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A Diary

本と音楽についてのメモ

『ロンゲスト・ジャーニー』、あるいは『果てしなき旅』

2005-12-09 13:13:20 | イギリスの小説
■E.M.フォースター『ロンゲスト・ジャーニー』
(川本静子訳、E.M.フォースター著作集1、みすず書房1994)
■E.M.フォースター『果てしなき旅(上)』『果てしなき旅(下)』
(高橋和久訳、岩波文庫1995)

タイトルが良い本というのはそれだけで興味がわいていくる。ちょっと詩的だったり、響きが良かったり。好みは各人さまざまだとは思うが、個人的には『百年の孤独』とか『重力の虹』なんていうタイトルだと、とりあえずちょっと興味が出てきて、本屋さんの棚に並んでいれば手に取ってみようという気になる。もちろん実際には内容が問題であるわけで、どんなにカッコいい題名が付いていてもつまらなければ意味がないのだが、タイトルというのも本との出会いの、きっかけのひとつであることは間違いない。

以前から『果てしなき旅』というタイトルも良いなあと感じていた。ちょっと詩的ではないか・・・というか実際、このタイトルはシェリーの詩『エピサイキディオン(Epipsychidion)』から取られたものだった。では、どういう意図でEMフォースターはこのシェリーの詩をタイトルとしたのだろうか。この小説『果てしなき旅』(―あるいは『ロンゲスト・ジャーニー』―同じ本が異なるタイトルで二つの出版社から翻訳されている)の中に、このタイトルの元となった詩の一部がそっくり引用されている箇所があって、そこがヒントに違いないだろう:

I never was attached to that great sect,
Whose doctrine is, that each one should select
Out of the crowd a mistress or a friend,
And all the rest, though fair and wise, commend
To cold oblivion, though it is in the code
Of modern morals, and the beaten road
Which those poor slaves with weary footsteps tread,
Who travel to their home among the dead
By the broad highway of the world, and so
With one chained friend, paerhaps a jealous foe,
The dreariest and the longest journey go.

わたしは大いなる一派に加わらなかった。
各人、世界から一人の恋人か友人を選べ、
その他のものは、たとえ美しく賢くとも
冷たき忘却の淵に、と教え説く一派には。
これぞ現代の道徳の規範にして、哀れな
奴隷たちの疲れた足が歩むべき道なれど。
死者の群の間を縫うようにして、かれら
世界の大通りを歩み、わが家へと旅する。
それは、一人の悲しげな友人と、そして
ときとして一人の嫉妬深い仇人を伴った、
陰鬱きわまる、どこまでも果てしなき旅。
(高橋和夫訳、岩波文庫版より)

いつもそうだけど、詩の英語は素直ではないからちょっと難しい。この岩波文庫版の翻訳はかなり上手く翻訳していて大変参考になる。もちろん、翻訳で読んでも、何が言いたいのかはっきりストレートに書いてあるわけではないのだが、要するにシェリーは、世の中の大多数がしているような一人の相手との普通の結婚は「陰惨きわまる、どこまでも果てしなき旅」をもたらす、と言っているのだろう。この部分を「結婚せずに自由に恋愛しよう」と読むか、あるいは「一人の相手にとらわれず、美しく賢い(fair and wise)人が現れたら、自分の気持ちに素直に従うべきだ」というふうに考えるか、どう解釈するかは読者の自由で、絶対的な正解はないと思う。

そしてまた、このシェリーの考え方に賛成するかしないかも読者の自由なのだ。『果てしなき旅』の主人公、リッキーはこの詩を「実に見事」と考えていたが、その後「この詩には少し人間味が欠けているような気がした」と言っている。リッキーの心はこのシェリーの詩の内容について、評価が場面によって揺れるのだ。自分の決めた一人の結婚相手と多少の我慢をしてでも暮らしていくのか、あるいは、自分の素直な気持ちに従って行動するのか。

『果てしなき旅』では、最終的にリッキーは妻のアグネスを捨てて、スティーヴンと事実上の駆け落ちする。(スティーヴンは、その名のとおり、父が異なる弟とはいえ、男である。リッキーは男と駆け落ちするのだ!・・・こういうフォースターの同性愛的傾向の分析もまた興味深いが、これはまた別の機会に。)つまり、結局はシェリーがこの詩で説いていることをを実践する結果となった。

個人的に、E.M.フォースターの小説のキーワードのひとつは「駆け落ち」ではないかと思う。因習的、イギリス的な「常識ある」価値観を嫌い、自分の気持ちに素直に従って好きな人と一緒になるパターン。『天使も踏むのを恐れるところ』ではリリアがイタリア人ジーノと反対を押し切り結婚する。『眺めのいい部屋』ではルーシーが英国らしい貴族の青年を選ばず、率直に生きるジョージ・エマースンを選ぶ。『ハワーズ・エンド』でもヘレンはレオナードと結ばれるし、『モーリス』でも主人公モーリスはアレクとの駆け落ちを果たす。

フォースターの小説が人気があるとすれば、このように登場人物が因習にとらわれず、率直な行動を果たすところかもしれない。もしこのようなストーリーがヴィクトリア朝期に描かれたとしたら、それは当時の「常識」や「節度」に従って、こういう行動は必ず報われないような結果となった。駆け落ちをハッピーエンドにすることには多大な抵抗があったのだ。19世紀以前や、ヴィクトリア朝期はそういうモラルが特にうるさい時代だったから。しかし、フォースターはこういう「駆け落ち」を否定していない。E.M.フォースターを評して「ヴィクトリア朝小説と現代小説の架け橋」と言うことがあるが、こういう点が彼の先進的、現代的なところだ。

シシングハーストから

2005-12-04 14:36:00 | イギリスの小説
■ヴィタ・サクヴィル=ウェスト『あなたの愛する庭に』
(食野雅子訳、婦人生活社1998)
■ヴィタ・サクヴィル=ウェスト『悠久の美 ペルシア紀行』
(田代泰子訳、晶文社1997)
■ナイジェル・ニコルソン『ある結婚の肖像』
(栗原千代・八木谷涼子訳、平凡社1992)

12月のような、こういう冬場だと完全にオフシーズンで諦めなければならないが、春から夏の季節にイギリスを訪れる幸運に恵まれたならば、一度「イングリッシュ・ガーデン」とはいかなるものか試してみるのも悪くない。有名な庭園はいろいろあるし、ナショナルトラストが管理しているような有名なお屋敷なら、多かれ少なかれお庭が付随しているから、そういうところへ出かけた折に一緒にイギリス式庭園を楽しむのもいい。なかでも、ケントにあるシシングハースト城(Sissinghurst Castle)の庭園はかなり知られていて、内外から多数の観光客やガーデニング愛好家が訪れる。

僕がシシングハーストに行ったのは、いつだったろう・・・忘れてしまったが、寒くない季節で天気も良かった。もちろん、庭は緑豊かで、有名な白い花々を集めた「ホワイトガーデン」やハーブの庭なども見てきた。といっても、ガーデニングにはさほどの興味もないので、こういうものなんだね、くらいの感想だったが。ガーデニング愛好家にとっては、シシングハーストはある意味「聖地」だそうで、その観点からすると僕のような「ざっと見てまわるだけ」では、かなりもったいない時間の過ごしかただったかもしれない。草花鑑賞以外に楽しめることといえば、敷地内には登ることができる塔があって、庭園全体を見渡すことはもちろん、そこからの眺めはとても良かった。また、木々に囲まれた周囲の散歩道を歩くのもいい。ロンドンから十分日帰りできる場所にあるが、あの大都会の雑踏を忘れて気分転換するにはいい場所だ。

このシシングハーストを現在のように有名な庭園にしたのは、この建物を1930年に購入した作家のヴィタ・サクヴィル=ウェスト。彼女は外交官の夫、ハロルド・ニコルソンとともにこの庭を造りあげた。サクヴィル=ウェストは日本での知名度はかなりいまいちで、小説の代表作『The Edwardians』も、詩の代表作『The Land』も翻訳がない状態。おそらく本国でも彼女の作品は、研究者以外にはそれほど読まれてはいないのだろうと思うが。

ただし全く翻訳がないというわけではなく、日本語で読めるサクヴィル=ウェストの本が2冊だけある。ひとつは『あなたの愛する庭に』という、ガーデニングについての本。これは、サクヴィル=ウェストが日曜紙『オブザーバー』に連載していたコラムや雑誌に掲載されたガーデニングの記事をまとめたもの。作家によるガーデニングといえば、チェコのカレル・チャペックを思い出すが(『園芸家12カ月』・・・かなりおもしろい読み物)、この『あなたの愛する庭に』もなかなか興味深い。さすがに花々や植物の描写がうまいし、それに園芸家の悲喜こもごもが読んでいて楽しい。

サクヴィル=ウェストの作品の翻訳はもうひとつあり、それは『悠久の美 ペルシア紀行』というイランへの紀行文。夫のハロルドがテヘランの大使館勤務をしている頃、彼女はその地を訪れ旅の様子を綴った。これまた生き生きとした豊かな描写で内容もおもしろい。親友(?)のヴァージニア・ウルフもこの本を賞賛している。紀行文も立派な文学ジャンルであるし、こういう翻訳があるのは良かったと思う。

上でヴァージニア・ウルフを「親友(?)」としたが、これはつまり実際にはそれ以上の関係があったということで、そのあたりの事情はサクヴィル=ウェストの息子ナイジェル・ニコルソンによる『ある結婚の肖像』に詳しい。この本はヴァージニア・ウルフとヴィタ・サクヴィル=ウェストの関係を描き出すのが主眼ではなくて、母ヴィタによる若き日の同性との駆け落ちの顛末と、ハロルドとの不思議な結婚生活を残された日記や手紙から再構築したもの。この本が読み物としてもおもしろい証拠に、1990年にBBCでドラマ化されている。

シシングハーストの庭を訪れたことを思い出して、そこからサクヴィル=ウェストの本を3冊取り上げてしまったが、この読書の連鎖反応はまだ続く。さきほどのヴァージニア・ウルフは、この親友ヴィタの生い立ちと一族の起源に興味を持ち、あれこれ調査して(実際、サクヴィル=ウェストの先祖は11世紀にまで遡ることができる伝統ある貴族)、そしてその彼女をモデルにして完成したのが有名な『オーランドー』だった。このあたりからがまさに、イギリス文学という大構築物の本丸に入っていくわけだが、きりがないので今日はこの辺でおしまい。

バンベリー主義者

2005-11-20 09:55:48 | イギリスの小説
「急なことなのですが、親戚のおばさんの具合が悪くなりまして…」

でっちあげの言い訳ナンバーワンは「親戚・友人の病気」かもしれない。あまりに使い古されたため、言い訳としての神通力はかなり薄れていると思うし、ほとんど「見えすいた嘘」レベルのような気がするが、それでも今なお時々耳にする。

もしあなたがこういう言い訳を聞く立場になった場合、一体どう答えるべきだろうか。「そんな叔母さんいましたか?」とか、「君のいとこはよく入院するね」といったリアクションは避けたいところだ。はっきり「行きたくない」とか「したくない」と言ってしまうことで、あなたとの人間関係がざらざらしたものになってしまうことを相手は望んではいないのだ。事なかれ主義というか、まあ、一種の偽善ではある。しかしこれで円滑な人間関係が保たれるのだったら、素直に受け入れたほうがよいかも・・・誰かも「和をもって尊しとなす」と言っているわけだし。「そんな理由では許されません!」などと意地を張って、逆に病気に理解のない非情な人間というレッテルを貼られてしまうのも避けたいところだ。

いずれにしてもこのような、自分の都合を押し通すにしてもダイレクトに断らず、相手に病気を気遣わせて許可を得るやり方は、某古代憲法を引用してしまったが、別に日本の専売特許ではない。オスカー・ワイルドの戯曲『まじめが肝心(The Importance of Being Earnest)』では、登場人物のひとり、アルジャノン・モンクリーフは「バンベリー」という名前の友人をでっちあげ、彼の急病を理由にやりたくないことをキャンセルするのだ。

アルジャノン:…たったいま電報がとどきましてね、友人のバンベリーがまた重態におちいったというんです。…ぼくに来てほしいらしいんです。
(ワイルド『まじめが肝心』西村孝次訳、新潮文庫より)

上の引用で「また」重態におちいったと言っているが、つまり、この言い訳は都合の良いときに繰り返し用いられていることがわかる。劇中のアルジャノンに言わせると、このようにバンベリーを都合よく病気にする人のことを、つまり、自分の都合で物事をでっちあげる人のことを「バンベリー主義者(Bunburyist)」と呼ぶそうだ。

このバンベリー(Bunbury)なる語、あるいはその現在分詞形(Bunburying)を調べるてみると「病人などの理由をでっち上げて、自分の都合を優先させること」みたいな意味で、そこそこ大きな辞書には収録されるくらい一般化しているらしい。ちなみにこの語はWikipediaにも収録されているが、そのBunburyingの項目では、作者オスカー・ワイルドの二重生活(結婚した社交人と同性愛者という両側面)を取り上げ、このような二面性を持つような生活を送ることもBunburying「バンベリーする」と言えるのではないか、と指摘している。実際、『まじめが肝心』の中では、もう一人の登場人物ジョン・ワージングもまた自分の都合で「アーネスト」なる弟をでっちあげているのだが、彼は田舎にいるときはジョンを名乗り、ロンドンではアーネストを名乗る。こういう二重生活的な偽装もまた「バンベリーする」ことだとアルジャノンは言っている。

さて、現在のところ僕は「叔父さんの具合が悪くて・・・」みたいな理由を言うような機会に恵まれず、狭義の、つまり、言い訳として病人をでっち上げるという意味でのバンベリー主義者には、幸か不幸か該当していない模様。では、広義ではどうだろうか・・・うーん、誰だってひとつやふたつ、人には言えないようなことがあるのではないだろうか。別にジキルとハイドのような極端では形ではないとしても。そういう「言えない自分」が多少あるくらいが、ちょうど奥ゆかしく見えていいと思うのだけど(と、開き直ってみる)。

キングズリー・エイミスの『ラッキー・ジム』

2005-11-06 12:20:00 | イギリスの小説
先日までキングズリー・エイミスの『ラッキー・ジム』を読んでいた。ちなみに僕が今回読んだのは、1959年に三笠書房から出版された福田陸太郎訳のもの。今から46年も前に出版された本だ。それから一度も新約や新版は出ていないので、僕みたいに翻訳で楽しむにはこの本しかない。

(話はちょっと逸脱するが、この本は紙函に入り、装丁も革の風合いの仕上げできちんとしている。また、外国人の名前に馴染みのない日本の読者のために、登場人物一覧が作られていて、それが栞にも使えるようになっている。半世紀近くの歳月を経て本自体は茶色くなってきているが、せっかくだから良い本を作ろうという出版社の気持ちが、この丁寧な体裁を通して今でも十分伝わってくる。かつて、このように本が貴ばれ、大切にされていた時代があった。個人的には、初版本にこだわったりとか稀覯本を集めたりする趣味はなくて、本は読めれば十分と思うのだが、この『ラッキー・ジム』のような本は、さすがに大切にしたいと感じてしまう。)

この『ラッキー・ジム』は本国のイギリスで1954年に出版され、たちまち大ベストセラーになった。地方の大学で歴史学の非常勤講師をしている若者ジム・ディクソンが主人公のストーリー。彼の任期はまもなく終わろうとしているが、来年もまたこのポストにありつきたい。そのためには、歴史学部の主任教授で、ちょっと頼りないエドワード・ウェルチの機嫌を損ねないようにせねばならず、ジムは彼に振り回されてしまう。またジムは、クリスティンという女性が気になるが、彼女はウェルチ教授の息子バートランドと付き合っている。ジムはクリスティンを奪えるか、そして、来年度の仕事にありつけるのか・・・という話。

この小説は、もしジャンル分けするとすれば「コミック・ノベル」だろう。随所に苦笑してしまう部分が出てくる。たとえば、列車に乗ろうとしているクリスティンを追いかけて、ジムは駅へ向かうバスに乗るのだが、そういう急いでいるときに限ってバスがノロノロ運転をする:

「町の近くになると、少し車の数がふえて来た。運転手はこれまでの神経過敏な運転ぶりに加えて、更に他の道路使用者の通行に対して異常なまでの思いやりを示しはじめた。引越荷物を運ぶ有蓋トラックから、子供の自転車に至るまで、いかなる種類の車でも、車とさえ見ればこの運転手は時速四マイルまでスピードを落とし、そしてきっと、ゆっくりした、舞踏病患者みたいな手つきで、手招きしたり手をふったりして、先へ行けという合図でもしているに違いない」

ちなみに、こういう急いでいるときに限って老人が幾人も現れて、ノロノロとバスに乗り込んでくる・・・老人ネタは、この手の「コミック」の定番だ。イギリスのテレビでコメディーを見ていると、こういう老人が、別に悪意は無いのだが、主人公の邪魔をしてしまう、みたいな場面にときどき出くわす。

この『ラッキー・ジム』が評判になった理由でもあるが、この本には、当時からすると新しい点がいくつかあった。ひとつは、実際に人々が話したり、考えたりしていることを、エイミスがそのまま率直に描いた点。つまり、それまでの小説では、登場人物たちは、既成概念にとらわれた「丁寧な」話し方や考え方をするが、エイミスはそういう過去の規範から離れて、新鮮な小説を書き上げた。これが読者の心を掴んだ。

もうひとつは、地方都市の郊外の大学が舞台という設定。『ラッキー・ジム』ではロンドンが事実上舞台とならないし、大学にまつわるストーリーだからといってケンブリッジやオクスフォードが舞台でもない。これは目新しい点。19世紀や20世紀初頭に起源を持つ大学が、戦後の「福祉国家」政策や労働党政権下の教育政策によって規模を拡大してきたことが背景にある。このように、大学がより一般化してきたことで、ケンブリッジ・オクスフォードのような超エリート大学ではありえざるような、中流下層風の行動・言動をするジム・ディクソンが大学講師として存在できるのだ。

この『ラッキー・ジム』はキングズリー・エイミスの処女小説で、彼はその後イギリスを代表する作家の一人となる。同じ1954年には、アイリス・マードックとウィリアム・ゴールディングという二人の、これまた戦後イギリスを代表する作家が、それぞれ処女小説『網のなか』と『蝿の王』を出版する。作風は三人ともそれぞれ全く異なるが、今から半世紀も前となってしまったこの1954年は、20世紀後半のイギリス小説史を考えるとき、注目すべき一年だと思う。

(※『ラッキー・ジム』のコミック・ノベルとしての解説については、デイヴィッド・ロッジによる『小説の技法』〔白水社、1997〕に詳しく出ています。)

高速道路と並走

2005-11-04 22:48:08 | イギリスの小説
「線路が高速道路M1と平行している区間では列車がいつも最高速度で走り、列車の旅が優れているということを宣伝するためにすべての乗用車やトラックを追い抜き、その数分後、信号機の故障でラグビー付近の畑の真ん中で止まるのが嫌だ」(デイヴィッド・ロッジ『恋愛療法』より)

これは、この本の主人公ロレンス・パスモアが、ロンドン-ラミッジ(バーミンガムがモデルの都市)間の鉄道(インターシティー)について嘆いた一言。つまり、列車がまともに走るのは高速道路と並走している区間だけだ、と述べている。ロッジのほかの小説同様、この本もユーモア小説だから、物事を極端に述べて笑いを得ようとしているのは確かだが、大方のイギリス人は過度な表現だとは思わないだろう。実際になんだかんだで、よく止まったり遅れたりしてしまうのだ。

こんなことを思い出したのも、東海道新幹線に乗って、東名高速や名神高速が見えたときのこと。さすがにこちらは時速200キロ以上。ふつうに高速道路を走る自動車では追いつくことができない。差は歴然。スピードで言えば「列車の旅が優れている」ことは、十分アピールになっている。さらに、日本の新幹線は信号故障で止まったり遅れたりあまりしない。だから、日本にロッジのようなユーモア小説作家がいても、新幹線をこのようなネタには使えないだろう。

さらに言えば、日本の推理小説によく見られる「寝台列車さくら殺人事件」みたいなものは、イギリスでは実現が困難だ。あんな、1分や2分といった短時間の間隙を突いてアリバイを作るなんて、イギリスでは非現実的。時刻表の時間に、そこまで完全に正確には運行されていないのだ。「殺人」なんていう大それたことを計画する人は、慎重を期すだろうから、鉄道のような時間に信頼できない手段はアリバイ作りとして利用するまいと思う。

ちなみに、パスモアはその後、
「わたしは、運輸大臣が、線路を管理する会社と列車を走らせる会社を分離するという案を発表するまでは、英国国有鉄道の民営化にひそかに賛成していた。そんな案が実施されたらどうなるか、列車の遅れになんと素晴らしい口実を与えるかが想像できる。連中は狂っているのではないか」
と言っているが、実際にはこの通りに、線路や駅、信号などを管理する「レイルトラック社」と、たくさんの運営会社(オペレイター)に分割民営化された。同じ民営化でも、日本の国鉄のように地域会社に分割されたのではなかった。そして、パスモアの心配どおり、列車の遅れは、レイルトラックの線路管理が悪いせいだ、とか、オペレイターがちゃんと列車を走らせないせいだ、とか、なすりつけあいになってしまった。

さらに民営化後、イギリスでは列車の大事故が続いた。とくに、2000年のハットフィールドの事故ではレイルトラック社の保線作業のいい加減さが露呈し、同社は実質破綻してしまった。その後全国一斉に線路の点検が行われ、列車の遅れは増大。ちょうど僕が住んでいたのはこの頃で、鉄道はだめだ、みたいなムードが蔓延していた。

イギリスは鉄道発祥の地。ヴィクトリア朝の以降の小説には、それこそたくさん鉄道が登場する。最近は事故のニュースも聞かなくなったから、改善して順調なのだろうか。『恋愛療法』にあるような鉄道への皮肉が、時代遅れとして感じられる日が来るだろうか。

ロアルド・ダール

2005-10-26 00:50:56 | イギリスの小説
映画『チャーリーとチョコレート工場』(原題『チョコレート工場の秘密 Charlie and the Chocolate Factory 』)の興行成績がまあまあ良いらしい。

監督はティム・バートン。主演はジョニー・デップ。映画にはちょっと疎い僕でも、二人とも知っているくらいだから、そういう面での話題性もあるとは思う。でも、やはりそもそもの原作の面白さがあるに違いない。作者はロアルド・ダール(Roald Dahl)。イギリス人ぽくない名前だけど、ノルウェー出身の両親を持つ、ちょっと異色のイギリス作家。

封切られる映画に便乗して書籍も売ってしまおうという魂胆はどうだろうと思わなくもないが、とにもかくにも、こうやってダールの名前が有名になるのはやっぱりいいことだ。学生時代、同じゼミの友人が彼をテーマに卒論を書いていたので、自分の中では親近感が抜群に高い。一般的な戦後のイギリス作家の中で、彼がものすごくアカデミックかといえば確かに微妙ではあるが、それでもやはり親近感がある。

我が家にはダールの本として『少年』と『単独飛行』がある。いずれも自伝で、とても興味深く、そしてダールらしいと思う点なのだが、両方とも読みやすくて、かつ、シビアさとユーモアに溢れている。

実は映画も観ていないし、彼の小説もあまり読んでいない。だから、わかったようなことはぜんぜん言えない。ただ、この映画をきっかけに、世の中がロアルド・ダールにちょっと興味を持てばいいだろうなあと思ったので。海外の英語圏での知名度はかなり高い作家で、今後は日本でもメジャーになれるだろうか。また、子供向けの本を書いている作家というイメージが強いが、大人向けの小説もあるし、まだまだ評価されていいかもしれない。

今日の読書

2005-10-20 23:40:16 | イギリスの小説
現在、アイリス・マードックの『魔に憑かれて』(原題A Word Child)を読んでいる。

読み始めてから約1週間弱が経過。今日までで約3分の2を読み終えたが、3分の1を過ぎるあたりから、だんだんはまってきた。おもしろくなってきた。こうなってくると、行きの電車の中も、昼休みも完全に読書タイム。帰りの電車もわざわざ最初から最後まで座って帰れるルートを選んで、読書に没頭する状態。

どのように物語が終結するかにもよるが、今まで読んだマードックの小説のうち、『鐘』、『魅惑者から逃れて』、『勇気さえあったなら』と同じくらいおもしろいかな。『本をめぐる輪舞の果てに』もまあまあ楽しめた。しかし、こういうふうに思い出してみると、マードックの小説には、共通するポイントがあるのがわかる。ちょっと「パターン」がある。

いったい、『魔に憑かれて』がどうおもしろいのか・・・これはまたいずれ書きます。とりあえず読み終わってから。