はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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No.57 芸術と錯覚

2008-10-29 21:06:01 | 幻肢痛など

最近のお気に入りに『small planet』という本城直季さんの写真集があります。美しい色鮮やかな町や自然の風景を写したものですが、これを鑑賞すると不思議な気分になります。本物の風景のはずがミニチュアのように小さく見えるのです。「あおり撮影」と呼ばれる方法で撮られているようですが、技術的な問題はさて置き、視覚の認識のあり方を考えると面白いものです。


そもそも普通の漫画や絵画も面白いものです。二次元の単純な線や点が本物を想起させ、さらに映画になると止まっている絵を連続させることで動いているように見えます。これらは視覚の問題ですが、聴覚にもそういう面があります。


音楽を聴くと演奏家の感情が想起されたり、ある風景が眼に浮かんできたりすることがあります。それだけでなく、例えば「C-durの和音」を聴くとそれが「C-durの和音」そのものとしても聴こえますし、また「ド・ミ・ソ」のように分けても聴こえます。よく考えるとこれは大変不思議なことです。和音の波をグラフに表すととても複雑な形をしていますが、それを一瞬のうちに分解して認識していますし、また合成して認識することもできるのですから。


音楽家であり教育者である齋藤秀雄(1902-1974年)(註1)はこんなことを言っていました。


「…ある時考えて、「『人間の錯覚を利用して、あるもので違うものを感じさせる』。時にはこれを『芸術』という」っていう定義を作ったんです。人間が錯覚を持たなかったら、芸術は存在し得ない。それはロダンが言っているんですね。人間の錯覚があるっていうことが、芸術をやる人には非常に便利なことで、そのものずばり聞こえたからね。…」(『齋藤秀雄講義録』より)


また哲学者メルロ・ポンティ(1908-1961年)(註2)は次のように言っていました。


「知覚される世界は(絵画のように)私の身体の配線の全体なのであって、時間空間的な個物の集まりなのではない。…

《感覚》はどれをとってみても一つ一つが《世界》をなしている。つまり他の感覚と絶対に交流できないものなのである。だがそれは何ものかを構成する。それは最初から構造的に他の感覚の世界に向かって開き、他の感覚と手を携えて一つの「存在」を形成するのである。

感覚性:例えば色、黄色:それは自から自己を超えていく。それが輝きの色、つまり領野を支配してしまうような色になるや否や、それはあれこれの色であることをやめる。したがってそれは自からに存在論的機能を具えているというわけだ。

…感覚性は独特なものとして忽然として定立される。そして独自なものとして見えることをやめる。《世界》はこういう全体であって、そこではどの《部分》も…全体的部分となるのである。」(『メルロ・ポンティの研究ノート』現象学研究会編訳)


このように、人には「錯覚する」という性質があります。この性質が芸術というすばらしいものを生み出しました。それは感覚の単なる異常とか過ちではなく、知覚される世界が複雑なネットワークにより形成され部分が全体的部分になっていることから生じるのかもしれません。


そして生命現象、とくに病気として認識されるものの中で代表的な錯覚が「幻肢痛」です。これは事故などでなくなった手足に痛みを感じる(時には動かしたり触ることもできる)現象です。鍼灸医学は「幻肢痛」に効果がありますが、次回から「幻肢痛」について考えていこうかと思います。


(註1)齋藤秀雄(1902-1974年):チェリストでもあり指揮者でもありました。音楽の教育者として小澤征爾や堤剛、藤原真理などを育て上げました。(敬称略)


(註2)メルロ・ポンティ(1908-1961年):フランスの哲学者。フッサールの現象学、特に生世界をめぐる後期の思索を発展させ、存在の始源に迫るべく問い続けましたが、若くして急死しました。


(ムガク)


No.53 明治維新と伝統医学

2008-10-15 18:57:48 | 医学のはなし

チャイコフスキー作曲の大序曲「1812年」は1880年に初演されましたが、ナポレオン(1769-1821年)のモスクワ遠征をテーマにした曲です。フランスとロシアの戦争の場景が眼に浮かび、また曲中では大砲を撃ち鳴らす箇所もあり、ロシア人でなくても興奮してくる曲です。(日本では消防法の関係でホールの中で大砲は撃てません)ナポレオンはフランス軍をヨーロッパ最強にしましたが、このモスクワ遠征の失敗から衰退が始まりました。

 

ところで明治維新(1868年)になり、日本の医学はドイツ医学ほぼ一色に変化していきました。「西洋七科の制」という太政官布告(1875・1883年)により伝統的な漢方医学が存続するのは非常に難しくなりました。当時の日本では漢方医学は有志が歴史の裏舞台で細々と保存していく状態になりました。


もちろん明治維新で改革されたのは医学制度だけではありません。むしろ医学制度の改革は行政や身分制度、経済、軍事、宗教、教育、外交などと比較して全然主要なものではなく、片隅の小さな問題でした。旧習を打破するというスローガンに矛盾してまで伝統医学を残そうというのは政府にとって面倒臭いことでした。


江戸期には既にポルトガルやスペイン、また鎖国後は蘭方と呼ばれるオランダ医学やさまざまな日本や中国の伝統医学が存在していました。それがなぜドイツ医学に統一されてしまったのでしょうか。理由の一つは疫学的な功績が考えられます。天然痘に対する種痘所の設立をしたり(天然痘の種痘自体は16世紀の中国に既に存在しましたが、ジェンナーは牛痘を利用してより安全に改良しました)、コレラの感染拡大を防ぐという努力がありました。もう一つは当時のヨーロッパ諸国家の力関係でしょうか。


まずポルトガルはナポレオン戦争の後、王室はブラジルに遷都するわ、内戦が勃発するわで大変な状態でした。スペインも似たような混乱状態でした。オランダはナポレオン帝国が崩壊すると1813年に王国を復活させることができましたが、東インド会社は既に解散していて、またイギリスが台頭してきたので過去の力はありませんでした。


ドイツ(正式にはプロイセン)はどうかというと、1806年にナポレオン軍によりイエナの会戦にて壊滅させられ皇子も捕虜になり、属国のように扱われる事件(ティルジットの屈辱)がありました。しかしその後、改革を進めて国家の力をつけ、普墺戦争(1866年)でオーストリアに、また普仏戦争(1870年)でフランスに勝利し、明治維新の時にはヨーロッパ最強の帝国となっていました。


そうすると日米和親条約や通商条約の不平等な国家間の関係を改善するため、また欧米列強に追いつくためにどの国を手本とするかというと、ドイツでしょうね。アメリカは主権が民衆にある共和制であるので天皇制と矛盾するし、歴史も浅いので手本にするには難しそうですね。(なぜイギリスではないのかについてはまたいつか…)


さてどうしてここまでドイツが強大になったのでしょうか。ビスマルク(1815-1898年)もいますが、その強くなる原点を考えるとクラウゼウィッツ(1780-1831年)のお陰だと思います。かれはイエナの会戦で敗北し、ナポレオンのモスクワ遠征も経験し、「戦争とは何か」を考えぬき古今東西の世界で最高の戦略家の一人となりました。このクラウゼウィッツの思想には興味深いことがありますが続きはまた次回に…。


(ムガク)


No.52 五行について(その2)

2008-10-14 20:12:15 | 気・五行のはなし

さて五行の出典となった『書経』洪範の五行とはなんでしょうか。五行とは箕子が周の武王に返答した、天下を治めるにあたっての九つの方法の筆頭に挙げられるものです。すこし前文を読んでみましょう。


「わたくしはこう聞いております。その昔、鯀が洪水を塞ぎ止めようとしたときに、その五行をかき乱してしまいました。そこで、上帝は激しくお怒りになって、洪きな範の九つの疇(たぐい)をお与えになりませんでした。彝倫(いりん)はここで破れました。鯀がその罪で死されたのち、禹が治水の業を継いで夏王家を興しました。そこで、天は禹に洪きな範の九つの疇をお与えになりました。彝倫はここにふたたび秩序正しくなったのです。九つの疇とは、最初の第一は、五行です。…」(『書経』洪範、赤塚忠訳)


そして、有名な以下の文が続きます。


「一には五行、一に曰く水、二に曰く火、三に曰く木、四に曰く金、五に曰く土。水を潤下と曰う、火を炎上と曰う、木を曲直と曰う、金を従革と曰う、土は爰に稼穡とす。潤下は鹹を作す、炎上は苦を作す、曲直は酸を作す、従革は辛を作す、稼穡は甘を作す…」


さて、王の仕事の最大の目的は民を飢えさせないことでした。そのため治水(洪水、黄河の氾濫対策)が最重要の目標であり、五行は「水火木金土」のように「水」を最初に記載しています。それから続いて「水を潤下と曰う」というようにその性質が述べられています。


「水」はもともとは具体的なものであり、河川の水(または雨も)を指し示していたようです。「潤下」は「水」の性質の説明でした。しかしそれと同時に「潤下」という性質を持つものも「水」とするようになってきます。これが概念メタファーであり、後の時代に陰陽五行説を完成させる動力となっていきました。


では「潤下、炎上、曲直、従革、稼穡」の五つの性質はどのように解釈すればよいのでしょうか。一つは「読書」のような述語構造型、もう一つは「身体」のような並列構造型、もう一つは「進入」のような述補構造型などです。どれが完全に正しいとも言えませんが、並列構造型と述補構造型の蓋然性が高そうな気がします。


「火」はメラメラと燃える炎と共に、炎旱(ひでり)とか炎天(夏の暑い天気)の意味合いがあったと思います。大切な水を蒸発させてしまう条件なのでこれも重要な問題です。


「木」は植物全般ですが、特に農作物のことのようですね。


商王朝では既に青銅器が使われていました。殷墟からの発掘品によると、特に商王朝では高度な冶金技術を持っていたようで、さまざまな食器(祭器)や楽器、武器が作られていました。ただ当時それらは非常に貴重なもので農具に使われることはありませんでした。ところで、


「水火は百姓の飲食するところなり、金木は百姓の興作するところなり、土は萬物の資生するところなり、これ人の用となす」(『尚書大傳』洪範)


という記述が残されています。これは秦代の伏勝の『書経』の注釈書ですが、当時の秦では鉄器が一般的になり工具や農具として使用されていたようですね。それが秦が天下統一を果たす一つの要因でしたが、もし「金」を農作物の収穫のための農具を指し示すものであるとするのなら、『書経』洪範は周初の記述ではなく戦国時代のものとなります。もし周代の記述であるのなら、この「金」は祭祀に使用した祭器や、(収穫後の戦争に使用した)武器と考えた方が良さそうです。でも広く、金属精製の技術や製造能力と考えてもいいですね。


「土」は大地や耕地、領土のことのようです。


このように『書経』洪範の五行とは王が政治的に力を注ぐべき対象のようです。ところでこの五行の記述には「鹹苦酸辛甘」という五味が記載されています。これを舌で舐めてしょっぱいとかいう「味」と考えると無理が生じます。いろいろ解釈があるようですが、続きはまた今度。


(ムガク)