「愛する子供たちへ」-心の糧メッセージ

クリスチャンとして歩む未熟な父親が、自らの子供たちの幸福を願い、その信仰と霊性を養い育むべく記す「心の糧メッセージ」!

「人を癒し喜びを与える一生懸命咲いている花」

2014年03月31日 01時41分06秒 | 福音の実践
愛する子供たちへ

 お父さんは、花が大好きです。物覚えが悪いので名前はなかなか覚えられないのですが、すべての花が大好きです。

 花屋さんで華やいでいるポピュラーな花ばかりではなく、野菜や果物、雑草なんかの花も最高です。(本当は雑草という草花はありませんね。正確には田畑や荒れ地に咲く草花…かな? いずれにしても雑草と呼んでごめんなさい。)

 沖縄のわが家の庭でも、季節ごとに咲くたくさんの花が見られました。

 さつまいもの薄紫色の花、ニラの真っ白い可憐な花、かわいい黄色の菜の花、ジャガイモの真ん中黄色に薄紫花びら、しそのほんのり紫がかった白い花、大根の清楚な白い花、ゴーヤ・キュウリ、トマトの鮮やかな黄色い花……などなど数えたらきりがありません。

 福岡に引っ越してきてからは、庭がなく、もっぱらプランターに野菜や花を植えて育てていますが、その成長を見るのが本当に大きな喜びとなり癒しとなっています。凍てつくような寒さの中でも、じっと耐え、そして少しずつ成長する姿には、本当に感動を覚えました。

 庭や道ばたの草花も、よくよく見ると本当にきれいな花を咲かせて私たちの心を和ませてくれます。







 そんな花たちを見るとつい小さな声で、「みんな一生懸命咲いてるね~。とてもきれいだなあ。風が強いけど頑張ってよ~。」と話しかけてしまいます。

 沖縄で、時々不覚にも、花に声掛けしているその現場を通りがかりのオジーやオバーに見つかって、とてもばつの悪い思いをしました。顔から火が出そうなときもありました。(^^;) でも、そんな時のオジー・オバーの目は、

「ウンチュヤ ウヒグヮー フリトーッサー(この人は少し頭がおかしいさ~。)」

という目……ではなく、しわくちゃの笑顔の奥にあるとても温かな優しい目です。これもまた花にも劣らず私の心を和ませ、安心させ、癒してくれます。だから私はオジーもオバーも大好きです。

 仕事で疲れたとき、落ち込んでいるとき、気分が悪いとき、難しい問題で頭が疲れたとき、毎朝毎夕必ず庭へ向かいます。そして花たちと会話するのです。10分ほどで心も頭も身体まですっきりします。まるで、心ときめく恋人(結婚前の家内)に会ってきたような気持ちです。(笑)

「あなたは私の顔を見つめるのより、花を見つめる時間の方がはるかに長いわね。」とよく家内に皮肉られました。

 そんなときは、その場の空気が和らぐよう「いや~花たちを見てると結婚前のあなたとのデートのときのあの心のときめきを思い出すからね~。」とニコニコしながら、歯が浮くようなジョークを返すことにしています。だいたいま~るく収まります。今は全く問題ありません。(笑)

 花たちは本当に一生懸命咲いています。道ばたのどんな厳しい環境でもその花なりに、精一杯生きています。だからこそ美しいのでしょう。だからこそ心惹かれ、心が癒されるのでしょう。元気を一杯もらい、心が和み改まります。そして、また頑張れるのです。

 花たちは、エドワード・エベレット・ヘール氏が語った次の言葉の意味するところを、本当によく知っているのかも知れません。

 「私にはひとり分の力しかありませんが、
  ひとり分の力にはなれます。

  私にはすべてのことはできませんが、
  何かをすることはできます。

  すべてのことができないからといって、
  何かをすることまでやめてはいけません。」

 お父さんは、そのような名もない、でも一生懸命咲いている花たちのように精一杯生き、だれかに元気や癒しを与えられるような人になりたいと心から願っています。

 さて、今日もまた、通行人のオジーやオバーたちに悟られないように花たちと会話しよっと……。

 みんなも始めてみませんか。心癒され、幸せになること請け合いますよ。(おやじより)

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「億万長者の決意-心を尽くし主を信頼する」

2014年03月30日 01時07分12秒 | 福音の実践
愛する子供たちへ

 お父さんの尊敬する大先輩のおひとりに、去る大戦ですべてを失い、なおかつ若くして父親まで失い、母と多くの兄弟たちと共に極貧の幼少時代を過ごしながら、血の滲むような努力と勤勉さで熱心に学び、働き、一代で年間数億の収入を得るにまでに成功され、億万長者となった方がおられます。

 沖縄出身のお父さんたちと同じ教会の会員です。

 西郷隆盛の座右の銘である「敬天愛人」すなわち天を敬い人を愛することを文字通り実践し、そのとおりに生きた人格者です。

 成功されてからも父母の教えの中で培った謙虚さを決して失うことなく、誠実さと卓越した指導力で多くの人々の心をとらえました。

 数年前に亡くなられたとき、彼を個人的に慕う数千人の方々が彼の葬儀に参列し、その死を悼みました。

 彼は若くして億万長者となった後も、日課として一日たりとも欠かさないことがありました。それは聖典を熱心に学び、朝な夕なにそしてことある度にひざまずき謙虚に頭を垂れて神に祈ることです。

 彼のモットーは、まさに「学び、祈り、家族や周りの方々の幸せのために働き、働き、奉仕し、そしてさらに働いてかつ人生を楽しむ」ことのように思われました。

「天は自ら助くる者を助く。」(イギリスの諺)

「神に祈れ、だが岸に向かって漕ぐ手を休めるな。」(ロシアの格言)

 そのことを自らの信念として、自然体でしかし確固とした決意を持ちあらゆる難題に常に前向きな姿勢で熱心に取り組む方でした。

 常日頃、正しい祈りはそれが理に適い正当である限り、必ずや聞き届けられるとの信念をもって幼い子供たちに教え諭し、自らもそのように信じ努力しておられました。

 お父さんは、彼のことを心から尊敬しておりました。

 亡くなる前、若かりし頃の彼の幼い娘の祈りにまつわる興味深いエピソードについて、彼自身からお話しをお伺いしました。実は先日「祈りはこたえられます」という記事の中で紹介した沖縄の先輩とは彼のことです。その祈りの答えを受けた少女とは、彼の小学校へ上がったばかりの娘です。まだその記事を読んでおられない方のために、以下に記事のリンクと抜粋を記します。

<「祈りはこたえられます」>
(以下は先日の記事の抜粋)

「沖縄に住んでいた頃、お父さんの先輩が話してくれた祈りに関する興味深い話があります。彼の小学校低学年の娘の一人が、学校の遠足の前日、沢山のてるてる坊主を作って自分の部屋に下げました。空模様が怪しく、遠足が危ぶまれたからです。先輩は幼い娘に『お祈りしたら、神様は必ず答えて下さるよ。明日の遠足のためにお祈りしたらいいよ』と優しく声をかけました。娘は『わかった。一生懸命お祈りする』と言って2階の部屋に駆け上がり、そして祈りました。ところが、なんと翌日は大雨だったのです。遠足は確実に中止です。娘の信仰が揺いでしまわないか心配した先輩は、2階から降りてくる娘になんと声をかけたらよいかわからず、しばしうろたえてしまいました。そして、声を振り絞るように、『た、たまには、神様も祈りに答えて下さらないことも、あ、あるんだよ』と娘を慰めようとしました。ところが娘は落胆した様子もなく、次のように答えました。『いいえ、神様は私の祈りに答えてくれたわ』。先輩は耳を疑いました。娘は続けて言ったそうです。『明日晴れるようにって祈ったら、神様は、残念だけど明日は雨だよと言ったの。よくわかんないけど、雨が降らないと誰かが困るのよきっと』。最悪の状況を想定していた先輩は胸をなで下ろしました。そして同時に大切な原則を娘から学んだと話してくれました。」■(抜粋終わり)

 彼は、明るい顔で語る娘のこの意外な答えから非常に大切な原則を学びました。そして次のように決心したそうです。

「この人生で、どのようなことについても天の御旨を求め、知り、それを断固として実行しよう」と……。

 この決意が彼をして一代で偉大な成功者へと導く大きな力となりました。すなわち家庭にあっては誠実で優しい夫、父親、そして経済界にあっては柔和で傑出した影響力を持つ誠実かつ謙虚な力強い指導者です。

 彼の子供たちは、莫大な財産を受け継ぎながらも父親と同じように謙虚に各界で活躍し、かつ温かな家庭を築き、幸福な日々を送っております。

「心をつくし主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない、すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3章5~6節)

 彼の生涯はまさにこの聖句そのものでした。

 モルモン書の中でアルマも息子ヒラマンに対して次のように勧告しています。

「わが子よ、忘れずに若いうちに知恵を得なさい。まことに、神の戒めを守ることを若いうちに習慣としなさい。また、あなたの必要とするあらゆる助けを神に叫び求めなさい。まことに、あなたの行うことはすべて、主のために行うようにしなさい。どこへ行くにも主にあって行くようにしなさい。まことに、あなたの思いを常に主に向けるようにしなさい。まことに、あなたの心の愛情をとこしえに主に向けるようにしなさい。あなたのすべての行いについて主と相談しなさい。そうすれば、主はあなたのためになる指示を与えてくださる。まことに、夜寝るときは、眠っている間も主が見守ってくださるように、主に身を託して寝なさい。そして、朝起きるときに、神への感謝で心を満たしなさい。これらのことを行うならば、終わりの日に高く上げられるであろう。」(アルマ37章35~37節)

 すばらしい先輩の模範とアルマの勧告に心から従い、真の幸福を得られるよう真心込めて努め励みたいと心から願っています。(おやじより)

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「心を聖め神を知る-新悪魔撃退法」

2014年03月29日 00時01分33秒 | 福音の実践
愛する子供たちへ

 七十人のL・ホイットニー・クレートン長老は、次のように語っています。

「福音の約束はわたしたちを高め、高貴にし、さらには昇栄(永遠の生命)に導きます。清く、道徳的に正しい生活を送るよう定めた聖約を交わすことにより、わたしたちはこれらの約束を受けます。正しい生活をし、心を清く保とうと求めるとき、神と御霊に近づきます。

 今のこの世の中で神の存在を示すものをどれだけ見ることができるか、また、清い者が『神を見る』という約束がいつか自分の身に実現するかどうかは、わたしたちの心の状態で決まります。わたしたちは清さを追い求めなければなりません。」

 世の汚れに染まらず自らを清く保つとても大切な方法のひとつは、安息日に主と交わした聖約を新たにし、自らの罪を清め、豊かなみたまを得られる教会の聖餐会に出席することです。

 聖霊は、人を聖め、導き、主に近づける非常に大きな助けを与えて下さる御方です。

「神を見る」ことの究極の意味は、「神を知る」ことです。それはすなわち、永遠の生命と同義です。主も次のように語っています。

「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ17章3節)

 自らの心を聖め、主を真に知ることが出来るよう努め励むことは、私たちの最も重要な課題です。自らの心を清め、さらに聖めるという課題は、人知れず行われる自分自身との戦いです。簡単ではありませんが、是非とも勝利しなければならない大切なチャレンジです。どうしたらいいのでしょうか?

 以前に友人から自らの心を聖めるための「悪魔撃退法(あくまげきたいほう)」なるものを教えて頂きました。

 みんなにかなりウケたので、お父さんも自分なりの撃退法を考えてみんなに紹介しましたね。

 自分では最高だと思ったのですが、みんなのウケがあまり良くありませんでした。みんなにとっては単なる「おやじギャグ」にしか過ぎず、口に出す際の言葉のリズム感も今イチだったのかも知れません。

 そこで「家庭の夕べ」の時に、サタンの誘惑を退け、心を聖める方法をみんなで知恵を絞って話し合い、練りに練ったリニューアル版「新悪魔撃退法」を作成しました。

「完全におやじギャグの延長だ!」などと野次も飛んできそうですが、わが家ではことある度に復唱することにしています。

 しっかりと心に染み込ませ、実際に何度も実践して自分のものにできるまで努力するならば、サタンの誘惑を完全に退け、自らの心を聖めることができるでしょう。そして御父と御子にまみえる準備ができること請け合います。お互いに頑張りましょう!(おやじより)

 1.「新」:信仰堅固に主に倣う。
 2.「あ」:愛ある言葉と行い示す。
 3.「く」:くじけずに、悔い改めて日々変わる。
 4.「ま」:負けずに、怠けず、やり通す。
 5.「げ」:元気で笑顔を絶やさない。
 6.「き」:希望を保って、教会集う。
 7.「た」:互いに赦し、助け合う。
 8.「い」:いつでも祈り、主に頼る。
 9.「ほ」:本気で聖典研究する。
 10.「う」:うそや不平は言いません。

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「てぃんさぐぬ花-父母を敬う親孝行の花」

2014年03月28日 08時05分04秒 | 福音の実践
愛する子供たちへ

 お父さんは、詩人須永博士さんの詩が大好きです。

 須永さんの作品は、つらく悲しい人の痛みを自分の痛みとして感じて励ます温かさと優しさに溢れています。同時に良き事柄に向かって前向きに立ち向かっていく強さを教え、またそれを与えてくれます。そんな須永さんの作品の中でも、私は次の詩が大好きです。

  父ありて我が強さあり
  母ありて我が優しさあり
  父母の姿いつも忘れられず
  いつも我が人生の心の支えなり

        須永博士

 戦前戦中前後の本当に厳しい中を必死に生き抜き、私たちを養い育んでくれた父母には、どれだけ感謝しても感謝し切れません。

 どんな時でも、ありったけの親の情愛を注いで私たちを養い育んでくれた父や母。子供たちの成長と幸福を一心に願い、すべてを捧げてきた両親へのご恩は、一生かけてもお返しできるものではないと感じています。

 ただ、もしも唯一ご恩返しができるすべがあるとするならば、それはささやかながらも幸福な家庭を築き、両親から受けたすべての良きものと愛情を同じように自分の子供たち、ひいては周りの方々に注いでいくことだとも思っております。

 もちろん言うは易く行うは難しですが……。
 特に私のような凡人には本当に大きなチャレンジです。

 沖縄には、人の道を指し示し、良き事柄へと人を誘う珠玉のような黄金言(クガニクトゥバ)と呼ばれるものがあります。先人の深い洞察と知恵に基づいて語られた数々の格言です。

 次の琉歌もその一つです。
         
            ちみさち      うや ゆしぐとぅ ちむ
 「てぃんさぐぬ花や 爪先に染みてぃ 親ぬ諭言や 肝に染みり」

「てぃんさぐぬ花」とはホウセンカのことです。その花びらを指先ですりつぶし、出てきた淡いピンクの汁を爪につけて染めると、その色は決して落ちることがありません。

 そのように、父親や母親の教えを決して消えることのないように心に染め、すなわち心に深く留めて、それを行いなさいという意味の歌です。

 本当にすばらしい教えです。

 聖典にも次のようにあります。

「主なるあなたがたの神を拝して、主があなたがたに授けてくださる地で長く暮らせるように、父と母を敬ってください。」(モルモン書1ニーファイ17章55節)

「『あなたの父と母とを敬え』。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、『そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう』。」(エペソ6章2~3節)

 私たちのことを本当に愛し大切に思ってくれている両親が、その子や孫たちの幸せを願って与える正しい教えや諭しを、真に心に留めて行い、その期待のままに幸せな人生を送ること、もしかしたらそれが物やお金に勝る最も大きな親孝行-ご恩返しかもしれません。

 さらに、聖書には次のように記されています。

「イエスは彼らに言われた、『わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』」(ヨハネ4章34節)

「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」(ヨハネ6章38節)

 私たちを無限の愛で愛し見守っておられる御父へ感謝と愛を示す最も良い方法は、御父の御言葉を心に染め(刻み)、そのみこころを行い、そのわざをなし遂げることです。それこそが、究極の親孝行なのだと思います。(おやじより)

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「おやじの禁煙-息子への無私の愛情」

2014年03月27日 07時48分57秒 | 
 愛する子供たちへ

 30年近く前のことです。お父さんが大学受験へ向けて必死に勉強していた浪人時代のある日、1日2箱のたばこを吸っていた父(おじいちゃん)が、まさに突然きっぱりとそれを止めたのです。

 家族一同はもうびっくり! もちろんみんな一様に大歓迎です。

「父ちゃん、たばこ吸い過ぎると身体によくないよ~。もう止めたら~。」

 日頃から父にそのようにしつこく禁煙を勧めていた私などは、内心

「俺の再三の禁煙攻勢がついに功を奏したぜ!」

と得意満々でした。

 ところが、その私の高慢な高い鼻が完璧にへし折られたのは、それから何年もあと、私が結婚して、最初の息子が生まれた時でした。

 父親になった私に、母が懐かしそうにこう話したのです。

「あなたが浪人の頃、父ちゃんたばこ止めたでしょ。なぜだったかわかる?」

「そりゃあ、父ちゃんの健康を考えて、みんなが執拗に禁煙勧めたからでしょ。」

 すると母は優しく曰く、

「もちろんそれもあるし、父ちゃん自身の健康のためでもあるけれど、一番の理由は、あなたが大学に受かるように願をかけて苦しいニコチン中毒をものともしないで止めたのよ……。
あなたもこれから一児の父親、父ちゃんのあなたに対する愛情をいつも心に留めながら、子育て頑張ってね。もちろん無理はしない自然体で……ね。」

 まさに、大ハンマーで頭を思いっきり殴られたような衝撃を受けました。

 同時に、ニコチンの禁断症状で、いらだつ気持ちを抑えようと必死にあめ玉をしゃぶったり、ガムをかんだり、禁煙パイプのようなものをくわえて気を紛らわそうとする父(おじいちゃん)の姿が思い出され、胸がとても熱くなりました。

 やがてこぼれそうになる涙を母に悟られまいと本当に必死でした。

 親というものは本当にありがたい存在です……。

 それからの約30年間、今に至るまで、私は酒・たばことはきっぱりと縁を絶ちました。

 父から受けたおそらく返すことの出来ない深い愛情と恩に、父のように自分の子供たちの幸福を願い努め励むことによって少しでも報いられるように……。


 さて、驚くほど衝撃的な「父親の愛情」を描く動画を見つけました。感動で魂の奥底まで震え、そしてたくさん泣きました。以下に紹介します。みんなもたくさん泣いて魂の洗濯をしましょう!

<孤児院で育った俺 【ホームレスのおやじ】>


 聖典には次のように記されています。

「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。」(イザヤ49章15~16節)

「『山々が去り、丘が動いても、わたしの慈しみはあなたから去ることなく、わたしの平和の聖約は動くことがない』と、あなたを憐れむ主は言われる。」(モルモン書3ニーファイ22章10節)

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)

 御父は、私たちがどのような状況にあっても文字通り私たちひとりひとりをこよなく愛しておられます。決して私たちを見放すことはしません。すべての子供たちが、一人も欠けることなく、御自身のみ元に帰って来ることを切に願っておられます。そしてひとりひとりに深く心を掛けておられます。あなたは、その御父に深く愛された大切な息子・娘であり、決してひとりではないのです。(おやじより)

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「魂の節-天に真っ直ぐに伸びる竹から学ぶ」

2014年03月26日 09時37分28秒 | 励まし
 愛する子供たちへ

 お父さんは竹が大好きです。

 竹は天に向かって真っ直ぐに伸びます。どんなに強い風にあっても、風に身を任せ、大きくしなりながらもなかなか折れず倒れません。

 木の仲間であるにもかかわらず中身は空っぽ。でも、一見弱々しそうですが、釣り竿として使われていることからも分かるように強さは半端ではありません。 

 同じ太さであれば、その強さは普通の木の枝の比ではありません。

 いわゆる柔らかな強さです。柔和・謙遜な人の強さに似ています。

 いったい、その強さの秘訣はどこにあるのでしょうか。

 色々あると思いますが、お父さんはその強さの鍵のひとつが「竹の節」にあると考えています。

 伸びる度に増えていく竹の節。その節こそがどんなに風に吹かれ曲げられても簡単には折れることのない強さの要であり基となっているのです。

 まさに、人生の苦難を乗り越えるたびに人の魂に深く刻まれ築かれる「不屈の精神」や「自信」、「あきらめず・投げ出さずにやり抜く力」のようなものです。

 お父さんはそれを「魂の節」と呼んでいます。

 世知辛く厳しい今の世の中、でも厳しい毎日の生活の中で、御父の恵みを受けつつその「魂の節」を自らの内に増やせるならば、私たちは竹のように簡単に折れず倒れません。そして、真っ直ぐに力強く天に向かって伸びることができます。

 モルモン書の中で預言者エテルは次のように語っています。

「もし人がわたしのもとに来るならば、わたしは彼らに各々の弱さを示そう。わたしは人を謙遜にするために、人に弱さを与える。わたしの前にへりくだるすべての者に対して、わたしの恵みは十分である。もし彼らがわたしの前にへりくだり、わたしを信じるならば、そのとき、わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。」(エテル12章27節)

 新約聖書の中でもパウロは次のように語っています。

「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(1コリント10章13節)

 この世で私たちが直面するあらゆる困難や試練、そして自らの内なる弱さは、私たちを決してつまずかせるものではなく、それらに耐える力と逃れる道を備えなおかつ強さを与えて下さる御父の御旨に柔和・謙遜に従う中で、自らの内に「魂の節」を作る助けとなり、実際に乗り越える能力を増し加える助けとなるものです。そして私たちを御父に近づかせてくれます。

 さらに、モルモン書の中でリーハイが息子ヤコブに語ったように、御父の豊かな恵みに与れるように助けてくれるのです。

「さて、ヤコブよ、わたしはあなたに告げる。あなたは、わたしが荒れ野で艱難に遭っていたときに最初に生まれた子である。見よ、あなたは、幼いとき、あなたの兄たちが乱暴なためにひどい苦難を味わい、つらい思いをした。しかしながら、荒れ野で最初に生まれたわたしの子ヤコブよ、あなたは神の偉大さを知っている。神はあなたの苦難を聖別して、あなたの益としてくださる。」(2ニーファイ2章2~3節)

 お父さんは、難しい問題や壁にぶつかるとき次のように考えることにしています。

「『竹の節』のように、『魂の節』を作るチャンスがやって来た……!」(おやじより)



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「有田焼-陶器師(匠)の心と技の結晶」

2014年03月25日 00時00分07秒 | 伝道
愛する子供たちへ

 先週の月曜日から火曜日にかけて、会社の出張で佐賀県の有田町へ出かけました。今年の夏に予定されているアメリカや韓国、グァムの職員を招待して開催される職員会議の準備のための視察と調整が目的です。1週間続く会議の中で、外国から来られる職員の皆さんに1日だけ有田焼の陶磁器作りに挑戦して頂く予定です。その中で、日本の伝統文化に親しみ、相互理解と友好を深めてもらおうと計画を進めています。

 重要無形文化財十四代目酒井田柿右衛門さんの窯、展示場・参考館および倉島泰山窯等を訪問し、匠の技を堪能しました。その道を極めた匠の手になる作品に感動、感動、感動の連続でした。

 倉島泰山窯では、窯主の前田忍さんが親切にも作業場内を案内して下さり、作品の作成工程を詳しく丁寧に説明して下さいました。                       倉島泰山窯の前田忍さん

 単なる土が、匠の手により均整の取れた美しい形に整えられ、心を魅了する色鮮やかな絵柄が描かれる中、新たな命を吹き込まれたすばらしい芸術作品へと生まれ変わっていきます。作品が窯から出される時は、まさに感動の瞬間です。しかし、それ以上に、前田さんの私たちをもてなす温かな心遣いと真心込めて質問に答える誠実さや優しさに感動を覚えました。そのような美しい心や人柄が、ひとつひとつの作品ににじみ出て、見る者の心を動かすのだと感じました。
 

 それぞれの作品には、人の心を掴み、感動させるすばらしい魅力が秘められています。それは作品を作る匠の人間そのものの魅力でもあり、努力の顕現でもあります。そういう意味で、すばらしい作品のひとつひとつは、陶器師(匠)のまさに「心と技の結晶」です。

 聖書のイザヤ書には次のように記されています。

「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。」(イザヤ18章6節)

「主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。」(イザヤ64章8節)

 私たちは皆、私たちを無限の愛で見守り、養い育んで下さる「永遠の陶器師」-御父の御手になるわざです。私たちの魂を練り上げ、高みへと押し上げて下さる御父の教えを熱心に学び、その真理に基づいた教えを心から愛して御旨を実践する時、その御手に使われる器、すなわち人々をキリストのみもとへ導く器となることができると確信しています。そうあれるよう心から努めたいものです。(おやじより)

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<有田焼>     〒844-0017
「倉島 泰山窯」   佐賀県西松浦郡有田町戸杓丙736
窯主:前田忍さん  TEL:0955-42-3556(代表) FAX:0955-42-5176


「無限の可能性を秘めた鉄-超純鉄」

2014年03月24日 04時23分12秒 | 福音の実践
 愛する子供たちへ

 みんなは「純鉄」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?

「純鉄」とは錆の原因になる硫黄やマンガンをはじめ炭素や窒素、酸素などの不純物が0.5%未満すなわち純度99.5%以上の鉄のことをいうそうです。おもしろいことにこの「純鉄」は錆びにくいのです。

 インドのニューデリー市郊外のクトゥプ・ミナールと呼ばれている寺院の中庭には、紀元415年に建てられたと伝えられる高さ7.5メートル、重さ6トンの鉄の柱があります。驚くなかれ、その柱は15世紀もの間ほとんど錆びずに屋外に立っているそうです。

 この柱は純鉄製と言われていて、誰がどのような技術でこのような鉄を精錬し、大きな柱を造って建てたかは解明されていません。世界の七不思議の中に数えられています。そしてこの鉄柱の純度は99.72%ということです。

 さらに最近、不純物を完全に取除く純鉄の研究が進み、99.9999%の純鉄を造る技術が開発されました。この技術により造られた純鉄の化学的な性質は、私たちの鉄に対する常識を完全に覆すほどの特殊なものです。以下の通りです。

 1.白金のように輝き、大気中に1年以上放置しても錆びない。
 2.0.001モル濃度の食塩水に2時間浸した時、99.995%の鉄では錆びるが、99.999%の純鉄では錆びない。
 3.塩酸や硫酸にも溶けず、王水のみに少しずつ溶ける。
 4.非常に柔らかく、延性、展性にも優れ、加工性が高い。
 5.他の物質との合金による、新素材の可能性が非常に高く、無限の可能性を秘めている。

「鉄は強いが、錆びやすく酸にもろくも溶けてしまう」というのがこれまでの常識です。しかしながら、超純度の鉄すなわち本来の鉄は決してそうではないのです。

 私たち人間も、それぞれに沢山の弱さや欠点、弱点を身に負っています。消極的な思いで心が曇り、ふさわしくない行いで気持ちがふさぐこともあるでしょう。しかしながら、主の目に適わないすべての不純物を取り除くよう努め励み続けるならば、単なる「鉄」のような凡人の私たちでも、上記のような「超純鉄」の特殊な性質に比肩し得るすばらしい特質を手にし、まさに無限の可能性を引き出せるようになると確信しています。

 モルモン書の中で、モロナイは次のように語っています。

「まことに、キリストのもとに来て、キリストによって完全になりなさい。神の御心に添わないものをすべて拒みなさい。もしあなたがたが神の御心に添わないものをすべて拒み、勢力と思いと力を尽くして神を愛するならば、神の恵みはあなたがたに十分であり、あなたがたは神の恵みにより、キリストによって完全になることができる。」(モロナイ書10章32節)

 モロナイの言葉は、私たちの内にある、神の御心に添わないすべての不純物・不信仰を一掃できるならば、人は純鉄のように内に秘められた恐ろしいほどの可能性を引き出し、伸ばし、開花させることができるという大きな希望を与えてくれます。

 純鉄のような自分になろうと努め励む時、私たちは以下のような徳質を自らの内に持てるようになることでしょう。

 1.白金のように喜びで顔を輝かせ、
 2.心の錆びすなわち心の衰えを少しも覚えることなくすべての事柄に積極果敢に取り組めるようになり、
 3.どのような艱難や苦難、試練にもくじけずに乗り越えて、
 4.主の御手に柔和謙遜に使われる器、練達した働き人として大いなる業を行えるようになり、
 5.文字通り、全能の神の息子娘として無限の可能性を引き出し、自他ともに祝福できるようになる。

 そして主を真に知るようになり、人生における真の成功と幸福、そして永遠の生命を得られるようになるのだと確信しています。

 みんなは、この純鉄と同じように、自らがあの全能の神の息子や娘であり、その内に無限の可能性を秘めた存在であること、あらゆる事柄を知り、あらゆる奇跡を行い、不可能を可能に変えることの出来る御方の文字通りの子供であることを本当に信じていますか?

 私たちも主の助けを受け、それが主の御心であるなら、どのような不可能と思われる事柄でも可能に変える力を内に秘めていることを、そして信仰によってそれを現実のものとすることが出来ることを本当に信じていますか?

 信じていると思います。お父さんもそのような確信をさらに深め、文字通り主の豊かな恵みに与れるよう心から努め励みたいと願っています。(おやじより)

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「キリストを信じる信仰-行動と力の原則」

2014年03月23日 00時10分04秒 | 信仰の祈り
愛する子供たちへ

 一昨日、教会機関誌「リアホナ」から、キリストを信じる信仰の力のすばらしさを実感する短い記事を読みました。ドミニカ共和国ラ・ベガステーク,コトゥイ第1支部の会員、ルイス・アリエル・ホセ兄弟のお話です。
 彼は17歳のころ伝道に出る準備をしていましたが、当時していた仕事は時々日曜にも働かなければならないことがありました。ある聖餐会で、支部長が安息日を神聖に保つことによる祝福について話しました。彼は導きを求めて神に祈りました。1週間後、仕事を辞める決心をしました。天の御父の祝福を受けたかったのです。数日すると、それまでの倍の収入が得られる仕事の話を持ちかけられました。しかも日曜日に働かなくてよいのです。

 そのとき彼は、安息日を神聖に保つことの重要性、そしてすべての律法にはそれに従うことによって得られる祝福があることを理解しました(教義と聖約130:21参照)。■(「リアホナ」2005年3月号 p.47)

 もちろん、強い信仰を持って祈ったとしても、すべてをご存知であり、私たちにとって最善の祝福が何かを知っておられる御父は、その祈りを聞き届けるに当たり多くの時間をかけられることがあるのも事実です。しかしながら、キリストを信じる信仰には御父の恵みと祝福を引き寄せる大きな力があります。

 この記事を読みながら、お父さんが、大学を2年間休学して、大阪や和歌山でボランティアの専任宣教師として伝道活動に携わった時の懐かしく心高められる経験を思い起こしました。

 当時お父さんが福音を教えていた一人の青年は、若いにも関わらず、柔和・謙遜で、誰からも愛される奉仕の精神溢れる好青年でした。バプテスマを受けるに全く問題のない本当によく備えられた求道者です。唯一バプテスマに至らない理由は、安息日に仕事を休めないことでした。

 準備していたすべてのレッスンを数ヶ月間に亘って教えました。熱心に学び、教えを心から実践する彼が、十分な信仰を持ち、証を得ていることを確認した私と同僚は、彼にバプテスマを受けるよう促し、そのために安息日を聖く過ごせるよう会社の社長さんに相談するようお願いしました。

 彼は、難しそうな顔をしながら目を閉じてしばらく考え込んでいました。そしておもむろに目を開け、「わかりました。社長にかけ合ってきます」そうきっぱり答えたのです。私たちは本当に喜びました。そして、社長さんが心和らげて下さるよう一生懸命祈りました。

 2、3日後、その青年から電話がありました。受話器の向こうで「来週の日曜日、私はバプテスマを受けたいと思います」彼はそう言いました。私と同僚は、天にも昇る思いでした。「それじゃ~、社長さんは安息日に仕事を休む許可を下さったのですね」と言葉をかけると、彼は次のように言ったのです。「いいえ、仕事を辞めてきました。この回復された福音が真実であるとはっきりわかりました。私はバプテスマを受けて、主の教会に加わりたいのです。」

 私と同僚は、大いに驚き、頭を大ハンマーで殴られたような衝撃を受けました。そして叫ぶように言いました。「兄弟、私たちは仕事を辞めるようにとは言いませんでした。安息日に教会に来れるように、社長さんに相談して下さいとお願いしたのです。この小さな田辺の町で、今の仕事以上に良い条件で働く職場を探すのは、不可能と言わないまでも、非常に困難です。」

 私の頭の中には、彼の両親の教会に対する非常に厳しい対応が絵に描いたようにはっきり思い浮かび、頭を抱えてしました。今からでも辞職を撤回し、安息日に休めるようにと社長に相談するよう強く勧めました。ところが、彼は頭を横に振り、この辞職が、社長との長い話し合いの末の結論であることを告げました。私の顔から血の気がなくなりました。今思えば、もちろん今もそうですが、私の信仰はとても未熟だったのだと思います。

 決意の変わらない彼は、宣言通り次の日曜日に田辺の海岸でバプテスマを受けました。同僚と共に断食し、必死に祈り続けました。もちろんそれが主の御心であることは理解していましたが、喜びと不安の入り交じった複雑な心境でした。

 バプテスマから2日後の火曜日、彼から電話がありました。彼は興奮した様子で次のように語りました。
「長老たち、主が約束して下さった通り仕事が見つかりました!!待遇は前の仕事よりもはるかにいいです!!神様はたしかに生きておられます!!そして私を見放されませんでした!!本当に感謝しています!!」

 私たちは、感動で言葉を失いました。そして溢れる涙も抑えることができませんでした。

 人々に福音を伝え、教えるために伝道に出ましたが、かえって福音を教えられました。イエス・キリストへの信仰がいかなるものか教えて頂いたのです。そのことを御父に心から感謝しています。信仰は、確かに行動と力の原則です。

 小冊子「真理を守る」の中に、主イエス・キリストに対する信仰について、以下のように説明されています。改めて、その重要性について認識を新たにしました。


「主イエス・キリストを信じる信仰」

<信 仰>

 使徒パウロは「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と教えています(ヘブル11:1)。アルマも同じようなことを言っています。「もし信仰があれば、あなたがたはまだ見ていない真実のことを待ち望むのである。」(アルマ32:21)

 信仰は行動と力の原則です。人はいつでも価値ある目標に向かって努力するときには信仰を行使します。まだ目で見ることのできない物事に対する望みを表すのです。

<主イエス・キリストに対する信仰>

 あなたを救いへと導く信仰は、主イエス・キリストを中心に置くものでなければなりません(使徒4:10-12;モーサヤ3:17;モロナイ7:24-26;信仰箇条1:4参照)。主が実在の御方だということに対する確信、主の属性に関する正しい理解、自分は主の御心に添った生活を送ろうと努力しているという知識があるときに、キリストに対する信仰を行使することができます。

 イエス・キリストに信仰を持つとは、イエス・キリストを完全に頼る、その無限の力、英知、愛に信頼を置くということを意味します。その中にはイエス・キリストの教えを信じるということも含まれます。また自分にはすべてのことが理解できなくても、イエス・キリストは理解されていると信じることを意味します。イエス・キリストはあなたの痛み、悲しみ、弱さをすべて経験しておられ、あなたが日々の困難な状況から立ち上がるのを、どのように助ければよいのかも御存じだということを覚えておいてください(アルマ7:11-12;教義と聖約122:8参照)。イエス・キリストは「すでに世に勝って」いて(ヨハネ16:33)、あなたが永遠の命を得られるように道を準備しておられます。「あらゆる思いの中でわたしを仰ぎ見なさい。疑ってはならない。恐れてはならない」という主の嘆願を(教義と聖約6:36)あなたが忘れないなら、主はいつでも必ずあなたを助けてくださいます。

<信仰によって生きる>

 信仰は行動の伴わない信念をはるかに超えるものです。自分に信仰があるかどうかは自分の行動、生き方を通して表します。

 救い主は次のように約束されました。「あなたがたはわたしを信じるならば、わたしの心にかなうことを何事でも行う力を持つであろう。」(モロナイ7:33)人はイエス・キリストに対する信仰が動機となってイエス・キリストの完全な模範に従いたいと思うようになります(ヨハネ14:12参照)。信仰によって人は善い行いをします。戒めを守り、自分の犯した罪を悔い改めます(ヤコブの手紙2:18;1ニーファイ3:7;アルマ34:17参照)。信仰の助けを借りて人は誘惑に打ち勝つことができます。アルマは息子のヒラマンに次のような助言を与えています。「主イエス・キリストを信じる信仰をもって、悪魔のあらゆる誘惑に立ち向かうように教えなさい。」(アルマ37:33)

 主はあなたの信仰に応じて、あなたの人生に大きな奇跡を起こしてくださいます(2ニーファイ26:13参照)。イエス・キリストに対する信仰は、主の贖いを通して霊的、肉体的な癒しを受けるうえで助けとなります(3ニーファイ9:13-14参照)。試練に見舞われたときに、人は信仰によって力を与えられ、その結果、前進し、苦難に勇気をもって立ち向かうことができるようになります。未来が不確かなときですら、救い主への信仰によって平安を得ることができます(ローマ5:1;ヒラマン5:47参照)。

<信仰を強める>

 信仰は神からの賜物ですが、強い信仰を持ち続けるためには信仰を養い育てていかなければなりません。信仰は腕の筋肉のようなものです。腕は使えば強くなりますが、三角巾で固定し、そのまま放置しておくと弱くなってしまいます。

 信仰の賜物はイエス・キリストの御名により天の御父に祈ることによって養い育てることができます。御父に感謝の気持ちを述べ、自分とほかの人々が必要としている祝福を願い求めるときに、御父に近づくことができます。憐れみを願い求めることができるように罪を贖ってくださった救い主に近づくことができます(アルマ33:11参照)。さらには聖霊の静かな導きを感じることができるようになります。

 戒めを守ることによって信仰を強めることができます。神のあらゆる祝福と同様に、信仰は一人一人が従順で義にかなった行いをすることにより手にし、さらに強めていくことができるものです。信仰を可能なかぎり最高のレベルにまで高めたいと望むならば、主と交わした聖約を守らなければなりません。

 聖文と末日の預言者の言葉を研究することによって信仰をはぐくむこともできます。預言者アルマは神の言葉によって信仰を強めることができると教えました。アルマは御言葉を種にたとえ、「信じようとする望み」を持つならば、あなたは「心の中に場所を設けて」御言葉を「そこに植える」ことができるようになると語っています。そうすればあなたは御言葉を良いものだと感じるでしょう。なぜならそれはあなたの心を広げ、あなたの理解力に光を注ぎ始めるからです。それはあなたの信仰を強めます。「非常な熱意と、忍耐を〔もって〕その実を期待しながら」あなたが心の中で絶えず御言葉に養いを与えるならば、「それは根付くで〔しょ〕う。そして…… 、それは生長して永遠の命をもたらす木になるで〔しょ〕う。」(アルマ32:26-43参照)

 その他の参照聖句――ヘブル11章;ヤコブの手紙1:5-6;2:14-26;エテル12:4-27;モロナイ7:20-48;教義と聖約63:7-11;90:24

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「パパの時給-心洗う幼子の純粋な愛」

2014年03月22日 00時04分50秒 | 
 愛する子供たちへ

 今日は、沖縄に住んでいた時の温かい思い出とお父さんが最近感動した1本の動画を紹介します。幼子の純真さや純粋な愛が人の心を洗うすばらしいお話しです。まずは沖縄での温かい思い出から……。

 ある日、三人の孫を預かったオバーが、ひとりの乳飲み子をだっこしています。

 3歳になるお姉ちゃんは、オバーを弟にとられたと思って自分もだっこしてくれるようにオバーにせがんでいます。ところが、二人を同時に抱きかかえられないオバーは困ってしまいました。

しばらくその様子を見ていた5歳のお兄ちゃんが、だだをこねるその妹を顔を真っ赤にしながらだっこしてあげたのです。

 妹は初めは不服そうにしていましたが、そのうちお兄ちゃんの首に腕を回し、ほっぺたをお兄ちゃんのほっぺたにくっつけて静かになりました。

 見ていた私自身も心を本当に強く動かされました。

 幼子の、親の求めに素直に従う純真さ、身内の気持ちを察して行動する純粋な優しさには、見る者の心を洗う大きな力があります。

 その時オバーが感じた気持ちは、私が感じた気持ち以上のものだったに違いありません。体の中のすべてが再新されるような、とても温かで、本当に誇らしい気持ちです。そしてそれは確かに、オバーの身も心も若返らせるまさに長寿の薬なのだと思いました。

「乳子も抱き 抱っこねだられ よわるオバー 面染め妹負う 吾孫誇らし」

 さて、次はこの5歳のお兄ちゃんを彷彿とさせるような、温かい気持ちを感じさせる動画です。感動で心が震えました。みんなにも分かち合いたいと思います。タイトルは、「パパの時給」です。

<「パパの時給」>


 幼子たちは、まさに天使です。その心の純真さゆえに、またその純粋な愛ゆえに、私たちの心を洗い清めるために御父が私たちに贈られた天よりの賜物です。聖書にも次のように記されています。

「そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。するとイエスは言われた、『幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である』。」(マタイ19章13~14節)

「また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。」(マタイ18章5節)

 このような幼子の持つ純真な心、純粋な愛の徳質を私たちも得て、いつも保てるように努め励みたいものです。(おやじより)

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