明日は娘の12回目の誕生日です。
なんだかんだありましたが、ここまで大きくなってくれて一安心ですわ。
女房が痛みに弱い体質ということで、四街道にある無痛分娩をしてくれる産院に通い、陣痛が始まったのは12月1日の夜だったかな?
それから30時間以上してから娘が出てきたのですが、なかなか出てくることもなく鉗子を使って引っ張り出したとか。
そして、生まれたときには産声が聞こえず「だ丈夫か?」と心底心配しましたが、なんとか母親の病室に移ることができてホッとしたのを昨日のように思い出します。
女房は体に良いからといって、妊娠中は毎日のようにヨーグルトにゴマとキナコをかけて食べていましたが、それが原因かどうかはわかりませんが、娘の離乳食が始まった途端に全身に脂漏性湿疹が発生。
いよいよ酷くなってきてアレルギー検査をしたら、まんまと乳、ゴマ、大豆の値が突き抜けて高かったのでした。
それからというもの、江戸川区にあるクリニックへ通いながらの除去食を続け、小学校の2年になるころには食品に対するアレルギー反応も収まったのでした。
まあ、アレルギー対応もさることながら、ちょっと発達障害もあったしね。
あれは義父、そう、娘の爺さんが癌で亡くなり葬儀を出していた時の事、娘が異常なまでに場の雰囲気になじむことができずに、パニック状態が2時間も3時間も続いてしまい、これはなんか変じゃね?と不審に思ったのが始まりでした。
思えば音に対する拒否反応や、ルーティンを外れたときのパニックの起こし方など、発達障害を疑うにあまりある行動が見られていたのを、後から本を読んだりしてはっきりと認識したのでした。
義母や私の母は「発達障害」について、勉強すればするほど受け入れられないらしく「こんな子供は昔からたくさんいて普通だよ」などと何の解決にもならないことを言っていましたが、私たち夫婦は事実を受け止め、今後この子にとって最善のサポートは何か?を考え行動していったものです。
まずは児童相談所へ
私にとって児童相談所と言えば、悪さをした子供が向かうところというイメージがあったのですが、子供の発達障害を疑ってから初めて相談したのが児童相談所でした。
まあ、児相では色々なテストをやらされましたが、落ち着きのない子供にとっては苦痛以外の何物でもなかったでしょうね。
それでも障害認定を受け療育手帳を受け取りました。
その後は、佐倉市の療育施設に通いながら言語相談やら何やらたくさんの相談をしながら、この子を受け入れてくれる幼稚園を探しまわりましたね。
療育施設の名前は「さくらんぼえん」そして、この子の受け入れを決めてくれたのが「さくら幼稚園」
佐倉に住んでいたからか「さくら」に縁がありました。
この両方の施設を掛け持ちで通いながら、なおかつアレルギー対応の食事を作ったりして、女房はそれはそれは大変な毎日を送っていたと思います。
そんな娘ももう6年生。年が明けたら中学入学です。
小学3年に上がると同時に広島に転居し、学年の人数も少ないことから思い切って普通学級に在籍させ、特別支援は受けずに通わせました。
色々と不安はありましたが、同級生の出来が良かったのか問題もなく進級してきました。
運動はオンチ、けれど小学生レベルの勉強であればトップクラスの成績を収め、特に社会の記憶問題は常に好成績を取り続けています。
しかしながら、応用問題や文章問題などはからきし苦手で、親の説明下手も手伝ってなかなか成績が上がらないので、中学校での勉強にちょっと不安が残ります。
これからの娘の目標は、大人になってなんとか社会人になれるよう、基礎的な勉強とコミュニケーションの練習をしていきればと考えてます。
まだまだコミュニケーションの取り方は苦手で、他人への話しかけができなかったり、人から話かけられた時の対応の仕方などできないことも多いですが、中学に行っても一クラス25人前後と少なめの時期に、できるだけ人とのかかわり方を覚えてくれればと思ってます。
中学校からはバス通学も始まるので、ますます稼がなくてはいけませんね。
一日も早く、子供たちの為にも職を探せればと思う今日この頃です。
ではまた(^^)/~~~
なんだかんだありましたが、ここまで大きくなってくれて一安心ですわ。
女房が痛みに弱い体質ということで、四街道にある無痛分娩をしてくれる産院に通い、陣痛が始まったのは12月1日の夜だったかな?
それから30時間以上してから娘が出てきたのですが、なかなか出てくることもなく鉗子を使って引っ張り出したとか。
そして、生まれたときには産声が聞こえず「だ丈夫か?」と心底心配しましたが、なんとか母親の病室に移ることができてホッとしたのを昨日のように思い出します。
女房は体に良いからといって、妊娠中は毎日のようにヨーグルトにゴマとキナコをかけて食べていましたが、それが原因かどうかはわかりませんが、娘の離乳食が始まった途端に全身に脂漏性湿疹が発生。
いよいよ酷くなってきてアレルギー検査をしたら、まんまと乳、ゴマ、大豆の値が突き抜けて高かったのでした。
それからというもの、江戸川区にあるクリニックへ通いながらの除去食を続け、小学校の2年になるころには食品に対するアレルギー反応も収まったのでした。
まあ、アレルギー対応もさることながら、ちょっと発達障害もあったしね。
あれは義父、そう、娘の爺さんが癌で亡くなり葬儀を出していた時の事、娘が異常なまでに場の雰囲気になじむことができずに、パニック状態が2時間も3時間も続いてしまい、これはなんか変じゃね?と不審に思ったのが始まりでした。
思えば音に対する拒否反応や、ルーティンを外れたときのパニックの起こし方など、発達障害を疑うにあまりある行動が見られていたのを、後から本を読んだりしてはっきりと認識したのでした。
義母や私の母は「発達障害」について、勉強すればするほど受け入れられないらしく「こんな子供は昔からたくさんいて普通だよ」などと何の解決にもならないことを言っていましたが、私たち夫婦は事実を受け止め、今後この子にとって最善のサポートは何か?を考え行動していったものです。
まずは児童相談所へ
私にとって児童相談所と言えば、悪さをした子供が向かうところというイメージがあったのですが、子供の発達障害を疑ってから初めて相談したのが児童相談所でした。
まあ、児相では色々なテストをやらされましたが、落ち着きのない子供にとっては苦痛以外の何物でもなかったでしょうね。
それでも障害認定を受け療育手帳を受け取りました。
その後は、佐倉市の療育施設に通いながら言語相談やら何やらたくさんの相談をしながら、この子を受け入れてくれる幼稚園を探しまわりましたね。
療育施設の名前は「さくらんぼえん」そして、この子の受け入れを決めてくれたのが「さくら幼稚園」
佐倉に住んでいたからか「さくら」に縁がありました。
この両方の施設を掛け持ちで通いながら、なおかつアレルギー対応の食事を作ったりして、女房はそれはそれは大変な毎日を送っていたと思います。
そんな娘ももう6年生。年が明けたら中学入学です。
小学3年に上がると同時に広島に転居し、学年の人数も少ないことから思い切って普通学級に在籍させ、特別支援は受けずに通わせました。
色々と不安はありましたが、同級生の出来が良かったのか問題もなく進級してきました。
運動はオンチ、けれど小学生レベルの勉強であればトップクラスの成績を収め、特に社会の記憶問題は常に好成績を取り続けています。
しかしながら、応用問題や文章問題などはからきし苦手で、親の説明下手も手伝ってなかなか成績が上がらないので、中学校での勉強にちょっと不安が残ります。
これからの娘の目標は、大人になってなんとか社会人になれるよう、基礎的な勉強とコミュニケーションの練習をしていきればと考えてます。
まだまだコミュニケーションの取り方は苦手で、他人への話しかけができなかったり、人から話かけられた時の対応の仕方などできないことも多いですが、中学に行っても一クラス25人前後と少なめの時期に、できるだけ人とのかかわり方を覚えてくれればと思ってます。
中学校からはバス通学も始まるので、ますます稼がなくてはいけませんね。
一日も早く、子供たちの為にも職を探せればと思う今日この頃です。
ではまた(^^)/~~~