ハーベスト・タイム『収穫の時』

毎月発行の月刊紙『収穫のとき』掲載の聖書のお話など。

生物学者、信仰を語る

2005-04-18 | 番組ゲストのお話
◆4月号◆京都インターナショナルユニバーシティー生物学部長安藤和子さん(2月3、4週放映)


・楽しい研究生活

 貧しくとも教育熱心な両親のおかげで、私は大阪大学理学部に入学し、生き生きと楽しく研究を続け、修士課程を修了しました。東京大学で理学博士号を取得した後は、研究者として五年間アメリカに留学し、帰国後は製薬会社の研究所に勤め、研究に励んでいました。非常に充実した日々が続き、十数年がたちました。
 人生をまじめに生きてきて、ある時ふと自分の人生を振り返ってみたのです。「いったい自分はこれまで何をしてきたのだろう。これから何ができるのか。人生の意味は何なのか。死んだらどこに行くのか?」と改めて考えるようになりました。そして、私には絶対基準がない、大切な質問に対して答がないということを発見したのです。


・幸いな招き

 気がつかないうちに、暗いトンネルの中に入ってしまっていました。しかし私は、訳の分からないものを拝むような宗教に頼るのは、人生の負け犬だと思っていました。
 その頃、ある教会の案内が毎週郵便ポストに舞い込むようになりました。普通は見もしないでくずかごに捨てるのですが、その時は不思議なことにじっくり読んでみたのです。すると、人生の深みを語るようなメッセージ題が並び、非常に興味をそそられました。二、三カ月迷った後、とうとうある日曜日、教会に行ってみました。温かい所ですし、珍しいお話にも知的興味をそそられ、聖書を全部読むまでしばらく通い、キリスト教とはどういうものか評価してやろうと、傲慢にも思いました。毎週熱心に通い、午前も午後も夜もと、さまざまな集会に出て、集中して聖書に向かっていました。



・突然の回心

 しかし二カ月ほどたち、「やっぱりこれは違う。私は科学者なんだから、こんな目に見えないものに祈って、どうなるのか。ここに私の求める答はない」と思いました。
 そして日曜の朝、教会に最後のご挨拶をしようと思い家を出てまもなく、突然「イエス様は神様なのだ。なぜそれが分からないのか?」と大声で叱責されたような感じがしたのです。そして不思議なのは、「あっ、そうなんですね」と私が心の中で返事をしたことです。暗闇の中にいたのが突然光の中に飛び込んだようで、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15・16)とのイエス様のみことばが響きました。その途端私の目から涙があふれ出し、ぼろぼろ泣きながら教会までの道を歩いていきました。
 こんな傲慢で頑固な私が、瞬時にイエス様を信じる者とされたのです。今まで人間が一番偉いという人間中心主義に陥っていたために、真実が見えなかったのです。



・絶対者の存在

 世界を創造し、人間をも創造された全知全能の創造主を知ることになりました。命を下さったお方を認めないで、人間の判断を神様の上に置くという的外れの罪深さを、じっくりと学ぶことになりました。この罪のゆえに神の御子であるキリストが十字架の苦しみを耐え忍んでくださったこと、無神論者として傲慢な限りを尽くした者でさえ、罪赦されることが分かりました。
 そして天国へ迎え入れられるということを知った時、本当に主の御前にひれ伏して祈るという変化が起こりました。続いて「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ15・16)とのみことばが心に留まり、神様が私に、この後どのように生きよとおっしゃっているのかを問い始めました。


・創造の真実

 信仰に入る直前、「いくら神様でも、たった六日間で天地万物の創造はあり得ないんじゃないか」とある人に尋ねました。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(IIペテロ3・8)とあり、それは比喩だからと教えられ、納得したのです。
 一年くらい後でその間違いに気づき、顔から火が出るほど恥ずかしい思いがしました。聖書に一日と書かれていたら一日で、聖書は創造主の著書であり、敬意を払って読むべきで、人間が勝手にゆがめて解釈してはならないことを、この時はっきりと学びました。そして、アメーバのような単細胞から、最後に人間ができたという進化論は、論ではなく仮説であり、地質学的にも、化石からも、生物学的にも、進化の証拠はまだ何も見つかっておらず、理論的にも何の根拠も無いことに気が付いたのです。


・新しい感激

 天地万物のすべての自然界の法則は創造主が定められたもので、私は生物学を新たな感激をもって学び直すようになりました。全知全能の神様は、美しい生命を創造され大切に守っておられることを、生き生きと肌で感じています。特に神様の似姿に造られた私たちが、大切なものとして愛されていることを知り、信頼して身をゆだねることができました。
 私は今、聖書による道徳と価値観を土台とし、キリスト教主義に基づく教育を行なう大学で教えています。若い方々が、専門知識を得るだけでなく、生きること、考えること、そして自分自身を理解することを学ぶ教育を目指しています。