「愛する子供たちへ」-心の糧メッセージ

クリスチャンとして歩む未熟な父親が、自らの子供たちの幸福を願い、その信仰と霊性を養い育むべく記す「心の糧メッセージ」!

「選択の自由に対する神の永遠の聖約と人類に対するイエスの永遠なる完全な愛」

2014年07月10日 16時46分20秒 | 選択の自由
愛する子供たちへ

 主の十二使徒であったニール・A・マックスウェル長老は、聖典を熱心に研究し、福音を忠実に実践する中で得られた「選択の自由」と「主の完全な愛」についての強い確信を次のように語っています。

 イエス・キリストの福音について深く研究すればするほど、私は、選択の自由に対する主の思いが測り知れないほど深いものであり、私たちの想像を絶するものであることがわかってきました。また人生を良く生きてくれば、それだけ、私たちに対するイエスの完全な愛がこの上ないものであることを感じられるようになりました。事実、選択の自由に対する神の永遠の聖約と人類に対するイエスの永遠なる完全な愛との間には相互作用があります。その相互作用が忍耐の美徳の上に高い価値を置くのです。この方法によらずして、真の成長の道はありません。」(ニール・A・マックスウェル長老)

 御父は、私たち一人一人を文字通り御自身の尊い息子・娘として深く深く愛しておられます。

 しかしながら、私たちが永遠に続く真の幸福と喜びを得るために、良きことを行うよう強制されることは決してありません。

 むしろ深い慈愛を持って私たちに真理をお教えになり、その義しい原則(戒め)に従って歩み、それに伴う祝福と喜びを得るよう切に願っておられます。また計り知れない忍耐を持ってそれを促して下さるのです。

 神が創造されたすべてのものは、作用するものと作用されるものに分けられます。(2ニーファイ2:13-14参照)天の御父の息子、娘として、わたしたちには、選択の自由という賜物、つまり個々に行動する能力と力が与えられています。選択の自由は英語ではagency〔エージェンシー〕と呼ばれています。このagencyには、本来「作用」という意味があります。すなわち、選択の自由(agency)を与えられている私たちは、みな作用する者(英語ではagent〔エージェント〕)です。つまり受け身でいるだけではなく、主体性を持つことがまず必要であり、霊的な知識を得て応用するときは特にそうしなければなりません。

 信仰から学ぶことと経験を通して学ぶことは、御父の幸福の計画の中核を成す二つの特色だと言われています。救い主は贖罪によって道徳的な選択の自由を守られ、人が信仰によって行動して学ぶことを可能としてくださいました。御父の計画に逆らったルシフェルは、人の選択の自由を奪うことによって、わたしたちを受け身でしか学べない者にしようとしたのです。

 天の御父がエデンの園でアダムに次のように言われました。「あなたはどこにいるのか。」(創世3:9)御父はアダムに対してなぜそのような質問をなさったのでしょうか。御父はアダムがどこに隠れているのか知っていたはずです。にもかかわらず、そうお尋ねになったのはなぜでしょうか。愛と知恵に満ちた御父は、御父の子供たちがただ受け身で学ぶのではなく、主体性をもって学習できるようにされたのです。御父は、わたしたちの多くがついそうしてしまうような、不従順な子供への一方的な説教はされませんでした。御父は、アダムが主体性をもって行動し、選択の自由を適切に使って学ぶことができるように助けられたのです。

 預言者ジョセフ・スミスも次のように語りました。

「私は人々に義しい原則を教え、自らを治めさせる。」

 御父は、まさに私たちに聖典や預言者の教えの中にある永遠の真理を主体的に学び、選択の自由を正しく行使する中でその永遠の真理によって自らを治め、御父のみ心を実践する中で得られる喜びと成長を得るよう願っておられるのです。イエス・キリストへの真の信仰は神の御心を実践する力を与えます。それは、まさしく行動と力の原則なのです。

 救いに至るイエスキリストの完全な福音の真理を知り、御父や主に対する心からの愛と感謝の念から、自らの選択の自由を正しく行使し、その完全な真理を生涯に亘って実践することは、私たちにとって最も大切な務めであり特権です。それは真の成長と喜びの鍵であり、永遠の生命へ至る真の道です。

 忍耐と信仰をもって日々正しい選びをなし、よりよく生きる中でさらに御父の愛を感じ知ることが出来るよう、また真の喜び平安を得られるよう心から祈っています。

 この地上に住むすべての人は、神から深く愛されている大切な神の息子・娘です。神はすべての息子娘が永遠の完全な幸福を得てほしいと切に望んでおられます。それ故にこの末日の世に黙示者ヨハネに示された永遠の完全な福音と神権をこの地上に回復されました。(黙示14:6~7)すでに亡くなられた先祖の方々も含め、主を受け入れて、その教えに忠実歩むすべての神の息子・娘たちが神のみ元へ戻ることができるよう、必要な完全な真理を私たちに知らせるためです。

 お父さんはすべての人々がこの回復されたイエス・キリストの完全な福音を知り、その真理に基づいた教えに従って永遠の幸いを得てほしいと心から切に願っています。(おやじより)

<福音の回復に関する記事>

1.「初期のイエス・キリストの教会」
2.「回復されたイエス・キリストの教会」
3.「神権と神権の鍵の回復-主の教会を導く神の権能」
4.「モルモン書-イエス・キリストについてのもうひとつの証」

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「今のひとときを大切に精一杯生きる」

2014年07月08日 08時16分08秒 | 奉仕
 含蓄のあるとても素敵な詩を見つけました。

 タイトルは分かりませんが、時間を大切に用い、今のひとときを精一杯生きることの大切さを説いています。


1年の価値を知るには
卒業試験に落ちた学生に 聞いてみなさい

1カ月の価値を知るには
未熟児を産んだお母さんに 聞いてみなさい

1週間の価値を知るには
週刊誌の編集者に 聞いてみなさい

1時間の価値を知るには
会うのが待ちきれない恋人達に 聞いてみなさい

1分の価値を知るには
電車やバス、飛行機に乗り遅れた人に 聞いてみなさい

1秒の価値を知るには
事故で生き残った人に 聞いてみなさい

千分の1秒の価値を知るには
オリンピックで銀メダルを獲った人に 聞いてみなさい

時間は待ってくれません
あなたの持っている全ての時間を大切にしなさい


トーマス・ドライヤーも次のように語っています。

「豊かな未来を作るという信念は、
 豊かな現在を作るという信念を持たない限り、
 大して価値がない。
 今日こそ、
 常にわれわれの最上の日であるべきだ。」

 たとえ「今日」が厳しい苦しい一日であったとしても、ひるまず、なすべき事柄に果敢に取り組み精一杯働くなら、「今日」という日は、振り返ったとき心高められる「昨日」となり、よりよい「明日」を迎える基となります。

 今のひとときを大切に精一杯過ごしましょう。そして、できれば微笑みでもいいですし、優しい言葉でもいいですが、だれかを少し元気にできる何かに少しの時間を使えたら世の中もっと住みよいところになることでしょう。(おやじより)


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「人生の逆境を成長と奇跡を起こす糧とする」

2014年07月06日 06時15分53秒 | 信仰の祈り
愛する子供たちへ

 バビロン捕囚の直前、様々な苦難を経験しながらエルサレムからアメリカ大陸へ移住して行った小さなグループがありました。預言者リーハイに導かれた家族の一団です。

 後にアメリカ原住民-インディアンの祖先の一部ともなった彼らは、神を信じ神を畏れる敬虔なユダヤ人でした。

 彼らが記した天よりの導きの記録すなわち神の啓示の書に、次のような興味深い記述があります。

「もし人がわたしのもとに来るならば、
 わたしは彼らに各々の弱さを示そう。
 わたしは人を謙遜にするために、
 人に弱さを与える。
 わたしの前にへりくだるすべての者に対して、
 わたしの恵みは十分である。
 もし彼らがわたしの前にへりくだり、
 わたしを信じるならば、そのとき、
 わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。」

 (モルモン書エテル12章27節)

 人が神のもとに来る時、神は人にその人が持つ欠点や弱点を示されるが、へりくだり神を信じて最善の努力をする人に恵みを注ぎ、かえってその弱点や欠点を強さに変えられると約束しています。

 物事を常に前向きにとらえるつつ、謙虚に努力する人は、自分の最大の弱点を、最高の財産、最大の力に変える能力を持つようになると私も確信しています。

「見えない」「聞こえない」「話せない」の三重の障碍を負って生まれたヘレンケラー。

 普通の人では到底耐えることが難しい大きなハンディキャップです。

 しかしながら、彼女はその耐え難い試練・ハンディキャップをもはねのけて、歴史的にも大いなる社会貢献を果たしました。

 その彼女が、晩年次のような言葉を残しています。

 自分の弱点をしっかり見つめてその姿を十分に知っておきましょう。でも弱点に支配されてはだめです。弱点から忍耐力と優しい心と物事を見通す力を教わりましょう。本当の教育は知性と美しさと善良さを組み合わせたものです。そしてこのうち一番大切なものは善良さです。私たちができる限りの努力をする時、私たちの人生にどんな奇跡が起こるでしょうか。また他の方々の人生にどんな奇跡が起こるでしょうか。それは誰も分かりません。」

 ヘレンケラーの生涯は、最悪の状況から最善の宝を見い出し得ることを世に示し、どのような苦しい厳しい絶望のどん底にあっても、人は希望の光を見いだして、奇跡を起こすことができる、また人が奇跡を起こせるように助けることができる、そのような強さや優しさ、忍耐力、善良さ、物事を見通す心の目とを共に身につけることができることを証明してくれました。

 彼女はさらに次のように語っています。

「私は、自分の障碍を神に感謝しています。私が自分自身を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障碍を通してだったからです。」

 人が神の前に自らの弱さを認め、へりくだって主の贖いの恵みに頼り、全身全魂を込めて努力する時、文字通りそれを強きに変え、奇跡を起こすことができると私も信じています。そして最大の奇跡は、人の心や人の性質そのものが変わることです。

 預言者エズラ・タフト・ベンソン大管長も次のように語っています。

 この世は貧民窟から人々を連れ出そうとしますが、キリストは人々から悪や汚れた面を取り去り、自分自身で貧民窟から抜け出られるようにします。この世は環境を変えることによって人間を形成しようとしますが、キリストは人間自体を変え、それによって人間が自らの手で環境を変えられるようにします。この世は人の行動を変えようとしますが、キリストは人の性質を変えることができるのです。」(エズラ・タフト・ベンソン「神によって生まれる」『聖徒の道』1986年1月号、6)

 自らの不幸を嘆くことなく、主の贖いの恵み頼り、それを自らや周りの人々の幸せと成長の糧へと変える心を持てるとしたら、どんなにすばらしいことでしょう。(おやじより)

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「キリストにあって完全になる」

2014年07月04日 22時41分51秒 | 生ける預言者・使徒の教え
愛する子供たちへ

 今日は、福音の教えの中で、主の贖いの恵みに真に頼りつつ、自他共に喜びを得るための大切な原則を教えるジェリット・W・ゴング長老のお話しを紹介します。とても長いのですが、本当にすばらしい示唆を与えてくれるお話しです。タイトルは「キリストにあって完全になる」です。

「キリストにあって完全になる」

ジェリット・W・ゴング長老

 わたしたちは子供たちと一緒に、「主イエスの愛、いつも心に」と歌います。1

 惜しみなく与えられる救い主の贖いの愛は、「金を出さず、代価を払わないで」与えられる「乳と蜜」に似ています。(2ニーファイ26:25)無限にして永遠の贖罪(アルマ34:10参照)は、「キリストのもとに来て、キリストによって完全になりなさい」と、わたしたちを招いています。(モロナイ10:32)

 惜しみなく与えられる救い主の贖いの愛を理解すれば、わたしたちは、完全とは何かということについて自らに課した、正しくない、非現実的な期待を抱かなくなります。この愛について理解していれば、自分は不完全であるという恐れ、すなわち、間違いを犯すという恐れや、力不足であるという恐れ、他の人以上に失敗するという恐れ、主の愛を受けるに値するほどのことを行っていないという恐れを抱くことがなくなります。

 惜しみなく与えられる救い主の贖いの愛は、わたしたちがもっと寛大になり、他の人々や自分自身を裁くことがもっと少なくなるのに役立ちます。

 この愛は人々との関係を修復し、また愛し、理解し、救い主が望まれるように仕える機会をわたしたちに与えてくれます。

 救い主の贖いの愛は、完全についてのわたしたちの概念を変えます。わたしたちは主に頼り、主の戒めを熱心に守り、信仰を持ち続けることができます。(モーサヤ4:6 参照)さらにまた、より一層謙遜な思いを抱き、感謝の念を抱き、主の功徳と憐れみと恵みに頼る気持ちを感じます。(2ニーファイ2:8参照)

 もっと広い意味で、キリストのもとに来て、キリストによって完全になるとは、わたしたちの霊と体の永遠の旅路、要するに、わたしたち自身の永遠の旅路の範囲内で完全になるということです。(教義と聖約88:15 参照)完全になることは、現世の生活、死、復活による旅路を経験する結果として得られるものです。そして、復活すると、全てのものが「本来の完全な造り」に回復されます。(アルマ40:23)また完全になることには、わたしたちの心と気質に「大きな変化」をもたらす霊的な誕生の過程が含まれます。(モーサヤ5:2)それは、キリストのような奉仕を行い、救い主の戒めと自分の交わした聖約に従うことにより、生涯にわたって精錬され続けることを表しています。またそれは、生者と死者の間の完全な関係を認めることでもあります。(教義と聖約128:18 参照)

 しかし、完全という言葉は、決して間違いを犯さないという意味であると誤解されることが時折あります。恐らく皆さんや皆さんが知っている人は、このような点で完全であろうと熱心に努めていることでしょう。しかし、このような完全にはいつまでも手が届かないように思われます。したがって、最善の努力を払っても、心配や落胆、疲労が残ることになります。自分の状況や周囲の人々をコントロールしようとしてもうまくいきません。自分の弱さと間違いについて思い悩みます。実際、一生懸命に努力すればするほど、求めている完全から遠いと感じるかもしれません。

 以下の事柄において、わたしはイエス・キリストの贖罪の教義と、救い主が惜しみなく与えてくださる愛と憐れみに、深く感謝するように努めています。わたしは皆さんに勧めます。自分自身と他の人々の助けになる贖罪の教義について理解していることを実践してください。他の人々とは、宣教師、学生、ヤングシングルアダルト、父親、母親、ひとり親の家長、また、完全だと感じることや完全になることにプレッシャーを感じることがある人々を指します。

<イエス・キリストの贖罪>

 救い主の贖罪は世の初めから備えられており、(モーサヤ4:6-7参照)その贖罪のおかげで、わたしたちは学び、悔い改めることができ、自分自身の経験と選択によって成長することができるのです。

 この死すべき試しの生涯においては、徐々に「教えに教え」(教義と聖約98:12)を加えられる霊的な成長と、劇的に心の中に「大きな変化」(アルマ5:12 、13;モーサヤ5:2)をもたらす霊的な経験があり、その両方が、キリストのもとに来て、キリストによって完全になるうえで助けとなります。よく知られている「最後まで堪え忍ぶ」という言葉は、永遠の成長にはしばしば時間と過程の両方が含まれるということをわたしたちに思い起こさせてくれます。

 モルモン書の最後の章で、偉大な預言者モロナイは、キリストのもとに来て、キリストによって完全になる方法をわたしたちに教えています。わたしたちは「神の御心に添わないものをすべて拒み」ます。「勢力と思いと力を尽くして神を愛」します。そうすれば、神の恵みはわたしたちに十分であり、わたしたちは「神の恵みにより、キリストによって完全になることが」できるのです。神の力を「否定しなければ」、わたしたちは「神の恵みによりキリストによって聖め」られます。それはわたしたちの「罪の赦しのために御父が聖約されたことによるものであり」、それによってわたしたちは「染みのない清い者となる」ことができるのです。(モロナイ10:32 、33)

 結局のところ、「正義に打ち勝ち、また人々が悔い改めを生じる信仰を持てるようにするその道を設ける」憐れみをもたらすのは、救い主の「大いなる最後の犠牲」です。(アルマ34:14 、15)実際、わたしたちの「悔い改めを生じる信仰」は、わたしたちがキリストのもとに来て、キリストによって完全になり、「偉大な永遠の贖いの計画」のもたらす祝福を享受するために不可欠です。(アルマ34:16)

 救い主の贖罪を十分に受け入れると、わたしたちの信仰は増します。また、完全になる必要がある、あるいは物事を完全に行う必要があるという強いられる気持ちを断ち切る勇気が与えられます。黒か白かという発想は、「全ては絶対的に完全か絶望的に不完全かのいずれかである」という考え方です。しかし、わたしたちは、まだ進歩の途上にあるとはいえ、神の最も大いなる手の業であるということを(詩篇8:3-6;ヘブル2:7参照)、神の息子娘として感謝の念をもって受け入れることができます。

 わたしたちは惜しみなく与えられる救い主の贖いの愛を理解するとき、救い主は厳しい、あら探しをされる裁き主ではないかという心配をしなくなります。むしろ、次のような気持ちを抱きます。「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」(ヨハネ3:17) また、わたしたちは、成長するために時間と過程が必要であることを理解します。(モーセ7:21参照)

<わたしたちの完全な模範>

 完全な生涯を送られたのは救い主だけです。また救い主でさえ、死すべき世の経験によって学び、成長されました。実際、救い主は、「最初から完全は受けず、恵みに恵みを受け続け、ついに完全を受けられた」のです。(教義と聖約93:13)

 救い主は、「御自分の民を……どのように救うかを肉において知ることができるように、〔わたしたちの〕弱さを御自分に受けられ」、死すべき世の経験を通して学ばれました。(アルマ7:12)救い主は誘惑や罪、日々の圧力に屈することはありませんでしたが、死すべき世の全ての試練と問題の下に身を落とされました。(教義と聖約122:8参照)

 山上の垂訓の中で、救い主はわたしたちに「あなたがたも完全な者となりなさい」と命じておられます。(マタイ5:48)完全を指すギリシャ語には、「完成する、成し遂げる、十分に発達する」という意味があります。救い主はわたしたちに、完成し、成し遂げ、十分に進歩すること、すなわち、救い主と天の御父が完全な模範を示しておられる徳と特質において完全であることを求めておられるのです。2

 完全だと感じること、あるいは完全になることが必要であると思っている人々にとって、贖罪の教義を応用することは、どのように助けとなるかを見てみましょう。

<完全主義>

 完全であることの意味を誤解していると、完全主義になります。完全主義とは、善い人でありたいという称賛に値する望みを持ち、それを今完全でありたいという非現実的な期待に変える、態度や振る舞いです。完全主義は時折、完全である人々だけが愛されるにふさわしい、あるいは完全でない限り幸せに値しないという気持ちから生じるものです。

 完全主義は、不眠症、心配、引き延ばし、落胆、自己正当化、絶望の原因となることがあります。これらの気持ちは、平安や喜び、またわたしたちが持つように救い主が望んでおられる確信を締め出すことがあります。

 今完全であることを望んでいる宣教師たちは、伝道部の言語を学ぶことや、人々がバプテスマを受ける姿を見ること、あるいは伝道部で指導者の割り当てを受けることがすぐに達成できない場合、いらいらしたり、落胆したりすることがあります。いつも物事を達成できてきた有能な若い人々にとって、伝道は人生で初めての大きなチャレンジかもしれません。しかし宣教師は、完全でなくても、あらゆる面で従順であることはできます。「聖霊の現れを受ける忠実な教会員となる」ように個人と家族を助けようとする決意によって、主に自分の成功を測ることができるのです。3

 新しい学期が始まる学生たち、特に大学のために家を離れる学生たちは、大きな期待と不安の両方を経験します。奨学生や運動選手、芸術家などは、「小さな池の中の大魚」の状態から、未知の潮の流れと流れの速い予測不可能な海流のある大海の中の小魚に変わったかのごとくに感じるようになります。完全主義的傾向のある学生は、どれほど一生懸命に努力しても全ての点で一番でなければ失敗であると思いやすいものです。

 人生で求められることについて考えるうちに学生たちは、自分ができる全てを行うのが時には実にすばらしいことであって、必ずしも一番になれないことがあるということを学べます。

 わたしたちは、自分の家庭で完全であることを期待されることもあります。父親や母親は、完全な伴侶、親、主婦、稼ぎ手、あるいは完全な末日聖徒の家族の一員であるように強制されていると今感じているかもしれません。

 完全主義的傾向と戦う人々には、何が助けになるでしょうか。形に捕らわれない、相手にとって助けになる質問は、その人を受け入れ、愛しているという気持ちを伝えるのに役立ちます。それは肯定的なことに集中するように他の人々に勧めます。それによってわたしたちは自分がうまくいくと感じている事柄を明確にすることができます。家族と友人は、優劣をつけるための比較を避け、代わりに誠実な励ましを与えることができます。

 完全主義のもう一つの深刻な点は、他の人々をわたしたちの非現実的な、手厳しい、あるいは容赦ない標準に縛りつけることです。実際、そのような振る舞いをすれば、自分の生活に、また他の人々の生活に、救い主の贖罪に伴う祝福が与えられないか、あるいは制限される可能性があります。例えば、ヤングシングルアダルトは、配偶者になる可能性のある人に望む特質のリストを作成できますが、完全な伴侶を求めるという非現実的な期待があるために結婚することができません。

 したがって、ある姉妹は、自分の完全主義の基準に達しない兄弟とは、たとえその人がすばらしい、立派な人であっても、デートしたいと思わないかもしれません。ダンスが上手でない人、裕福になるための計画を立てていない人、宣教師として奉仕しなかった人、あるいは悔い改めとカウンセリングによって解決したもののポルノグラフィーに伴う問題が過去にあった人は、彼女が考える基準に達しない人です。

 同様に、兄弟は、自分の理想とする非現実的な経歴を持たない姉妹とは、たとえその人がすばらしい、立派な人であっても、デートしたいと思わないかもしれません。スポーツファンでなく、扶助協会会長でなく、美人コンテストの優勝者でなく、教養のあるやりくりの上手な人でない人、あるいは今はすでに解決しているものの知恵の言葉に対する弱さが過去にあった人は、彼にとって釣り合わない人なのです。

 もちろん、わたしたちは自分自身に、また、配偶者になる可能性のある人に望む特質を考慮するべきです。わたしたちは最高の希望と標準を維持するべきです。しかし、わたしたちは謙遜であれば、思わぬところに良さがあることに驚くでしょう。そして、わたしたちと同じように完全でない人ともっと親しくなる機会を得ることができます。

 信仰があれば、悔い改めと贖罪の力によって、弱さは強さに変えられ、悔い改めた罪は実際に赦されるということが分かります。

 幸せな結婚生活とは、完全な二人が誓いの言葉を交わした結果としてあるものではありません。むしろ、献身と愛は、不完全な二人がこれから先、互いに築き、祝福し、助け、励まし、赦し合うときに深まるのです。現代のある預言者の妻は、預言者と結婚しているとはどんなものかと尋ねられたことがあります。そのとき、彼女は賢明にも、自分は預言者と結婚したのではなく、どんな召しを受けても教会に十分に献身する人と結婚しただけであると答えました。4 言い換えれば、夫と妻は、時の経過とともに、個人として、また夫婦として一緒に成長するのです。

 完全な伴侶、完全な教育、完全な仕事、あるいは完全な家庭を得るためには、長い時間をかける必要があり、孤独を感じることでしょう。人生の重要な決断を下す際に御霊に従うことは賢明なことです。完全主義の要求から引き起こされる疑いにわたしたちの進歩を妨げさせてはなりません。

 慢性的に重荷や心配を感じる可能性のある人々は、誠実に次のことを自分自身に問うてみてください。「わたしは完全と成功を、救い主の贖いの愛の教義によって定義づけているだろうか。それとも、世の標準によって定義づけているだろうか。わたしは成功や失敗を、わたしの義にかなった望みを確認してくださる聖霊によって測っているだろうか。それとも、何らかの世間の標準によって測っているだろうか。」

 肉体的あるいは情緒的に疲れを感じている人々は、定期的に睡眠と休息を取るようにし、また食事をし、くつろぐ時間を取ってください。多忙であることとふさわしいことは別のことであり、またふさわしくあるために完全である必要はないということを知っておいてください。5

 自分の弱さや欠点に目を向ける傾向のある人々は、うまくいっている事柄に、その大小はどうであれ、感謝するようにしてください。

 失敗を恐れる人々や、引き延ばす人々、すなわち時折準備に時間をかけすぎることのある人々は、大きな成長をもたらす可能性がある、やりがいのある活動から手を引く必要がないという確信と自信を持ってください。

 必要であり適切であれば、霊的な助言か、資格を有する医療者による治療を求めてください。それは、あなたがくつろぎ、自分の人生を肯定的に考えて組み立てる方法を身につけ、自滅的行動を減らし、もっと多くの感謝を経験し表明するうえで助けとなります。6

 短気は信仰を阻害します。信仰と忍耐は、宣教師が新しい言語や文化を理解し、学生が新しい科目を習得し、ヤングシングルアダルトが人々との関係を築き始めるのに助けとなります。全てが完全になるのを待つ必要はありません。また信仰と忍耐は、神殿の結び固めの承認や神権の祝福の回復を待つ人々にとっても助けになります。

 わたしたちは自ら行動し、強いられることがないとき、(2ニーファイ2:14参照)様々な美徳を知ることができ、人生に伴う大きな成長を遂げることができます。これらは「反対のもの」の中に見受けられますし、「混じり合って一つと」なるのです。(2ニーファイ2:11)

 例えば、わたしたちは自分の力以上に速く走らずにいながらも(モーサヤ4:27参照)、怠惰でないようにすることができます。(教義と聖約88:124参照)

 わたしたちは「静まって、わたしこそ神であることを知れ」という言葉を定期的に心に留めながら、(詩篇46:10、教義と聖約101:16も参照)「熱心に善いことに携わ〔る〕」ことができます。(教義と聖約58:27)

 わたしたちは救い主のために自分の命を失うことによって、自分の命を見いだすことができます。(マタイ10:39;16:25参照)

 わたしたちは霊的に、また肉体的に元気を取り戻す時間を適切に取るとき、「善を行うことに疲れ果て〔ることがありません。〕」(教義と聖約64:33;ガラテヤ6:9も参照)

 わたしたちは軽率にならず、快活になることができます。

 わたしたちは不遜な笑いではなく、心から笑うことができます。

 救い主とその贖罪は、「キリストのもとに来て、キリストによって完全に〔なる〕」ようにわたしたちに勧めています。わたしたちがそうするとき、神の恵みは「あなたがたに十分であり、あなたがたは神の恵みにより、キリストによって完全になることができる」と、主は約束しておられます。(モロナイ10:32)

 完全だと感じることや今完全になることを気にするあまり、重荷を感じる人々は、惜しみなく与えられる救い主の贖いの愛から、次のことを知ることができます。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28 、30)7 ■

<注>

1.「 救い主の愛」『子供の歌集』42
2.ラッセル・M・ネルソン長老「完成の道」『聖徒の道』1996年1月号、95-98も参照。
3.『わたしの福音を宣べ伝えなさい―伝道活動のガイド』10
4.ラビナ・フィールディング「なお向学心に燃える女性―カミラ・キンボール」『聖徒の道』1976年3月号、158参照。
5.例として、ディーター・F・ウークトドルフ管長「4つの称号」『リアホナ』2013年5月号、58-61参照。ウークトドルフ管長はまた次のように警告しています。「自分の価値はなすべきことの多さで決まると考えている人さえいます。」(「最も大切な事柄について」『リアホナ』2010年11月号、20)
6.この見解は、アジア地域の香港で精神保健アドバイザーを務めているカルロス・F・ワトキンス長老とアレイン・カエ・ワトキンス姉妹から寄せられたものです。この記事のその他の見解は、スーザン・ゴング姉妹、ラリー・Y・ウィルソン長老、リンダ・ウィルソン姉妹、ランディー・D・ファンク長老、アンドレア・ファンク姉妹、ジャネット・S・シャーマン姉妹、ならびにインドネシア・ジャカルタ伝道部の宣教師たちから寄せられたものです。
7.セシル・O・サミュエルソン“What Does It Mean to Be Perfect? ”New Era 、2006年1月号、10-13;ジャネット・S・シャーマン“Seeking Perfection without Being a Perfectionist”も参照。後者は、Virtue and the Abundant Life:Talks from the BYU Religious Education and Wheatley Institution Symposium、ロイド・D・ニューウェルその他編(2012年)280-302で引用。

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「ひとりの少年を救った飛行機乗客の温かい心」

2014年07月04日 00時51分23秒 | 
愛する子供たちへ

 預言者トーマス・S・モンソン大管長は、末日聖徒イエス・キリスト教会の4月の総大会において、愛にあふれる優しさの一例である感動的なエピソードを紹介しました。今日は、昨日に引き続きもう一つのすてきなお話しをみんなに紹介します。題して「ひとりの少年を救った飛行機乗客の温かい心」です。

「ひとりの少年を救った飛行機乗客の温かい心」

「愛を示す機会は思いがけないときに訪れることがよくあります。そのような機会の例が、1981年10月の新聞記事で紹介されました。その中で述べられていた愛と思いやりに深く胸を打たれたので、わたしは記事を切り抜いて30 年以上ファイルに保存してきました。

 記事によれば、乗客150人を乗せてアラスカ州アンカレジからワシントン州シアトルへ向かっていたアラスカ航空の直行便が、重傷を負った子供を運ぶために迂回してアラスカの辺境の町に向かいました。2歳の男の子が、自宅近くで遊んでいたときに転び、ガラスの破片で腕の動脈を切ってしまったのです。町はアンカレジの南方450マイル(725 キロ)にあり、もちろん飛行経路からは外れていました。しかし、現場で治療に当たった医師たちが必死に協力を要請した結果、男の子が病院で治療を受けられるように、この飛行機が迂回して男の子を乗せ、シアトルへ連れて行くことになりました。

 その辺境の町の近くに飛行機が着陸したとき、医師たちはパイロットに、男の子は出血がひどく、シアトルまで飛んでいては命が持たないことを告げました。そこで、病院がある最寄りの都市アラスカ州ジュノーまで、さらに飛行経路から外れて200 マイル(320キロ)飛ぶことになりました。

 男の子をジュノーに運んだ後、飛行機は予定より数時間遅れてシアトルに向かいました。乗客のほとんどが約束や乗り継ぎの飛行機に間に合いそうにありませんでしたが、不平を言う人は誰もいませんでした。それどころか、時が刻々と過ぎていく中で、彼らは寄付金を集め、男の子とその家族のために相当な額を集めました。

 飛行機がシアトルに着陸しようというとき、乗客は大きな歓声を上げました。男の子は助かるとの無線連絡を受けたと、パイロットがアナウンスをしたのです。("Injured Boy Flown to Safety" Sitka Daily Sentinel(Alaska),1981年10月22日付参照)

 わたしは次の聖句の言葉を思い浮かべました。『この慈愛はキリストの純粋な愛であって、…… 終わりの日にこの慈愛を持っていると認められる人は、幸いである。』」(モルモン書モロナイ7章47節)」■(トーマス・S・モンソン大管長『リアホナ』「愛-福音の神髄」p.92)

 本当にすてきなお話しです。とても感銘を受けました。モルモン書の預言者ニーファイの記した書の中にある、預言者リーハイが息子ニーファイに語った次の言葉が心に浮かびました。この言葉はまさに優しい温かい心を持ったあの飛行機の乗客全員への賛辞です。

「だからわが子よ、行きなさい。あなたはつぶやくことがなかったので、主から恵みをうけるであろう。」(モルモン書1ニーファイ3章6節)

 自らの不利益をつぶやくことなく、他の人の幸せを願い行動できる人になれたらどんなにすばらしいでしょうか!(おやじより)

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「世界大恐慌時に差し伸べられた温かい愛の手」

2014年07月03日 00時56分22秒 | 
愛する子供たちへ

 預言者トーマス・S・モンソン大管長は、末日聖徒イエス・キリスト教会の4月の総大会において、愛にあふれる優しさの一例である感動的なエピソードを紹介しました。今日は、そのすてきなお話しをみんなに紹介します。

 「1933年、世界大恐慌のために就職先を見つけるのが困難だった時期のことで、合衆国東部での話です。アーリーン・ビーセカーは、高校を卒業したばかりでした。長く続いた職探しの後、ついに縫製工場で衣服を縫う仕事を得ました。工場で働く人たちは、毎日自分が縫ってきちんと仕上げた数だけ支払いを受けました。たくさん仕上げればそれだけ賃金が増えるのです。

 工場で働き始めて間もないある日、アーリーンはある手順のところで行き詰まり、困惑といらだちを覚えました。ミシンの前に座り、縫い物を完成させるために、失敗した箇所をほどこうと試みました。助けてくれる人は誰もいないように思われました。他の縫製員は皆、できる限り多くの衣服を仕上げようと急いでいたからです。アーリーンは自分の無力さを感じ、絶望的になりました。そして静かに泣きだしました。

 アーリーンの真向かいに座っていたのがバーニス・ロックでした。バーニスは年上で、縫製員としても先輩でした。アーリーンが困り果てているのに気づき、バーニスは自分の作業をやめてアーリーンの傍らに行き、優しく方法を教え、手伝ってあげました。そしてアーリーンが自信を得て、無事に仕上げられるまでついていてあげたのです。その後、バーニスは自分のミシンに戻りました。ただ、手伝っていなければ仕上げることができていたであろう、たくさんの衣服を仕上げる機会を逃してしまいました。

 この一つの愛にあふれた優しさの行いによって、バーニスとアーリーンは生涯の友となりました。やがてそれぞれ結婚し、子供ができました。1950年代のあるとき、教会員だったバーニスはアーリーンとその家族にモルモン書を1冊贈りました。そして1960年、アーリーンと彼女の夫と子供たちはバプテスマを受けて教会員になりました。後に、神の聖なる神殿で結び固められました。

 きっかけはバーニスの思いやりでした。相手のことはよく知りませんでしたが、困り果てて助けを必要としていた人を、自分のことは後回しにして助けに行きました。こうして思いやりを示した結果として、今では生者も死者も含めて無数の人たちが福音の救いの儀式を享受しているのです。」■(トーマス・S・モンソン大管長『リアホナ』「愛-福音の神髄」p.91-92)

 モンソン大管長は、その説教の中で次のように語っています。

「この現世の旅を共にしている同胞を愛さないならば、本当に神を愛することはできません。同様に、わたしたち全員の御父であられる神を愛さないならば、完全に同胞を愛することはできません。」

 私たちも、モンソン大管長の勧告を心に刻み、次の短い詩の中で表現されている気持ちを、いつも大切にしたいものです。(おやじより)

「人の必要に気づかずに、
 枕を涙でぬらした夜は
 数知れない。
 だが、ほんの少し
 人に尽くしすぎたからといって
 悔やんだことは
 一度もない。」

(作者不詳,リチャード・L・エバンズ長老が“The Quality of Kindness,”Improvement Era, 1960年5月号,340で引用)

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「開拓者の信仰の祈りによる奇跡-開拓者を讃える歌」

2014年07月02日 00時37分22秒 | 信仰の祈り
愛する子供たちへ

 今日は、末日聖徒が主の預言者に導かれつつ、厳しい迫害を逃れてアメリカ西部へ移住していった開拓の時代の心温まる奇跡の物語を紹介します。

 1830年代から1860年代にかけて、末日聖徒の多くの開拓者たちは、信仰の自由と新天地を求め、道なき道を切り開き、多くの犠牲を払いつつ西へ西へと厳しい旅を続けました。

 彼らやその子孫によって綴られた手記には、涙なくして読むことができない感動的な奇跡の物語が数多くあります。今日紹介するのはその中のひとつ、アメリカユタ州で生涯を閉じた十二使徒ニール・A・マックスウェル長老の曾祖父母の日記からの物語です。

 その日記には生活が厳しい中、マックスウェル長老の祖父が若かりし頃、主に仕えるべく無報酬で働く専任宣教師として召され、各地を伝道したことが記された箇所があります。マックスウェル長老の祖父は、妻と4人の子供を残し、西部から遠く離れた東部へ3年間の伝道の召しを受けたのです。彼は、信仰を持ってその召しに応え、厳しい状況の中家族を残して出かけて行きました。

 彼が伝道に出てから1年と数ヶ月たったある日、彼女がパンを焼いていた時のことです。誰かがドアを叩く小さな音に気づき急いで開けてみると、そこに小柄なみすぼらしい老人が立っていました。

「何か食べる物をいただけませんか。3日前から何も口にしていないのです。」

「ちょっと待って下さい。」

 彼女は走って台所に行き、ついさっき焼き上げたパンを一本、そのままその老人に差し出した。老人は丁重に礼を言うとその家を離れました。

 彼女は仕事に戻ろうとした時、

「そうだわ……。」

と、パンだけしか与えなかった自分の不親切さに気づき、すぐに台所に戻るとバターとジャムを持ってドアから飛び出しました。しかし、不思議なことにその老人の姿はもうどこにも見当たりませんでした。

 2週間後、彼女の夫から1通の手紙が届きました。そこにも不思議な出来事が記されていました。

「その日の夕暮れ、私と同僚は疲れ果ててとうとう歩くことさえ出来なくなってしまいました。3日前から何も食べずに伝道をしていたからです。そこで、私たちは誰も通っていない道の真ん中でひざまずき、主に助けていただくために祈り始めました。

『天のお父様、何か食べ物を恵んでいただけませんか。3日前から何も口にしていないのです。』

 するとよい香りがあたり一面に広がりました。目を開けてみると、私たちの目の前に焼きたてのパンが1本置かれていたのです。周りには、人の姿など見当たりませんでした。私たちは主に感謝しました。さわってみると、そのパンにはまだ温かさが残っていました。」

 彼女の夫が見た奇跡と彼女が経験したあの不思議な出来事が、心の中でひとつになりました。その出来事は同じ日の、ちょうど同じ時刻頃に起こった出来事だったのです。彼女は確かに天が彼女の夫を助けて下さったのだと確信したのでした。

 この話は、マックスウェル家の霊的な遺産として、今日まで大切に語り継がれているということです。

 極限状態の中でさえ、御父に全幅の信頼を寄せて最善を尽くす者を、御父は決して見捨てず、豊かな報いからもれることがないとの確信を改めて確認する本当にすばらしいお話しです。

 お父さんは、20年近く前に、主のみ業を推し進めるために自らの命をかけて主に献身したそのような開拓者たちの信仰と犠牲について学び、感動し、そして彼らを讃える歌を作りました。今日は、その歌も紹介します。タイトルは「開拓者-信仰の眼もて」です。

  「開拓者-信仰の眼もて」

     1996年7月23日(火)
     作詞・作曲 安里吉隆

1.道なき道を一歩ずつ 切り開き進む
  不屈の勇気・決意持ち 信仰込めて
  主の預言者が指し示す 約束の地
  信仰の眼もて 仰ぎ見 つき進む
  すべてを主にゆだねて 捧ぐ 開拓者

2.雪の荒野 死の谷を 耐え忍び進む
  すべてを失い 死すとも 信仰込めて
  主の預言者が見はるかす 安息の地
  信仰の眼もて 築くべく つき進む
  すべてを御心のままに 捧ぐ 開拓者

3.後に続く人のため 道を切り開く
  熱い決意胸に秘め 信仰込めて
  開拓者らが 築き残した 永遠の遺産(とわのゆずり)
  信仰の眼もて 手に受け 守り伝える
  すべてを主に捧げて われら開拓者

  開拓者らが 示す生きざま 心に刻み
  信仰の眼もて 伝え行く 今に 後に
  すべてを主に捧げて われら開拓者
  われら開拓者

 トーマス・S・モンソン大管長は、次のように語っています。

「世の救い主であるイエス・キリストは、神の御子であり、昔も今も、究極の開拓者です。イエスが人々に先立って行かれ、ほかのすべての人たちに従うべき道を示されたからです。」(トーマス・S・モンソン大管長「聖徒の道」1997年7月号、P.64)

 私たちも究極の開拓者である主と、自らの命をかけてその信仰を行いによって示した初期の開拓者たちの犠牲と模範を心に刻み、福音により良く生きることにより、その祝福をより多くの人々にもたらすことができるよう力を尽くしましょう。(おやじより)

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「墓石に残したメモ-神が導かれる先祖の救いの業」

2014年06月30日 19時40分38秒 | 神殿・先祖の救い
愛する子供たちへ

 末日聖徒イエス・キリスト教会では、亡くなった先祖を救う神殿・家族歴史の業は、私たちの救いに不可欠な重要な業であると教えています。

 預言者マラキは、主の再臨の前に、預言者エリヤが再び地上を訪れると預言しました。預言者エリヤは、イエス・キリストの時代の前にメルキゼデク神権の結び固めの鍵を持っていた最後の預言者でした。(「聖句ガイド」『エリヤ』の項、56)また、変貌の山にモーセと共に現れて、ペテロ、ヤコブ、ヨハネにその神権の結び固めの鍵を授けた偉大な預言者です。(マタイ17:3)預言者マラキは次のように預言しています。

「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。」(マラキ4:5~6)

 預言者エリヤは、預言通り、確かに再び地上に現れました。1836年4月3日にカートランド神殿を訪れた預言者エリヤは、マラキの約束を成就すると宣言し、現代の神権時代に家族を永遠に結び固める神権の鍵を預言者ジョセフ・スミスに授けたのです。それはまさにマラキが預言した末日の大いなる災いを防ぐための重要な現れであり、永遠の生命に不可欠な、夫婦や親子そして先祖と私たちを永遠に結ぶ神権の鍵の回復なのです。(教義と聖約110:13~16参照)

 預言者エリヤの使命は、時として「エリヤの霊」と呼ばれるものの導きにより果たされています。「エリヤの霊」は、十二使徒のラッセル・M・ネルソン長老が教えている通り、「家族が神聖な特性を持つことを証する聖霊の現れ」なのです。(ラッセル・M・ネルソン長老「新たな収穫の時」『聖徒の道』1998年7月号、38参照)

 預言者エリヤの霊は、先祖や家族の救いを心から願い、自らその実現のために最善を尽くす人々を導きます。ジョン・A・ウィッツォー長老が次のように語っている通りです。

 死者の霊と感化力は、記録を見いだすことに関心を抱いている人々を導くであろう。そのために、彼らに関する記録が地上のどこかにあるならば、必ずそれを探し出すことができるのである。」 (Sermons and Missionary Services、230)

 今日は、この神殿・家族歴史の業に熱心に携わり、興味深い経験をしたマリアンヌ・チャップリン・ストーバルのお話しを紹介します。この彼女の経験は、全世界で先祖の救いの業に携わる何千何万もの教会員が同じように経験するすばらしい祝福のひとつです。タイトルは「墓石に残したメモ」です。


「墓石に残したメモ」

マリアンヌ・チャップリン・ストーバル
(アメリカ合衆国、カリフォルニア州)


 2003年の夏、わたしはアメリカ合衆国ミシガン州で、祖父母のおじ、ロバート・ハルについて調べていました。そして旅の最後に、20年前に行った墓地を再び訪れました。

 前に来たときには、「ハル」という姓の入った墓石の一つに花が添えてありました。今回わたしは、メモを書いて日付を入れ、風雨に耐えられるようにラミネート加工しました。そして、ロバート・ハルについて何かもっと分かる人が、これを目に留めてわたしに知らせてくれますように、と祈るような気持ちでそのメモを墓石のところに置いてきたのです。カリフォルニア州の自宅に帰ったわたしには希望もありましたが、こんなメモから何かが起こるはずもないと疑う気持ちもありました。

 1週間後、デーキー・ベントレーという、遠いいとこから手紙が届きました。こう書かれていました。「昨日、不思議な経験をしました。午後の3時にイチゴを買いに出かけたときに、ふとプレインズロード霊園に行って先祖たちの墓の様子を見てみたくなったのです。そこに行くのは数年ぶりでした。すると、墓の横にあなたのメモがあったのです。」

 デーキーが霊園に行ったのは、わたしがこのメモを残した日でした。わたしは、すぐ彼に電話しました。電話で話して分かったのは、彼が霊園から50マイル(約80 キロ)以上離れたヒルズデールに住んでいるということでした。

 2、3か月後、わたしはデーキーを訪ねるためにミシガン州に戻りたくてたまらなくなりました。デーキーから、自分の家の真向かいの霊園に親戚が埋葬されているので来てくれないかと言われたのです。彼の話によると、霊園にはハル家の墓が4基あり、そのうちの2基については何も分からないとのことでした。

 デーキーは、霊園でわたしに墓石を見せてくれました。分からないという2基の墓は、マーティン・ハルとアンナ・ハルの墓でした。わたしは自分の記録を持って来ていなかったのですが、マーティン・ハルについて調べたことは、はっきりと覚えていました。

 故人の記録を調べればマーティンの両親の名前が分かるのではないかと期待して、わたしたちは急いで郡庁舎に向かい、閉館の1時間前に駆け込みました。すると、ありました。マーティンの父親がロバート・ハルだったのです。長い歳月をかけた探究が終わったことを、聖霊が教えてくださいました。

 デーキーは教会員ではありませんが、ロバート・ハルが見つかったのは「ほとんど霊的な導きによる」としか思えないと言いました。わたしは御霊が導いてくれたことを知っていたので、にっこりとほほえみました。

 デーキーは言いました。「あなたは、20年前にメモを残さなかったことを後悔しているかもしれませんね。でも、わたしがヒルズデールに引っ越して来たのは、たった3年前なんですよ。」

 この経験から、家族歴史が確かに神の業であり、神はわたしたちの義にかなった働きを導いてくださるということが分かりました。■


 ジョン・A・ウィッツォー長老は、さらに次のように語っています。

 この業に全力を尽くす人々は、ただ系図を集めるだけでなく、幕のかなたから助けを受けることができると、わたしは感じています。幕のかなたにいる人々を助けようとする人はだれでも、代わりに、人生の諸事全般について助けを得られます。 ……幕のかなたへ去っ た人々に助けを与えるとき、幕のかなたから わたしたちに助けが与えられます。」ジョン・A・ウィッツォー長老("Genea logical Activity in Europe" 104)

「わたしたちは前世における大会議の日に、全能者とある合意を交わしました。……まさにその時、その場で、自らの救い手となるだけでなく、ある程度まで全人類家族の救い手となることに同意した のです。この点において、わたしたちは主の協力者となったのです。したがって、この時点から、この計画の遂行は単に御父の業や救い主の業だけでなく、わたしたちの業ともなったのです。」("The Worth of Souls" Utah Genealogical and Historical Magazine、1934年10月号、189)

「見える世界と見えない世界は近い関係にあります。一方が他方を助けます。神殿儀式の特権と祝福にあずかれない人々は、当教会の……えりすぐりの賜物の幾つかを失っています。」("The urgency of Temple Service" Utah Genealogical and Historical Magazine、1937年1月号、5)

 先祖の救いに興味のある方は、以下の記事もご参考下さい。

1.「神殿・家族歴史活動-生者と死者の救いの業」
2.「先祖を救う者にもたらされる大いなる祝福」
3.「マラキの預言の成就-家族の救いと昇栄に不可欠な神殿の業」

 わたしたちの先祖の多くは、地上にいる間に福音について聞かずに亡くなっていった人たちです。彼らは今霊界にいてイエス・キリストの福音を教えられています。(1ペテロ4:6)福音を受け入れた先祖の方々は、自らの子孫の誰かが、自分の身代わりに神殿の儀式を執行してくれるのを切なる思いで待っています。それら先祖のために神殿でこうした儀式を執行するとき、先祖と喜びを共にすることができるのです。

 実際にこの業に携わる時、その喜びと祝福が人知ではとうてい計り知ることのできない、本当にすばらしいものであることがよく分かります。主が次のようにおっしゃっておられる通りです。「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。」(ヨハネ7章17節)「もしわたしの言葉にうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」(ヨハネ8章31~32節)すなわち真理は、それを実践する人にそれが真理であることを御霊によって知らせる力を内包しているのです。

 私たちには、先祖の方々をお救いする神聖な使命があります。(教義と聖約128:15~18)この神聖な使命を全うすべく力を尽くす時、私たちはマラキの預言(マラキ4:5~6)のさらなる成就を助ける一翼を担うことになるのです。それはすなわち家族が永遠の家族としてひとつに結ばれ、神の日の光栄の王国で文字通り神と共に住むための重要な鍵のひとつです。先祖の救いなくして私たちの救いはないのです。(おやじより)

 先祖の救いの業、すなわち先祖の救いのための身代わりの業への取り組みは、とても簡単に始められます。ご興味のある方は、以下のサイトをご参照下さい。愛する家族が、文字通り永遠の家族として共に住むための非常に大切な教えとそのための主が示された道を知ることができます。


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「窮乏と悲哀を共にし、命をかけて助け合う兄弟愛」

2014年06月29日 01時55分45秒 | 
愛する子供たちへ

 主は、次のように語っておられます。

 それゆえ、あなたのすべての生き方により、またすべての祈りにより、すべての訓戒により、すべての行いにより、あなたの兄弟たちを強めなさい。」(教義と聖約108章7節)

 1830年4月、預言者ジョセフ・スミスによって、回復されたイエス・キリストの完全な福音に基づく主の教会が設立されました。それ以来教会はめざましい発展を遂げる中、数限りない厳しい迫害を受けてきました。特に預言者ジョセフ・スミスの殉教後、熾烈な迫害を逃れるため、預言者に与えられた啓示により、その本拠地をアメリカ西部に移さざるを得ませんでした。

 その迫害と西部への旅の途上で、非常に多くの聖徒たちが命を落としました。彼らは窮乏と悲哀を共にしながら、自らの命をかけてでもお互いに助け合いました。

 教会の初期の時代から、聖徒たちは天のみ使いによりもたらされた神権の権能によって組織された神権定員会という組織に所属しました。彼らは、主によって組織されたその定員会に心からの忠誠心を抱いていました。十二使徒のスティーブン・L・リチャーズ長老は次のように語っています。

 これらの神権〔定員会〕は、わたしたちの想像以上に完璧で美しい友情を培い、固く団結していた。父親が伝道に召されると、家族は互いに助け合った。窮乏と悲哀を共にしながら……定員会に対する忠誠心が築かれていったのである。……人々は生命をかけてでも助け合った。」(スティーブン・L・リチャーズ“The Priesthood Quorum:A Three-fold Definition”「神権定員会:三重の定義」『インプルーブメント・エラ』1939年5月号、p.294)

 今日は、そのような貧しく乏しい中で、互いに助け合った聖徒たちの感動の物語を紹介します。第一次世界大戦中の恐ろしい伝染病により多くの方々が命を落とした辛く苦しく厳しい時代の心温まるお話しです。

「1918年の秋、その年は第一次世界大戦中で、スペイン風邪が引き起こす『黒死病』の恐ろしい災禍を被って1,400万以上の人々が死んだ最も悲惨な年でした。……その年は冬が早く来て、大量のてんさいが収穫を待たずにそのまま凍りました。父と弟のフランシスは必死になって凍った地面から1日1荷のてんさいを掘り出そうと、土をすき、表面を削り、てんさいを一本一本大きな赤いてんさい運搬車の中にほうり投げ、荷を砂糖工場に運んで行きました。凍っていたうえ、人手がなく、作業は遅々として進みませんでした。兄のフロイドとわたしが軍隊に入っていたからです。……

こうして父と弟が唯一の収入源のてんさいを収穫し、ある日夕食の席に着いていたときのことです。長兄のジョージ・アルバートから電話がかかってきました。……兄チャールズの9歳になる息子のケネスが、ひどい風邪がもとで数時間危篤に陥った後父親のひざで息を引き取ったとのことでした。それで父にオグデンに行って遺体を家に連れて帰り、リーハイ墓地の代々の墓に入れてほしい、と言いました。わたしの父は……亡くなった孫の遺体を迎えにオグデンのファイブボインツヘ出かけました。家に着くとチャールズは、……熟で焼かれたような姿になった息子の冷たい遺体に取りすがっていました。

 息も絶えんばかりの若い父親は『この子を連れて帰って、家族の墓地に埋めてやってください。そして明日またここへ戻って来てください』とボソボソと言いました。

 父はケネスを家へ連れて来て、納屋でひつぎを作り、母と姉……がクッションをあてがい、ひつぎに入れて、父とフランシスと近所の親切な二人が墓へ埋めに行きました。死者が大勢出たので、どこの家でも墓穴掘りをしなくてはなりませんでした。墓を囲んで簡単な葬儀をするのが精いっぱいでした。

 墓地から皆が帰らないうちに再び電話が鳴って、ジョージ・アルバートがまた悲しいニュースを知らせてきました。チャールズが死に、二人のかわいい娘、7歳のベスタと5歳のエレインが重体で、二人の幼い子、4歳のレルドンと3歳のポーリンも病気にかかったというのでした。

 いとこたちがチャールズのひつぎを手に入れ、貨車で家に送ってきました。父と小さいフランシスが遺体を駅から運びました。

 翌日、頑健で不屈な老父はまたも悲しい務めに呼び出されました。今度は黒髪で大きな青い目の、いつもニコニコしていたベスタを家に連れて帰ることでした。父がその家に行くと、悲しみに気も狂わんばかりの母親のジュリエットが金色の巻き毛をした青い目のかわいいエレインの寝台のわきにひざをついていました。ジュリエットは疲労困憊してすすり泣きながら祈っていました。……

 父がベスタを連れて戻る途中で、また恐ろしい知らせが入っていました。エレインも父親や兄のケネス、姉のベスタのもとに旅立ったのです。こうして父はまたもや悲痛な旅をして、1週のうちに一つの家族から4人もの死者を葬ったのでした。

 エレインを埋葬した晩に電話は鳴らず、その翌朝も悲しい知らせはありませんでした。……朝食が済むと父はフランシスに言いました。

『なあ、フランシス、畑に出て、あまりカチカチにならないうちにてんさいを掘り出して、荷ごしらえしてしまおうじゃないか。馬を車につけて出発しよう。』

 フランシスが4頭立ての馬車を御して来て、父が飛び乗りました。二人はサラトガ街道に沿って馬車を走らせました。途中で工場にてんさいの荷を運ぶ近所の農夫の馬車の列に出会いました。通り過ぎるときにだれもがあいさつを交わしました。『やあ、ジョージおじさん』『お悔やみを言うよ、ジョージ』『大変だったなあ、ジョージ』『おまえには友達がいっぱいいるな、ジョージ』

 最後の馬車は……ジャスパー・ロルフでした。彼は笑顔であいさつを送り、叫びました。『こりゃみんな、ジョージおじさんのものだぜ!』父はフランシスの方を向いて、『あれがわしらのものだったらなあ』と言いました。

 農場の入り口に着くと、フランシスが大きな赤いてんさい運搬車から飛び降りて門を開けました。そして馬車を中に引き入れてから、一息ついて、辺りを見渡しました。左から右、後ろ、前と。するとまったく驚いたことに、てんさいが見当たりませんでした。ジャスパー・ロルフの言った言葉の意味が分かったのはそのときでした。『こりゃみんなジョージおじさんのものだぜ!』

 父も馬車から降りました。心から愛する豊かな茶色の土を手にすくい、親指のない左手にてんさいの葉を持った父は、この労働の象徴をわが目を疑うかのように見詰めていました。

 そして父はてんさいの葉の山に腰をかけました。わずか6日間で愛する者を4人埋葬のために運び、ひつぎを作り、墓を掘り、衣装縫いまで手伝いながら決して動じなかった驚くほど強い父、苦しい目に遭いながら動揺しなかった父が、てんさいの葉の山に座って子供のようにすすり泣きました。

 それから立ち上がった父は、大型の赤いハンカチで目をぬぐい空を見上げていました。『父よ、ワードの長老たちに感謝します』と。」(ボーン・J・フェザーストーンによる引用、レス・ゴーテス”Now Abideth Faith、Hope and Charity”Ensign「信仰、希望、愛があった」『エンサイン』1973年7月号、pp.36-37)

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「日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある-復活と栄光の王国」

2014年06月28日 01時35分01秒 | 生ける預言者・使徒の教え
愛する子供たちへ

 今日は、1コリント15章38~44節の人の復活体および栄光の王国についてお話しします。

 パウロは、将来すべての人が復活することを教えました。その際、この地上での私たちの従順さに応じて私たちが得る肉体に栄光の差があることをはっきり教えました。次のように語っています。

「神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。」(1コリント15章38~44節)

 イエス・キリストの贖いを通して、すべての人が復活します。(アルマ11:42-45参照)復活後、わたしたちは裁きを受けるために主の前に立ちます。(黙示20:12;3ニーファイ27:14参照)そしてそれぞれに特定の栄光の王国に永遠の住まいが割り当てられます。主は次のように語ったときに、この原則について教えられたのです。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。」(ヨハネ14:2)

 すべての人は、いずれ死を迎え、次の世に旅立ちます。そして主の定められた時が来ると、この地上での福音への従順さに応じ、住まうべき場所として3つの栄光の王国に分けられます。日の栄えの王国、月の栄えの王国、星の栄えの王国です。どの栄光を受け継ぐかは、主の戒めにどれほど従順であったかが表れる、その人の改心の度合いによります。その人がどのように「イエスの証を受け入れ」たかにもよります。(教義と聖約76:51、79、101節も参照)

 私たちは、パウロが教えたように、文字通りそれぞれの栄光の復活体をもって墓からよみがえるのです。私たちが真に目指す「救い」とは、栄光の王国の中でも最も高い日の栄の王国における最高の位である「昇栄」すなわち神のごとき者となり神と共に住むことを意味する「永遠の生命」のことです。

 御父はイエス・キリストの再臨を直前に控えたこの万物更新の時代に、文字通り以下の預言を成就すべく預言者ジョセフ・スミスを召されました。御父と御子は、預言者ジョセフ・スミスを訪れ、イエス・キリストが2千年前に教えられた純粋な福音と主の教会を回復しました。預言者ジョセフ・スミスにもたらされた回復された福音により、まさにパウロが教えた死者の復活およびそのすべての人々が行くべき3つの栄光の王国に関する真理が明らかにされたのです。 

「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め。』」(黙示14:6~7)

「わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。」(イザヤ29:14 )

「それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。」(ダニエル2章44節)

 福音の回復に関しての詳細は以下の記事を参考にして下さい。

1.「回復されたイエス・キリストの教会」
2.「初期のイエス・キリストの教会」
3.「神権と神権の鍵の回復-主の教会を導く神の権能」

 さて、預言者ジョセフ・スミスにもたらされた主のよりの啓示により、3つの王国が以下のようなものであることが明らかになりました。

<日の栄えの王国>

 日の栄えの王国は3つの栄光の王国の中で最高の王国です。この王国に属する人々は父なる神と御子イエス・キリストのもとで永遠に住むことができます。自分自身が日の栄えの栄光を受け継ぎ、ほかの人々も同様にこの偉大な祝福を受けられるようにすること、それがわたしたちの目標でなければなりません。このような目標は1回の努力で達成できるものではありません。生涯にわたって常に目的を持ち、義にかなった生活を送った結果として達成できるものなのです。

 日の栄えの王国は、「イエスの証を受け入れ」た人々、「〔御自分〕の血を流すことによってこの完全な贖罪を成し遂げられた、新しい聖約の仲保者イエスを通じて完全な者とされた」人々のために備えられたところです。(教義と聖約76:51、69)この賜物を受け継ぐためには、救いの儀式を受け、戒めを守り、罪を悔い改めなければなりません。日の栄えを受け継ぐ人々に関する詳しい説明については、教義と聖約76:50-70、92-96を参照してください。

 1836年1月、預言者ジョセフ・スミスは、日の栄えの栄光を受け継ぐための必要条件に関して理解を深める啓示を受けました。天がジョセフに開かれ、ジョセフは日の栄えの王国を見ました。兄アルビンがバプテスマの儀式を受ける前に亡くなったにもかかわらず、日の栄えの王国にいるのを目にしたときには、ジョセフは驚きました。(教義と聖約137:1-6参照)そのとき、主の声が預言者ジョセフに聞こえました。

「この福音を知らずに死んだ者で、もしとどまることを許されていたらそれを受け入れたであろう者は皆、神の日の栄えの王国を受け継ぐ者となる。これから後、この福音を知らずに死ぬ者で、真心からそれを受け入れたであろう者も皆、その王国を受け継ぐ者となる。主なるわたしは、すべての人をその行いに応じて、またその心の望みに応じて裁くからである。」(教義と聖約137:7-9)

 この啓示に説明を加え、預言者ジョセフは次のように語っています。「わたしはまた、責任を負う年齢に達する前に死ぬ子供たちが皆、天の日の栄えの王国に救われるのを見た。」(教義と聖約137:10)

 預言者ジョセフに与えられた別の啓示から、日の栄えの王国の中にも3つの階級があることを知らされています。最高の階級に昇栄し、永遠に家族関係を続けるためには、「結婚の新しくかつ永遠の聖約」に入り、その聖約を守らなければなりません。言い換えれば、神殿結婚は日の栄えの最高の階級を得るための必要条件なのです。(教義と聖約131:1-4参照)結婚の新しくかつ永遠の聖約に入るふさわしさを備えた人ならばだれでも、現世であれ、来世であれ、その機会にあずかることができます。

<月の栄えの王国>

 月の栄えの栄光を受け継ぐ人々は「御子の臨在は受け〔ます〕が、御父の完全は受け〔ません。〕それゆえ、彼らは日の栄えの体ではなく、月の栄えの体であって、月が太陽と違っているように栄光において違ってい〔ます。〕」(教義と聖約76:77-78)一般的な言い方をすれば、月の栄えの王国に住む人々は「人間の悪巧みによって目をくらまされた」人ではあっても尊敬すべき人々です。(教義と聖約76:75)

 このグループの中には「イエスの証に雄々しくな〔かった〕」教会員も含まれます。(教義と聖約76:79)また、この地上で福音を受け入れる機会がありながらも拒絶し、現世の生涯を終えた後に霊界で受け入れた人々も含まれます。(教義と聖約76:73-74参照)月の栄えの栄光を受け継ぐ人々についてもっと知りたければ、教義と聖約76:71-80、91、97を参照してください。

<星の栄えの王国>

 星の栄えの栄光は「キリストの福音を受け入れず、イエスの証も受け入れなかった」人々のために用意された場所です。(教義と聖約76:82)これらの人々は時として地獄と呼ばれる霊の獄から贖われた後に自分たちの栄光を受けます。(教義と聖約76:84、106参照)

 星の栄えの栄光を受け継ぐ人々に関する詳しい説明は、教義と聖約76:81-90、98-106、109-112に記されています。

<滅 び>

 どの栄光の王国に住むにもふさわしくない人々がいます。「滅びの子」と呼ばれ、「栄光の王国ではない王国を受けなければならない」人々です。(教義と聖約76:32;88:24)これは「〔神〕の力を知り、それにあずかる者とされながら、自らを悪魔の力に打ち負かされるに任せ、また真理を否定し、〔神〕の力に反抗するに自らを任せたすべての者」の置かれる境遇です。(教義と聖約76:31。30、32-49節も参照)


 この地上に住むすべての人は、神から深く愛されている大切な神の息子・娘です。神はすべての息子娘が永遠の完全な幸福を得てほしいと切に望んでおられます。それ故にこの末日の世に黙示者ヨハネに示された永遠の完全な福音と神権をこの地上に回復されました。(黙示14:6~7)すでに亡くなられた先祖の方々も含め、主を受け入れて、その教えに忠実歩むすべての神の息子・娘たちが神のみ元へ戻ることができるよう、必要な完全な真理を私たちに知らせるためです。

 天の御父は、すべての息子・娘たちが、単なる救いではなく、日の栄の王国の最高の位である昇栄すなわち永遠の生命という至高の祝福を得てほしいと切に願っておられるのです。

 お父さんはすべての人々がこの回復されたイエス・キリストの完全な福音を知り、その真理に基づいた教えに従って日の栄の王国の最高の位を得て、永遠の幸いを得てほしいと心から切に願っています。(おやじより)

 以下のサイトで、回復されたイエス・キリストの教会について知ることができます。以下の画像もしくはテキストをクリックして下さい。

<その他の参照聖句>

・1コリント15:40-42
・教義と聖約88:20-39;130:18-19
・参照記事:
 「救いとは? 昇栄(永遠の生命)とは? 昇栄を得るには?」

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