美杉の小さな庭でおきていること ~カフェ葉流乃音のつれづれ~

 町ナカ(大阪府堺市)から
 山ナカ(三重県津市美杉町)に移住した店主夫婦が
 日々のアレコレを写真とともに綴ります

めざせ!アサギマダラの郷

2019年10月20日 | 美杉とその周辺のイイトコ

 

10月の半ばくらいから “渡り蝶” のアサギマダラが、美杉に飛来しています!

海を渡り、2000km以上も旅をするそうです・・・

 

 

美杉では “アサギマダラの郷” をめざして

アサギマダラが大好きな “フジバカマ” をあちらこちらで栽培しています。

こちらは今年、伊勢奥津の駅近くにできたフジバカマ畑。

美杉中学校の皆さんの手によるものです。

 

 

フジバカマにはピンクと白があって

開花すると、ふんわりあま~い香りがあたりに漂います。

 

 

ここのところの雨続きで観察もままならず、少しの晴れ間がチャンス!

日がさして、空気があたたまってくると

甘い香りに誘われて、集まってくるようです♡

 

 

アサギマダラだけでなく、他の蝶も集まっています。

 

 

身体は黒地に白の水玉模様で、なんともオシャレ!

羽の白い色に見える部分が “浅葱色” をしているので、アサギマダラと呼ぶとか。

確かにこの日飛んでいたアサギマダラの中で

ひときわ美しい灰がかった水色をした個体が優雅に飛んでいました。

 

 

花にとまった瞬間は、羽を閉じたり広げたり・・・

食事に夢中になると、羽は閉じたまま・・・

時折思い出したように、羽を広げてはまたすぐ閉じます。

広げた羽は5~6cmだそうですが、飛ぶともっと大きく感じます。

 

 

なので、羽を広げた姿をカメラに収めるには 「 “置きピン” をして待て」と

美杉でアサギマダラの写真といえばこの人!というヒトに教えてもらいました(^^)v

 

 

光に透ける羽の模様が繊細な切り絵のようで、本当に美しい~♡

アサギマダラとたわむれた、シアワセ~な朝のひとときでした。

 

 

須郷の里のへなちょこカメラマン、はるのん2号の写真が使われた案内看板。

須郷の里の入り口、雲出川にかかる宮城橋の手前に立ってます。

どうぞお見逃しなく~(^O^)/

 

                                           はるのん2号

 

コメント (12)
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10月11月の営業予定と父のこと

2019年10月07日 | カフェ葉流乃音の営業予定とお知らせ

10月11月の営業予定を以下のように変更させていただきます。

よろしくお願いいたします。

 

父の逝去に際し、温かいお言葉をいただき、ありがとうございました。

また、臨時休業でご迷惑をおかけしたお客さまもいらしたかと思います。

申し訳ありませんでした。

 

父は「最高の人生やった」と言って旅立っていったようです。

あの人にしては、ちょっとカッコ良すぎたような気もします。

今から7年前、福音館書店が出している『母の友』という雑誌に

父親のことを書かせていただく機会がありました。

父への追悼がわりに、ブログに載せさせていただこうと思います。

お時間のある時にでもお読みいただけたら幸いです。

                       はるのん1号

 

 

 

        *** はるじいの背中 ***

 

 僕の父親は今年で79歳になる。面と向かっては「おとん(お父さん)」と呼びかけるが、

連れ合いとの会話の中では、「はるじい(名前の晴次をもじったもの)」で通っている。悪い

ひとではない。基本的には気持ちも優しい。でも、若いころから、良く言えばマイペース、悪

く言えば自分勝手なところがあり、僕にとってはずっと「尊敬できる父親」ではなかった。最

近では、それに年齢相応の失敗談も加わってきた。

 父親を「はるじい」と呼んで、かわいいと言いだしたのは再婚した連れ合いだ。彼女は昔の

彼の姿を知らないから「かわいい」などと言えるのだろう。でも、それが良かった。はるじい

と呼ぶことで、僕は少し客観的に父親を見れるようになった。

 ふつう父親というのは、子どもに何かを伝えたいとか、こんなふうに育って欲しいと考える

ことが多いと思う。でも、はるじいにはそういう要素がまるでなかった。放任というのではな

い。たまにではあったが、社会のルールを守るようにと言われたことはある。でも、自分の子

どもだからという理由で、僕たち(僕と兄)に特別なにかを期待するということはなかった。

 はるじいは僕たちに、「ひとに迷惑をかけない限り好きにしたらいい」とよく言っていた。

将来、自分たちの面倒を見て欲しいと言われた記憶もない。僕がはるじいに感謝している部分

があるとすればそこだ。おかげで僕は若いころから、「親の意向を気にする」などという言葉

とは無縁で、自分のしたいことをしたいようにしてこれた。

 こんなふうに書くと、はるじいは腹の座った、物事にこだわらない立派な人物に見えるだろ

うか。もしかしたらそうなのかもしれないけれど、僕はたぶん違うと思う。はるじいの考え方

は、育ってきた時代や環境に大きく影響されたものだと思うのだ。

 はるじいは、昭和8年、戦時中に生まれた。終戦を迎えたのは小学6年のときだ。小学4年

のころから学校にはほとんど行かずにペンキ塗りの仕事をしていて、忙しくて卒業式にも出ら

れなかったので、自分は小学校中退だと言っている。煙草は小4で働きだしたときから吸って

いたらしい。(余談だが、はるじいが60歳で定年を迎えるとき、「まだまだ元気やねんから

再雇用に応じたら」というと、「俺は10歳の時から働いてきたんやから、もう十分や」と言っ

ていたのが今も印象に残っている。)

 はるじいは成人する前に自分の父親を亡くしている。かなり酒癖の悪い人だったらしく、祭

の振る舞い酒をしこたま飲んで酔っぱらっているのを、まだティーンエイジャーだったはるじ

いがひっぱたいて家に連れ帰ったこともあったという。

 20歳過ぎに母親と結婚するが、それは自分の兄に縁談がきて家を出なければならなくなり

(貧しくて家が狭かった)、急きょ見合いをして南野の家に婿入りすることになったからだ。

(ついでに書いておくと、母親も2歳のときに貰われてきた養女なので、ふたりとも元の姓は

南野ではない。)本当にお金がなかったので、父親が結婚の持参金代わりに持ってきたものは、

花嫁である母親が買い与えた2枚のシャツだけだったという。

 結婚して子供が生まれても、親方に給金の前借りをしては酒やギャンブルなど遊びごとに使っ

てしまうので、給料日になっても家にはほとんどお金がないというようなこともあったらしい

(母親談)。

 そういう状況を見かねた知り合いがいたのだろうか。誰だかに勧められて、ペンキ職人から

一転、銀行の庶務係として働くことになり、結局、定年まで勤め上げた。僕は小さすぎて覚え

ていないが、あまりの職場環境の変化にちょっとおかしくなったこともあるらしい。

 根っからの庶民の子であるはるじいは、自力でたくましく精一杯生きてきた。職人時代など

に、仕事上でいろいろ指図されることはあっただろう。でも、自分の生き方について誰かに指

図されることなど一切なかったんじゃないかと思う。そういう時代だったのだ。

 はるじいが僕たち兄弟を愛してくれていたのは間違いない。しょっちゅうお土産を持って帰っ

てきてくれたし、正月には家族で映画を見に行ったり、気候のいい時にはハイキングに出かけ

たりもした。

 でも、僕が一番よく連れて行かれた場所はというと、パチンコ屋や競艇場だったし、狭い家

に自分の同僚を呼んで、酒に酔い大声で牌をジャラジャラいわせながら朝まで麻雀をするので、

ふすま一枚隔てて布団に入っている僕たちが寝られなかったことも一度や二度ではない。

 結局、はるじいは自分の好きにしていただけなのだと、今から振り返るとよくわかる。だか

らこども達にも、ああだこうだとうるさく言わなかったのだ。

 僕には、両親ともが養子だという少し珍しい状況もあった。両親は「南野の家」というもの

に対する執着が全くない。その影響だと思うが、僕も「一族」だとか「名前」だとかいうもの

に特別な意味を感じない。名前などは人を便宜上区別するための記号に過ぎないという認識だ。

 「血のつながり」という言葉を聞いても特別な感情は起きない。両親とも養子だったので当

然だけれど、一緒に暮らしていた祖母と僕は全く血がつながっていなかった。でも、祖母は僕

にとって大切な肉親だった。血のつながりがひとを結び付けるのではない。

 はるじいの背中は、言葉では僕に何も語りかけてはこない。でも、大切なのは制度や枠組み

ではなくて、個人と個人のつながりなのだと、そんなことをずっと示してくれていたのではな

いかと思う。あるいは、何ものにもしがみつかない態度とでも言えばいいだろうか。

 自分が50歳を過ぎたということもあるのかもしれないが、最近、父親を見る目が本当に変

わってきた。父と子の関係というのは、案外そんなものかもしれないという気がする。

コメント (7)
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