竹村英明の「あきらめない!」

人生たくさんの失敗をしてきた私ですが、そこから得た教訓は「あせらず、あわてず、あきらめず」でした。

憲法9条と国連中心主義

2007年10月28日 | Weblog

いよいよ国会でテロ特新法の審議がはじまります。守屋前事務次官のゴルフ接待問題が突然クローズアップされ、問題がまた「政治と金」に行き、肝心かなめの海上給油問題と憲法の議論がうやむやにされることを危惧しています。

いくつかの論点があります。

1、「アメリカの自衛戦争」でしかないアフガン攻撃の後方支援(兵站活動)である、インド洋上での無料ガソリンスタンド活動は、「集団的自衛権」の行使ではないのか?

2、「集団的自衛権」は憲法によって禁止されているというのが政府の解釈ではないのか?

3、ならば「海上給油」はできないのではないか?

これがいちばんオーソドックスな問いのベースです。

付随して問うならば、

4、アフガンと9.11はそもそも関係があるという根拠はなく、アフガン攻撃はアメリカの自衛戦争ですらないのではないか?単なる、みさかいのない武器の乱用で、これこそテロ行為ではないのか・・。つまり、アフガン攻撃そのものが「違法な戦争」ではないのか・・という問題です。

第2の論点として、イラク戦争との関係です。

5、アフガン攻撃の支援と言いながら、その実態はイラク戦争への支援(兵站活動)ではないのか?と言う問い。この場合、テロ特措法の目的を逸脱しており、テロ特新法を作っても、そもそも逸脱した(つまり違法な)給油は行えないよと言う問題。

6、この場合は「給油実績」をすべて明らかにし、違法給油が行われていないという証明をする必要が政府にあるということになります。

7、付随して、ではイラク戦争とは何だったのか、この戦争の大儀はあるのか・・という問題がありますが、ここまで行くとかなり論点がぼやけてきます。

さて、この洋上給油に敢然と反対する立場を鮮明にしている民主党の小沢党首が、「かわりに」アフガンへの支援として国連のISAFへの参加を表明して、憲法論議を別角度から盛り上げています。

問題の『世界』11月号の小沢論文を読まずに論評はできないと思っていたのですが、『世界』はなかなか売っていなくて、最近やっと買い求めて読むことができました。それほど、大それた論文という感じではなく、『世界』に掲載された別の論者の論文への反論の手紙と言う形で書かれていました。

まず、ことの良し悪しは別にして、小沢さんの論点は筋が通っていて、感情的にブレてはいないなという印象でした。かつて湾岸戦争にPKO部隊を派遣しようとした自民党幹事長時代から主張は一貫しているということです。

私が書いた1、2、3の問いに対しては、すべてイエス。したがって、洋上給油反対です。しかし、5、6についいてもイエスです。民主党の多くの議員は、この角度からの追及を準備しているのではと思います。

4が明確ではありませんが、おそらくイエスだろうと読み取れます。アフガンの支援では、中村哲さんの話も引きながら、医療よりもまず食えることという言い方をしていますから、軍事的な「支援」よりも人々が生存していくための基盤整備に重点があるというスタンスです。

で、そのためにISAFへの参加ということになります。ISAFとはアフガンに本部を置く、国連の国際治安支援部隊です。その任務の中には、治安活動だけではなく、警察活動、復興ニーズの支援調査、非合法武装集団の解体支援、麻薬対策支援、人道支援サポートの6つがあり、軍事力の全面にでる治安活動ではない部分なら、日本も憲法の定めの中で参加が可能だ、というのが小沢さんの主張です。

ただし、ISAFはそもそもアメリカのアフガン攻撃に端を発したものですし、アメリカの個別自衛戦争を国際社会の有志が支援することを国連が認めた形のものです。したがって、4は明確ではないと書いたわけです。アメリカがはじめちゃったものだが、アフガンの人々の支援のために、できる協力はしなければならない・・ということなら、べつに中村哲さんたちの活動を公然と支援すればよいのであってISAFに参加しなくても良いのではないかと思います。

小沢さんが、ここでISAFに傾斜したのは、自分の持論、「国連決議によってオーソライズされた国連の平和活動に日本が参加することは憲法に抵触しない」と言うことを主張したかったのだろうと思います。ISAFには、経緯からして、アメリカに引きずられた後追いの側面があり、「オーソライズ」と言えるのかが問題であろうと思います。

その意味では、小沢さんがこだわった湾岸戦争も、まさにそうだと思います。父ブッシュの時代の、油まみれの海鳥とか、イラク兵に追われた少女とか巧妙なマスコミ操作(すべて嘘だったことが今は明らかになっています)によって、世界中がイラクに怒り、戦争を支援するように仕向けての国連決議です。そんなものに正当性を持たせることができるでしょうか?

少なくとも、検証し、事実が明らかになれば正当性を失い、その責任者は罰を受ける・・くらいのシステムができなければ、とても国連決議だからと言って従えないのではないかと思います。

とはいえ、理想論としての「国連決議に基づく平和活動への参加は憲法に抵触しない」という主張は、現在の憲法論議に一石を投じる「ヒット」であろうと思います。私は憲法論議での「思考停止」を懸念してきました。憲法には「戦争を放棄する」だけでなく、軍隊を持たない、武力を用いての国際紛争解決はしない・・と書かれています。「しない、しない、しない」の連続でネガティブに響きます。では日本は何をするのか・・。小沢さんはこれに答えを出そうとしているのでしょう。

護憲論者は「何もしない」で良いとする人。でも国際社会はいまどきそれでは評価してくれないよと。だから、私は、憲法は「何もしない」ことを求めているのだろうか・・と問い返すことをはじめるべきだと思っています。

憲法前文は明らかに違います。よく小泉元総理が引用していたところですが、「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」ということは、日本もそのために行動しようと言うことではないのでしょうか?小泉さんのように「だから軍隊派遣」ではなく、小沢さんのように「だから国連決議」でもなく、中村哲さんのように飄々とこの精神を実現する。そういうことが、この憲法を60年間も持ちながら制度化されていないとはどういうことなのでしょう。

小沢さんの能動的な指摘は、少なくとも、このことへの答えを私たちが出さなければいけないことを示唆しているのではないかと思います。理想型の国連決議と言うものが存在しえるのであれば、憲法9条に抵触しないPKO活動が成り立つでしょうか?しかし、そういう場合でも、出て行くのは軍隊である必要はないはずです。むしろ、そういう活動を行える常設部隊(チームと呼びたいですが)を私たちが持ち得ていないということが深刻な問題なのではないでしょうか?

憲法前文の崇高な理念をどう実現しようとしていたのか・・と。



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