において、経脈の中を流れるものはあくまで気血や水血と呼ばれる液体です。


さて『霊枢』経脈篇によると、例えば「肺手太陰脈(手太陰肺経)」は以下のように流れます。


「中焦に起り、下りて大腸に絡い、還りて胃口に循い、膈を上りて肺に属す。肺系より横に行き、腋の下に出で、下りて臑の内に循い、少陰心主の前を行き、肘の中を下り、臂の内に循い、骨の下の廉を上り、寸口に入り、魚に上り、魚際に循い、大指の端に出づ。其の支なる者は、腕の後より、次指の内の廉に直に出て、其の端に出る」


ここで注意することがあります。つまり経脈の流れは、一本であるとか、蛇行せず真っ直ぐであるとか、枝分かれは大きなもの以外ない、などの制限はないということです。


Lung_meridian しかし経脈が経穴と結合したことで、経脈の定義が変化をはじめました。右の図のように経穴と経穴を最短距離で結んだ線が経脈であると思われるようになって来たのです。


これは誤まりでも何でもありません。これは新しい経脈の定義であり、経脈は関係論的存在に変化したと言ってもよいかもしれません。


新しい経脈を実在論的に捉えてしまうと、経絡図にあるような線を解剖学的に発見しようとする試みが生まれます。この試みはなかなか成功しないようですが、今後もし経絡図の線上に連なる微小な器官が発見されたら、今度はそれが経脈であると新しく定義されるのでしょうね。


何をもって経脈と名づけるかは人それぞれの自由です。しかし伝統医学を学ぶには、時代ごとの経脈の意味を知っておく必要がありそうです。


(ムガク)


No.77 経絡経穴における錯誤(その5)

2009-05-11 21:01:42 | 経絡のはなし

前回のエッセーをまとめます。


「経穴(ツボ)は病気の治癒や症状の改善により、はじめて経穴であると定義される」


と言えますが、量子論的表現では以下のようになります。


「病気の治癒や症状の改善を観測すると同時に経穴の波動関数が収束する」


そこから経絡図は架空の存在であることが導かれました。


さて量子論でも観測の問題があるように医療の中でもそれは同じようにあります。純粋に病に苦しんでいる、何の偏見も持たない人であれば自覚症状が改善したか否かを判断することはあまり問題にはなりません。


しかし医療者や研究者がそれを認識する時にはやや問題が生じます。


ウィリアム・ジェームス(1842-1910年)(註1)は学問の愛好者と職業的な学者との相違を定義しました。それは、前者は得られた結果にとくに関心を持つが、後者は結果を得る方法に関心を持つ、と。


おなじ現象に直面しても関心を向ける先は一つではありません。とくに医療者は良くなった症状や治療方法に注目しやすいものですし、医学研究者は試験方法に関心を向けます。また職業的な学者もいくつかタイプがあるようです。寺田寅彦(1878-1935年)はそれを3種類に分けました。


甲種の科学者、目の前の現象が自分の知っている理論で説明できないと頭から否定しかかる。
乙種の科学者、目の前の現象を簡単には片付けないが、用心深く格別の興味を示さない。
丙種の科学者、目の前の現象に好奇的興味を感じ、何かしらの新しい大きな発見の可能性を予想していろいろ想像をめぐらし、何かしら独創的な研究の端緒をその中に物色しようとする。


きっと独創的な鍼灸医学が生まれるには丙種の科学者が関与していたのでしょうね。古代中国の鍼灸医学にしても現代医学にしても、医療と学問のバランスをとることは重要な問題です。


人には感覚しようとするもの以外は感覚できないという性質があります(見たくないものが見えて嫌な思いをするのは感情の問題です)。そして幻肢があるように、感覚しているものが、実際に存在しているとは限りません。そこにはフッサール(1859-1938年)の言う「原信憑(ウアドクサ)」が存在しています。


観測者が、例えば唯物論哲学の信仰を持っていると、精神に関係する病や症状の観測に困難が生じます。病気の治癒や症状の改善をどのように観測(判別、認識)するのかは真面目に考えると大変ですね。


今回のエッセーも(いつものことですが)少し脱線してしまいました。


つづく


(註1)ウィリアム・ジェームス(1842-1910年): アメリカの哲学者であり心理学者です。西田幾多郎(1870-1945年)の『善の研究』における哲学的展開に影響を与えました。


(ムガク)