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京都市四条周辺散策

2020-01-18 22:07:32 | 京都
2020年1月15日、南座の観劇ついでに四条周辺を散策しました。大丸京都店で店内を見て回り、東洞院通りを南に進み、次の辻で綾小路通りを東に進む。北側に神明神社にお参り。

神明神社
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駒札より『当地は平安時代末期,近衛天皇(在位1141~1155)がしばしば皇居としたと伝わる藤原忠通(近衛天皇妃の養父)の屋敷跡で,「四条内裏」または「四条東洞院内裡」と言われた。この邸内にあった鎮守の社が神明神社で,天照大神を祭神とし,創建年代は明らかでないが,平安時代から今日まで人々の崇拝の社となっている。社伝によると,近衛天皇の時代,頭は猿,尾は蛇,手足は虎の「鵺(ぬえ)」という怪鳥が毎夜,空に現れ都を騒がせた。弓の名手であったという源頼政は退治の命を受け,神明神社に祈願をこめた後,見事に鵺を退治した。この時使われた弓矢の「やじり」二本が当社の宝物として伝わっており,今でも祭礼の時に飾られる。当社が厄除け・火除けの神と言われるゆえんである。その後,天台宗の護国山立願寺円光院という寺によって管理されていたが,明治初期の神仏分離令によって神社だけが残され,それ以来,神明町が管理を行っている。榎の大木があったので「榎神明」とも言われた。また,当社には豊園小学校内(現在の洛央小学校)に祀られていた文子天満宮(菅原道真を祀る)の祭神が戦後合祀されている。』







東洞院通りに戻り南に進みます。
仏光寺
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説明書より「佛光寺は、越後流罪に遭われた親鸞聖人が赦免された翌年1212年(建暦2)に京都に帰られ、山科の地に草案を結ばれたことを起源としている。親鸞聖人在世当時、真宗の教えは関東を中心に広がりを見せていたが、親鸞聖人がお亡くなりになり、南北朝時代に第7世了源上人が、教化活動の拠点を京都に置き、西日本一帯の布教活動に力を入れた。1320年(元応2)には、寺基を山科から今比叡汁谷(現・京都国立博物館辺り)に移し、1586年(天正14)には豊臣秀吉の懇請により、寺基を五条坊門(現在地)に移した。京都の中心部に移転して400年余り、その間にも多くの苦難に見舞われたが、門末の念仏相続の御懇念によって佛光寺の法灯は守り継がれてきた。」

山門





























阿弥陀堂







渡り廊下





本堂



大行寺
駒札より『長谷山北ノ院と号する真宗仏光派の寺である。寺伝によれば、1821年(文政4)仏光寺高倉の月見御殿(豊臣秀吉が月を賞した御殿)跡に、清和源氏佐竹の流れをくむ学頭信暁僧都によって創建されたと伝える。度々の災禍により焼失し、現在の本堂は1929年(昭和4)に再建されたものである。堂内に安置する本尊阿弥陀如来立像(重要文化財)は、来迎形の阿弥陀で、左足枘外側には「巧匠法眼快慶」の銘が記されている。仏師快慶が法眼位にあった時期の秀作である。また書院には1856年(安政3)信暁によって建てられた仏足跡(石)の断片が残る。大行寺型とも呼ばれ、四系統ある仏足跡の一系統を代表するものであるが、1864年(元治元)の兵火によって粉砕された。境内にある仏足跡は1987年に原図を基に復元されたものである。』



京都市学校歴史博物館

寺町通りに進みます。
浄國寺





永養寺



空也寺







聖光寺
駒札より「錦綾山と号し、浄土宗鎮西派に属する寺である。 寺伝によれば、当地には平安時代後期、仏師康慶の居宅があり、その後園に浄土宗第二祖聖光房弁長(鎮西上人)の草庵があったといわれている。弁長は、ここから8年間、法然上人の許に通い、浄土宗の法灯を受け継いだと伝えられている。  当寺は1204年(元久元)、弁長の帰郷に際し、康慶がその別離を悲しみ、弁長自身の真影をこの草庵に奉安し、聖光庵と名付けたことに始まるといわれている。本堂には、鎌倉時代の作と伝えられる嵯峨式釈迦如来立像を安置し、寺宝としては清海曼荼羅、当麻曼荼羅の二幅を蔵している。また、境内には大石良雄の母と、綿屋善右衛門好時(天野屋利兵衛)の墓がある。」



透玄寺



京都大神宮
説明書より「当初、伊勢神宮の布教機関であった神宮教の京都教会所に由来し、神宮奉斎会京都地方本部として、創建されました。本殿は、一条家の玄関及び書院を移築したもので、唐破風の優美さは、日本有数といわれており、この唐破風を模した建築物も作られたと伝えられています。」









春長寺



冠者殿社
説明書より「八坂神社の境外末社。官社殿社と表記されることもある。御祭神は八坂神社と同じであるが、ここは荒魂を祭る。荒魂とは和魂と対をなすもので、神霊のおだやかなはたらきを和魂、猛々しいはたらきを荒魂といい、全国の神社の本社には和魂を、荒魂は別に社殿を設け祭るという例が多い。もとは、烏丸高辻にあった八坂神社大政所御旅所に鎮座していたが、1591年(天正19)に豊臣秀吉の命により、御旅所が現在地に移転した時、樋口(万寿寺通)高倉の地に移され(現在の官社殿町)、さらに慶長のはじめに現在地に移された。1912年(明治45)、四条通拡幅に伴い旧社地より南方に後退している。毎年10月20日の祭りを俗に「誓文払い」という。昔の商人は神様に商売ができることへの感謝と、利益を得ることに対する償いの意識をもっていました。この感謝と償いの意識により年1回の大安売りをして、お客様に利益を還元する商道徳がしっかり守られていました。この本来の誓文払いの精神を継ぎ、商人の方々は商売繁盛を、一般の方々は神様の清き心を戴き家内安全で過ごせるよう願って10月20日に大勢参拝されます。」



八坂神社御旅所

錦市場































聖願寺
駒札より「667年(天智天皇6)、天皇の勅願により創建された。本尊の阿弥陀如来坐像は賢問子。芥子国の作であった。もとは奈良にあったが、鎌倉初期に京都の一条小川に移転し、その後、1591(天正19)に豊臣秀吉の寺町整備に際して現在地に移された。その当時は京都有数の巨刹の規模を有し、表門は寺町六角に面し、裏門は三条通に北面し、境内地6六千五百坪には多数の伽藍を有し、十八ケ寺の山内寺院を擁していた。清小納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺としても名高い。また源信僧都は、当寺にて善財講を修し、一遍上人も念仏賦算を行った。浄土宗元祖の法然上人が興福寺の蔵俊僧都より当寺を譲られて以降、浄土宗になったという。現在は、法然上人の高弟・西山上人善恵房證空の流れを汲む浄土宗西山深草派の総本山である。」











誠心院
駒札より『華嶽山東北寺誠心院と号する真言宗泉涌寺派の寺で、才色兼備で知られる平安時代の代表的な女流歌人、和泉式部を初代住職とする。寺伝によれば、関白藤原道長が、娘の上東門院(藤原彰子)に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが当寺の起りとされる。当初、御所の東側にあったが、鴨川の氾濫などにより一条小川に移築再建され、更に天正年間(1573~1591)、豊臣秀吉の命令でこの地に移された。本堂は小御堂と呼ばれ、、堂内には、本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの像を安置している。境内には、和泉式部の墓と伝える宝篋印塔及び和泉式部の歌碑が建てられている。また、傍らの梅の木は、式部が生前愛した「軒端の梅」にちなんで、後に植えられたものである。』











宝篋印塔(和泉式部の墓)

西光寺(通称寅薬師)
駒札より「浄土宗西山深草派に属する寺院で、本尊は阿弥陀如来像。創建年代は不祥であるが、「宮中にあった寅薬師如来像を、後宇多天皇が当寺に下賜し御倉堂として開基した」という寺伝によれば、1279年~1282年頃(弘安2年~5年)の創建となる。薬師如来は、弘法大師空海の作であり、成就したのが寅の日の寅の時刻であったことから、「寅薬師如来」と称され、参拝する多くの人々にとって身近にある寺として親しまれる中で、「寅薬師」が「西光寺」の通称名となった。」



安養寺(倒蓮華寺)
駒札より「浄土宗西山禅林寺派に属する寺で、本尊の阿弥陀如来の蓮華の台座が逆さになっていることから、倒蓮華寺とも呼ばれている。寺伝によれば、本尊を作る際、台座がどうしても壊れるので、蓮華の台座を逆さにしたところ、阿弥陀如来像が無事安置できたという。また、昔は女性蔑視が強かったことから、女性は業が深く、心の中の蓮華が逆さになっていて極楽浄土に往生できないといわれていたため、それを救うためにわざと蓮華を逆さにしたとも伝えられ、女性を救う阿弥陀如来として信仰されてきた。平安時代の1018年(寛仁2)に恵心僧都が奈良県當麻に建てた蓮台院が当寺の起こりで、その後、恵心の妹・安養尼が引き継-いで、安養寺と名を改めた。1110年頃(天永年間)に京都に移され、天正年間(1573~1592)に豊臣秀吉によって、寺院が建ち並んだ通りは寺町通と呼ばれるようになり、新京極通の名はその東側に新たに造られた通りであることに由来する。」





善長寺





錦天満宮























大丸京都店のさくら茶屋で昼食
豆腐弁当

幕の内弁当

寺町通商店街





新京極通り
豆柴カフェ

ふくろうカフェ

鮮や一夜楽蔵、橋本町のマクドナルドの2階、個室の居酒屋
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付きだし

刺身盛り合わせ

天ぷら盛り合わせ

イカ焼き

個室とのことですが、テーブルに2人で狭く、窓がない。狭い部屋。会計でゲッ。注文した金額より高いので、なぜかと思いきや、お席料(お通し)580円/人が加算されていた。

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