惚けた遊び! 

タタタッ

はじめての哲学

以下のキ-ワ-ドをコピペして右サイドのこのブログ内で検索でお楽しみください。 → 情緒 演繹 帰納 内臓感覚 遊行寺 戦争 参考文献 高野聖 力業 ギリシャ 暗号 ソクラテス 香取飛行場 j・ロック 身体 墓 禅 401k 井筒 気分 講演 説話 小説 旅行 野球 哲学 空海 イスラ-ム かもしかみち 長安 干潟 民俗学 混沌 画像 大乗起信論 定家 神話 フェルマー 遊行 国家 気分の哲学  書評 飯島宗享 

抜粋 オクタビオ・パス『弓と竪琴』牛島信明訳 岩波文庫 2011 (1)

2018年10月19日 | 読書
 


 そしてポエジーは、ポエマ(詩)の創造よりはむしろ、詩的瞬間の創造を、それ本来の目的として持つことは出来ないのだろうか? ポエジーにおける普遍的感応は可能であろうか?


 いわゆる〈詩作法〉というものは伝達不可能である。なぜならそれは処方箋に基づいているわけではなく、ただその創作者にとってのみ意味を持つ発明によっているからである。


 詩人がスタイルや作法を獲得すると、彼は詩人であることをやめ、文学的からくりの建造者になってしまう。


 多くの場合、色や音は発話よりも大きな喚起力を持っている。


 人間の世界は意味の世界である。それは曖昧性、矛盾、狂気、あるいは混乱を耐えることは出来るが、意味の欠如を耐えることはできない。


 詩において言語は、散文や日常的談話に帰順することによってもぎとられていた、原初的な創造力を取り戻す。


 両面価値的存在である詩語は、十全にその本来あるべきもの――リズム、色、記号内容――であると同時に、またそれ以外のもの――イメージ――でもある。


 ポエジーは、石、色、ことば、そして音をイメージに変える。イメージであるというこの二番目の特徴、そして聞く人に、あるいは見る人にイメージの星座を喚起するこの奇妙な力は、あらゆる芸術作品を詩にかえる。


 詩は言語――意味と、意味の伝達――であり続けながら、言語の彼方にある何かである。


 愛とは、人間に開かれた合一と参加の状態である。愛の行為において意識は、高くうねり上がった波、折れてくだける直前にあらゆるもの――形と運動、上昇力、そして引力――がそれ自体に依存して、なんら支柱なしにバランスを保っている、頂点に達した波のようになる。運動の静寂。


 詩は瞑想であり、それによって、諸々の時間の父である原初的な時間が瞬間のうちに具現する。連続は純粋な現在、つまりそれ自体を養い、人間を変える泉と化す。


 そしてわれわれが、その詩のことばを忘れてしまい、またその香気や意味などが消え失せてしまつていても、その瞬間の感動、まるで溢れ出る時間であり、時の連続という防波堤を破壊する高潮であったあの感動は、依然としてわれわれの内に生き生きとしているのである。なぜなら、詩は純粋な時間に近づく道であり、存在の始原の海への没入だからである。ポエジーとは時間であり、絶えず創造的であるリズムに他ならない。


 子路「先生は、何をまっさきに、やられますか」。すると孔子は言った――「きっと名称の整頓からはじめるだろう」(吉川幸次郎訳)


 ことばはわれわれの唯一の現実であるか、少なくとも、われわれの現実の唯一の証拠である。言語を欠いた思想もなければ、認識対象も存在しない――人間が未知の現実を前にしてなす最初の行為は、その名称を創り、それに命名することである。われわれの知らぬものは、名づけられていないものである。


 動物の叫び声はなにかを示唆し、何かを言おうとする。すなわち、意味作用を持っているのだ。そしてその意味は他の動物たちに受容される、いってみれば、理解されるのである。そうしたことばにならない叫び声は、意味を備えた共通の記号体系を構成している。


 マーシャル・アーバンの「ことばの三部帰納」
 ❶まずことばは、指示あるいは明示するもの、つまり名称である。➋ことばはまた、間投詞や擬音語の場合のように物理的あるいは精神的刺激に対する本能的もしくは自発的対応である。❸さらにそれは、表象、つまり記号やシンボルでもある。意味作用は指示的、情緒的、表象的なものである。


 あらゆる言語表現には、この三つの機能が異なったレベェルで、そして様々な強度で現われる。


 指示的かつ情緒的要素を含まないような表象は存在しない。


 人間は話すよりも前に身ぶりをする。身ぶりや動作は意味作用を持っている。そしてそこには、言語の三つの要素――指示、情緒、表象――が見られるのである。


 おそらく人間の最初の言語は、模倣的な、そして魔術的なパントマイムであったのだ。肉体的動作は、類推思考の法則に支配されて、対象および状況を模倣し再現するのである。


 人間とは、言語を創造することによって自己を創造した存在である。ことばを介して、人間は自らの隠喩となる。


 魂とはひとつの不可分の全体である。もし肉体と精神の間に境界を画することができないのなら、どこで意志が終わって純粋な受動性が始まるのか判定することもできない。魂のそれぞれの表出は、常に全体的なものとしてなされる。その個々の機能に、他のあらゆる機能が現われているのである。絶対的受容性の状態への没入は意欲の破棄を意味しない。


 「無を求めて」(サン・フワン・デ・クルス) 無自体が希求の力によって積極的なものになる。


サン・フワン・デ・クルス
スペインのキリスト教神秘家、詩人、聖人。通常「十字架の聖ヨハネ(サン・フアン・デ・ラ・クルス)」の名で知られる。マドリードの北西アビラ県フォンティベロス出身。洗礼名はフアン・デ・イエペスJuan de Yepes。サラマンカ大学で学ぶ。1563年、21歳のときカルメル会に入って聖職の道を歩むが、自ら積極的に進めた同修道会刷新運動がもとで逮捕され、約8か月後に決死的な脱獄を果たし、執筆活動と宗教活動を続ける。神との一致という主題をみごとな隠喩(いんゆ)を駆使して甘美な恋愛詩に仕上げた代表作『聖霊頌歌(せいれいしょうか)』(1584)は、近代の詩人たちへの影響が大きい。また神学的知識を背景とした散文作品は、自らの詩の注解、神秘体験の分析的説明になっている。1585~87年アンダルシアの管区長となったが、91年12月14日、同地方ウベタの修道院で死去。(コトバンク[清水憲男])


 涅槃も同じような、積極的受動性、休息たる運動という様相を呈する。


 受動性の諸状態――内的空虚の体験から、その反対である存在の充溢にいたる――は、主体と客体の二重性を破る確固たる意志の行使を必要とする。


 適切な姿勢で座して動かず、「自分の鼻先を平然と凝視している」完全なヨガ行者は、その完璧な自己支配ゆえに忘我にいたるのである。


 われわれは誰しも、没我の境地に達することがどれほど困難であるかを知っている。この経験は、人間の典型として放心型、没入型、さらに内向型までを提示している、われわれの文明の支配的傾向に対立することになる。


 自己を滅却した人間は、現代世界を否定する。


 自己を滅却した者は理性と覚醒の彼方に何があるのか、と自問する。自己滅却とはこの世の裏面に惹きつけられることを意味する。意志は消失するわけではなく、ただその方向を変えるだけである。すなわち、分析力に奉仕する代わりに、分析力がみずからの目的のために精神力を搾取するのを妨げるのである。


 サン・フワンの〈黙せし音楽〉や老子の〈空虚は充実〉といったことばを思い起こしてみよう。受動的状態は単に沈黙と空虚の経験ではなく、積極的かつ充実した瞬間の経験である――
存在の中核からイメージが噴出するのである。「真夜中に、わたしの心が花を咲かせる」とアステカの詩は歌っている。


 意志の麻痺は精神の一部しか侵さない。ある部分の受動性は他の部分の積極性を促し、分析的、思弁的、論証的傾向に対する想像力の勝利を可能にする。


 いかなる場合にも創造的意志は消滅しない。それなくしては、現実との同一化の扉は無情にも閉ざされたままになる。


 詩人はことばを、その日常的な関係と必要性から引き離す――言行為の不定形な世界から分離されたことばは、あたかも生まれたばかりのように、唯一のものになる。


 ホメーロスの詩は、「現実には一度も話されたことのない、文学的かつ人工的な方言で書かれた」(アルフォンソ・レイエス)のである。


 作品の難解性に関しては、あらゆる詩が当初は難解さを呈するものだと言わなければならない。詩的想像は常に、惰性的な水平状態にあるものの抵抗に直面する。……。確かなことは、あらゆる作品の難解さはその斬新さに在るということである。習慣的な機能から切り離され、会話やスピーチとは異なる秩序によって結合されたことばは、刺激的な抵抗感をもたらすものである。


 われわれから苦痛や、歓喜や、その他さまざまの感情を引き出す語句や感嘆詞は、言語の単なる情緒的価値への還元である。


 詠嘆によって指示された現実は名づけられぬままの状態にある――そこに在るのだが、実在しているわけでも、欠如しているわけでもなく、今まさに現われるか、さもなくば永遠に消滅せんとしているのである。それはひとつの緊迫状態であるが、何の緊迫であろうか?


 詩――語る口であり聞く耳である――は詠嘆が名づけることなく指示するものの啓示であろう。わたしは啓示と言っているのであって、説明ではない。


 詩とはある詠嘆の展開である。(ヴァレリー)


 詩のお陰で言語はその始原的状態を取り戻す。まず第一に、一般に思考によってさげすまされてきた、その柔軟な、音響的価値、第二に、情緒的価値、そして最後に、意味的価値である。詩人の仕事たる言語の純化とは、言語にその始原的性質を返すことを意味する。


 あらゆる言語的現象の奥には、リズムがある。ことばは、ある種のリズムの原則に従って、結合し離散するのである。


 詩とはリズムに基づいた句のかたまりであり、言語的秩序である。


 リズムはある期待感を誘発し、ある切望を惹起する。もしそれが中断すると、われわれはショックを覚える。何かが崩れたからである。もしそれが継続するならば、われわれは、的確には表現し難い何かを待ち望むことになる。リズムはその〈何が〉到来した時にのみ鎮められるであろうような心理状態を、われわれの内にかもしだすのである。それはわれわれを、待ち望む状態に置く。


 われわれはリズムとは、それが何であるか判然とはしないが、とにかく何かに向かって行くことであると感じる。あらゆるリズムは何らかの方向であり、意味である。


 もし言語が、ある秘めたリズムに支配された句と言語的連想の連続的振子運動であるとするならば、そのリズムを再生すれば、われわれはことばに対する力を獲得することになろう。


 詩の言語は詩人の内に在って、ただ詩人に対してのみ啓示される。詩的啓示とは内的探求を意味する。探求といっても、内省や分析とは似ても似つかない。それは探求というよりはむしろ、イメージの出現に都合の良い受動性をもたらすような精神活動である。


 マラメルの偉大さは、単に、宇宙の魔術的写し――〈宇宙〉としての〈作品〉――となるような言語を創造せんとする企図にあるのではなく、なかんずく、その言語を演劇、つまり人間との対話に変えることの不可能性に対する意識にあるのである。


 リズムの中に、〈何か〉に向かって自らを投げ出すのが、われわれ自身なのである。


 リズム(ritmo)は儀式(rito)だったのである。


 世俗的日付と違って聖なる日付は、計測などではなく、超自然の力をはらんだ、そして一定の場所で具現する、生きた現実である。


 神話とは、現在において実現しうる未来であるところの過去である。


 常に今日となりうる過去である神話は、常に具現され、そして再生される状態に置かれた、ひとつの浮動的な現実である。


 さらにアリストテレスは、この模倣的再生の本来の目的は、類似、あるいは比較を介しての観照であるとつけ加えている。従って、隠喩が詩の主たる手段である。というのも、互いに離れている対象、あるいは相対立する対象を近づけ、類似したものにするイメージを通して、詩人はこれはあれに似ていると言うことができるからである。


 「模倣とは現物を写そうとすることを意味するのではなく……、その結果がものを実在させることになるあらゆる行為を意味する」(ガルシーア・バッカ)


 「事物がいかに生起したかではなく、われわれがどのように生起することを望んだか、を語ることが詩人の任務である」とガルシーア・バッカは述べている。詩の王国は〈かくあれかし〉である。


 詩人は〈願望の士〉である。事実、詩とは願望である。


 イメージとは、願望が人間と現実との間に架ける橋である。〈かくあれかし〉の世界は、類似の比較によるイメージの世界であり、その主たる手段は〈如し〉ということばである――これはあれの如し。しかし、〈如し〉を省いてしまい、これはあれであると言う、もうひとつの比喩がある。この比喩において、願望は行動の領域に入る。それは比較をしているわけでも類似を示しているわけでもなく、相容れないと思われていた対象同士の究極的同一性を啓示し、さらに言えば、惹起しているのである。


 ――リズムはあらゆる言語形態に本然的に存在するのであるが、詩において初めて完全に発現される。リズムなくして詩はない。また、リズムだけでは散文はありえない。リズムは散文にとっては非本質的なものであるのに対し、詩にとっては必要条件である。


 理性の暴力によって、ことばはリズムから離れてしまう。この理性の暴力は散文を宙吊りの状態に置き、それが、論理の法則ではなく、吸引と反発の法則がことばの本流に入り込むのを妨げるのである。


 あらゆる散文の根底には、論理の要請によって希薄になってしまった、目に見えないリズムの流れが巡っている。思考もまた、それが言語である程度において、同じような誘惑にさらされているのである。


 思考を解放すること、たわごとを言うことは、リズムに戻ることである。論理は照応へ、三段論法は類推へ、さらに知的展開はイメージの流れへと変化する。しかし散文家は、概念の一貫性と明晰さを追求する。従って彼は、概念ではなくて、必然的にイメージで表現されることになる、リズムの流れに抗するのである。


 言語は散文と詩、リズムと論理の間を揺れている。ある言語においてはリズムの優勢が明らかだが、他の言語では、リズムとイメージの要素の犠牲のもとに、分析的、論理的要素の過剰増加が見られる。


 啓蒙時代の合理主義に対して、ロマン主義は類推原理に基づいた、自然と人間の哲学を武器とした。ボードレールは『ロマン派芸術』の中で言っている――「自然界や精神界におけるあらゆるものには意味があり、相互的で、照応しており……すべてが象形文字である……。そして詩人はそれを解読する人、つまり翻訳者にすぎない……」。


 リズム韻律法と類推的思考法は、同一メダルの表と裏である。


 技巧的な定型韻律に対するアクセント韻律の力を確認することによって、ロマン派詩人は、概念に対するイメージの勝利を、そして論理的思考に対する類推の勝利を宣言しているのである。


 英詩は純然たるリズム――踊り、歌――になる傾向がある。それに対してフランス詩は論理、〈詩的観想〉となる傾向がある。


 精神的秩序へのノスタルジーである『荒地』のイメージやリズムは、類推原理を否定する。そして、それに取って代わるのが意識の統一を破壊する観念連合である。この手順の体系的利用こそ、エリオットの最大の成功の一つである。


 断片と廃墟からなるこうした混沌(エリオット)は、ローマ教会の価値観に従って秩序を保つ神学的宇宙のアンチテーゼとして提示される。


 詩においては、対立物を絶滅させることなく包含してしまうイメージの勝利によって、葛藤は解決してしまうからである。それに反して概念は、敵対する二つの力の間であがかなければならない。


 詩的連想の方法は共感覚でそれは音楽と色彩、リズムと観念の対応であり、見えざる現実と感覚の世界との押韻である。


 メキシコの詩人ロペス・ベラㇽデは、ルゴーネスの非人間的な美学を取り上げ、変形する。彼は実際に人びとの話すのを聞き、その雑然としたつぶやきの中にリズの波、つまり時間の音楽を感じとった最初の詩人である。


 前衛には二つの時期がある。最初は一九二〇年頃のウィドブロを中心とするもので、ことばとイメージの気化であり、二番目はそれから十年後のネルーダによるもので、事物の内奥への忘我的没入。それは大地への回帰ではなく、重くゆったりとうねる潮の大洋への没入である。


 イメージとは人間の条件の暗号である。


 子供たちはある日もっともな驚きと共に、一キロの石が一キロの羽毛と同じ重さであることを発見する。


 彼らは石と羽毛がその本来の在り様を捨て去り、手品のように、そのあらゆる特質と自律性を失ったことに気づく。


 詩人は事物に名を与える――これは羽毛であり、あれは石である。そして、不意に断言する――石は羽毛であり、これはあれである。


 そのイメージはおどろおどろしいものになる、なぜなら矛盾律に挑みかかるからである――重いものは軽いものである。相反するものの同一性を言明することによって、それはわれわれの思考の基盤を侵犯する。従って、イメージの詩的現実は事実を望みえない。詩は在ることを言うのではなく、在りうるであろうことを言うのである。詩の王国は存在の王国ではなく、アリストテレスの言う「ありそうな不可能」の王国である。


 つまり石は石であり続けながら羽毛である。重たいものは軽いものである。そこには科学的意味での量的整合性がないと同様に、ヘーゲル論理学が要求するような質的変化もない。要するに、イメージは弁証法に衝撃を与え、それに挑みかかると同時に、また思考法則も犯すのである。


 テーゼとアンチテーゼが同時に生じることはない。そして両方とも、それらを総合することによって変化させてしまう、新たな肯定に地歩を譲って消滅する。その三つの契機のそれぞれにおいて、矛盾律が支配的である。肯定と否定が同時的現実としてもたらされることは決してない。
それはその過程の概念自体を抹殺することになりうるからである。矛盾律を無傷のまま保つことによって、弁証法は、矛盾律の適用を逃れているイメージを断罪するのである。


 ところで、詩は相対立するものの動的、かつ必然的共存だけではなく、その究極的同一性をも宣言する。そしてこの和解――これはそれぞれの名辞の特性の減少や変質を意味しない――こそ、確かに今日まで、西欧思想が跳び越えたり、穴をあけたりすることを自ら拒んできた壁なのである。


 パルメニデース以来われわれ(西欧思想)の世界は、存在するものと存在しないものとの間に截然たる一線が画された世界であった。


 存在は非存在ではないのだ。この最初の分離――なぜなら、それは原初的混沌から存在を引き離すことであったから――が、われわれ(西欧思想)の思考の基礎を形成している。


 こうした概念の上に〈明晰な観念〉の体系が打ち立てられたのであるが、もしこれが西欧の歴史を可能にしたとするなら、これはまた、こうした原理に基づかない別の方法で存在を把握しようとするあらゆる試みを、一種の不法行為として断罪してきたのである。かくして神秘主義や詩は、矮小化された隷属的な地下生活を送ってきた。


 このような詩の追放の結果は、日に日に明らかに、そして戦慄的になっている――人間は宇宙の流れと自分自身から追放されているのである。なぜなら、今や西欧の形而上学が唯我論に行きつくことを知らぬ者はいないからである。


 唯我論打破の試み
  ヘーゲル=弁証論の迷宮への迷い込み
  フッサール=観念論に終わる
  ハイデッガー=実存の破綻→ポエジーへ彷徨い出る


 東洋思想はこのような〈他者〉に対する、つまり、存在し同時に存在しないものに対する恐怖を覚えることはなかった。西洋は〈これかあれか〉の世界であるが、東洋は〈これとあれ〉の、さらに言えば〈これすなわちあれ.〉の世界である。


 東洋思想の全歴史は、西洋の思想史がパルメニデースに、端を発しているように、この最古の主張(チャンドガ・ウパニシャッド「汝はあれである」)から出発しているのである。


 東洋の教えがわれわれに示している認識は、定式や論理でもって伝達しうるものではない。真理は体験であり、各人が自らの裁量でそれを試みなければならない。


 そこで瞑想の技術が重要になってくる。このための学習は知識の累積ではなく、精神と肉体の洗練である。瞑想はわれわれに、あらゆる教養の忘却と、あらゆる知識の放棄以外の何ものも教えない。


 ヘーゲルが絶対無と完全な存在の究極的等価性を発見する何世紀も前に、ウパニシャッドは、空の状態を存在との感応の瞬間と定義していたのである。


 東洋の伝統にあっては、真理は個人的体験である。それゆえ、それは伝達不可能である。


 時としてこの〈悟入状態〉は、高笑い、微笑み、あるいは逆説でもって表現される。


 「名づけうるような〈道〉は絶対的〈道〉ではない。名に発しうるような〈名〉は絶対的〈名〉ではない」(荘子)


 事実、意味はものに狙いをつけ、それを指示するが、決してそれに届くことはない。対象はことばの彼方にあるのだ。


 道教やヒンズー教や仏教の思想は、詩的イメージのお陰で理解することができるのである。


 〈道〉の体験とは、そこにおいて言語の相対的意味が機能しなくなってしまう一種の本質的、始原的意識に立ち返ることであると、荘子が説明する時、彼は詩的謎解きであることば遊びを意識しているのである。


 詩人は椅子を記述しない。それを我々の目の前に置くのである。知覚の瞬間と同じように、椅子はそのあらゆる相反する質を、さらには、その意味作用も包含したまま、われわれに与えられる。このように、イメージは知覚の瞬間を再生し、読者の裡にある日知覚された対象を甦らせる。


 韻文、つまりリズム=句は、喚起し、蘇生させ、覚醒させ、再創造する。あるいは、A・マチャードの言い方に従えば、表現するのではなく提示するのだ。


 あらゆる語句は、他の語句で言いうる、あるいは説明しうる何かを意味している。従って、意味、あるいは記号内容とは、〈言わんとすること〉である。すなわち、他の言い方で言いうる発話である。これに対してイメージの意味はイメージそのものであり、他の言葉で言うことはできない。


 〈イメージは自らを説明する〉


 言語の表現的性質から発した語は、二つの属性によって特徴づけられる。そのひとつは、語の行動性、あるいは相互交換性。もうひとつは、その可動性によって、ある語が他の語で変換されうるということである。


 われわれはいかに単純な観念でも、多くの言い方で表現することができる。……。こうしたことは、イメージについては不可能である。散文では同じものを言うのに多くの方法があるが、詩はただひとつしかない。


 「星はその裸からきらめいている」と言うのと、「星はきらめいている、なぜなら裸でいるからだ」というのとは同じでない。後者の意味はその純度を落としている――確言がさもしい説明に変わってしまったのだ。詩的流れの緊張が弛緩してしまったのである。


 イメージは、ことばがその可動性と相互交換性を失うように働きかける。ことばは代替不可能の、それ以外ではありえないものになる。それは道具ではなくなってしまったのだ。言語はもはや手段ではない。


 つまり、詩に触れた言語は、ただちに言語であることをやめる、換言すれば、動的かつ意味作用的記号の集合ではなくなる、ということである。


 イメージの此岸には言語の世界、説明や歴史の世界が横たわり、彼岸には、実在への扉が開かれている――意味と無=意味は同価的名辞となる。これがイメージの究極的な意味である――イメージ自体。


 要するに、論理的にも言語的にも不可能と思われること――相対立するものの結婚――を実現する、さまざまなイメージがあるのだ。


 荘子がことばに向けた避難はイメージにまでは及ばない。なぜならイメージは、厳密な意味では、すでに言語的機能ではないからである。


 イメージの意味はイメージそのものである。言語は〈これ〉と〈あれ〉といった、相対的な記号内容の領域を乗り越え、言いえないことを言う――石は羽毛であり、これはあれである。言語は指示し、表現するが、詩は説明も表現もしない――提示するのである。


 それは、イメージはそれ自身によらなければ説明されえないがゆえに、イメージの固有の伝達方法は概念的伝達ではない、ということである。


 詩は存在へ入ることである。


 イメージ=説明を拒絶する意味の束


 レヴィ=ヴリュ-ルは、融即に基づいた全論理的心性という概念を頼りにした――{未開人はその体験の諸対象を、論理的に、因果関係に従って関連付けることをしない。それらを原因と結果の鎖と見なすこともなければ、相異なった現象とみなすこともない。そうではなくて、彼が体験するのは、そのうちのひとつが動けば他のものに影響を与えずにはおかないような、対象同士の相互参加である。


 論理に還元することのできない、融即という行為のうちに世界を感知しているのが、詩人、狂人、野蛮人、そしてこどもだけではないことは、われわれすべての知るところである。


 宗教的体験の特徴はまさしく、唐突な飛躍、本質の電撃的変化である。


 神性の体験を、何かわれわれの外部のこととして記述するとしたら、それもまた不十分となろう。そうした体験はわれわれを包含しているものであり、その記述はわれわれ自身の記述ともなるはずだからである。


 「客観的世界に執着することは、海に立つ波のような生と死の輪廻に執着することである。これを此岸と呼ぶ……。客観的世界から解放されると、そこには生も死もなく、人は不断に流れる水のようになる。これを彼岸と呼ぶ」(慧能)


 要するに、〈生命をかけた飛躍〉、あるいは、〈彼岸〉の体験とは、本性の変化、すなわち、死んで生まれることである。しかしながら、〈彼岸〉はわれわれ自身の内にある。われわれは動くことなく制止したままで、われわれを自身の外へ投げ出す突風によって、さらわれて行くように感じるのである。


 その突風は、われわれを外へ投げ出すと同時に、われわれの内に押しやる。この突風の比喩は、あらゆる文化の偉大な経典に繰り返し登場している――人間は立ち樹のように根こそぎにされ、向うの方へ、彼岸へ吹き飛ばされ、自らを見出すのである。


 また逆に、人がいかに貴重な行為を積み重ね。いかに熱心に祈ったとしても、この不可思議な力が介在しにければ、そり現象生じないのである。


 そして、事象は恣意的で気まぐれであるという感覚は、あらゆることが、われわれとは根本的に異なる不可思議な何かに支配されているのだという直覚に変わる。決定的飛躍は、われわれを超自然的なものと直面させる。超自然的なものと向かい合っているという感覚が、あらゆる宗教的体験の出発点である。


 「いかなる教理も説くことなかれ――これすなわち、真の教理を説くことなり」   般若波羅蜜多経


 奇異感とは、突然、かつて見たこともないようなものとして現われる、日常的現実に対する驚きである。


 人を震撼させる神秘


 〈他者〉とは、われわれとは異なる何かであり、非実在でもある実在である。そして、その現存感が喚起する最初のものは、知覚麻痺である。


 ところで、超自然的なものを前にした時の知覚麻痺は、恐怖として、あるいは喜びや愛として現われるのではなく、戦慄としてである。


 戦慄はわれわれを麻痺させる。そしてそれは、その〈現存感〉がそれ自体威嚇的であるからではなく、そのヴィジョンが耐え難いものであると同時に、魅惑的なものだからである。またその現存感は、その中にあらゆるものが具体的に示されているがゆえに戦慄的である。


 ボードレールは、戦慄的な、異常な美のために、忘れ難い多くのページをささげた。その美はこの世のものではない――超自然的なものによって聖油を塗られた美であり、〈他者〉の具現である。それが我々の裡にかきたてる魅惑は、眩暈のそれである。しかし、それに溺れる前に、われわれは一種の麻痺状態を体験する。神話や伝説に石化のテーマが繰り返されているのは故なしとしない。戦慄はれわれの「息を止め」、「血を凍らせ」、われわれを石化する。


 戦慄は生存を留保状態におく。


 そして、その、ただそこに在ることが戦慄を生み出すのである。


 戦慄的なものは、形態と象徴の単なる集積にあるのではなく、むしろ存在の持つ両面を、同一平面に、同時的に示すことにある。


   われわれは総毛立つ全身の毛穴の上に
   幾たびか恐怖の風の吹き渡るを覚ゆ。
                   ボードレール


   かくてわが精神は常に眩暈に襲われて
   かの虚無の不感無覚を羨むなり
   ―-―ああ! 数と存在より遂に脱却し得ざるとは!
                   ボードレール


 たじろぐことが精神の最初の反応。


 〈他者〉はわれわれをはねつける――深淵、蛇、歓喜、美しくて獰猛な怪物、そして、この反発に、それとは反対の衝動が続く――われわれはその存在から目を離すことができなくなり、断崖の底へとのめりこんでゆく。


 反発と魅惑。そして、その次に眩暈――転落し、自己を失い、〈他者〉と一体化するのである。


 自らを空虚にすること。無であること=全てであること=存在すること。死の重力、忘我、放棄、そして同時に、この奇妙な実在が、またわれわれ自身でもあることの瞬間的認識。わたしを退けるものが、わたしを引き付ける。あの〈他者〉はまたわたしでもあるのだ。

 もし〈他者性〉に対する戦慄が、いかにも奇妙で、われわれとは無縁に見えるものとわれわれとの窮極的な同一性の予感によって彩られているのでなければ、その魅惑は説明がつかなくなってしまうだろう。


 〈他者〉の体験は、〈和合〉の体験において成就される。


 ――事物はこうしたものだろうか、もっと別の現われ方をするのではなかろうか? いや、われわれが初めて見ているこれは、すでに以前に見たものなのだ。どこか、おそらくわれわれが一度も行ったことのない所に、その壁も、道も、庭もすでにあったのだ。こうして、奇異感に次いで郷愁が沸いてくる。


 何か記憶が蘇えるような気がして、あそこへ、つまり、事物が常にこの上なく古い光を浴びていながら、同時に、いま誕生したばかりの光に照らされているような所へ帰りたくなる。われわれもまた、そこからやって来たのである。一陣の風が額を打つ。われわれは陶然として、静止した午後のただ中に漂う。われわれは別世界の人間であるといった感覚を得る。それは回帰する〈前生〉なのである。


 奇異感と認識、拒絶と魅惑、〈他者〉からの離脱および〈他者〉との合体の状態はまた、孤独と、われわれ自身との感応の状態でもある。


 最も完全な自己放棄の瞬間こそが、われわれの存在の十全なる回復の瞬間でもあるのだ。


 いってみれば両方(宗教と詩)とも、マチャードが「存在の本質をなす異質性」と称した〈他者性〉を包含しようとする企てなのだ。詩的体験は宗教的体験と同じく決定的な飛躍である――本性の変化であるが、それはまたまたわれわれの本然的性質への回帰である。


 詩と宗教は啓示である。しかし、詩語には神の権威は必要ない。イメージは自ら充足するものであって、論証にも、また超自然的な力にも頼る必要はないのである。つまり、それは人間が自身に対してなすところの、それ自体の啓示なのである。


 聖なるものの体験のすべてに、言葉のカント的意味において、〈崇高〉と呼んで差し支えない要素が感得されるのだ。逆にいえば、崇高なるものの中には常に、未知のもの、測り知れないものの実在を示す、おののき、不快、麻痺、息苦しさなどがあるのだが、これこそ神聖な戦慄の特徴なのである。


 人間は驚くことのできる存在であり、驚きに満たされた時、詩化し、愛し、神聖化する。


 もはや、先験的概念や範疇を放棄し、聖なるものを、それが人間の裡に生じる瞬間において捕える他はない。


 聖なる戦慄は根源的奇異感から発する。驚異は自我の一種の縮小を生み出す。人間は孤独になるとすぐに、巨大な広がりの中に埋没した自らの卑小さを感じる。卑小さの感覚は、惨めさの確認にさえ通じる――人間など「灰塵」にすぎない。シュライエルマッハはこの状態を「依存の感情」と呼んでいる。


 この依存は、「精神の始源的な、そして根底的な何かであり、それ自体によってでなければ定義不能の何かである」。聖なるものはかくして、推論によって得られる――私自身に対する感情から、私自身が何かに依存していると感じることから、神性の概念が湧き出てくる。


 「そこに自分がいる〈在る〉という唐突な感覚」ハイデッガー


 「本源的状況の感覚は、われわれの基本的条件を情緒的に表現する」ヴァーレンス


 聖なるものの範疇は、その基本的な条件――被造物であること、生れてきたこと、そして瞬間ごとに生まれつつあること――の情緒的啓示ではなく、そうした条件の解釈である。「そこにいる」という、つまり、われわれは絶えず、有限で無防備のまま未知のものに向かって投げ出されているという根源的事実は、われわれがその懐に戻るべき、全能の意志によって創られたという事実に変わるのである。


 聖なるものの体験によって――それは自己の空虚性に対する眩暈を起点とするのだが――、人間はあるがままの自分を、つまり自分の偶然性と有限性を把握することができる。しかし、個の電撃的な啓示もその直後に、われわれの外部の要素――創造主、神性――によるわれわれの条件の解釈によって、曇らされてしまう。実際、「多くの作家が、苦悩の中に現われる虚無をきわめて明確に認めてきた。しかし、彼らはただちに、神の前における罪人の卑小さを暴き立てることによって、この啓示の意味をはぐらかしてしまった。


 「聖アウグスティヌスやルター、そして他ならぬキルケゴールに見られるように、またしても、苦悩の真の意味は隠蔽されるのである。」ヴァーレンス

われの本源的条件の啓示であるが、同時にそれは、われわれに対しその啓示の意味を隠そうとする解釈でもある、と結論付けることができよう。


 われわれを人間として定義する基本的事実――死すべき存在であること、そしてそれを知り、それを感じること――に対する反応である宗教は、すべての人間がそうであるところの、死すべき運命を生きるという刑罰に対する応答である。しかしそれは、その最初の働きによってわれわれに啓示したものを、われわれに対して隠してしまう応答でもある。


 「荘厳性は敬意を喚起し、崇拝を求め、従順を要求する。宗教は、あらゆる倫理体系から独立した、良心を威圧し、束縛する内密な義務である……」オットー


 カトリックの思想はプロテスタントのそれより豊かで、自由で、一貫性がある。しかし、私の見るところでは、人間の〈存在の卑小さ〉と罪の間の因果関係を完全に打破し得ていない――自由はどうして堕落する前に、悪を選び得たのか? 自らを否定し、存在を選ばずに虚無を選んだ自由とは一体、いかなる自由なのであろうか?


 人間の〈存在の卑小さ〉を神の充実した存在と対峙させることにより、宗教は永生を想定する。かくして、われわれを死から救い出すのであるが、その半面で、この世の生を長い刑罰に、そして本源的欠如の償いにしてしまう。死を殺すと同時に、生の生命をそぎ落としてしまう。永遠の生命が瞬間をもぬけの殻にしてしまう。


 宗教(西洋の)はわれわれから死を取り去ると同時に、生をも取り去る。永生の名のもとに、宗教はこの生の死を確認するのである。


 「人間は生を受けるやいなや、すでに死ぬに十分なほど年老いている」ホセ・ガオス


 宗教的解釈の機能を明らかにするためには役立つたハイデッガーの分析は、結局のところ、われわれを欺いているように思われる。


 生と死、存在と無は分離した実体、あるいはものではない。否定と肯定、欠如と充実はわれわれの内に共存しているのである。


 意味の欠如は、事物や世界に意味を与えるべき当の人間が、不意に、自分は死ぬこと以外何の意味も持っていないことに気づくことから来ている。


 愛の体験はわれわれに、仮にほんの一瞬であれ、相対立するものの確固たる和合をかいま見る可能性を、電撃的にもたらす。その和合こそ存在である。


 自らの内に閉じこもった、かくも大きな実存を前にしては、われわれはほとんど無である。


 れわれはすべて、全体の一部となる。存在が虚無から姿を現わす。同じリズムがわれわれを動かし、同じ沈黙がわれわれを取り囲む。日本の俳人蕪村が見事に表現しているように、事物自体が生気を帯びてくる――

   白蓮を切らんとぞおもふ僧のさま

 この瞬間は存在の和合を啓示する。すべてが静止し、すべてが動いている。


 詩的体験はわれわれの本源的条件の啓示である。……。なぜなら、存在は何か与えられるもの、そしてそこにわれわれの生存が依拠するものではなくて、作られるものだからである。存在は、その基盤が無であるがゆえに、何ものにも寄りかかることはできない。従って、それは自らにつかまり、一瞬ごとに自らを創造する以外に術はない。われわれの存在は、ただ存在の可能性の中にのみある。


 人間は、存在の欠如であるが、同時に、存在の征服でもある。人間は存在に命名し、それを創造するべく投げ出されている。これが人間の条件である――存在しうること。そしてこの点に、人間の条件の力が存する。要するに、われわれの本源的条件は、ただ単に、欠如や豊満だけではなく、可能性でもあるのだ。


 なぜなら、われわれの条件は超越されることを欲し、われわれは自らを超越することによってのみ生きるからである。


 詩的行為は、死すべき運命にあることが、われわれの条件のほんの一面でしかないことを示す。他の面は、生きて在るということである。生まれることは死ぬことを包含している。しかし生まれることは、われわれが死と生を対立するものと見なさなくなれば即座に、欠如や断罪の同意語ではなくなる。あらゆる詩化行為の究極的意味は、このようなものである。


 誕生と死の間で、詩は、諸宗教の永生や諸哲学の永遠の死ではなく、死を包含している生存――あれでもあるこれ、であること――である可能性を、われわれに開示する。


 詩は、人生がモンテーニュの言う、「死のための準備」に還元されるものでもなければ、人間が実存主義的分析の「死のための存在」でもないことを強調する。人間の実存はわれわれの条件を超越する可能性を秘めている――生と死、対立するものの和解。


 他者たち。彼らを明示し、表現すること、これが人間の、そして詩人の仕事である。詩はわれわれに永生をもたらすのではなく、二―チェが「生の比類なき活気」と呼んだところのものを、われわれにかいま見させるのである。


 詩的体験は存在の泉の口を開くことである。一瞬、その時だけ。一瞬、そして永遠。われわれが過去のわれわれであり、そして未来のわれわれでもある一瞬。生まれることと死ぬこと――一瞬。その瞬間、われわれは生であり死であり、これでありあれである。


 歴史において、詩語と宗教のことばは混同されている。しかし、宗教的啓示は――少なくとも、それがことばである限りにおいては――本源的行為とはならず、むしろその解釈である。これに対して、詩はわれわれの条件の啓示であり、まさにそれゆえに、イメージによる人間の創造である。


 詩的言語は人間の逆説的条件を、つまり彼の〈他者性〉を啓示し、かくして、人が本来の自分を実現するように導く。


 人間をしかと存立させているものは宗教の聖典ではなく、それはむしろ、詩語である。


 しかし宗教はある神学の中においてインスピーレーションを解釈し、その方向を定め、体系化し、同時に、教会がその成果を没収してしまう。詩はわれわれに、あらゆる生誕の本質をなす存在の可能性を開示する。つまり、人間を再創造し、人間に自らの真の条件引き受けさせるのであるが、その条件とは、生あるいは死といった二者択一なものではなく、全体である――白熱的な一瞬における生と死。




(続く)