愛する子供たちへ
教会のふさわしい若人たちは19才~20才になると、自らの選択の自由により、また神さまの召しと権能を受けて、この福音を宣べ伝えるために全世界へ出かけて行きます。幼い頃から一生懸命バイトをして貯めたお金を携え、あるいは家族の援助を受けて無報酬でボランティアとしてこの福音を宣べ伝えます。主が生きておられた時代の聖徒たちと同じです。
現在6万人もの若人たちが150カ国を超える国と地域において、自らの学業や仕事を後にして、1年半~2年間主の伝道の業に従事しています。これはまさに驚くべきことです。
世の多くの良識ある人々からも、「このような『世の中を知らない若造たち』が伝道に出て何が出来るんだ」との非難もたびたび浴びますが、そのような世故に長けない若い宣教師たちにより、毎年30万人を超える人々が全世界で神さまを知り、主と主の贖いに対する強い証を得てバプテスマの門をくぐります。
これは、まさに次の主の預言を成就する奇跡そのものです。
「世の弱い者たちが……肉の腕に頼ることのないよう……、すべての人が主なる神、すなわち世の救い主の名によって語るため、信仰もまた地に増すため、わたしの永遠の聖約が確立されるため、わたしの完全な福音が弱い者や純朴な者によって世界の果てまで、また王や統治者の前に宣べられるためである。」(教義と聖約1章19~23節)
今日は、そのような若い宣教師として召され、伝道に励んだ友人の感動的なお話し、実際に起こった出来事について紹介します。どのような小さな幼子であれ、小さな者であれ、彼らが謙遜に捧げる義なる祈りや望みを、主はすべて御心に留められ、主の御旨に適った時期にかなえて下さるとの確信を今一度新たにしました。
<貧しかった少女を改宗へ導いた一枚の英会話チラシ>
大雪に見舞われたある晩のことです。2人の若い宣教師が、教会で行われる無料の英会話の準備をしていました。彼らは地域の方々への奉仕の一環として1週間の内の数時間をボランティアで英語を教える活動を行っていたのです。「今晩はこんな雪じゃ誰も英会話には来ないだろうね」と中止することも念頭に置きながら一人の宣教師が語りました。彼の同僚も同感だとうなずいています。
その時です。一台の車が、窓越しに教会の中へヘッドライトの光を投げ込みながら駐車場に止まりました。なんと見るもうらやましい真新しい車です。その車から20代の若い女性が降りて来て「英会話を教えている教会はこちらですか」と尋ねてきました。そして一枚のチラシを手渡したのです。なんとこれがまた非常に古い10数年前にこの教会で作られた無料英会話のチラシだったのです。
暖かい教会の中へ招かれたその女性は、事の経緯を次のように説明しました。
「幼い頃、2人の若い青年が私の家を訪れました。その時、家には両親も兄弟もおらず私だけでした。教会の宣教師だと名乗るその2人の若い青年は、私に無料の英会話について説明し、このチラシを下さったのです。10数年も前のことです。私は無料で英語を教えて下さるというその教会に殊の外興味を抱き、是非通いたいと思いました。
でも、当時家は非常に貧しく、車はもちろんないばかりか教会に通うバス賃さえも望めない状態でした。いつか大きくなって自分で働き、車を持てるようになったら必ずその教会に行くと心に決め、その英会話のチラシを宝物のように大切にしまっておいたのです。
あれから長い年月が経ちました。私は学校を卒業して就職し、一生懸命お金を貯めました。そして今日念願の私自身の車を購入したのです。あの駐車場の車は今日買ったばかりの私の車です。幼い頃の夢を果たすために、車のディーラーから真っ直ぐにこの教会へやって来ました。私に英会話と神さまのことを教えて下さいますか?」
2人の若い宣教師は大きな感動に包まれ、言葉を失いました。幼い頃から願い続けた望みと日々謙遜に祈る2人の若い未熟な宣教師の祈りが、同時にかなえられた瞬間でした。
彼女はその後、英会話を学ぶ中、この回復されたイエス・キリストさまの福音を熱心に学び、証を得て、程なくバプテスマを受けました。それからさらに働き、お金を貯め、自らも専任宣教師としての召しを頂いて1年半伝道の業に携わりました。そして、帰還後すばらしい男性と巡り会い、神殿において永遠の夫婦として結び固められたのです。現在本当に幸せな家庭を築いていらっしゃいます。
貧しかった幼い少女の胸に、主が与えられた小さな望みは、10数年の時を経て主の御手により実を結び、永遠に朽ちない大きな祝福へと膨らんでいきました。主の深い憐れみと慈しみによってなされる「奇しきみ業」は、私たち神の息子・娘らに対する、神のまさに大いなる愛の証です。
ディーター・F・ウークトドルフ管長も、次のように語っています。
「神は神聖で清く、筆舌に尽くし難い無限の愛であふれているので、わたしたちを愛してくださいます。神にとってわたしたちが大切なのは、わたしたちが優れた経歴を持っているからではなく、わたしたちが神の子供だからです。神は、わたしたち一人一人を愛しておられます。」(ディーター・F・ウークトドルフ管長、2009年11月号『リアホナ』、p.22-23)(おやじより)
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教会のふさわしい若人たちは19才~20才になると、自らの選択の自由により、また神さまの召しと権能を受けて、この福音を宣べ伝えるために全世界へ出かけて行きます。幼い頃から一生懸命バイトをして貯めたお金を携え、あるいは家族の援助を受けて無報酬でボランティアとしてこの福音を宣べ伝えます。主が生きておられた時代の聖徒たちと同じです。
現在6万人もの若人たちが150カ国を超える国と地域において、自らの学業や仕事を後にして、1年半~2年間主の伝道の業に従事しています。これはまさに驚くべきことです。
世の多くの良識ある人々からも、「このような『世の中を知らない若造たち』が伝道に出て何が出来るんだ」との非難もたびたび浴びますが、そのような世故に長けない若い宣教師たちにより、毎年30万人を超える人々が全世界で神さまを知り、主と主の贖いに対する強い証を得てバプテスマの門をくぐります。
これは、まさに次の主の預言を成就する奇跡そのものです。
「世の弱い者たちが……肉の腕に頼ることのないよう……、すべての人が主なる神、すなわち世の救い主の名によって語るため、信仰もまた地に増すため、わたしの永遠の聖約が確立されるため、わたしの完全な福音が弱い者や純朴な者によって世界の果てまで、また王や統治者の前に宣べられるためである。」(教義と聖約1章19~23節)
今日は、そのような若い宣教師として召され、伝道に励んだ友人の感動的なお話し、実際に起こった出来事について紹介します。どのような小さな幼子であれ、小さな者であれ、彼らが謙遜に捧げる義なる祈りや望みを、主はすべて御心に留められ、主の御旨に適った時期にかなえて下さるとの確信を今一度新たにしました。
<貧しかった少女を改宗へ導いた一枚の英会話チラシ>
大雪に見舞われたある晩のことです。2人の若い宣教師が、教会で行われる無料の英会話の準備をしていました。彼らは地域の方々への奉仕の一環として1週間の内の数時間をボランティアで英語を教える活動を行っていたのです。「今晩はこんな雪じゃ誰も英会話には来ないだろうね」と中止することも念頭に置きながら一人の宣教師が語りました。彼の同僚も同感だとうなずいています。
その時です。一台の車が、窓越しに教会の中へヘッドライトの光を投げ込みながら駐車場に止まりました。なんと見るもうらやましい真新しい車です。その車から20代の若い女性が降りて来て「英会話を教えている教会はこちらですか」と尋ねてきました。そして一枚のチラシを手渡したのです。なんとこれがまた非常に古い10数年前にこの教会で作られた無料英会話のチラシだったのです。
暖かい教会の中へ招かれたその女性は、事の経緯を次のように説明しました。
「幼い頃、2人の若い青年が私の家を訪れました。その時、家には両親も兄弟もおらず私だけでした。教会の宣教師だと名乗るその2人の若い青年は、私に無料の英会話について説明し、このチラシを下さったのです。10数年も前のことです。私は無料で英語を教えて下さるというその教会に殊の外興味を抱き、是非通いたいと思いました。
でも、当時家は非常に貧しく、車はもちろんないばかりか教会に通うバス賃さえも望めない状態でした。いつか大きくなって自分で働き、車を持てるようになったら必ずその教会に行くと心に決め、その英会話のチラシを宝物のように大切にしまっておいたのです。
あれから長い年月が経ちました。私は学校を卒業して就職し、一生懸命お金を貯めました。そして今日念願の私自身の車を購入したのです。あの駐車場の車は今日買ったばかりの私の車です。幼い頃の夢を果たすために、車のディーラーから真っ直ぐにこの教会へやって来ました。私に英会話と神さまのことを教えて下さいますか?」
2人の若い宣教師は大きな感動に包まれ、言葉を失いました。幼い頃から願い続けた望みと日々謙遜に祈る2人の若い未熟な宣教師の祈りが、同時にかなえられた瞬間でした。
彼女はその後、英会話を学ぶ中、この回復されたイエス・キリストさまの福音を熱心に学び、証を得て、程なくバプテスマを受けました。それからさらに働き、お金を貯め、自らも専任宣教師としての召しを頂いて1年半伝道の業に携わりました。そして、帰還後すばらしい男性と巡り会い、神殿において永遠の夫婦として結び固められたのです。現在本当に幸せな家庭を築いていらっしゃいます。
貧しかった幼い少女の胸に、主が与えられた小さな望みは、10数年の時を経て主の御手により実を結び、永遠に朽ちない大きな祝福へと膨らんでいきました。主の深い憐れみと慈しみによってなされる「奇しきみ業」は、私たち神の息子・娘らに対する、神のまさに大いなる愛の証です。
ディーター・F・ウークトドルフ管長も、次のように語っています。
「神は神聖で清く、筆舌に尽くし難い無限の愛であふれているので、わたしたちを愛してくださいます。神にとってわたしたちが大切なのは、わたしたちが優れた経歴を持っているからではなく、わたしたちが神の子供だからです。神は、わたしたち一人一人を愛しておられます。」(ディーター・F・ウークトドルフ管長、2009年11月号『リアホナ』、p.22-23)(おやじより)
