上海下町写真館2014

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江戸時代の年貢米集積地「高瀬御蔵」-高瀬裏川水際緑地:玉名市

2023-01-09 06:00:00 | 日帰りお出かけ

玉名市を流れる菊池川の支流「高瀬裏川」河岸は江戸時代の藩の年貢米集積地でしたが、「高瀬裏川水際緑地」には水運で栄えた当時の面影が残っています。

 

江戸時代には全国大名から450万俵の年貢米が大阪に集められましたが、その内40万俵を肥後米が占めました。

肥後米の半分は高瀬御蔵から積み出されたそうです。

 

1.高瀬眼鏡橋

菊池川と並行して流れる高瀬裏川に架かる石橋です。

江戸末期の1848年に架橋されましたが、高瀬裏川の橋の架け替えに伴い公園に移設復元されました。

 

2.菊池川

江戸時代には菊池川流域で収穫された藩内各地の年貢米を高瀬御蔵へ集積し、河口の港で廻船に積み大阪堂島の藩の蔵へ運搬しました。

 

3.高瀬裏川の入り口

高瀬裏川はここで菊池川と合流します。

 

4.秋丸目鏡橋

長さ10.6m、幅5.57m、アーチ径は4.97mあります。

天保3年(1832年)の架橋で、県内でも古い時代の石橋に分類されています。

平成9年に移築した際には1200個の石材が確認されたそうです。

 

5.高瀬眼鏡橋

秋丸目鏡橋の上流にある石橋で、全長19m、幅員1.4m、高さ3.3mの二重橋です。

 

6.小崎橋

貨物を運ぶ大八車が脱輪しないよう片側にわだちが付けてあります。

 

7.高瀬御蔵があった右岸一帯

川岸の家々には高瀬裏川に通じる入り口があります。

江戸時代、集積保管された年貢米は蔵から平田舟に積み河口まで運ばれ、そこでまた上荷船に積み替えられ廻船まで運ばれました。

その廻船で数千俵単位の米が大阪まで運ばれました。

御蔵や藩主が休泊した御茶屋は明治10年の西南の役で焼失しました。

 

8.西南の役の激戦地

明治10年の西南の役では田原坂(植木町)が最大の激戦地となっていますが、薩軍本体進行の北限となったのが高瀬(玉名市)でした。

高瀬での官軍との激しい争奪戦に敗れた薩郡が後に田原坂で決戦に及びました。

 

撮影:CANON PowerShot S100

 


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