
ジョセフ・B・ワースリン長老は、昨年の総大会で次のように語りました。
「落胆、苦悩、悲しみの時期を耐え忍ぶことは、人生で経験する実地訓練の一部です。それらは当座は堪え難いものですが、そのような経験こそ、まさに私たちの理解力を広げ、人格を築き、人に対する思いやりを増してくれるのです。イエス・キリストは大いに苦しまれたので、人の苦痛と悲しみを理解しておられます。私たちも試練を受けることによって、さらに人を思いやり、理解できるようになります。」(2008年11月号『リアホナ』)
お父さんは何年か前に四十肩で苦しんだことがあります。ひどいときはわずかに方を動かすだけで、1,2分間悶絶するくらいの激痛を感じたものです。しかしながら、先祖の方々の救いの儀式のために度々神殿を訪問する中で、自らの儀式を待つ先祖の方々の切なる思いに触れ、「亡くなられた先祖の方々で何百年も自らの儀式を待つ先祖方々の心の苦しみに比べれば自分の肩の痛みは大したことはない」と感じるようにました。
さらに何百億、何千億もの人々の苦しみを一身に背負って苦しまれたイエス・キリストさまの苦しみに比べれば、全く取るに足らない痛みだとも感じました。
今では全く良くなっているのですが、その肩の痛みは、それらをいつも思い起こさせ、先祖の救いのために行動し、主の贖いの業に感謝を捧げる思いを新たにしてくれました。そういう意味では本当に大きな祝福でした。
ワースリン長老の勧告は、試練は決して人をくじくものではなく、人を精錬し、主に近づけてくれるものだと教えています。様々な試練やチャレンジが来る時、自分が主から愛されていることを感謝するように努め、試練やチャレンジを通してもたらされる主の恵と祝福に同じように感謝しましょう。それが主を知り、主に近づく鍵です。(おやじより)
