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仙洞御所

2018-01-22 10:16:22 | 京都
2018年1月19日、事前に申請して拝観許可を受け、拝観しました。
パンフレットより「仙洞御所は、皇位を退かれた天皇(上皇、院などといわれる)の御所である。後水尾上皇の御所として江戸時代初期の寛永7年(1630)に完成した。それと同時にその北に接して問う東福門院(後水尾上皇の皇后、将軍徳川秀忠の娘和子)の女院御所も建てられた。古くは内裏のように一定の場所にあったわけでもなく、また必ず置かれたけでもないが、後水尾上皇以来現在の地すなわち京都御所の東南に定まった。後水尾上皇が御存命の間に三度焼失し、その都度再建されてきたが、以降、霊元、中御門、桜町、後桜町、光格の五代の上皇の仙洞御所として使用された。嘉永7年(1854)の大火で京都御所とともに焼失したのを最後に、ちょうどその時上皇がおられなかったこともあり造営がされないままとなった。そのため、現在の仙洞御所には、醒花亭、又新亭の二つの茶室以外に御殿等の建物は全くなく、東側いっぱいに南北に展開する雄大な庭園が往時の面影を残しているだけである。現在の築地塀は安政2年(1855)、京都御所と共に建造されたものである。
 大宮御所とは、皇太后の御所をいう。現在、築地塀内北西にある大宮御所は、慶応3年(1867)に英照皇太后(孝明天皇の女御)のために女院御所の跡に造営されたものである。英照皇太后が東京に移られた後は、御常御殿のみを残して整理され、現在に伝えられている。現在は、天皇皇后両陛下や皇太子同妃両殿下が入洛された際の御宿舎として用いられている。
 庭園は、仙洞御所の作事奉行であった小堀遠州が寛永7年(1630)の御所の完成に引き続いて作庭したもので、古図によれば仙洞・女院御所とも石積みの直線的な岸辺を有する斬新な感覚の広大な池をもっていたようである。しかし、改修拡張等により遠州当時の遺構は南池東岸の一部にわずかに認められるにすぎない。18世紀の前半までに女院御所の庭園(北池)と仙洞御所の庭園(南池)が掘割(ほり)でつながれた。
 総面積9万1千㎡余りで、そのうち大宮御所の面積は約1万6千㎡、仙洞御所の面積は約7万5千㎡である。京都御所、桂離宮、修学院離宮とともに皇室用財産(国有財産)として宮内庁が管理している。
京都府京都市上京区京都御苑3
map
拝観入り口、警察官が警備しています。

案内図



京都大宮御所御車寄
「大宮御所の玄関であり、現在も天皇皇后両陛下や皇太子同妃両殿下が入洛された際に使用されている。」









京都大宮御所御常御殿と南庭
「大正年間に内部を洋風に改め、周りにはガラス戸をはめている。庭には紅梅・白梅、竹林、松が植樹され、『松竹梅の庭』とも伝えられている。」





















北池とその周辺
「仙洞御所の池は、紅葉谷の掘割を境にして北池と南池とに二分される。大宮御所御常御殿の南庭から土塀の潜り戸を抜けると一望に見渡せる雄大な眺望が北池の全景である。造営当初は女院御所の庭であった。池の東に寄せた中島は西から見る景色に奥行きを与え、対岸の樹木の上に遥か紫に霞む東山の峰が借景として採られている。左から右へ池を巡ると、六枚橋が架かる古びた入江の阿古瀬淵があり、その北の小高い丘の上に紀貫之の邸宅跡を示す石碑が立っている。明治8年(1875)の建立である。ゆるやかな汀線に沿って東へ進むと右手に北池をへだてて紅葉山が、左手の土堤上には鎮守社が見える。その向こうはかつては水田があった。中島は鷺島とも呼ばれ、その中を縫って行くと掘割にかかる紅葉橋と呼ばれる土橋へと至る。もはや北池は見えず南池の世界が展開する。」

























鎮守社















鴨さん





























南池とその周辺
「南池の中程に二つの中島がある。中島の一つに西岸から藤棚に覆われた八ツ橋が架けられ、中島と中島を短い石橋でつなぎ、東岸にかけて反橋が渡されるなど、趣向の異なる橋を渡れるように工夫されている。中島や東岸には、とうとうと布落ちる幅80cm、高さ180cmの雄滝、その右手には自然石と切り石を組んだ出島の護岸が見事に眺められる。雄滝に近く、出島西岸の根元に突き出た三畳敷きほどもある大きな平石は『草紙洗の石』と呼ばれ、小野小町と大伴黒主のエピソードがある。さらに南を見れば池の向こうに醒花亭の佇まいが木の間ごしに望まれる。八ツ橋を渡り、葭島を右に見ながら南池東岸を南下し、南岸から西岸一帯の洲浜にそって苑路は北上する。洲浜には楕円形のやや平たい粒の揃った11万1千個ほどの石を池の中まで緩やかに敷き詰めてある。その石一個につき米一升の約束で運ばせたとの伝承があり、『一升石』の別名もある。玉石を敷き詰めた洲浜は京都御所にもあるが、柔らかな広がりを感じさせる点で、ここに勝るものはない。洲浜の西には万葉歌人柿本人麻呂を祀った小社がある。」
八ツ橋と藤棚







洲浜

























又新亭
「明治17年(1884)に近衛家から献上された茶室である。もともとこの場所には、修学院離宮から移築した茶室止々斎があったが、火災により焼失した。茅葺と柿葺の屋根と大きな丸窓を備えた茶室で、中門により内露地と外露地に隔てられ、四つ目垣で囲むことにより結界を設けている。ここだけは佇茶の小天地を形づくっているようである。亭の内外に外腰掛があり、紅葉山裾野の蘇鉄山と相対している。」



















醒花亭
「庭園の最も南の位置に北面している茶亭で、南池を一望する格好の場所にある。正面の玄関には廂を付け出し、腰高障子を入れ、向かって左(東側)は奥に四畳半の書院、手前に五畳の入側(縁側)を取り、書院と入側の境に建具を入れないところが特異である。『醒花』は李白の詩から採られたもので、入側の東、鴨居の上に拓本の額として掲げられている。額の字は中国明の時代の郭子章の筆である。東の庭には『ふくろう』の銘のある手水鉢を据え、飛石を配し、銭型の蹲踞(茶亭の手水鉢)と朝鮮燈籠が植え込みによく調和している。」





















柿本社







お疲れさまでした。具内庁の職員が説明で随行していただきました。後ろから警備員がついて回ります。




 

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