「愛する子供たちへ」-心の糧メッセージ

クリスチャンとして歩む未熟な父親が、自らの子供たちの幸福を願い、その信仰と霊性を養い育むべく記す「心の糧メッセージ」!

「キリストにあって完全になる」

2014年07月04日 22時41分51秒 | 生ける預言者・使徒の教え
愛する子供たちへ

 今日は、福音の教えの中で、主の贖いの恵みに真に頼りつつ、自他共に喜びを得るための大切な原則を教えるジェリット・W・ゴング長老のお話しを紹介します。とても長いのですが、本当にすばらしい示唆を与えてくれるお話しです。タイトルは「キリストにあって完全になる」です。

「キリストにあって完全になる」

ジェリット・W・ゴング長老

 わたしたちは子供たちと一緒に、「主イエスの愛、いつも心に」と歌います。1

 惜しみなく与えられる救い主の贖いの愛は、「金を出さず、代価を払わないで」与えられる「乳と蜜」に似ています。(2ニーファイ26:25)無限にして永遠の贖罪(アルマ34:10参照)は、「キリストのもとに来て、キリストによって完全になりなさい」と、わたしたちを招いています。(モロナイ10:32)

 惜しみなく与えられる救い主の贖いの愛を理解すれば、わたしたちは、完全とは何かということについて自らに課した、正しくない、非現実的な期待を抱かなくなります。この愛について理解していれば、自分は不完全であるという恐れ、すなわち、間違いを犯すという恐れや、力不足であるという恐れ、他の人以上に失敗するという恐れ、主の愛を受けるに値するほどのことを行っていないという恐れを抱くことがなくなります。

 惜しみなく与えられる救い主の贖いの愛は、わたしたちがもっと寛大になり、他の人々や自分自身を裁くことがもっと少なくなるのに役立ちます。

 この愛は人々との関係を修復し、また愛し、理解し、救い主が望まれるように仕える機会をわたしたちに与えてくれます。

 救い主の贖いの愛は、完全についてのわたしたちの概念を変えます。わたしたちは主に頼り、主の戒めを熱心に守り、信仰を持ち続けることができます。(モーサヤ4:6 参照)さらにまた、より一層謙遜な思いを抱き、感謝の念を抱き、主の功徳と憐れみと恵みに頼る気持ちを感じます。(2ニーファイ2:8参照)

 もっと広い意味で、キリストのもとに来て、キリストによって完全になるとは、わたしたちの霊と体の永遠の旅路、要するに、わたしたち自身の永遠の旅路の範囲内で完全になるということです。(教義と聖約88:15 参照)完全になることは、現世の生活、死、復活による旅路を経験する結果として得られるものです。そして、復活すると、全てのものが「本来の完全な造り」に回復されます。(アルマ40:23)また完全になることには、わたしたちの心と気質に「大きな変化」をもたらす霊的な誕生の過程が含まれます。(モーサヤ5:2)それは、キリストのような奉仕を行い、救い主の戒めと自分の交わした聖約に従うことにより、生涯にわたって精錬され続けることを表しています。またそれは、生者と死者の間の完全な関係を認めることでもあります。(教義と聖約128:18 参照)

 しかし、完全という言葉は、決して間違いを犯さないという意味であると誤解されることが時折あります。恐らく皆さんや皆さんが知っている人は、このような点で完全であろうと熱心に努めていることでしょう。しかし、このような完全にはいつまでも手が届かないように思われます。したがって、最善の努力を払っても、心配や落胆、疲労が残ることになります。自分の状況や周囲の人々をコントロールしようとしてもうまくいきません。自分の弱さと間違いについて思い悩みます。実際、一生懸命に努力すればするほど、求めている完全から遠いと感じるかもしれません。

 以下の事柄において、わたしはイエス・キリストの贖罪の教義と、救い主が惜しみなく与えてくださる愛と憐れみに、深く感謝するように努めています。わたしは皆さんに勧めます。自分自身と他の人々の助けになる贖罪の教義について理解していることを実践してください。他の人々とは、宣教師、学生、ヤングシングルアダルト、父親、母親、ひとり親の家長、また、完全だと感じることや完全になることにプレッシャーを感じることがある人々を指します。

<イエス・キリストの贖罪>

 救い主の贖罪は世の初めから備えられており、(モーサヤ4:6-7参照)その贖罪のおかげで、わたしたちは学び、悔い改めることができ、自分自身の経験と選択によって成長することができるのです。

 この死すべき試しの生涯においては、徐々に「教えに教え」(教義と聖約98:12)を加えられる霊的な成長と、劇的に心の中に「大きな変化」(アルマ5:12 、13;モーサヤ5:2)をもたらす霊的な経験があり、その両方が、キリストのもとに来て、キリストによって完全になるうえで助けとなります。よく知られている「最後まで堪え忍ぶ」という言葉は、永遠の成長にはしばしば時間と過程の両方が含まれるということをわたしたちに思い起こさせてくれます。

 モルモン書の最後の章で、偉大な預言者モロナイは、キリストのもとに来て、キリストによって完全になる方法をわたしたちに教えています。わたしたちは「神の御心に添わないものをすべて拒み」ます。「勢力と思いと力を尽くして神を愛」します。そうすれば、神の恵みはわたしたちに十分であり、わたしたちは「神の恵みにより、キリストによって完全になることが」できるのです。神の力を「否定しなければ」、わたしたちは「神の恵みによりキリストによって聖め」られます。それはわたしたちの「罪の赦しのために御父が聖約されたことによるものであり」、それによってわたしたちは「染みのない清い者となる」ことができるのです。(モロナイ10:32 、33)

 結局のところ、「正義に打ち勝ち、また人々が悔い改めを生じる信仰を持てるようにするその道を設ける」憐れみをもたらすのは、救い主の「大いなる最後の犠牲」です。(アルマ34:14 、15)実際、わたしたちの「悔い改めを生じる信仰」は、わたしたちがキリストのもとに来て、キリストによって完全になり、「偉大な永遠の贖いの計画」のもたらす祝福を享受するために不可欠です。(アルマ34:16)

 救い主の贖罪を十分に受け入れると、わたしたちの信仰は増します。また、完全になる必要がある、あるいは物事を完全に行う必要があるという強いられる気持ちを断ち切る勇気が与えられます。黒か白かという発想は、「全ては絶対的に完全か絶望的に不完全かのいずれかである」という考え方です。しかし、わたしたちは、まだ進歩の途上にあるとはいえ、神の最も大いなる手の業であるということを(詩篇8:3-6;ヘブル2:7参照)、神の息子娘として感謝の念をもって受け入れることができます。

 わたしたちは惜しみなく与えられる救い主の贖いの愛を理解するとき、救い主は厳しい、あら探しをされる裁き主ではないかという心配をしなくなります。むしろ、次のような気持ちを抱きます。「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」(ヨハネ3:17) また、わたしたちは、成長するために時間と過程が必要であることを理解します。(モーセ7:21参照)

<わたしたちの完全な模範>

 完全な生涯を送られたのは救い主だけです。また救い主でさえ、死すべき世の経験によって学び、成長されました。実際、救い主は、「最初から完全は受けず、恵みに恵みを受け続け、ついに完全を受けられた」のです。(教義と聖約93:13)

 救い主は、「御自分の民を……どのように救うかを肉において知ることができるように、〔わたしたちの〕弱さを御自分に受けられ」、死すべき世の経験を通して学ばれました。(アルマ7:12)救い主は誘惑や罪、日々の圧力に屈することはありませんでしたが、死すべき世の全ての試練と問題の下に身を落とされました。(教義と聖約122:8参照)

 山上の垂訓の中で、救い主はわたしたちに「あなたがたも完全な者となりなさい」と命じておられます。(マタイ5:48)完全を指すギリシャ語には、「完成する、成し遂げる、十分に発達する」という意味があります。救い主はわたしたちに、完成し、成し遂げ、十分に進歩すること、すなわち、救い主と天の御父が完全な模範を示しておられる徳と特質において完全であることを求めておられるのです。2

 完全だと感じること、あるいは完全になることが必要であると思っている人々にとって、贖罪の教義を応用することは、どのように助けとなるかを見てみましょう。

<完全主義>

 完全であることの意味を誤解していると、完全主義になります。完全主義とは、善い人でありたいという称賛に値する望みを持ち、それを今完全でありたいという非現実的な期待に変える、態度や振る舞いです。完全主義は時折、完全である人々だけが愛されるにふさわしい、あるいは完全でない限り幸せに値しないという気持ちから生じるものです。

 完全主義は、不眠症、心配、引き延ばし、落胆、自己正当化、絶望の原因となることがあります。これらの気持ちは、平安や喜び、またわたしたちが持つように救い主が望んでおられる確信を締め出すことがあります。

 今完全であることを望んでいる宣教師たちは、伝道部の言語を学ぶことや、人々がバプテスマを受ける姿を見ること、あるいは伝道部で指導者の割り当てを受けることがすぐに達成できない場合、いらいらしたり、落胆したりすることがあります。いつも物事を達成できてきた有能な若い人々にとって、伝道は人生で初めての大きなチャレンジかもしれません。しかし宣教師は、完全でなくても、あらゆる面で従順であることはできます。「聖霊の現れを受ける忠実な教会員となる」ように個人と家族を助けようとする決意によって、主に自分の成功を測ることができるのです。3

 新しい学期が始まる学生たち、特に大学のために家を離れる学生たちは、大きな期待と不安の両方を経験します。奨学生や運動選手、芸術家などは、「小さな池の中の大魚」の状態から、未知の潮の流れと流れの速い予測不可能な海流のある大海の中の小魚に変わったかのごとくに感じるようになります。完全主義的傾向のある学生は、どれほど一生懸命に努力しても全ての点で一番でなければ失敗であると思いやすいものです。

 人生で求められることについて考えるうちに学生たちは、自分ができる全てを行うのが時には実にすばらしいことであって、必ずしも一番になれないことがあるということを学べます。

 わたしたちは、自分の家庭で完全であることを期待されることもあります。父親や母親は、完全な伴侶、親、主婦、稼ぎ手、あるいは完全な末日聖徒の家族の一員であるように強制されていると今感じているかもしれません。

 完全主義的傾向と戦う人々には、何が助けになるでしょうか。形に捕らわれない、相手にとって助けになる質問は、その人を受け入れ、愛しているという気持ちを伝えるのに役立ちます。それは肯定的なことに集中するように他の人々に勧めます。それによってわたしたちは自分がうまくいくと感じている事柄を明確にすることができます。家族と友人は、優劣をつけるための比較を避け、代わりに誠実な励ましを与えることができます。

 完全主義のもう一つの深刻な点は、他の人々をわたしたちの非現実的な、手厳しい、あるいは容赦ない標準に縛りつけることです。実際、そのような振る舞いをすれば、自分の生活に、また他の人々の生活に、救い主の贖罪に伴う祝福が与えられないか、あるいは制限される可能性があります。例えば、ヤングシングルアダルトは、配偶者になる可能性のある人に望む特質のリストを作成できますが、完全な伴侶を求めるという非現実的な期待があるために結婚することができません。

 したがって、ある姉妹は、自分の完全主義の基準に達しない兄弟とは、たとえその人がすばらしい、立派な人であっても、デートしたいと思わないかもしれません。ダンスが上手でない人、裕福になるための計画を立てていない人、宣教師として奉仕しなかった人、あるいは悔い改めとカウンセリングによって解決したもののポルノグラフィーに伴う問題が過去にあった人は、彼女が考える基準に達しない人です。

 同様に、兄弟は、自分の理想とする非現実的な経歴を持たない姉妹とは、たとえその人がすばらしい、立派な人であっても、デートしたいと思わないかもしれません。スポーツファンでなく、扶助協会会長でなく、美人コンテストの優勝者でなく、教養のあるやりくりの上手な人でない人、あるいは今はすでに解決しているものの知恵の言葉に対する弱さが過去にあった人は、彼にとって釣り合わない人なのです。

 もちろん、わたしたちは自分自身に、また、配偶者になる可能性のある人に望む特質を考慮するべきです。わたしたちは最高の希望と標準を維持するべきです。しかし、わたしたちは謙遜であれば、思わぬところに良さがあることに驚くでしょう。そして、わたしたちと同じように完全でない人ともっと親しくなる機会を得ることができます。

 信仰があれば、悔い改めと贖罪の力によって、弱さは強さに変えられ、悔い改めた罪は実際に赦されるということが分かります。

 幸せな結婚生活とは、完全な二人が誓いの言葉を交わした結果としてあるものではありません。むしろ、献身と愛は、不完全な二人がこれから先、互いに築き、祝福し、助け、励まし、赦し合うときに深まるのです。現代のある預言者の妻は、預言者と結婚しているとはどんなものかと尋ねられたことがあります。そのとき、彼女は賢明にも、自分は預言者と結婚したのではなく、どんな召しを受けても教会に十分に献身する人と結婚しただけであると答えました。4 言い換えれば、夫と妻は、時の経過とともに、個人として、また夫婦として一緒に成長するのです。

 完全な伴侶、完全な教育、完全な仕事、あるいは完全な家庭を得るためには、長い時間をかける必要があり、孤独を感じることでしょう。人生の重要な決断を下す際に御霊に従うことは賢明なことです。完全主義の要求から引き起こされる疑いにわたしたちの進歩を妨げさせてはなりません。

 慢性的に重荷や心配を感じる可能性のある人々は、誠実に次のことを自分自身に問うてみてください。「わたしは完全と成功を、救い主の贖いの愛の教義によって定義づけているだろうか。それとも、世の標準によって定義づけているだろうか。わたしは成功や失敗を、わたしの義にかなった望みを確認してくださる聖霊によって測っているだろうか。それとも、何らかの世間の標準によって測っているだろうか。」

 肉体的あるいは情緒的に疲れを感じている人々は、定期的に睡眠と休息を取るようにし、また食事をし、くつろぐ時間を取ってください。多忙であることとふさわしいことは別のことであり、またふさわしくあるために完全である必要はないということを知っておいてください。5

 自分の弱さや欠点に目を向ける傾向のある人々は、うまくいっている事柄に、その大小はどうであれ、感謝するようにしてください。

 失敗を恐れる人々や、引き延ばす人々、すなわち時折準備に時間をかけすぎることのある人々は、大きな成長をもたらす可能性がある、やりがいのある活動から手を引く必要がないという確信と自信を持ってください。

 必要であり適切であれば、霊的な助言か、資格を有する医療者による治療を求めてください。それは、あなたがくつろぎ、自分の人生を肯定的に考えて組み立てる方法を身につけ、自滅的行動を減らし、もっと多くの感謝を経験し表明するうえで助けとなります。6

 短気は信仰を阻害します。信仰と忍耐は、宣教師が新しい言語や文化を理解し、学生が新しい科目を習得し、ヤングシングルアダルトが人々との関係を築き始めるのに助けとなります。全てが完全になるのを待つ必要はありません。また信仰と忍耐は、神殿の結び固めの承認や神権の祝福の回復を待つ人々にとっても助けになります。

 わたしたちは自ら行動し、強いられることがないとき、(2ニーファイ2:14参照)様々な美徳を知ることができ、人生に伴う大きな成長を遂げることができます。これらは「反対のもの」の中に見受けられますし、「混じり合って一つと」なるのです。(2ニーファイ2:11)

 例えば、わたしたちは自分の力以上に速く走らずにいながらも(モーサヤ4:27参照)、怠惰でないようにすることができます。(教義と聖約88:124参照)

 わたしたちは「静まって、わたしこそ神であることを知れ」という言葉を定期的に心に留めながら、(詩篇46:10、教義と聖約101:16も参照)「熱心に善いことに携わ〔る〕」ことができます。(教義と聖約58:27)

 わたしたちは救い主のために自分の命を失うことによって、自分の命を見いだすことができます。(マタイ10:39;16:25参照)

 わたしたちは霊的に、また肉体的に元気を取り戻す時間を適切に取るとき、「善を行うことに疲れ果て〔ることがありません。〕」(教義と聖約64:33;ガラテヤ6:9も参照)

 わたしたちは軽率にならず、快活になることができます。

 わたしたちは不遜な笑いではなく、心から笑うことができます。

 救い主とその贖罪は、「キリストのもとに来て、キリストによって完全に〔なる〕」ようにわたしたちに勧めています。わたしたちがそうするとき、神の恵みは「あなたがたに十分であり、あなたがたは神の恵みにより、キリストによって完全になることができる」と、主は約束しておられます。(モロナイ10:32)

 完全だと感じることや今完全になることを気にするあまり、重荷を感じる人々は、惜しみなく与えられる救い主の贖いの愛から、次のことを知ることができます。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28 、30)7 ■

<注>

1.「 救い主の愛」『子供の歌集』42
2.ラッセル・M・ネルソン長老「完成の道」『聖徒の道』1996年1月号、95-98も参照。
3.『わたしの福音を宣べ伝えなさい―伝道活動のガイド』10
4.ラビナ・フィールディング「なお向学心に燃える女性―カミラ・キンボール」『聖徒の道』1976年3月号、158参照。
5.例として、ディーター・F・ウークトドルフ管長「4つの称号」『リアホナ』2013年5月号、58-61参照。ウークトドルフ管長はまた次のように警告しています。「自分の価値はなすべきことの多さで決まると考えている人さえいます。」(「最も大切な事柄について」『リアホナ』2010年11月号、20)
6.この見解は、アジア地域の香港で精神保健アドバイザーを務めているカルロス・F・ワトキンス長老とアレイン・カエ・ワトキンス姉妹から寄せられたものです。この記事のその他の見解は、スーザン・ゴング姉妹、ラリー・Y・ウィルソン長老、リンダ・ウィルソン姉妹、ランディー・D・ファンク長老、アンドレア・ファンク姉妹、ジャネット・S・シャーマン姉妹、ならびにインドネシア・ジャカルタ伝道部の宣教師たちから寄せられたものです。
7.セシル・O・サミュエルソン“What Does It Mean to Be Perfect? ”New Era 、2006年1月号、10-13;ジャネット・S・シャーマン“Seeking Perfection without Being a Perfectionist”も参照。後者は、Virtue and the Abundant Life:Talks from the BYU Religious Education and Wheatley Institution Symposium、ロイド・D・ニューウェルその他編(2012年)280-302で引用。

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